オカルト哲学 3-63

ページ名:オカルト哲学 3-63

第63章 何が聖と呼ばれたり聖別された物か。どのようにこれらが我々と神々との間のものになるか。また聖なる時について


 次には、神々自身やそれらのダイモンによって聖として造られたり、神々自身により我らに捧げられたものを聖なるものと呼ぶ。この意味では、私はダイモンも聖なるものと呼ぶが、それはこれらの中に神が住まうからで、それらの名をこれらはよく聞くと言われるからである。ゆえに、出エジプト記で神は、我は天使を汝らの前に遣わす。汝らはその言葉に聞き従い、彼にそむいてはならない。我が名が彼のうちにあるゆえにとある*1
 また神秘も聖なるものと呼ばれる。神秘には聖なるオカルトの性質があり、神々やダイモンによる恩寵が与えられていたり、いと高き神自身からの授けられたりしているからである。これらは聖なる御名や文字を述べたりするものである。ゆえに、十字架は聖なる神秘と呼ばれるが、イエス キリストの受難により造られているからである。また特定の祈りも聖なる神秘と呼ばれるが、それらは人の崇拝により造られたものではなく、神の啓示によるものだからである。それらについて、福音書ではキリストが主の祈りを教えている箇所で読める*2
 同様に、特定の調合物も聖なると呼ばれるが、神は自らの性質の特別な光線をそこに注いでいるからで、出エジプト記でも甘い香りの香や塗油について記されている。また我々の時代にも、聖なる泉や聖なる軟膏がある。
 また別の種類の聖なるものもあり、誓約や供犠といったような、人により神へと捧げられたものの事をそう呼ぶ。これらについては私は先の章で既に述べている。これらについてウェルギリウスはこう詠う。


「そして三重の勝利をローマにもたらしたカエサルは、
 最も敬虔に、イタリアの神々に不滅の誓いをなした――」

 またオウィディウスも、「変容」でこう詠う。

「アイアキデスにて祝祭は保たれ、
 キュクノスの死と若雌牛の血が
 幸運のパラスを喜ばせた。
 神々に受け入れられる香りを運ぶため
 内臓が祭壇の火にくべられ、
 その部分は聖なる使用のために用いられ、
 残りは広く供された。」


 同様に、神々に似たものや捧げられた描写、類似物、彫像、絵も、聖なるものと呼ばれる。これらについて、オルペウスもリュキアのウェヌスへの賛歌で詠う。


「我らの国を守護する主要な聖なるものは、
 我らの町に建てられた聖なる彫像であり――」

 またウェルギリウスも述べる。

「父よ、家を守護する神々を取り、
 それらを御身の聖なる手で掴みたまえ――」


 ゆえに神聖なるプラトンは、「法律」の第11巻で、神々の聖なる像や彫像は称えられるべきだと命じている。それら自身についてだからではなく、それらが我々には神々を表しているからであると。古人らすらも、ユーピテルの神像を崇拝していた時、そのように解釈していたのである。この神が人に似た姿をしているのは、この神が万物をその力により造った精神であるのを表していた。この神像は玉座に座った姿をしているが、これは不動で安定した力を表していたのだろう。また、上位の部分は裸になっているが、それはこの神は知性と上位性を露にしているからである。だが低位の部分は覆われているのは、この神が低位の生き物からは隠されているからである。また王錫を左手で持っているが、これは命の最も霊的な住居が、体のこの部分に見つけられるからで*3、知性の創造主が世界の王にして活性化させる霊だからである。だが右手には勝利の女神と鷲を持っているが、鷲が全ての鳥らの主であるように、この神は全ての神々の主であり、勝利の女神については、万物がこの神に従うからである。
 同様に、子羊の像を我々は崇拝するが、これはキリストを表しているからである。また鳩は聖霊を表しており、獅子、雄牛、鷲、人は四福音記者を表している、などである。これらについて、我々は預言者の啓示での表現や、聖書の様々な箇所で読んでいる。さらに、啓示や夢により授けられたものも、聖なる絵と呼ばれている。
 また聖なる儀礼や聖なる行いもあり、神々や宗教の崇敬のために造られている。すなわち、崇拝のしぐさや、礼拝で腰を折る、頭の覆いを取る、手を洗う、聖水を振りまく、香を焚く、外的な贖い、謙遜の行列、調和された音楽のような、神を称えるための外的な装飾、ロウソクを燃やす、ベルを鳴らす、神殿、祭壇、神像への装飾といったもので、これら全てに最も高く特別な崇敬と美が求められ、そのため、これらには金、銀、宝石といったような最も優れて美しく貴重なものが用いられる。これらの外的な崇拝や儀礼は、霊的な聖なるものの訓戒や招きであり、神々の賜物を得るためなのである。これらについて、プロセルピナは人々に対して以下の詩で述べている。


「これらの真鍮の像に対して僅かでも、
 黄金の黄色や、銀の白い贈物をした者はいたか?
 これらは神々であると考え述べた者はいないのか?」


 神官らもまた聖なる者、神的な諸力や神々の聖職者と呼ばれ、彼ら自身も聖なる者として全ての聖なる事柄を執り行ったり、それらを聖なるものにしたりする。これらについてルカヌスは、こう述べている。


「聖なる神官には、大いなる力が与えられている――」

 また、ウェルギリウスはアポローンの神官ヘレヌスについて、かく述べている。

「彼は神々の平和のために祈り、
 その聖なる頭の花輪を緩めたりはしない――」


 これらの聖なる儀礼は、神々と我らとの間に確実な同意があり、称賛、崇拝、服従を示し、これらにより我々はしばしば、神力による驚異的な性質を得たりする。これらは聖なる賛歌、説教、エクソシズム、詠唱、言葉であり、神々への賛美と神的な奉仕のため造られ捧げられているからである。これらについてオルペウスは、星々のための詩でこのように述べている。


「聖なる言葉により、今我は神々を呼ぶ」


 そして原始教会では、特別な聖なる言葉を病や嵐に対して用いていた。それらは我々は一部の神的な諸力への祈りとして唱えたり、時には書いたものを身に帯びて、首から吊るしたり、縛ったりした。それにより人々が大いに崇敬する聖人からの力をしばしば我々は得ている。
 またこれらの方法によって、聖なる御名、図形、文字、印章もあり、人々を黙想させ、精神を清めた。神への崇拝に捧げられ、聖別されたそれらの秘密の誓約からである。これらは最初に教授された時のように、同じ純粋な精神で発音するならば真のものであり、奇跡を引き起こすであろう。さらに、最初の教授者からの方法と規則は行われるべきで、これらを無視する者は無駄な働きとなるだろうからである。
 これらは蛮族の言葉のみならず、ヘブライ語、エジプト語、ギリシア語、ラテン語、その他の言語でも、神を崇拝し、その本質、力、働きに割り当てられ捧げられた言葉には、時には驚異的な事をなす。そのような名前についてイアンブリコスは、オシリス、イクトン、エメフ、プタハ、エペエス(アピス)、アムンを挙げている。またプラトンやその他のギリシア人は、ων(オン)、τον(トン)、ταυτον(タウトン)の名を挙げ、ギリシア人はユーピテル神に対してζηνα απο το ζην、これは命を意味するが、この神は万物に命を授けたからである。同様に、Διαは通り過ぎたものを意味するが、この神を通じて、万物は造られたからである。またαθανατονは不死を意味する。またラテン人の間では、この神はユーピテルと呼ばれ、それは支えとなる父だからである、という風にである。また、特定の名前も人々から崇められていた。エウトキス、ソフィア、テオフィルスといったもので、これらは神の豊かさ、従属、愛を表している。
 同様に、特定の物質は、聖別によって少なからぬ聖性と徳質を受け取る。特に司祭によって行われるならそうであり、それらについて我々は様々に見ている。ローマの高位聖職者による祝福で子羊の印が彫られた蝋があり、稲妻や嵐があっても、これを携帯していた者には損害を与えられない。これらが聖別され含まれた像には神的な性質が植え付けられ、神の像を持つ特有の聖なる文字のように働くからである。
 同様の性質は、復活祭や聖乙女の清めの祝日*4での聖なるロウソクにもあり、またベルも聖別と祝福によって、そのような性質を受け取り、稲妻や嵐を追い払い鎮める力を持ち、これらの音が聞こえる場所を嵐は傷つけたりはしなくなる。同様に、塩や水にも祝福とエクソシズムによって、悪霊らを追い払う力を受け取る。
 またこの種のもので、諸国のあらゆる宗教で常に行われ、大いに崇拝される聖なる時もある。それらは神によって我々は聖なるものとするよう命ぜられている場合や、我々の父祖や長老らによって捧げられたものである。それらは神々から何らかの利益を得た事の記念日だったり、永遠の感謝のためだったりする。そのためヘブライ人は彼らの安息日サバトを行い、異教徒らにも彼らの聖日があり、我々(キリスト教徒)にも我らの聖なる儀礼のための聖日があり、常に至高の謹厳さとともに崇敬されている。
 またこれらとは反対の時もあり、古人らは悔悟の日々と、我々は黒い日々と呼ぶ。なぜなら、これらの日に国家がかなりの打撃による損失や災害を受けたからである。この種のものをローマ人は8月4日の正午前に行っていたが、それは(ハンニバルによる)カンナエの戦いでの大敗の日だったからである。同様に、全ての翌日らも黒い日々と呼ばれるが、それはこの時代に、それらに続く戦いはほとんどが敗北していたからである。またユダヤ人の間では、6月17日が黒い日と呼ばれるが、それはこの日にモーセが石板を壊し、マナセ王が至聖所で偶像を建てて*5、エルサレムの壁が敵によって崩壊されたと考えられているからである。同様に彼らには7月9日も黒い日で、この日に(第1と再建した第2の)両方の神殿が破壊されているからである。この理由から、エジプトの日とも呼ばれるが、この古き時はエジプト人が観測していたからである。あらゆる国々で、彼らの幸運や不幸な日について、この方法によって容易に計算できるであろう。
 また魔術師らはこれらの聖なる宗教的な日々は、惑星の日々や天の配置に劣らず行うように命じている。これらは、特に霊的で神的な性質を得るためには、より大きな効果があるからである。なぜなら、これらの性質はエレメンツや天の惑星から来るのではなく、知性界と超越天の世界から降りてくるからで、聖人らの助けも受け、天の諸惑星のどのような敵対的な配置も受けず、エレメンツの腐敗し得る影響にも惑わされない。これらが堅固な信仰と宗教的な崇拝が足りなくなる、すなわち恐怖や慄きが混ざる事が無いならばであるが、宗教が適切にこれらの多くのものを閉じ込めておくからである。ゆえに、これらの日々は宗教的と呼ばれ、これらを行わないのは罪となり、我々が慎重に行うならば、それらのどのような大いなる損害も恐れる必要は無いが、我々が他の事をなすならば、そのような損害があろう。


オカルト哲学 3-64
↑ オカルト哲学 第三の書


*1 出エジプト記 第23章20-21節。
*2 マタイによる福音書 第6章7-13節など。
*3 心臓が左側にあるのを意味する。
*4 2月2日の聖母マリアの祝日。別名を聖燭祭キャンドルマスの日とも呼ばれるが、この日は教皇によって多くのロウソクが配られ、灯されるからである。
*5 歴代誌第二 第33章7節。