オカルト哲学 3-60

ページ名:オカルト哲学 3-60

第六十章 古人が供犠や寄進のために用いていた祈りや儀礼について


 次に、寄進や供犠のために古人らが何を祈っていたかについて見るとしよう。神への供犠を捧げた者は、以下に述べる言葉や似たような内容を述べていたからである。我は主の僕として、御身にこれらを捧げる。御身が全ての聖なるものの創造主であると告白し、この寄進に御身のいと高き素晴らしい霊の徳を注ぎ、聖なるものとし、それにより我らが望みが叶うように呼び求める。さらにまた、ここに捧げる生き物は御身のために造られ、生きるも死ぬも御身のためであるように、我もまた御身により造られ、この寄進と一致によって、この我が捧げる供犠によって、御身の家族にして崇拝者となるよう告白する。
 加えて、供犠において人の中には喜びのためや必要のために動物を殺す力があると言われるように、御身の力により怒りを取り除いたり、我らが望む相手を愛させたまえ。
 最後に、贖いのためや、あらゆる不幸を避けるために、生贄は行われ、動物が我が手の中で死ぬように、我が内側にある全ての悪徳や不明瞭さが消える*1と言われるように、全ての悪や不利益が死に絶えたまえ。また、この動物の血がその体から流れるように、全ての悪徳と不明瞭さが我から流れたまえ。 
 生贄が祭壇で燃やされると、この火により供犠が燃やされると言われるように、我が内側にある全ての悪も燃やされたまえ。または、そのような悪が払われ、我が飲み込まれる事を避けるようにしたまえ。
 また、祈りが行われる時に、祭壇には供犠が行われる対象の者らか、恩恵を受け取るのを望む者の手が触れる風習があった。なぜなら、祈りだけでは駄目で、祈る相手が祭壇にその手で触れる必要があるからである。これについてウェルギリウスは詠う。


「これらの言葉で祈り、祭壇に触れる者らに、
 全能者は聞き届ける――」

 また別の箇所でも、このようにある。

「我は祭壇と、灯りの間に触れ、
 神々に嘆願をした。」


オカルト哲学 3-61
↑ オカルト哲学 第三の書


*1 動物を殺す悪徳は増えそうだが、世界の全ての動物が人間のために存在し、殺しても罪とはならず、神のための生贄なら逆に美徳となると信じるユダヤ、キリスト教の世界観の違いである。また動物には魂が無いとも信じられていた。