オカルト哲学 3-58

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第五十八章 崇拝と誓約について


 崇拝、誓約、犠牲、寄進は聖なる事柄の中で神を見出すための確実なものであり、これらは主に神に喜びを喚起させ、神と魂の間の聖なる切り離せない一致をもたらす。祈りの真に聖なる言葉を唱える事により、我々は大いなる力を得て、それらが神々に向けられるならば、神的な方法によって神は応え、(偽)ディオニュシオスが述べるように、人々に語りかけるが、それは非常にオカルトなので、非常に少数の者のみが知覚するのである。だが王にして預言者だったダビデはしばしば受け取っていおり、「私は主が語られる事を聞くだろう」と詠っている*1
 そのため、崇拝は長い間続けられ、しばしば繰り返されたら、知性を完全にし、魂を神の光を受け取れ、神の愛に燃やされようにより大きくし、信仰、希望、聖なる事柄を生み出し、魂から全ての矛盾と敵対するものを取り除き、それ以外では自然に陥る様々な悪も払いのける。これらについてオウィディウスはかく詠っている。


「――祈りと共に、ユーピテルを動かし、
 フランキンセンスで宥められると、
 天から神が恐ろしい雷を落とすのを私はよく見ている――」


 次に人が祈りによって神へと帰還すると、プラトンが「パイドン」で言うように、馬を止め、休息の部屋へと入り、神の食物アムブロシアーと飲物ネクタールで養われる。そのため、どのような徳質も楽しみたい者は、祈りをし、全ての美徳ある者(聖人)に嘆願するようにせよ。ところで、最良の祈りは言葉によって語られるものではなく、宗教的な沈黙とともにあるもので、神への真剣な熟考が捧げられ、それにより精神の声と知性界の言葉が神に捧げられるのである。
 次に、誓約は純潔な精神を神に捧げる燃えるような愛であり、それにより良いと思えるものを誓うのである。イアンブリコスとプロクロスが証言するように、この愛情は魂を神と結び付け、精神と神の働きが一つとなり、神が工芸家で精神がその道具となるのである。全ての古人の著者らが証言するに、誓約によってしばしば奇跡がなされ、病は癒され、嵐は収まったりするのである。ゆえに私が読んだ話では、全ての国々の最も優れて賢い者ら、インドでのブラフマン僧、ペルシアでのマギ僧、エジプトの裸形の哲学者ら、ギリシアとカルデアの神託者らは、神の秘密に熟達し、自らを神的な誓約と祈りに捧げ、それによって多くの驚異的な事柄を起こしていたのである。
 次に誓約と崇拝が完成させる(崇拝無き誓約も、誓約無き崇拝も、完全なものではないからである)には、特に2つの事が求められる。
 第1に必要な事は、崇拝し誓約する対象の者や、どのような方法により、どの順番で、何の媒介によって崇拝されるかといった知識である。神には様々な共同で働く者ら、すなわち天、星々、支配する霊、天の魂、英雄といった者らがおり、我々はこれらへ門番、解釈者、管理者、仲介者として懇願しなくてはならない。だが全てにおいてまずは、神の原型へと向かうべきで、他の神々はこの神への通路なのである。ゆえに、崇拝と誓約は純粋で敬虔な心とともに、この唯一の神、いと高き父、全ての神々の王にして主へと向かわねばならないと知る必要がある。そして低位の神々の御前へと向かう時には、これらへの崇拝への意図は取り除かれねばならない。ゆえに、低位の神々へと向けられた崇拝や誓約には、ゾロアスターやオルペウスは、香や印を用いるのが適していると考えたが、いと高き神へと向けられた時には、これらを使うのは賢明では無い。またヘルメースやプラトンも、これらを行うのを禁じていた。ヘルメースはタティウスへの書の中で、汝が神に祈る時にフランキンセンスを燃やしたりするのは冒涜であると述べている。ポルピュリオスが述べるには、これらは敬虔さと同意しないからである。どのような物質にも、非物質の神に対して不明瞭ではない物は見つけられないからである。ゆえに精神が悪徳に冒されていたら、言葉によって語られる祈りも、精神による祈りも、神には同意されないのである。
 第2に必要な事は、我々の生を純粋、純潔、聖において、正当な望みとともに神の生へと確実に同化させる事である。これにより我々は特に神の恵みを得て、神の中に属するからである。我々が自らの精神を清め、嘆願を聞かれる価値ある者となり、また望んだことが行われる価値あるものでない限りは、神々は我々の祈りを聞き入れないのは明らかである。ゆえに神聖なるプラトンは、神は我らの祈りや贈物によって、不正な事柄へと縛り付けることは出来ないと述べている。それゆえ我々は醜い事を神に望んだりはしないようにすべきである。この理由からのみ、多くの者らが祈りや誓約の効果が無いのを私は見ているからである。彼らは宗教的に純潔にもしておらず、あるいはその祈りの目的が神を良く喜ばせるものでは無かったり、またどの順序で祈るべきか、どの仲介者を通じて神へと向かうべきかも知らないからである。これらへの無知は、しばしば我々の祈りや嘆願を無駄にし、我々の望みが拒否される原因となっているのである。


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↑ オカルト哲学 第三の書


*1 詩篇 第85篇8節。