オカルト哲学 3-55

ページ名:オカルト哲学 3-55

第55章 節制、断食、禁欲、隠居、精神の平穏と高める事について


 また節制の行いも、悪意や悪しきダイモンに対して一般に身を守り、精神を神の清浄な神殿とし、神と合一させる。必要以上の過剰な食事を控えるよりも、健康に導き節制に適しているものは無いからである。
 食物を自然な必要以上に多く摂る事はせず、自然が食物よりも強いようにせよ。キリストが食事を第3の調合*1以上には取らなかった事で示しているようにである。多くの者らが僅かな食事で満足し、それによって健康と体の機敏さを楽しんでいた。モーセ*2やエリヤ*3は40日間の断食をし、それによって彼らの顔は輝き、起き上がった時には軽い霊であるかのように容易に動かせたという。
 魔術師や哲学者らが確証するように、我々の霊は物質的なものや肉体ではなく、それらが養われるのは、特有の器官を通じて食物や飲物からの調合を受け取り、スポンジのようにそれらの滋養を引き寄せる。すなわち、全方向から体を貫く薄い蒸気のようなものを受け取るのである。そのため、自らの霊を純粋で力あるようにしたい者は、乾燥した食物を摂るようにして、自らの粗雑な肉体を断食などで軽くし、それらが容易に体を貫けるようにせよ。さもなければ、それらの重みで霊は重くなったり窒息したりするのである。また肉体を洗浄、摩擦、運動により清浄にし、衣服も清潔なものにし、光と香を霊に交わらせ、純粋で軽快にするようにせよ。
 それゆえ、我々は食物を純粋で節制したものにしなくてはならない。ピュタゴラス学派が聖にして酒を控えた食事を保持し、生涯に渡って節制をしたようにである。それゆえ、生とその様相の節制によって、ぼんやりとした幻覚を作り、我々の魂をしばしば夢見させ、時には観察させる余計な気質が作られることも無く、常に上位者の影響の下にあるようにするのである。さらにピュタゴラス学派は、心と肉体のあらゆる動きを中庸で賢明にするよう節制するならば、この両方が常に健康にあり長寿を約束していた。
 ゆえにインドのブラフマン僧らは、ワインや肉や悪徳から離れた者以外は仲間とは認めず、神との対話によって、これらを真似た者ら以外は神を理解できないと述べていた。また、フィロストラトスが伝えるに、フラオテス王もインドの大衆にそのように教えていた*4
 さらに、我々は貪欲や妬みといった心や霊に悪影響を与えるもの全てを控えるべきである。これらはヘルメースが言うように不正義の侍女であり、心と手を悪しき実践へと駆り立てる。また、怠惰さと贅沢もである。魂が肉体や貪欲に取り込まれていたら、どのような天の事柄も見る事が出来ないからである。そのためヒエロムが伝えるように、ギリシア人がハイエロファントと呼んだアテナイの神官らは、聖なる職務において禁欲をなし、貪欲さを持たずに神的な事柄に従い、ドクニンジンを飲む事で去勢すらしていた。さらに、禁欲し精神を神への崇拝に向ける事で、オルペウスが全ての神々への賛歌でムセウスに教えたように、我々の精神は神の永遠の神殿となるのである。
 また我々は全てのまやかし、様々な感覚、愛着、想像、意見、情熱といったようなものも避けるべきである。我々が好色、妬み、野心的な者らの中に明らかに見るように、これらは精神を痛めつけて、理性の判断を防ぐからである。そのためキケローは、トスカーナ人の質問に関する書の中で、これらの情熱を精神の病、有害な疫病と呼んでいた。またホラティウスはこれらを復讐の女神や狂気と呼び、このように詠う。


「少年や少女らは1000の復讐の女神を持つ。」


 この詩人はまた、全ての者はどこか愚者だという意見を持っていたようである。シラ書を読むと、愚者が溢れている。そのためストア派は情熱ある者を賢者とは認めていなかった。私はそれらは感覚に従う情熱についてを指すと考える。理性や精神的な情熱については、彼らは賢者が持つと述べているからだ。ボエティウスもこの意見を持っていたようで、ある情熱は真理の探究のために取り除くべきだと、以下の詩で詠っている。


「汝が明白な視野で真理を見つけようとし、
 正しい道を歩みたいなら、
 喜び、恐れ、貪欲を捨て、希望を追い払え。
 これらが支配するなら、
 精神は闇で縛られるからだ――」


 ゆえに我々は全てのまやかしや情熱といったものから自らの精神を離れさせる必要がある。さすれば、我々はシンプルな真理へと到達できよう。これらは無論、長い間の独居によって達成すると多くの哲学者らが述べている。独居によって精神は全ての人間の問題から緩められ、天の神々からの賜物を受け取る準備がなされるからである。
 そのためヘブライの立法者、最も偉大な予言者、カルデアやエジプトの知識全ての博士であるモーセは、感覚から自らを解放するために、エチオピアの広大な荒野へと赴き、そこでは全ての人間の問題は脇に置かれて、自らの精神を神的なものへの黙想のみに捧げられ、それにより全能の神を喜ばせ、面と向き合って対話し、また彼に奇跡の驚異的な力を授けていたのは聖書が証している事である*5。またマギ僧らの父祖にして君主のゾロアスターも、全ての自然と神的な知識を20年間の独居によって得て、占術や予知に関する全ての非常に奇妙な事柄を書いたり行ったりしたと言われている。同様の事はオルペウスもムセウスへの書において、トラキアの荒野で行ったと記している。また私はクレタ島のエピメニデースが非常に長い間眠った後に、学識ある者となったという話を読んでいる。一説では彼は50年間寝ていたという。つまりは、それだけ長く独居していたのである。またピュタゴラスも同様に、10年間独居していた。またヘラクレイトスやデモクリトスも、同様に独居を楽しんでいた。
 我々が動物や人間の生を放棄すればするほど、我々は天使のように生きるようになり、神と結びつき、より良き状態にし、万物に及ぶ力を持ち、全てを支配するようになるからである。
 では、どのようにして我々は動物の生、全てのまやかしから自らの精神を分離し、高め、やがては唯一にして善、真理、完全な方へと到達するが、それまでは段階的に知識を得ていく。プロクロスはアルキビアデスへの注釈書の中で、物質の感覚的なものを避ける事で、霊的なエッセンスへと到達し、魂の位階を高めるが、そこでもなお様々な規則、習慣、様々な比率、多くの束縛があり、様々な諸力があり、知性体と知性の領域へと向かうように努め、これらが魂よりもさらに優れているかを黙想するよう教えている。
 さらに我々は多くの知性を得るべきであり、それらは統一しているものの、個々として存在し、超知性的、本質的な統一へと至り、全てのまやかしからの絶対者となり、善と真理の泉となるのである。同様に、我々は道を外れて欺く全ての知識を避けるべきである。それにより我々は最もシンプルな真理を得るであろう。それゆえ、愛着、感覚、想像力、意見のまやかしは避け、それら自身は様々であるが、あるものは他のものと矛盾したりしているからだ。そして我々は智へと上昇すべきだ。これらは様々にあるが、それでいて矛盾は無いのだ。これら全てはお互いに結び合い、助け合い、やがては一つとなり、全ての基盤となり、それを超えたものは何も支えておらず、これから残りの全ては拠っているのである。
 だが、これは知識の至高ではなく、その上には純粋知性がある。そのため、全ての複合物、分割、様々な論議は脇に置いて、我々は知的な生へと上昇し、シンプルな視点を持ち、個にしてシンプルな知覚により明瞭なエッセンスを見るならば、魂の至高の境地へと到達し、それによって我々は一つとなり、それにより自らの中の様々な要素は統一されよう。そのため、我々は第一の統一を達成すべく努めるべきだ。そこから万物が統合され、それらを通じて我々のエッセンスの花としての一つとなる。全てのまやかしを避けるならば、やがては我々は獲得し、統一へと上昇し、一つとなり、一様に働くようになろう。


オカルト哲学 3-56
↑ オカルト哲学 第三の書


*1 第1の調合(concoction)は胃と腸での消化であり、第2の調合は、それらが血の中へと運ばれる事を指し、第3の調合はそれらが汗と涙に変わるものと考えられていた。
*2 出エジプト記 第34章28-29節。
*3 列王記上 第19章4-8節。
*4 フィロストラトスはティアナのアポロニウスの伝記の作者。アポロニウスは西北インドの王フラオテスと対話をした事がある。
*5 出エジプト記 第3章と33章11節。