オカルト哲学 3-54

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第54章 清めと、どのように行うかについて


 ゆえに我々は、まず最初に食事、働き、嗜好を清め、精神から全ての不潔と動揺、さらに感覚や霊からも悪しきものを、精神には天とは似ていないものを取り除かねばならない。それらは精神や霊の中にあるものだけではなく、肉体の体内や外側にあるものもである。そのような外部の清めは精神の浄化にも少なからず助けとなると信じられているからである。
 この理由からピュタゴラス学派の哲学者らは神託をし、神々から認められようと望む時には、自らを川で沐浴し、白いリネンの衣を着て行った。彼らは羊毛は獣を殺して作るので冒涜の服と考えたからである。そして、彼らは純粋で汚れない部屋で住むようにした。
 同様にインド人の賢者のブラフマンらは、自らを裸になり泉で沐浴し、これらは(ギリシアの)ボイオーティアでディルケと呼ばれていたものと同等物である。彼らは手にまず琥珀の滴を塗ったが、この香りはその目的に適している。それから、彼らの風習で充分に浄めたら、正午に泉を出て、白いリネンの衣を着て、指輪を填めて、片手には杖を持った。
 同様の事はインドの裸形の哲学者らも行い、昼に3回、夜に2回、聖所へと入る前に自らを冷水で洗っていた。彼らはまた毎日、新しく洗ったリネンの衣を用いていた。
 また私はこの種の洗浄の習慣を、ヘーシオドスの「仕事と日」の書でも読んでいる。ここで彼はかく詠う。


「誰も手を洗わないままユーピテルや他の天の神々に
 ワインを注いだりはしない。
 そうしたら彼らは、どれだけ祈ったとしても
 聞こうとはしないだろうからだ――」

 また別の箇所でも、

「悪人らが手を洗わないまま川を渡ったら、
 神々は怒り、懲罰を与える――」

 ゆえに、ウェルギリウスにおいてアイネイアースは父にこう語っている。

「父よ、家の守護神らを、その聖なる手で掴みたまえ。
 かくも激しい戦いの後に、彼らを掴むのは無謀ゆえに、
 私は最も透明な水の流れで手を洗うまでは、やりますまい」


 また異教徒の間でも、神々への祭祀を行う際には、彼らの体を洗い清める風習があった。また冥府の神々と対する時には、表面のみに水を振りまいた。ゆえにウェルギリウスにおいて、ディドーは神々への儀式を行う際にこう述べている。


「我が妹アン(我が最も愛する者よ)のゆえに来たれ。
 そして我が体は透明の水で洗おう。」

 また別の箇所でもアイネイアースが冥府の住人らの間にとどまった時に、プロセルピナへ向かって枝をもたらし、詩人はこう詠っている。

「アイネイアースは通過する間枝を持ち続け、
 そして彼の体を新鮮な水で洗った――」

 また、埋葬されるミセヌスに関して、こう詠っている。

「友人らにより、彼は3回水で洗われ、
 滴の垂れるオリーブの枝により、
 彼は水を振りまかれた――」


 次に、清浄となった者は天上的、霊的となり、神の目通りと合一に適うようになる。神は清澄な体、純粋な精神の御使いらと共にあり、万物の内なる肌、衣、家、道具、奉納、贈物、生贄の清潔さを喜ぶからである。これらの清潔なもの全ては、周囲の風すらも浄化し、天や神的な者らを引き寄せ、神の純粋な御使いや良きダイモンらを誘う。時には、不純な霊や悪しきダイモンらも、これらは良きダイモンの猿真似をするので、この種の清潔さを装い、信者らに崇拝されたり騙したりするのである。そのためまず最初に、我々は精神を純粋にし、心を純粋にするならば、不純な諸力は上昇出来ないのである。


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↑ オカルト哲学 第三の書