オカルト哲学 3-43

ページ名:オカルト哲学 3-43

第43章 精神と理性と想像力の中にある人の魂の力について


 人の魂は精神、理性、想像力によって構成されている。精神は理性を照らし、理性は想像力へと流れる。これら全ては魂の中にある。理性は精神によって啓明されない限り、過ちから自由にはならない。だが精神も神が啓明する、すなわち最初の光を与えない限り、理性に光を与えられない。神の中にある最初の光は全ての理解を遥かに超えているからである。そのため、これは認識可能な光と呼ぶ事は出来ない。だが、これが精神に吹き込まれたら知的にし、理解できるようになる。そして、これは精神によって理性へと吹きこまれてこれを理性的とし、理解だけではなく熟考できるようにする。それから、理性によって魂の幻想(ファンタジー)へと吹きこまれ、それを考えられるようにするだけではなく、想像可能にする。まだこの光は実体的なものではないが、魂の天の乗り物へと向かうと、まず最初に実体にする。まだ感覚が無いが、これがエレメンタルの体へ向かうと、シンプルな風的なものか、複合的にする。この中で光は目に明白に見えるようにする。
 カルデアの哲学者らは、この光の進展を考え、我々の精神にある特別な驚異的な力について述べた。すなわち、我々の精神が堅固に神へと向けられると、神的な力に満たされるであろうと。そして光で満たされたら、その光線は全ての感覚、この粗雑で暗く重く死すべき定めの肉体にすら放出されるようになり、これは豊富な光を授け、星々のように同等に輝き、またその光線と光によって、炎が藁を吹き上げるように高く上げ、肉体を霊として遠い部分へと運ぶのである*1
 また、使徒言行録でピリポがインド人の宦官を洗礼しているのを我々は読んでいるが、今でもその場所はアゾト*2で見つけられるのである*3。同様にダニエル書でも、ハバククが行い、牢獄の扉が開かれ、他の者らは逃げ出せたのである*4。我々はまた使徒ペトロとエクソシストの方のペトロにも、似たような話を読んでいる*5。また、これらよりも劣ってはいるが、ある有名なメランコリックな者らがいて、眠っている状態で通り抜けられない壁を通り抜け、入れない場所にすら上昇し、起きている時には彼ら自身行えないような働きをする。これらは強く高められた想像力以外には理由はない*6
 だが、これらの力はあらゆる人間の中にあり、これは創造された時より人の魂の中にある。だがこれは様々な人間によって、その力や弱さによって様々であり、その実践や使用によって増大したり減少したりする。これにより、力は活動へともたらされ、正しく知る者はその知識によって高められ、最終的には想像力は宇宙的な力へと変容し合一するのである。これらをキンディー、(ロジャー)ベーコン、グリエルムス パリシエンシスらは、自然の感覚と呼び、ウェルギリウスは永遠の感覚と、プラトンは乗り物の感覚と呼んでいた。
 そして彼の想像力は最も強力となり、永遠にして天上の力は流れ込み、それらの輝きによって認識し、やがては真の事柄の種類、理解、知識が現れ、彼が考えた事は現実化し、彼は人々の精神に加わり、彼らを自らの考えや意志、願いに従わせられるほどに大いなる力を得る。さらに、遠い場所にある事柄すら感覚により知覚できるのである。そしてあたかも時が無いかのように、僅かな時間で多くの事柄をなせるのである。
 だが、これらの事は全ての者に与えられているわけではなく、想像力と思考力が最も強力で思弁の究極に到達した者のみである。また万物を捕え発現するのに適した者であり、宇宙的な力あるいは知性と霊的な把握によるが、これらは彼を超えている。そしてこれは必要な力であり、真理を追う者らは従うべきものである。
 そのため、想像力が充分に強力ならば、望む相手に影響させられ、時間や空間によって制約されず、時には重たい物体も想像力か夢によって動かせる。この精神の力は適切な性質を得て、感覚の影響が対立しておらず、腐敗せずに保っていたならば、より強力となるのには疑いが無い。
 では次には例を挙げるとしよう。魂が天の星々の豊富な光と結びつき、光が非常に膨大に彼らの体に満たされる。それによりモーセの顔が輝いたようになり*7、イスラエルの民は彼を見る事が出来なくなるほどであった。またソクラテスも変容があり、私が読んだ話では、その光により日輪の輝きを超えるほどだったという。ゾロアスターも変容し、その肉体は引き上げられた。また預言者エリヤ*8とエノク*9も、特別な火のチャリオットに連れられて天へと昇っていった。また使徒パウロも第三天まで引き上げられている*10。同様に我々の体も、世界の審判の日の後には、栄光へと呼ばれ、同様に引き上げられ、我々は太陽や月のように輝くと言われている。これらは可能であり、過去においても行われており、ムーア人のイブン ガビーロール*11、アラビア人のイブン スィーナー、コス島のヒポクラテス、その他カルデア学派の全ての哲学者らはこれらを認め、確証している。
 さらに歴史家らが記すには、アレクサンドロス大王もインドで敵軍に包囲されて危険になった際に、精神を強く燃やし、蛮族どもに向かって光を放ったように見えたという。また、修道士テオドリクスの父も、体全体から火を放ったと言われている。同様の事を賢者もなしており、あちこちへと炎は放たれ、鼻先にすらあったという。これらは人の魂にのみある機能ではなく、時には獣らすらあり、ティベリウス帝の馬は、口から炎を発していたと言われている。
 だが精神は天命の上にあり、そのため天の諸惑星にも自然の性質にも影響を受けない。そのため、宗教のみがこれを癒せる。だが魂の感覚は宿命の下で自然の上にあり、特有の方法によって肉体と魂を結び付けており、宿命の下で肉体の上にある。そのため、これは天の諸惑星の影響によって変わり、自然で物質的なものの質によって影響される。
 次には、魂の感覚、つまり肉体を活性化させ修正する力、(肉体の)感覚の源について私は呼ぶとしよう。魂自身は肉体において感覚的な諸力として発現し、肉体を通じて物理的なものを知覚し、肉体を動かし自らの場所より支配し、肉体の中で養われるのである。
 この感覚においては、2つの最も原理的な力が主要である。1つは幻想ファンタジー、あるいは想像的、認知的な機能と呼ばれるが、これらの力については私は魂の情熱に関する章(第1の書の第63章)で既に述べている。もう1つは自然の感覚と呼ばれ、これも私は既に魔女術に関する章(第1の書の第50章)で述べている。
 ゆえに人の肉体は宿命の下にあり、人の魂は感覚においては宿命によって動くが、精神は宿命の上にあり、神の摂理に従っている。そして理性は自らの判断において自由である。そのため、理性が精神へと上昇した魂は、神の光により満たされる。時には理性は感覚へと落下し、天の諸惑星や自然のものの影響を受け、情熱や感覚的なものに振り回される事もある。時には魂自身が理性へと完全に降りてきて、理性との対話や自らへの思弁のいずれかによって他のものを調べる事もある。
 理性の一部、逍遥学派が可能な知性と呼んだものは、自らの幻想へと転換する事無く自由に対話し働くことが出来るからである。この理性の命令は精神や感覚や自然や肉体を動かせるほど強いからである。光は理性がそれに当てはめない限りは魂に入る事は出来ない。
 それゆえ、認知的理性がまず行わない限り、魂は外的な感覚器官によって外的なものを見たり、聞いたり、感じたりは出来ない。だが魂は他の事柄に注意が向いていないならば、自由にそれらを理解する。我々が別の事を真剣に考えていない時には、より明らかに見るようにである。
 そのため上位の影響も、自然の影響も、感覚も、精神や肉体への情熱も、どのような感覚的なものも、理性の判断に拠らなければ、魂を貫く事は無いと知るべきである。ゆえに、外的な暴力ではなく理性の働きによって魂は影響されたり動かされたりするが、それらは数えきれない殉教者らが証ししている。
 そのため、(ギリシアの)アブデーラの町の哲学者アナサルクスは、キプロスの暴君ニコクレオンテスの命令によって、凹石に投げ込まれ鉄の乳棒で叩かれている時にも、肉体の痛みに対して無視し、こう述べた。アナサルクスの殻を叩け、叩け。アナサルクス自身には何も痛めはしない。暴君は哲学者の舌を切るように命じたが、哲学者は歯によって自ら切り取り、その舌を暴君の顔へと投げつけたという。


オカルト哲学 3-44
↑ オカルト哲学 第三の書


*1 アグリッパはテレポーテーションか空中飛行を語っているようである
*2 現イスラエルのアシュドット。
*3 使徒言行録 第8章27-40。ちなみに洗礼をした宦官は実際にはエチオピア人である。
*4 ダニエル書 第14章32-35節。第13と14章はギリシア70人訳のみにあり、ヘブライ版には無い。そのため、普通の聖書では省かれている。
*5 使徒言行録 第12章7-10節。
*6 アグリッパは体外離脱体験について語っているようである。
*7 出エジプト記 第34章30節。
*8 列王記第二 第2章11節。
*9 エノクの書 第70章2節。また創世記 第5章24節。
*10 コリント第二の手紙 第12章2節。
*11 ソロモン ベン イェフダー イブン ガビーロール。1021年 - 1058年。スペインのムーア人ではなく実際にはユダヤ人の詩人、新プラトン主義哲学者。メイド目的で珍しい女性型ゴーレムを造った伝説もある。