オカルト哲学 3-41

ページ名:オカルト哲学 3-41

第41章 人の死後についての様々な意見


 一般に全ての人間は一度は死ぬ定めがある。死は全ての者の宿命であるが、ある者は自然死し、ある者は暴力的な死をし、別の者らは自発的に受け取り、また別の者らは犯罪のせいで人間の法により、あるいは罪により神の懲罰により死ぬこととなる。これは、自然に起きたのではなく、罪への罰として起きたように思える。ヘブライの賢人らが言うように、神は誰の罪も見逃したりはしないのである。
 そのため、神殿が略奪された際に御使いが預言者エゼキエルに、何ら司法の裁きは行われなかったものの、神は4倍の裁きをなし非難するであろうと伝えた。償いなしには、誰も死の罪からは逃れられないのである。そして石打の刑に遭うに値する者は、神はそのようになし、家から真っ逆さまに落ちるか、野獣によりバラバラにされるか、没落により圧倒されるのである。だが、燃やされるに値する者は、燃やし尽くされるか、蛇に噛まれたり毒により生涯を終えるであろう。だが剣で死ぬべき者は、司法の裁きや、人々や集団の暴動や、盗賊団の裏切りにより殺されるであろう。吊るされて死ぬべき者は、海に溺れたり、その他の窒息の懲罰により死ぬであろう。偉大なるオリゲネスは、福音書にある「剣を持つ者は剣に倒れる」のキリストの言葉*1から、この教義の根拠としたのである。
 さらに、ギリシアの哲学者らが言うには、この種の償いは、(アルゴスの王)アドラストスの物語にあるように、つまり神の法の避けられない力であり、それにより誰もが前世の因果に応報する未来が来るという。前世で不正義に支配した者は、次の生では従者として仕えねばならなくなるであろう。自らの手を血で染めた者は、その償いのために生涯強いられるであろう。野獣のような生涯を送った者は、野獣として生まれ生きる羽目となろう。
 これらについて、プロティノスは人の適切な守護神に関する書の中でこう述べている。人の性質を生涯保持してきた者は、再び人として生まれる。だが感覚のみに従ってきた者は、獣として帰ってくる。特に怒りとともに感覚を用いてきた者は、野獣として生まれる。だが色欲と快楽により感覚を用いてきた者は、好色で貪欲な獣として帰ってくる。だが、これらとともに感覚を用いず、感覚の退廃とともに生きてきた者は、植物として生まれる。視覚のみ、あるいは主に用いて生活し、それのみを気を配っていた者らは植物となるだろうからである。だが、音楽を聴く事ばかりをして生活し、他の下劣な事柄をしなければ、再び音を主に用いる動物として生まれる。そして、理性無く支配していた者は鷲として生まれるが、彼らが悪により堕落しない限りにはである。だが、温和にして美徳とともに生活していた者は、再び人間として帰ってくる。
 またソロモン王も箴言の中で、人を時には獅子、虎、熊、猪、野兎、猟犬、兎、蟻、ハリネズミ、蛇、蜘蛛、鷲、コウノトリ、雄鶏、その他の鳥と呼び、多くの箇所でそのように記されている。
 だがヘブライ人のカバラ学者らは、人の魂が獣となるのは認めていないが*2、完全に理性無く生きていた者は、次の生では獣の病や想像力を持って生まれるのを否定していない。また彼らは魂はこの世界に3回生まれ変わり、それ以上は無いと主張していた。なぜなら、この数は罪の浄化には充分に思えるからである。ヨブが我が魂は死に向かわずに生き、光を見るようになったようにである。神が働いた万物を3回見よ。そのたびに神は、これらの魂の腐敗を減らし、生ける光とともに啓明しているのだ。
 では今度は、死に対しての古人らの意見を見るとしよう。人が死んだとき、その大地から取られた肉体は大地に還り、天から来た霊は元の天へと還る。かの伝道者が言うように*3、肉体は元の大地へと還り、神から与えられた霊は神の元へと還るのである。これらについて、ルクレティウスは以下の詩で表現していた。


「地から来たものは地へと再び還る。
 神から来たものは来た場所へと還る。」


 だがオウィディウスは以下の詩でより良く表現していた。


「人には霊、魂、幽霊、肉の4つのものがある。
 これらの4つは、それぞれが保持される場所がある。
 大地は肉を覆い、幽霊は墓の上を浮かび、
 オルクス神は魂を持ち、星々は霊を欲する。」


 肉が捨てられ、肉体が命を捨てた状態は、死体と呼ばれ、ヘブライの賢者らはこれを悪魔アザゼルの力に置かれたものと呼んでいた。この悪魔は聖書で「汝は常に塵を食べよ」と述べられた者である。また別の箇所でも、地の塵は彼のパンであるとある。ところで、人は地の塵から造られ、この悪魔も肉と血の主と呼ばれており、そのため肉体は儀礼によって贖われたり清められたりはしないのである。
 そのため古人らが死体を埋める際には、その不浄さを消すために聖水を撒き、香を焚き、聖なる祈りの言葉を唱え、松明の光が地面の上に掲げられ、それからようやく聖なる地に埋められたのも故無しとは言えない。そのため、ホメーロスの詠うエレペーノールは、オデュッセウス殿、我が死体が埋められるようにし、神々の怒りの的にならないようにしたまえと述べている。
 人の霊は聖なる性質があり、神から賜ったものなので、常に過ちが無く、どんな懲罰も受ける事は無い。だが魂が生前に良き生き方をしていたら、霊と共に喜び、天のチャリオットに乗って、英雄達の集まりを自由に通ったり天へと至り、感覚と諸力、常に祝福された至福、万物への完全な知識を全て楽しむ。さらに、神の幻視と天の王国をも保有し、神の力と加わり、不死の神であるかのように、低位者らへと様々な賜物を自由に与える。
 だが魂が悪に染まるならば、霊はそれを裁き、悪魔の喜びのままにさせ、哀れな魂は霊なく、幻影のように地獄を彷徨う。ウェルギリウスがディドーの嘆きで述べるようにである。


「そして今では我が大いなる幻像が、
 地の下を歩まねばならぬ――」


 ここでは、魂は知的な形質が虚無となり、復讐の幻影の力の下に置かれ、物質的な性質の懲罰に永遠に従わされ、これが神の公正な裁きであると知り、その罪により(それにより魂が造られた)神の幻視を永遠に失う。聖書が証言するように神の幻視の欠如は、全ての悪の基盤であると同時に、全ての中で最も悲惨な懲罰であり、聖書はこれを神の怒りが注がれると呼んでいる*4
 そのため、この魂の像は、風の体として幽霊ゴーストの中に入り、それを身に着け、時には(生前の)友人らに助言をし、時には敵らを煽動する。それらについてウェルギリウスが詠うに、ディドーはアイネイアースをこのように脅している。


「我は汝を追い詰め、懲罰を与えよう。」


 なぜなら、魂が肉体から分離されても、記憶と感覚の悩ましさは残っているからである。
 プラトン学派は、魂、特に殺された者の魂は、敵を扇動すると述べている。そして人の憤りがそこまで高くなかったら、ネメシス神やダイモンのように、未来を見て、それを知るのを許す。そのため、ヘブライの師らが解釈するに、殺されたナボテの霊が復讐をなし、偽りを言う霊となるのを望むと、神はそれを許し、偽りの霊が全てのアハブの預言者らの口に入り、彼らをラモテ・ギレアデへと向かわせたのだ*5
 そしてウェルギリウス自身やピュタゴラス学派、プラトン学派も同意見であり、また我々の聖アウグスティヌスも、分離された魂は生前の肉の記憶と意志を保持すると確言している。そのため、ウェルギリウスはかく詠っている。


「生前に軍馬や武具に心を向けていた者らは、
 同様に墓でも従う。」


 そしてアガゼルの「神学について」や、他のアラビア人やイスラーム教徒の哲学者らは、魂の働きが肉体と通常に組み合わさっている際には、用いたり実践する性質を魂に植え付け、それが強い好みや情熱にあり生前において破壊されなかったならば、分離された後にも用いられると考えていた。
 そして古人らは生前に無垢で、倫理の美徳により浄化された魂について、一般名としてマネスと呼び、非常に幸福となるという。これらについて、ウェルギリウスはかく詠う。


「――自らの祖国のために死んだ者や、
 純潔の誓いとともに生きた神官や、
 (太陽神)ポイボスを最良に喜ばせた聖なる詩人や、
 技芸を発明する事で人の生活を助けた者や、
 その他の記憶が高名な者達である」


 彼ら古人は正しい信仰や恵みが無く亡くなったが、多くの神学者らが考えるには、彼らの魂はどのような苦しみも無く、幸福な喜びの野へと赴いた。ウェルギリウスがかく詠うようにである。


「彼らはその地、喜びの野原へと赴き、
 喜びの灌木の間に喜びとともに座る。」


 ここでは彼らは特有の驚異的な喜びを楽しみ、また感覚的、知的、明かされた知識もである。
 また、おそらくは彼らは信仰と義についても教えられただろう。キリストが福音書で監獄で亡くなった霊らに説教したとあるようにである*6。誰もキリストの信仰以外には救われないのは確実であり、そのため多神教徒やイスラーム教徒も死後にはこの信仰を説教された可能性が高く、彼らの魂は入れ物から救われるが、彼らはこの入れ物を監獄として、来るべき最後の審判まで保存している。この意見は、ラクタンティウス、イレネウス、クレメンス、テルトゥリアヌス、アウグスティヌス、アンブロジウス、その他多くのキリスト教著者らが同意するものである。
 だが、不浄、不摂生、邪悪な魂は、このような幸福な夢を楽しむ事は無く、最も恐ろしい幻覚の中、さらに酷い場所を彷徨い、自由な知識を楽しむ事も無く、ただ許され与えられたもののみであり、さらに彼らの常にある肉の欲望は、その肉体的な堕落から来る剣やナイフの痛みや恐怖の感覚に取り換えられるのである。
 これらについて、ホメーロスがよく注目していた事に疑う余地が無い。彼の「オデュッセイア」の第11の書で、オデュッセウスの母が無くなってから、彼の近くに幽霊として立ち、生贄を求めたが、彼を知る事も語る事も出来ず、オデュッセウスは剣を抜いて、生贄の血から幽霊を離させたのである。その後に、女預言者のタイレシアが彼女から助言され、生贄を味わい、血を飲み、彼女の息子について知り、語りたいと叫んだ。タイレシアの魂はオデュッセウスが剣を抜くものの、先に血を飲んでいたのでオデュッセウスに対して語りかけ、母の亡霊が近くに立っていると告げた。
 そのため魂が生前に肉体でなし、生きている間に償われなかった悪徳は、魂と結びつき、共に移動し、地獄で浄化され、懲罰される結果となるのである。これらについて、ある詩人は以下の詩で説明している。


「――彼らが死ぬとき、
 全てのこれらの悲惨さを置いたまま去りはしない。
 彼らの犯罪を(生前に)償わなかったならば、
 その浪費された時のために、今や懲罰されねばならない。」


 生きているうちに、習性や癖があるように、死後にもそれらのほとんどは魂に従い、生きていた時のように心にそれらが呼ばれ、しかも生きていた頃よりも激しくなる。養い、育て、生成するなどの、生きるための様々な機能が活動を止め、感覚の様々な働きも止まり、人間の問題や慰めも無く、粗雑な肉体の障害も無くなるからである。それにより、これらの種の幻覚的な思考で表されるものが、より荒れ狂うようになり、その際に知的な火花に覆われている魂は耐えられるが、それらが消滅した者らは悪霊により、最も偽りのものか、恐るべき種へと生まれ変わらせられるのである。
 ここでは色欲の機能に苛まれたりもする。これらを楽しむ働きが失われたにも関わらず、想像力にある色欲によってや、生きている頃に影響されたものによってである。時にはその喜びをほとんど得るように見えるものの、悪霊らによって取り去られ、更なる苦悩へと追い込まれるのである。これらについて詩人らが詠っているように、タンタロス王は宴会から、アッシュールバニパル王は抱擁から、ミダス王は黄金から、シーシュポスは力から*7取り除かれ、また彼らはこれらの魂をホブゴブリンと呼び、一方で家の問題に気を配り、静かに生きていた者らは、家の神あるいはファミリアと呼ばれる。
 だが、怒りっぽい者ら、想像上の悪に対しての憎しみを持つ者らは最も残酷に痛めつけられる。心の混乱や、偽りの疑い、最も恐ろしい幻覚へとこれらは陥り、これらは悲しい現れとなるのである。時には天が彼らの頭に落ちてきたり、時には炎に飲み込まれたり、時には湾で溺れたり、時には地に沈んだり、時には様々な種類の獣へと自分が変わったり、時には醜い怪物に引き裂かれて食べられたり、時には樹、海、火、風を通じて恐ろしい地獄の世界へと運ばれ、時には悪魔らに痛めつけられるのである。
 私が述べてきたこれらの死後に起きる事全ては、生前に狂乱したり、その他の憂鬱的な病を受けた者以外の何物でも無い。また、夢の中で恐ろしいものを見た者や、そこで痛めつけられた者もそうだが、これらが現実に起きたかのように思えるが、実際は現実では無く、これらの種が想像力に捕らえられたのである。罪の恐ろしい現われは、これら魂を夢の中のように震えさせ、また悪の罪はこれらの魂を様々な場所へと運ぶのである。そのため、オルペウスは夢の人々を呼び、プルートーの門も夢の人々の中にあるうちは閉ざされないと述べた。
 そのため、このような邪悪な魂らは、良き場所で憩う事は無く、風の体に入って彷徨う際には、様々な姿を取って我々に見られており、それらを我々はハッグ、ゴブリンと呼び、良き者らには害は無いが、悪しき者らには害となり、時には小さな体で、時には大きな体で、様々な動物や怪物の姿で現れ、これらは生涯そのような状態にあるのだ。それについて、ある詩人が詠うには、


「そして獣の様々な姿形で現れ、
 彼は虎、豚、熊、鱗のある竜、獅子となる。 
 あるいは火の姿から恐ろしい騒音を発して、
 彼は様々な姿へと自らを変える。
 火へと、野獣へと、走る小川へと。」


 人の不純な魂がこの生で一つの癖を強く持ち続けたら、エレメンタルの特有の内なる影響によって、エレメンツの気体により形成された別の体へと移り、その容易な形質から斬新な気分となるが、すぐにこの体からその気分は永遠に消え去り、さらに特定の神の法による監獄、感覚による道具に捕らわれるようになる。この体、霊、感覚も寒さや熱や、何にせよ不快なものを感じ、匂いを嗅いだり、吠えたり、泣いたり、歯をきしらせたり、取り除かれたり、引き下がれたり、縛られたりする。これらについて、ウェルギリウスはこう詠っている。


「――ゆえに、彼らの罪により
 彼らは懲罰されねばならない。その浪費した時のために。
 恐ろしい責め苦を感じねばならぬ。ある者は風により吊るされ、
 ある者は汚れた罪を清めるために巨大な湾で溺れさせられ、
 あるいは火で清められる――」


 また、ホーメロスも、オデュッセウスがアルキノウス王に対して行った降霊術について語っている。


「タルタロスにて、地の最愛の者が、
 その体を9ファーロングに引き伸ばされのを私は見た。
 そして両側ではハゲワシが彼の内臓をついばみ――。」


 これらの魂らは、時にはこの種の体にのみ住むのではなく、肉や血への影響が強すぎた場合は、別の動物へと自らを転生させ、気持ち悪い生き物や獣の体を占め、それらの中に入り、どのような種であろうとダイモンのようにそれらを保有するのだ。ピュタゴラスも同じ意見を持っており、彼の前の時代にはトリスメギストスも、邪悪な魂らはしばしば気持ち悪い生き物や獣となると力説していた。いずれも、これらは生命の本質的な形態として行ったり、これらの体に入り込むのではなく、一種の魂の牢獄やその側に立つ幽霊のような形となり、これらの獣を内側から動かすようになる。あるいは、イクシーオーンが蛇の輪と絡みつき、シーシュポスが岩と結び付けられたように、懲罰の一種として結ばれることもある。
 また、これらは動物のみに入るのではなく、先にナボテの霊が預言者らの口に入る話で述べたように、時には人々の中に入る事もある。そのため、一部の者らは邪悪な者らの命や霊らが、別の者らの体へと入り、それらを動かし、時には殺す事すらあると主張している。だが、祝福された魂はより幸運を与えるようになる。良き天使らのように、これらは我々の中に住み、啓明を与えるからだ。それについては、聖書のエリヤが人々から取られ、その魂がエリシャの下に降りて来たという箇所を我々が読むようにである*8。また神はモーセの霊を取り、70人の長老らに与えたという話もある*9。ここには大いなる奥義があるが、容易には明かせないのである。
 また時には、(これは非常に稀ではあるが)魂が狂気に陥った結果、生き物に入るのみではなく、あたかも再び恐ろしい犯罪を犯すかのように、死体に入って動かす事もある。私がそれらに関してサクソ グラマティクスの書の中で読んだ話*10であるが、アスイトゥスとアスムンドゥスという2人の男がかつており、お互いに長生きした方が先に死んだ者を埋めると誓いを立てた。やがてアスイトゥスが先に死に、飼い犬と馬と共に大きな墓へと埋められた。そしてアスムンドゥスも友情の誓いによって、生きたまま埋められる結果となったという(長く食べるための食糧も共に入れられた)。やがてスエキア(スウェーデン)のエリクス王が軍隊とともに近くまで来て、アスイトゥスの墓を壊して(この中に宝があると期待したためだ)、地下への扉を開くと、アスムンドゥスも連れてこられていたが、彼は酷い見た目のアスイトゥスを見た。彼からは汚れて腐った血の匂いがし、それらは緑色の傷口から流れていた(アスイトゥスは夜に復活していたので、しばしば耳からの音のみに頼って苦闘していたのである)。この傷の原因について尋ねると、以下の詩によって彼は告げた。


「我が青ざめた顔にどうしてそう驚くのか?
 死者の間に過ごしてきたので、美しくある必要は無くなった。
 アスイトの地獄の悪鬼らが、なぜ霊を地獄から地上に戻したかは知らないが、
 これらは馬、犬を食べ、これでも食べ足りない者らは、
 僕に爪を伸ばして、我が頬や耳を引きちぎり、そのため君は
 我が醜い、傷ついた、失った、血まみれの顔を見たのだ。
 この怪物的な亡霊は、復讐を果たすまではこの場所には帰らない。
 私(アスムンドゥス)は彼の頭を切り落とし、木の杭で体を貫かせた――」


 パウサニアスもデルフォイの巫女らの神託の解釈から、似たような物語を語っている。彼らがエウリノムスと呼ぶ悪魔がおり、死者の肉を食らい飲み込むので、僅かな骨のみが残されるという。また私が読んだクレタ島の年代記の中にも、カテカナエと彼らが呼ぶ幽霊が、死体へと戻ってきて起き上がると、元の妻のもとへと向かい、共に寝るのだという。これらを避け、妻たちをこれ以上苦しませないためには、これらが起き上がったら心臓を杭で貫き、死体全体を燃やさせるという一般法が与えられている。これらは疑いなく驚異的な事柄であり、ほとんど信じがたいが、これらの法と古の歴史家らがこれらを信用に値するものにしている。
 またキリスト教でも(最後の審判の)普遍的な復活の前にも、多くの魂が肉体へと戻っているのは驚くべき事ではない。さらに神の恵みのある者らは、その体も栄光を受け、多くの者らが生きたまま地獄へと降りていったと私は信じる。また我々はよく墓から死体が悪魔に奪われると聞いているが、これらの手により死者が捕まり痛めつけられるために違いない。またこれらの牢獄や縛られた体を持つ魂らは、最も酷く、忌わしき場所へと送られ、エトナ火山の火に燃やされ、海の湾に溺れさせられ、稲妻と雷鳴に襲われたり、地に埋められたりし、これらの場所には光は無く、太陽の光線を受けたりはせず、星々の光も知らず、常に闇なのである。この場所についてウェルギリウスが告げられるのをホメーロスはかく詠う。


「ここではキンメリアと呼ばれる民がおり、
 常に闇の中に沈んでいるのは有名である。
 昇る朝日も沈む夕日も見ず、
 常に夜が沈み込んでいるのである。」


 聖パトリックの洞窟*11や、ウゥルカーヌスの巣、エトナ火山の洞窟、ヌルシアの洞窟*12といった場所はいずれもおとぎ話では無い。多くの者らが、これらを見たり行ったりしていると証言している。またサクソ グラマティクスも、ゲイルロズ*13の王宮や、ウートガルザ ロキ*14の洞窟といった、より驚くべき場所を語っている。
 またプリニウス、ソリヌス、クレアルコスらも、北海の驚異について語っており、またタキトゥスは小ドルスス カエサルのドイツ遠征を扱った巻の中で、ドイツの海を彷徨った兵士らによって、それまで見た事の無いような様々な驚異的な事柄が報告されている。例えば、渦巻や、聞いた事の無いような鳴き声をする鳥や、人と獣のような姿をした海獣である。また別のドイツに関する書の中で、タキトゥスはヘルドゥシアンやアクシオンという、この地に住んでいる人間の顔を持つが他の部分は獣の生き物について述べている。これらが幽霊や悪魔の働きである事に疑う余地は無い。
 またこれらについて、太古のクラウディアヌスもかく詠っている。


「フランスの国境近くにある場所がある。
 海に囲まれたこの地に住む民は、ウェルギリウスが
 血を味わったとして名高い。
 この秘密の民が泣き叫び訴えると、彷徨う霊らがそれを聞き、
 それらは田舎の者らが多く恐れる。」


 アリストテレスがイタリアの近くのエオリア諸島に関して述べている話で、ここのリーパリ島にある墓があり、そこでは誰も夜には安全ではなく、シンバルやかん高い声や、大笑いする音が聞こえる。また、 騒ぎや虚無な音も作られると、そこの住民らは強く断言している。またかつてある若者が酒に酔ってそこへと行き、夜頃に墓の洞窟の近くで寝てしまった。そして3日目になって見つけられ、死体だと思われて運ばれて、葬式のさ中に突然に起き上がり、彼が見て苦しんだことを順に話し、全ての者らは大いに感嘆したという。
 またノルウェーには海に取り囲まれた最も峻厳な山があり、そこは一般には地獄を意味するヘテルベルギウスと呼ばれている。ここでは、大きな嘆き声、吠え声、金切り声が周囲1マイルに渡って聞こえており、山の上には巨大な禿鷹や漆黒のカラスらが空を舞い、恐ろしい騒音を作り、誰もが近づくのを防いでいる。それだけではなく、そこからは2つの泉が流れており、その1つは非常に冷たく、もう1つは激しく熱く、全ての他のエレメンツを遥かに超えているものである。また同国には、南の端の方にナドヘグリンと呼ばれる岬があり、そこではダイモンらが風の体を持っているのが多くの者らに見られている。またスコットランドのドラー・ローという山には、恐ろしい嘆き声が聞こえる。また、ドイツのテューリンゲン地方には、ホリッソヌスと呼ばれる山があり、そこにはシルヴァヌスやサチュロスが住み、様々な事を教えるので有名であるが、それらは信用のおける著者らが証言している。これらのような奇跡的な場所は世界の様々な国や地方にある。
 私はここで書いた内容を自分の目で見た訳でも、自分の手で触れた訳でもない。これらの驚異や不思議はここら辺で止めておかないと、私は懐疑家らから嘘つき呼ばわりされてしまうだろう。
 また私は、魂の乗り物について我々の時代の多くの者らが考える事には同意せず、これから語る者らとそれほど違った意見を持ってはいない。これらについて、テルトゥリアヌスはマルキオン派の異端に対する論駁の第4の書の中で述べる内容によると、あらゆる賢者はエリュシオンの野を聞いているが、そこのある場所(アブラハムの胸と呼ばれる)では、子宝が得られるとされる。そしてここは天国ではないが、地獄よりも高く、正義のある魂らが、世界の終末の日に全てが蘇る時まで休んでいるという。
 また、使徒ペトロもクレメンス王に述べた内容では、汝クレメンスよ、これらの事は言葉には出来ずに公にも出来ないが、だが可能な限り述べよう。キリストは始まりより常に、秘密裏にではあるが、選ばれた者らや望んだ者らの前に現れている。だが、これは(終末の日の)肉体が蘇る時、復活の時ではない。むしろこれは神からの報酬であり、義とともに生きている者は、より長生きできるようにする(一部の義人らが何百年も生きているのを聖書で読むようにである)。同様に、神は喜ばしい者、神の意志を満たす者らには(千年)王国のために保存されている楽園へと赴かせる。だが、義の規則を満たす事が出来ずに、その肉の悪に傷がある者は、死後には肉体は無論、解体されるが魂は幸福で喜ばしい場所へと保存され、そして最後の審判での復活の時に、彼らもその肉体を受け取るが、それらには今では浄化されており、彼らがなした善行による永遠の報酬を楽しむであろう。
 またエイレナイオスも、ウァレンティニアヌス派の異端(グノーシス)への反駁の書の最後で以下の様に述べている。主は死の影の半ばを歩み、そこの死者の魂らは肉体による復活を遂げる。キリストの弟子ら(キリストはそのために働いていたのである)は、神に定められた、ある不可視の場所へと向かい、復活の日までそこで安らぐ。それから彼らの肉体を得て、再び完全に蘇る。つまり肉体として蘇る。主が蘇ったように、彼らは神の御前へと向かう。弟子は師を超える事は無いが、誰もが師のように完全となれるからである。そのため、我らが師も今は行き来したりはしていないが、父なる神により定められた復活の時を期待しているのである。これはまた3日後に復活したヨナによって示された事でもあった*15。それにより、神により定められた我々の復活の時も予期でき、預言者らにより先に述べられたように、我々も再び、主が価値を定めるだけ蘇るであろうという。
 フィルミアヌス ラクタンティウスもこの意見に同意しており、「神聖教理」の中の神の報酬という題の章の中で述べるには、魂が死後にすぐに裁きを受けるとは誰も考えないようにせよ。時が来て神の裁きが行われるまで、これらは全て収監されるからである。この裁きの時には、正しい者は称えられ、不死の報酬を得る。だが罪や悪が見つかった者らは、再び蘇る事は許されず、特定の懲罰へと送られ、堕天使らとともに、同じ闇の中に閉じ込められるという。
 アウグスティヌスとアンブロジウスも同じ意見を持っており、手引書の中で、人の死と最後の復活の間には時があり、その間は魂は秘密の容れ物の中にあり、その生きていた時の価値に応じて休息か苦しみを受けるという。
 だがアンブロジウスは死の利益に関する書の中で、こう述べている。エズラ記では、魂の住処を貯蔵庫と呼び、そこで彼はある者の不満を聞いた。なぜなら、遥か過去の義人は、審判の日までの長い間に、報酬をだまし取られるように思えたからである。この審判の日は(古代ギリシアの)栄冠のゲームに似ている。報酬の日は誰もが予期するが、その間にも、征服された者らは恥じ入り、征服者は勝利の栄冠を獲得するだろう。そのため、完成の時は予期されつつも、魂はある者らには懲罰があり、別の者らには栄光があるといった報酬を期待する。また魂が肉体から分離してから行くこの場所には、地獄と呼ばれるような所は見えなかったと彼は述べている。そして彼のカインとアベルに関する第2の書の中で言うには、死んで魂が肉体から離れる時には、まだ繋がっている状態から既に、審判の日が来ることに疑いがあるという。
 福音書もこれらについて同意しており、マタイによる福音書*16でキリストは、この日に多くの者らが「主よ、主よ、私達はあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか」と言うだろうが、そのとき、私は彼らにはっきりこう言おう。「あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ」と。この言葉からも明らかなのは、この審判の日ですら、彼らは判決がどうなるのか不確実であり、彼らが生きていた頃にイエスの名によって行ってきた奇跡の確信により、彼らは救済の希望を幾らかは持っていたのである。
 そのため、魂の裁きは最後の日まで延期されているので、多くの神学者らが最後の審判の前の充分な取り成しは、義人に対してのみならず、悪しき者らにも助けとなると考えた。それゆえ、トラヤヌス帝は地獄から聖グレゴリウスの取り成しにより救われ、救いを保証された。だが一部の者らは、皇帝は懲罰の罪から逃れたのではなく、最後の審判の日まで延期されたにすぎないと考えている。だがトマス アキィナスは、トラヤヌス帝は聖グレゴリウスの取り成しによって、再び生き、恵みの力を得て、それによって罪の裁きから逃れられた可能性が高いように思えると述べている。
 また一部の神学者らは死者への弔歌によって、懲罰や罪が取り除かれたり減らされたりする事は無く、死者の魂の痛みを和らげるのみだと考えている。これは汗ばむ運搬人に似ていて、汗をかく事で荷が軽くなったり運ぶのが容易になるように思える。だが荷の重さは何も変わらないのである。そして神学者らは、葬式での祈りや弔歌によって、プルートーの門で罪が軽くなる事は無いという意見で一致している。
 だがこれらの意見全ては、理解しがたい曖昧さがあり、多くは彼ら自身の知恵を自慢するための無益なものに思える。そのため、私はアウグスティヌスが創世記に関する第10の書で述べた内容の、知らない事を論争するよりも、オカルトな事を疑う方が良いという意見に同意したい。私は富める者が痛みの炎を知るようになり、貧しい者が喜びを味わうだろう事に疑いが無い。だがどのように、地獄の炎を、アブラハムの胸を、富める者の舌を、渇きの苦悩を、冷たい滴を理解するかについては、慎み深い探究者からはほとんど見つけられず、永遠の議論の的なのである。


オカルト哲学 3-42
↑ オカルト哲学 第三の書


*1 マタイによる福音書 第26章52節。
*2 アグリッパの意見は間違っている。カバラでも動物転生の可能性は実際には認めている。
*3 コヘレトの言葉 第3章20-21節。
*4 ヨハネの黙示録 第16章1節。
*5 列王記第一 第21章9-10、22章20-22、と第二 第9章25-26節。
*6 聖書にはそのような箇所は無いが、キリストの十字架で亡くなった後の地獄巡りの説話から来ているかもしれない。
*7 リュディアの王タンタロスはゼウスに呼ばれた宴会で神々のネクタルを盗んだ罪により、常に口が乾いて何も飲めない呪いを受ける。新アッシリアのアッシュールバニパル王は抱擁できない呪いを受ける。フリギアのミダス王は触れたものが全て黄金になり、何も食べられなくなった。シーシュポスは神々を欺いた罪で地獄で岩を山頂に持っていこうとするたびに崩され、それが永遠に続く呪いを受ける。
*8 列王記第二 第2章15節。
*9 民数記 第11章25節。
*10 これは疑い無く、最も初期の吸血鬼伝説の一つである。
*11 アイルランドの聖人が住んでいた場所で、地獄の絵で塗られており、そこで隠者らが黙想をしていた。
*12 ヌルシアの聖ベネディクトゥス。480年頃 - 547年。西欧修道士制度の父と呼ばれる。ベネディクト会は彼が作った規律に従う。
*13 北欧神話の霧の巨人。ギャールプとグレイプの父。トールの武器を取って騙し打ちしようとするが、女中に助けられたトールに殺される。
*14 北神話の巨人族の王。幻術に優れていた。
*15 ヨナ書 第1章17節。
*16 マタイによる福音書 第7章22-23節。