オカルト哲学 3-36

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第36章 人はどのように神の像として造られたか


 トリスメギストスが言うように、最も豊かな神は、自らに似せた2つの像をかたどった。すなわち、世界と人とにであり、それらの一方には、神は特別な驚異的な働きをなした。もう一方には、神は大いに喜んだ。
 神は単独ゆえに、世界を一つのものとして造った。神は無限ゆえに、世界を丸く造った。神は永遠ゆえに、世界を腐敗せずに永遠に存続するように造った。神は測り知れないゆえに、世界を万物の中でも最大に造った。神は命の源ゆえに、世界に命の種で飾り、万物を自らから生み出した。神は全能ゆえに、神単独によって、自然のどのような必要性もなく、世界を無から創造した。神は善の源ゆえに、万物の最初のイデアである御言葉をその自由な意志と本質的な愛とともに抱擁し、内なる例に基づいて外なる世界を織りなしていった。すなわち、イデアの世界からであるが、イデアの本質から放つのではなく、イデアによる永遠性から神が持つ無から創り出したのである。
 また神は自らの像にかたどって人も造った。世界が神の像であるように、人も世界の像である。そのためある者らは、人は単純に神の像として造られたのではなく、像に基づいて、あるいは像の像として造られたと考えている。そのため、人はマクロコスム、小宇宙と呼ばれるのである。
 世界は理性的な存在、不死であるが、人は理性的ではあるが死すべき定めにある。つまり、分解可能性がある。ヘルメースが言うように、世界が不死ならば、そのどの部分も消え去るのは不可能だからである。そのため、世界にとって死ぬ事は意味のない言葉であり、虚無すらも存在しないので、死も同様である。そのため、我々が人が死ぬと言うのは、魂と肉体が分離する事であり、何も失われずに無へと帰する事も無いのである。
 そう言うものの、神の真の像は、その御言葉(ロゴスあるいはイエス)である。知恵、命、光、真理はそれ自身により存在し、人の魂らはそれらの像であり、これらによって我々は世界の像や創造物の像ではなく神の像だと呼ばれるのである。神は触れる事も出来ず、聞く事も出来ず、目で見る事も出来ないように、人の魂も見たり聞いたり触れたりは出来ないからである。そして、神が無限の存在であり、何者にも強いられたりはしないように、人の心も自由であり、強制されたり縛られたりはしないのである。さらに、神は世界全体を理解し、万物はこの理解の中にあり、神の心単独の中にあるように、人の心は思考すらも世界を理解する。神は単独であり、この世界全てを自らで移動し支配するように、人の心も自らの肉体を支配し動かすのである。
 そのため、人の心は神の御言葉により印を押されており、世界の最も完全な例として、その肉体にも押されている。そのため、人は別世界、神の別の像とも呼ばれる。なぜなら、人の中には大宇宙が持つ全てのものを含んでおり、人の中には真に現実に見つけられないものは何も無いからである。そして外宇宙で働く全てのものは、人の中でも働いているのである。
 人の中には4大エレメンツがあり、それらの最も真実の性質にあり、人の中にはエーテルの体、天の比率に応じた魂の戦車もある。人の中には植物の生、動物や天の霊の感覚器官、天使の理性、神の理解があり、真の結合にあって、万物の様々な要素が一つに纏まっているのである。
 そのため、古の聖典では、人は全ての生き物と呼ばれ、あらゆる部分を自らに含んだ別世界であるのみならず、神自身すらも受け取り、含んでいるのである。ゆえに、ピュタゴラス学徒のセクストス*1は、人の魂は神の神殿であると述べ、使徒パウロも汝は神の神殿であると明白に表現しており*2、また聖書も多くの場所で同様に記されている。そのため、人は神の最も表現された像であり、神の中にある全てのものを含んでいるのである。
 だが、神は万物の原因にして始まりとしての特別な卓越性から、その力と純粋さを通じて万物を含んでいるが、神はこの力を人に授け、人もまた同様に万物を含み、特別な活動と構成により、紐で万物を結び付けるように、それらで構成されているのである。
 そのため人のみが、この名誉を楽しみ、万物と類似し、万物と作業し、万物と対話するのである。人は適切な対象としてこれらの象徴である。(人の)4重の体の中にエレメンツがおり、植物の性質の中に植物らがおり、感覚器官の中に動物らがおり、エーテルの霊の中に天があり、低位物へと上位物は流れる。理解と知恵の中に天使らがおり、これら万物の中に神がおられるのだ。人は神により保たれ、信仰と知恵により知性体らがおり、理性と発言により天と天の諸惑星があり、感覚とその支配下により全ての低位のものがあり、万物とともに働き、万物に対して力を及ぼし、神自身すらも神を知り愛する事で影響させるのである。
 そして神は万物を知るように、人も知覚可能な万物を知る事ができ、適切なもの、一般的にエンス*3を、他の者らは真理自身を持つという。そして神が人に与えなかったものは無く、神の中にあるもので人の中には無いものも無いのである。
 そのため、自らを知る者は、自らの中の万物を、特に自らが像である神を知る。その者は世界を、自らが保つものの類似物を知り、自らの象徴である全ての生き物を知る。そして石、植物、動物、エレメンツ、天、霊、天使、あらゆるものから望むものを得て、万物はその時間、場所、秩序、計測、比率、調和の中で満たされているのを知り、磁石が鉄を引き寄せるように自らへと引き寄せ、もたらせる。
 また、ジャービル*4が錬金術大全の書で教えるには、この術は自らの中にあるその諸原理を理解しない限り、誰も知る事は出来ないという。だが、自らについて知れば知るほど、この術を引き寄せる強い力が得られ、より大いなる驚異的な事柄を働くことができ、完成へと高められ、神の子となり、神の像へと変容し、神と合一するが、それらは天使らすらも、さらに世界、他の生き物らにも許されておらず、人のみが神の子となり神と合一できるのだと。
 だが神と合一した人は、人の中にある万物も合一する。特に、心がそうで、次には霊と動物の諸力、植物の機能が続き、エレメンツは均等に体へと引き寄せられ、それらが構成により、人をより良き状態とし、天の性質も得られ、最終的には不死の栄光へと赴くのである。そして私がこれまで語ってきた事が、人への特別な賜物であり、神の像として適切であり、他の生き物とは共通しないものである。
 また、ある神学者らは、人の記憶、理解、意志の力を三位一体の像と考えていた。さらに第一行動と呼ばれるこれら3つの機能のみならず、第二行動においてもこの像が置かれている。記憶は父を表し、理解は子を、意志は聖霊を表すように、言葉は理解から生み出され、愛は自らの意志から流れ、理解そのものもこれらの対象を持ち、作り出し、子と聖霊と父を明らかにするのである。
 また、より神秘的な神学者らは、さらに全ての我々の部分は、神のいずれかの部分を表していると教えている。そして情熱すらも類似的な形で神を表している。聖書においても、神の怒り、憤怒、悔恨、独りよがり、愛、憎しみ、快楽、歓喜、楽しみ、憤りなどを我々は読んでいる。そして我々もここで述べたような神の部分的なものを語っているのである。
 またメルクリウス トリスメギストスは理解、命、聡明さを三位一体として述べており、別の箇所では御言葉、精神、霊と呼んでおり、また人は神の像として造られたので同じ三位一体を表しているという。人には理解する心と認証する言葉と、あらゆる面へと神の輝きとして放たれる霊があり、万物を満たし、これらをの間を動き、共に集めているからである。
 だがこれを自然霊として理解してはならない。この霊は中間に位置し、肉体と魂を繋げており、これにより肉体は生き活動し、その部分が他の部分と働く。この霊については私は第1の書で述べている。だが私はここでは、この自然霊についてさらに別の側面も述べるとしよう。これらはある種の体を持っているが、それは粗雑な物質の目に見える肉体ではなく、最も微細な体で、心、つまり我々の中にある上位者であり神的なものと容易に統一できる。理性魂をこの霊だと言うならば、これらはいずれも迷わせたはしない。また、この体のある存在は、人間の肉体の中で、この体の何らかのものを用いるが、汝がそれで理解できるとするなら、プラトン学派が魂のエーテル体や戦車(チャリオット)と呼んだものがそうであると言えよう。
 ゆえに、プロティノスやトリスメギストス以降の全てのプラトン学派は、同様に、人の中に3つのものがありと述べ、それらを彼らは上位、低位、中位と呼んでいた。
 上位のものは、神的なもので、彼らは精神あるいは至高の位置にあるもの、啓明された知性と呼んでいた。創世記でモーセは、これを命の息と呼んでいる*5。神からの息、あるいは霊が我々に入る事で人類は生まれたからである。
 低位のものは、感覚的な魂で、彼らは像とも呼んでいた。使徒パウロはこれを動物人間と名付けていた*6
 中間のものは、理性魂であり、両極端、つまり動物魂と精神を結び付け、これらの性質と親和性があるものである。だが、これは啓明された知性、精神、光、至高の位置にある者と呼ばれる至高者とは違っている。またこの中間者は動物魂とも違っている。この動物魂について使徒パウロは神の御言葉の力により離れるように教え、この御言葉は生きていて強力であり諸刃の剣よりも鋭く、魂と霊を分けると述べているのである*7
 至高の位置にあるものは、決して罪を犯さず、悪に唆されず、常に過ちに抵抗し、良きものを勧める。反対に動物魂は常に悪に唆され、罪や情欲とともにあり、最低の事柄へと引き込もうとする。これらについて使徒パウロは、私の肉体の中には別の法があって、心の法に対して戦いをいどみ、肉体にある罪の法の中に私を虜にしようとすると述べている*8。ゆえに、至高の位置にある精神は決して呪われないが、その仲間が懲罰を受けると、その源へも辿ってくるのである。だが、プロティノスが理性魂と呼んだ霊は、その本質から自由であり、これらのいずれにも望むように赴く。もし、至高の位置にあるものを常に崇めるならば、やがては統一され、美とともにあり、最終的には神と一つとなるだろう。だが、低位の魂を崇めたならば、堕落し、邪悪な者となり、最終的には邪霊となるだろう。これら心と霊について私は多くの事を語った。
 次には、発言あるいは言葉について見てみよう。メルクリウスはこれらを不死と同等の価値があると考えていた。発言あるいは言葉無しには、何事も行われず行えないからである。表現者が表現するものと表現されるもの、話者が話のと語られたものは発言や言葉であり、考える者の考えと考えられたものは言葉であり、著作者が書くのと書かれたものも言葉であり、形成者が形成し、形成されるものも言葉で、創造者が創造し、創造されるものも言葉であり、行動者が行い、行われるものも言葉であり、人の知識と知識とされるものも言葉で、喋る事の出来る全てのものは言葉にすぎず、これは均等なものと呼ばれる。なぜなら、言葉は均等に全ての者に運ばれるからである。誰かを優先したりはせずに、全てに同等に授けられ、あれこれと多かったり少なかったりもせず、それ自体が感覚的なもので、光が自らと万物を見えるようにするように、自らと万物を感覚的にする。
 そのためメルクリウスは言葉を心の利口な息子と呼んだ。それにより心が自ら考えることができる概念は、心から造られた内なる言葉であり、その知識である。だが外側の声による言葉は、内なる言葉から生まれ、発現したものであり、音と声とともに口から出ていった霊であり、何かを表すものである。だが神の声により造られたものでない限り、いかなる発言や言葉も、風により弱められ、やがては消え去ってしまう。だが主の霊や御言葉は留まり、命と感覚もそれに伴うのである。
 ゆえに、全ての我々の発言、言葉、霊、声には、神の言葉により構成されない限りは、魔術において何の力も無い。そしてアリストテレス自身も、「流星について」の書の中と、「ニコマコス倫理学」の終わりの方で、神を通じたものでない限り、自然においても倫理においても何の美徳も無いと告白している。さらに「秘中の秘の書」*9では、我々が善に従い公正ならば、そこに神力の影響があるならば、自然の秘密の多くの事がなされるが、もし無ければ何も起きないと強調している。同様に、我々の言葉も、神の言葉から形成されるならば、多くの奇跡を行える。この言葉により、我々の宇宙の創造は完成しているのである。預言者イザヤは、女が夫の顔つきにより受胎するように、主よ、あなたの顔つきにより我らは受胎し、霊を生んだと述べている。
 インド人の裸行者らからもこの種の意見の一部を我々は受け取っている。彼らの意見の君主である仏陀は、処女*10の脇腹から生まれたという。また、イスラーム教徒の間でも、彼らの言葉でいうネフェソヒリという者らの多くが、通常の男女のものではなく、神の采配による特有のオカルトな方法により生まれているという。そのため、これらの生涯は奇跡的で言葉に出来ず、あたかも天使のようで、超自然的なものと加わるというが、私はこれらの詳細については、これ以上は述べないでおく。
 唯一の王たるメシア、父の受肉した御言葉、イエス キリストは、この秘密を明らかにし、時が満ちたら降臨し、心は主自身のようになろう。これらについて、ラッザレッリ*11は「ヘルメースの叡智の椀」でかのように詠っている。


「神は人に理性を与え、神々のようにした。
 神は多くの神々を生み出す。
 その価値を知る者は幸いなるかな。
 彼は神々を超えて神と等しくなる!
 これらは危険を押さえ、疫病を追い払い、
 予兆を与え、哀れみから人々に
 幸運を授けて、神の意志が満たされるようにする。
 これらはいと高き神の弟子にして息子達である――」


 肉の意志や男によったり、あるいは女の月経ではなく神により生まれた者は誰か? だが、世代において息子は父と全てにおいてよく似た者となり、そのため、子は親と同じ種となる。そしてこれは心により形成された言葉の力であり、種が生成のために蒔かれるように、言葉も適切な傾向の対象が受け取るならば、これらの結果があるのである。だが私はここで適切な傾向と述べた。なぜなら、全ては言葉と伴うとは限らず、他の場合もあるからである。だがこれらは、自然の最も秘められた秘密であり、これ以上は公にすべきではないだろう*12


オカルト哲学 3-37
↑ オカルト哲学 第三の書


*1 セクストス エンペイリコス。160年 – 210年頃。アレクサンドリア、ローマ、アテネなどに住んでいた医学者、哲学者。懐疑論で知られる。
*2 コリント人への手紙一 第3章16節。
*3 ラテン語のesse、存在から来た言葉で本質的な存在、真存在。
*4 アブー ムーサー ジャービル イブン ハイヤーン。721年? - 815年?。イスラームの哲学者、学者。11世紀まで続くイスラーム科学黄金時代を築いた元祖と言われる。ラテン語ではゲーベル。
*5 創世記 第2章7節。
*6 おそらくコリントの手紙一 第15章32節の「私達は常に獣(現地人)と戦っている」から。
*7 ヘブライ人への手紙 第4章12節。
*8 ローマ人への手紙 第7章23節。
*9 Secretum secretorum。アリストテレスを著者と模した偽書の一つだが、M. Gaster教授は「中世で最も人気のあった書」と述べている。内容は、占星術、錬金術、魔術、幾何学、薬学、政治学など、ごった煮状態である。
*10 マーヤー夫人。スッドーダナ王(浄飯王)の妻であり、当然処女ではない。
*11 ルドヴィーコ ラッザレッリ。1447年 - 1500年。アグリッパの同時代人のイタリアの詩人、哲学者、廷臣、ヘルメス学者。
*12 もったいぶったアグリッパの言葉だが、おそらくは錬金術やホムンクルス辺りでも考えているのだろう。