オカルト哲学 3-23

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第23章 天使の言語と、彼ら自身の間や我々との対話について


 天使やダイモンは純粋な霊なので、これらが音を用いて喋ったり、彼ら自身の間や我々との言葉があるかについては疑いがあろう。だが、使徒パウロはある個所で述べており*1、もし私が天使らの言葉で話したとしても、天使の話し言葉や言語の内容には多く者らが疑うだろう。
 なぜなら多くの者らは、天使らが何らかの言葉を用いるとしたら、それはヘブライ語だろうと考えるからである。この言語はまず最初に天から来たものであり、バベルの塔での諸言語への混乱が起きる前からあり、この言語により神は律法を授け、神の子キリストは福音書の説教をし*2、聖霊により預言者らに多くの神託を与えられているからである。また、全ての言語は様々な変異をしたり崩れたりしているが、ヘブライ語のみが常に不変なのである*3。さらにこの意見の証として、それぞれのダイモンや知性体は、その場所に住む国の言語を用いるが、しかし彼らは聖書の格言については、この言語以外では決して語ろうとはしないのである。
 次に、どのように天使らが喋るかについては、天使自身のように隠されている。我々自身については、喋る際には顎、口腔、唇、歯、喉、肺、喉の気管、胸の筋肉といったような他の道具を必要とし、声は魂の動きより始まる。だが、遠くの対象へ向けて話す時には、大きな声を用いる必要があろう。だが近くにいるならば、耳元で囁くだろう。そして、聴く者と接触しているならば、柔らかい息で充分であろう。彼の声はどのようなノイズも無く、目や鏡の中の像のように聴く者に滑りこむだろうからである。このように魂が肉体から向かうように、天使やダイモンも喋る。そして人が感覚的な声で行う事は、これらには言葉の概念の印象を聴く者に植え付ける事により行われる。これは音による声で表現するよりも良い方法である。
 そのためプラトン学派は、ソクラテスは彼のダイモンの言葉を感覚により知覚したが、それは肉体によるものではなく、その中に隠されているエーテルの体によるものだと述べている。同様にイブン スィーナーは、天使らが預言者らに見られたり聴かれたりするのは、美徳の道具によるものにより、それにより霊は他の霊の心に情報を送り込み、それを使徒パウロは天使の言語と呼んだと信じていた。
 だが、しばしば天使らは音による声も放っている。これらが主イエスの帰天の時に使徒らに「ガリラヤ人たちよ、汝らはなぜ天を見上げて立っているのか?」と言ったようにである*4。また旧約聖書時代でも、これらは様々な父祖らに感覚の声で語っており、それでいてこれらは肉体を持っていなかったのである。
 これらの霊やダイモンが、我々の招聘、祈りを何の感覚器官で聴くのか、我々の儀礼をどう見るのかは、私はいずれも無知である。ダイモンの霊体は、その自然によりいずれも感覚があり、何の仲介も必要とせずに触覚、視覚、聴覚があり、それらの障害となるものは何も無いからである。そして、我々が様々な感覚器官で行うようには行わず、スポンジが水を吸収するように行い、これらは全ての感覚的な事をこれらの体か、我々には知られていない何らかの他の方法で行うのである。どの動物もこれらの器官を授けられていない。我々は(天使、ダイモンの)多くの者らが聴こうと望み、これらは音を知覚するが、どのようにして行われるかは私は知らないのである。


オカルト哲学 3-24
↑ オカルト哲学 第三の書


*1 コリント人への手紙一 第13章1節。「たとえ私が人々の言葉や天使たちの言葉を語っても、愛が無ければ、やかましい銅鑼、シンバルにすぎない。」
*2 厳密にはアラム語。
*3 勿論、これは間違いで、ヘブライ語も他の言語同様に時代によって変わっている。
*4 使徒言行録 第1章11節。