オカルト哲学 3-5

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第5章 真理の道へと導く宗教の3つの導き手について


 我々を真理の道へと導き、我らの宗教全てを支配し、それらの全てを構成する3つの導き手、すなわち愛、希望、信仰がある。
 愛は魂の戦車であり、万物の中で最も素晴らしきものであり、上の世界の知性体から最も低位のものに至るまで降りて来たものである。愛は我々の心を神の美へと集めさせ、変容させ、また我々の作業全てを保持し、我々の望みに従って事象を与え、我々の懇願を行う力である。私がホメーロスで読んだ話では、アポローン神はクリューセースの祈りを聞き入れたが、それはクリューセースはアポローンの大いなる友であったからである*1。また福音書でのマグダラのマリアは多くの罪があったが許されたのは、彼女が多く愛していたからである*2
 そして希望は、望むものを不動に保ち、それが確信され揺るがないならば、心を養い完成させる。
 だが信仰は、全ての徳の中でも最も上位にあり、人間の思いつきに基づくものではなく、完全に神の啓示に拠るものであり、世界全体を通して万物を貫く。信仰は上の世界の最初の光から降りて来たもので、その側に留まり、低位のものから起きた諸術、諸学、諸信念より遥かに高貴で素晴らしいものであるからである。これは最初の光からの反射により我々の知性に投げられたものである。
 結論として、信仰により人は上位の諸力と同等のものとなり、その同じ力を楽しむ。ゆえに、プロクロスが言うには、軽率に信じることは諸学より下にあり、真の信仰は全ての学と理解より遥かに上にあり、神と即座に我々を結ぶという。信仰は全ての奇跡の基盤であり、それのみによって、プラトン学派が証言するように、我々は神に近づけ、神力と保護を得るのである。
 そのため、私が(ダニエル書で)読んだ内容では、預言者ダニエルが獅子の口から逃れたのは、彼の神を信じたからである。また血の問題のあった女に対して、キリストは「汝の信仰が汝を救った」と言い(女は癒され)、目が見えるようになるよう望んだ盲目の男に対してキリストは「私が汝の目を開けられると信じるか?」と信仰を問うた。また、ホメーロスの詠うには、パラス女神は(川の流れに巻き込まれた)アキレスに対して、「汝が我ら(神々)を信じるならば、我は汝への怒りを和らげる」と慰めた。
 ゆえに、詩人リヌスは、万物は信じられるが、それは万物は神には容易だからだと詠った。神には不可能は無く、そのため何にせよ信じられないものは無い。ゆえに、我々が宗教に属するものを信じるならば、その性質を得るが、我々が信仰を失うならば、称賛される価値あるものは何も行えず、懲罰があるのみである。これらを我々は「ルカによる福音書」の例で見る事が出来る*3。ある放浪するユダヤ人のエクソシストらが、悪霊らを主イエスの御名によって呼び、「パウロの宣べ伝えているイエスによって命じる、出て行け」と言ったが、悪霊はそれに対して「我はイエスは知っている、パウロも知っている。だがお前らは誰だ?」と答えて、悪霊に憑りつかれている者が襲い掛かり痛めつけて、エクソシストらは裸で怪我をして家から逃げ出したという。


オカルト哲学 3-6
↑ オカルト哲学 第三の書


*1 クリューセースはアポローンの神官であり、ギリシア人に囚われた娘を解放してくれるようアガメムノーン王に頼んだが断られ、アポローンに復讐を祈った。アポローンは聞き入れ、弓矢を持って怒りとともにオリンポスを降りてくると、ギリシア艦隊を急襲し壊滅させた。
*2 ルカによる福音書 第7章47節。イエスの足を洗った女性は聖書には名前は記されていないが、伝統的にマグダラのマリアと考えられていた。
*3 実際には使徒言行録の第19章13-16節。