オカルト哲学 3-4

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第4章 儀式魔術の助けとなる宗教と迷信について 


 あらゆる儀式魔術を支配する2つのもの、すなわち、宗教と迷信がある*1
 宗教は神の事柄を常に黙想し、良き行いにより自らを神や神的な諸力と合一させ、それにより敬虔さ、尽力、深い信仰によって、実践者の価値は高められ、神への崇拝の儀礼が正しく執り行われるようになる。そのため宗教は外的な聖なるものへの特別の規律と儀礼であり、それによって特定の徴により我々は内なる霊的な事柄を悟る事が出来るようになり、その性質を深く植え付けるので、我々は理性によるよりも、これらにより、他の生き物とは違うのである。
 そのため、私が先に述べたように、宗教を無視して自然のものの力のみを信用する者は、多くの場合は悪霊らに騙されるのである。ゆえに、より宗教的で聖なる様に教育された者は、彼らの葡萄園に木や植物を植えず、かの諸国の博士がコロサイ人に命ずるように*2、神の招聘無しにどのような働きも行おうとしないであろう。すなわち、汝が言葉にせよ行いにせよ、全てを主イエス キリストの御名により行い、感謝を主とその父なる神に捧げるのである。
 そのため、宗教の諸力を物理と数学的な性質に大いに加えるのは、欠陥から大きく離れているので、これらを加えないのは憎むべき罪とすらいえる。ゆえにリブロ セナトルムの書で述べている話では、ラビ ヘニナは神の恵み無き生き物(悪魔)らと付き合うのを楽しみ、神と教会の両方からソロモン王が書いたものを盗んだ盗賊や強盗と考えられていた。彼は父と母から暴力的にあらゆるものを盗んだ滅ぼす者であった*3。だが、世に知られるように、神は我らの父であり、教会は我らの母であるので、それらを保有するのは父ではないのか? そして我が息子よ、汝の父の規律を聞くのだ。そして汝の母の法を侮るなかれ。
 神を無視し軽蔑する以上に神を不快にさせるものは無く、神を称え崇める以上に神を喜ばせるものは無い。ゆえに、神は宗教無しに世界のいかなる生き物も存在を許さなかった。万物は神を崇拝し、(プロクロスが述べるように)祈り、それらの序列の指導者らへの賛歌を唱えた。だが一部の者らは真に自然に崇拝する方法を求め、他の者らは感覚的に、他は理性的に、他は知的な方法で崇拝するのを好み、これらの方法全ては、3人の若者らの歌*4によれば、主を祝福するのである。だが宗教の儀式や儀礼は、時代や場所の多様性から、様々である。
 あらゆる宗教には何らかの良いものがあるが、それは創造主である神へと向けられているからである。神はキリスト教のみを認めているが、神のために祈る他の崇拝者らも、それを拒絶せずに、崇拝者らに報酬を与えない事は無いのであり、(キリスト教のような)永遠の報酬で無いにせよ、一時的な幸運を与え、あるいは少なくとも懲罰を減らすのである。だが冒涜する者や無宗教の者らを神は敵として憎み、稲妻を放ち、完全に破壊するのである。彼らの不純さは、偽りで間違った宗教に従う者らよりも大きいからである。ラクタンティウスが言うように、何らかの知恵が一切含まれていないような過ちに満ちた宗教は無く、これらにより人の主要な義務を、たとえ行いでないとしても、その意図において維持する信奉者らは許しを得るであろう。だが、神について教えられない限り、誰も真の宗教を得ることは出来ないのである。
 ゆえに真の宗教とは違った全ての崇拝は迷信である。すべきで無い者を神として崇拝したり、行うべきでない方法で崇拝する者もである。そのため我々は正道から外れた迷信の崇拝と、全能の神とその下にある聖なる諸力を羨むのには特に常に用心する必要がある。これらは邪悪なだけではなく、哲学者らの中で最も価値無き行いだからである。だが迷信は真の宗教とはかけ離れているものの、その全てが拒否されるものでもない。なぜなら、その中の多くの事柄は、宗教の主な頭らからも許され、行われているからである。
 だが私が迷信と特に呼ぶのは、宗教と特定の類似性があり、奇跡、秘蹟、儀礼、行いといったような宗教の中にあるものを真似ている。それらから彼らは小さからぬ力を得ており、創造主への信仰から得るのは小さな威力ではない。常に信仰する事からどれだけ多くの力を得るかについては、私は第1の書で述べているが、それらは大衆の間にもよく知られている。そのため迷信にも宗教の信仰のように信じることが求められており、常に信じることによって、大いなる事柄が行え、間違った意見や作業でも奇跡すらも働くのである。
 そのため、宗教を信じる者は、それが偽りであったとしても、真実であると最も強く信じるなら、その信仰から彼の霊を高め、その宗教の主要な頭らの霊らに、自らのを合一し、自然や理性では行えない(奇跡の)働きをなすのである。だが、疑い深さと自信の無さは、迷信だけではなく真の宗教においても、全ての働きを弱め、最も強力な試みにおいてすら、望んだ効果の力を弱めるのである。
 では、どのように迷信が宗教を真似るかを例で示すと、ウジ虫らとイナゴが果実を傷めないように破門されたり、ベルや彫像が洗礼されたりといったようなものである。
 だが古のマギらや、古人の間でのこの術の著者らは、カルデア人、エジプト人、アッシリア人、ペルシア人、アラビア人の中に住んでおり、彼らの宗教全ては正道を外れ汚れた偶像崇拝であるので、我々は大いに警戒する必要があり、カトリック宗教の基盤に対しての戦いを挑む彼らの過ちを許すべきではない。これらは冒涜であり、神の呪いに値するからである。
 そして私がこの学において、汝にこれらの事柄について警告しないならば、冒涜者となるであろう。そのため、これらの事柄が(本書で)書かれていても、それらは古の他の著者らの意見であり、私が真理として書いたものではなく、真理と類似した憶測で、真理の事柄を真似たものであると知るべきである*5
 そのため、我々は古人らの過ちから真理を正さねばならず、その作業は深遠な理解、完全な信仰、労苦と勤勉を真に必要とする。そして、あらゆる悪から善を引き出し、曖昧な事柄を決定する事柄へと正しく用いるよう矯める知恵もである。それらについて聖アウグスティヌスは大工の例を用いて、曖昧で複雑なものは、まっすぐなものよりも、必要でも便利でもないと述べている。


オカルト哲学 3-5
↑ オカルト哲学 第三の書


*1 ここでアグリッパがいう迷信は、カトリック教会が正式に認めていない信仰の方法などを指すようである。例えばヨーロッパの各地にある、守護聖人に速やかに願望を叶えさせるために、聖人画や像を逆さまにする実践など。
*2 コロサイ人への手紙。諸国の博士とは聖パウロのこと。
*3 箴言 第28章24節。
*4 アザルヤの祈りと三人の若者の賛歌。ダニエル書の続きであるが、根拠が怪しく、プロテスタント版聖書では省かれている。
*5 ここでもアグリッパは、教会の異端者狩りに対して先に予防線を張っている。