パラケルススのオカルト哲学

ページ名:パラケルススのオカルト哲学


テオフラストゥス パラケルスス著

オカルト哲学


序文


 以下の本書において、私はこの哲学やその中の通常の魔術、黒魔術、降霊術、火占術、水占術、地占術で表される全てにて、その最も大いなるオカルトの秘密を扱い、この中にある全ての事柄を調べ、効果を測り、その部分においても明白かつ完全に示すつもりである。この実践の中にある哲学は、儀式やその他の方法により多く悪用されており、この基盤も偽りの上に建てられ、この術や道具全体も、僅かな風でひっくり返っている。時には、術師自身、特に黒魔術師も、その中心から風、すなわち霊らにより飛ばされ、消え去り、圧倒され運び去られる。そのため、これらや全ての他の術も、その基盤が聖書とそこにあるキリストの教義と信仰にするのは不可欠である。これらは最も堅固で確実な基盤であり、隅の親石であり*1、ここにこの哲学の三つの要点の基盤となっている。第一のものは祈りであり、聖書の言葉の尋ねよ、求めよ、扉を叩けなどと同意するものである。これにより我々は神を求め、その約束を信仰深く信じて、純粋な心とともに行うならば、それは与えられ、我々は求めるものを見出すであろう。それにより、かつてはオカルト(隠された)で秘密の物事も、開かれて明らかとなるであろう。この中に見つけられる第二のものは信仰であり、それによって山をも海へと動かせるだろう*2。キリストが述べたように、信仰によって全ては可能となるからである。第三の点は我々の想像力の中に見つけられる。これが我々の心の中に点火され、先に述べた信仰に同意し、共同して働くならばである。
 そのため、全ての儀式、呪文、聖別、また似たような虚しい物事は、拒否して放り出すべきである。それらは全ての虚しい基盤にあり、真の要石は我々の心にある基盤、すなわち聖書、自然の光、真理の泉から来たもの全てである。そのため私は最も簡潔かつ平明な言葉で、最もオカルトで秘密な事柄、それらはコルネリウス アグリッパもアバノのピエトロも、トリテミウスすらも、決して理解せずに書かなかった事を、書くであろう。誰にせよこの哲学の我が書に驚くことが無いようにし、あらゆる言葉に良く理解できるようにして、それにより私が述べる事が誰から来たのか、私のこの知識が悪魔からか、それとも自然の純粋な光の経験から来ているかを判断できるようになろう。


第一章 聖別


 全ての善の中で最も偉大な神は天地創造の始めに、地の場所、道具、全ての被造物の万物の中に豊富に祝福を与えたゆえに、他の祝福や聖別は必要ではない。神自身は聖なるものであり、そのため神が命じて造った万物もまた、神により、神を通じて聖別されているのである。そのため人間がそれ以上に聖別をする必要も無く、むしろしない方が良いだろう。特に、十字、円、剣、衣、ロウソクや灯り、水、油、火、香、印章、文字、書、ペンタクル、ソロモンの印、王冠、王錫、腰ひも、指輪といったものに十字をしたりする事をである。これらは儀式黒魔術師らが幻想的な霊らに対して、それらを屈服させ縛るには他には何の手段も無いかのように行っている。だが信仰はこれらに対して主要な基盤なのである。
 儀式黒魔術師らは、これは聖別され祝福されているとか、それらで多くの者らが聖別されたとかを、よく言っている。彼ら全てが言うには、これらには恐怖とともにある恐ろしい悪魔や悪霊に対抗し、それらが近づかないようにする力があるという。
 汝、大馬鹿者と価値無き愚者らよ! そのような怪物的で明白な嘘を信じる者らは名前を上げる価値も無い。汝がそのような例を目の前で見たり、呪文とともに嵐が起き、稲妻が神殿へと落ちて、祭壇を燃やして破壊したりするのもだ。また悪魔や悪霊らがそれらの場所で君臨するのを見たり、それらが語るのを魔術師が聞いたり、黒魔術とその全ての儀式は絶対的に邪悪なものである。毒蛇が大道芸人の周囲を巡ったりする邪悪な作業で、この驚異に盲目となった者らは、その金を騙し取られるが、真実にはそれらには半ペニー貨や藁一本の価値も無いのだ。ゆえに、ユダヤ人のソロモン王が書いた、黒魔術師らが「ソロモンの鍵」と呼ぶ書を用いたり誘惑されるべきでない。神はそれらを用いるように与えたのではなく、別のものである知恵、信仰を人に与え、それらは万物を完全に聖別するからである。もっとも、私は全ての聖別を否定しているわけではなく、幻想的で悪意のある霊らに対して用いるとされるもののみである。そして私は現実のために用いる、これらの全ての魔術儀式と作業が否定されるのを望んでいるのではない。特に結婚や洗礼の秘跡や主の晩餐(ミサ)での聖別は、最後の日まで常に最も高く重んじられ、維持され行われる必要がある。最後の日には、我々は天の体とともに全て完全に聖別され、祝福され、浄化されるだろうからである。


第二章 召喚


 召喚について述べる前に、いつこれらを行うか、これらの基盤が何かについて述べる必要がある。まず最初に明白にする必要があるのは、誰がこれを作り出し用いたか、これにより何がもたらされたのか、どのように徐々にこれらは悪用されるようになったかについてだが、これらの起源は古代バビロンから湧き出てきたものであり、この術はそこでは大いに拡大し繁栄していた。その後にはエジプトへ伝えられ、そこからイスラエル人が学び、最後には我々キリスト教徒へと伝えられた。黒魔術師らの間で、これは非常に親しまれており、大いに重んじられている。彼らの粗雑で無知な理解のもと、祈りと信仰よりもより効果、力、性質をこれらに帰している。彼らの意見からのみ来ているこれらの基盤は、誰も近寄らないようにすべく非難されるべきものであり、これら全ては調べた審問官によって正当に懲罰されるべきである。召喚の術はそれ自身の中で効果があるのは確かであるが、どのような魔術師も賢者も用いるべきではない。なぜなら、これらは神自身やその御言葉、その命令、そして自然の光とすら矛盾するからである。これらの(召喚した)霊からは何の真理も引き出せないからである。これらは時には恐るべきプライドや傲慢とともに大いなる驚くべき力を示す事もあるが、これらの霊は召喚の呪文によって縛られたり抑えられたりはできない。それらは信仰によってのみ行えるからである。
 これらの召喚によって、万物全てに効果をもたらし、霊らに強要し、縛り付け、影響を与え、痛めつけ、それによって望みを達成させようと望むこの種の黒魔術師らは、盗賊や強盗、盗みや殺人のために森の中などを彷徨う者らと比べるのがより適切である。彼らは神が許す限りにおいて、殺したり盗んだりできるが、彼らの敵意と悪意が露とされる時が来たなら、彼らの最も技量のある者すらも逃げる事は出来ない。盗みを働いた者が死刑となり、別の者らは告発され、最終的には処刑人のもとで、その罪状に基づいて処罰される。家宅侵入と盗みをする盗賊に対しては、彼らが絞首台の露と消える以外の裁きを我々は持たない。同様に黒魔術師は主なる神が許す限りにおいて霊らを召喚し、懲罰や苦痛とともにこれらを操ったりできるが、彼の懲罰の時が来たならば、神の呪いが無い事は無く、箴言にあるように、彼は自らの行いの応報を受け取る。彼は召喚を間違えて、円を描くのをうっかり誤って、霊らの意志と力によって襲われるのである。さらに、召喚で間違え、円を正しく描かなかっただけでなく、印やペンタクルが間違っていた場合にも、この懲罰を受ける事になろう。彼のために長く保持されていた借りを返す時期だからである。それによって、彼は恨みをかくも高く抱いていた霊らから応報を受け、たとえ首を即座にへし折られなかったとしても、その体の中や幾つかの手足や臓器の中に憑依するであろう。それにより彼は自らの処刑人となるであろう。
 そのため、これらの黒魔術師らに用心して、彼らの行いを見て、この章を彼らの愚行の鏡とすべきである。彼ら自身の邪悪な作業によって、自らが霊らの従者となり、支配され、自らの処刑人となるのだ。霊らはもはや傷つけられず、これらの従者により強制されたり支配されたりする事も無くなり、彼らの望み通りに行う事も無く、今では従者らが主となった霊らに強制され服従する番なのである。処刑人も同様に行う。懲罰される者の言い分を聞かず、その祈りに対して何の慈悲も示さずに、彼の上位者の命令と彼の職能によって処刑するのである。
 同様に悪霊すらも神の処刑人であり、判事、すなわち神の命令無しには誰も処刑しないのだ。
 そのため全ての召喚の術は神に反しており、その御言葉、神の法、自然の光と矛盾していると言える。そしてこれらは霊単独に向けられたもののみならず、植物や石といったものに向けられたもの、特に人間に対して造られたものも禁止されている。自らの意志で人々を動かせずに、力づくでも行えない時に呪文をかけ(聖書に多くの例がある)、それによって彼らの意志や自然に反して行動を強制するような異教徒のように我々は行動すべきではない。そのような悪党どもと、それらを真似する全ての者らには災いがあらんことを。彼らがどれだけ大きな悪事を犯したか。そしてやがては、何と大いなる懲罰が彼らに来て、神の怒りの前に悪魔が与える何と恐ろしい告発を聞いたか。その種の者らへの法の裁き、彼らが受ける苦難を先に知っていたとしたら、彼らのうちの何千という者が悔い改めたであろう。


第三章 印章


 また私は印章や呪文の言葉にも信用を与えていない。詩人や黒魔術師らは、これらでも多くの行いをし、彼らの呪文書に満たさせているが、それらは彼ら自身の想像力から来たもので、ほとんど何の基盤も無く、全ての真理に反しているからである。これら何千の物は何の価値も無く、私はそれらについては沈黙するとしよう。彼らはこれを紙や羊皮紙の上に描くが、それは無駄なインクの染みである。これら黒魔術師らの間の習慣で、今日まで残っているのは多くは無い。これらの印章を人々に印象付ける事で、彼らの崇拝させるようにしたり、そのような言葉を語ったりするのは、私には奇妙に思える。そして、これらは今まで聞いた事の無いような話なのである。それでいて、彼らはこれらを自ら見つけたと述べるのだ。そのゆえ、これらの文字、言葉、印章を見分けるために完全な知識を持つのは大いに必要なのである。
 これらの魔術書の間で見つけられるこの種の言葉は多くあるが、ラテン、ギリシア、ヘブライ語、あるいはその他の言語の言葉と何の類似性も無い。そのため誰も解釈できるものではなく、他の言語へ翻訳も出来ない。そのため、私はこれらの根拠については述べず、全ての文字、印章や言葉に信を与える事は無く、真実にして証明されており真理の基盤から来たもののみを扱うとする。
 私はここでは、何の言葉や印章が正当で真実であるかを宣言する。私はまず最初に、二つの印章のみを述べたい。これらには他にも多くのものがあるが、この二つは他の全ての印章、ペンタクル、印の前に特に重要で主要に尊重されているものである。以下のこれらの描写を注記せよ。
 まず二つの三角形の組み合わさった図形(六芒星)で、十字架も加えられ、描かれたり彫られたりしている。これらには、その中で7つの空間に分割されており、外側には6つの角があり、そこには6つの神名アドナイ(Adonay)の驚異的な文字が正しい順序に従って描かれている。これは私が述べた二つの印章のうちの一つである。
 もう一つの図形(五芒星)は、前のものよりも力と徳において更に勝っており、これには3つの鉤があり、十字架によってそれぞれ分割されて描かれている。これらの相互の交流によって、これらには6つの空間が含まれており、外側には5つの角があり、そこには神名のテトラグラマトン(Tetragrammaton)の5つの至高の音節が正しい順序に従って描かれている。
 私はこれらの図をここに含める事も出来たが、これらは汝は他の多くの場所や書で容易に見つけられるであろうから止めておいた。
 これらの二つの印章により、イスラエルとユダヤの一部の黒魔術師らは、多くのものを得ており、今では群衆の間で君主として大いに尊重され、多くの秘密を保持している。これら二つには大いなる徳と力があるゆえ、あらゆる印章や言葉で可能なもの全ては、これらのうちの一つにより同様に行えるからである。私は黒魔術師らの全ての書で、悪霊、悪魔、他の魔術師の呪文、妖術師らの欺きと道具に対抗できる他に何があるかと、喜んで知りたいと思う。既に心や理解力が呪文にかけられ、自然な意志や性質に反した行いを強制されている状態からこれらは解放するからである。あるいは彼が薬の混ざったウェファーやパンケーキや似たような物によって多くの肉体の苦しみを負っていても、彼はこれらの印によって4時間から12時間で、その呪文の影響から解放されるであろう。
 また、似たような多くの問題でこれらは助けとなるが、それらについては私は後の嵐と天候の章で詳しく記すつもりである。
 簡潔に言うと、これらはかくも大いなる力があるので、もしも黒魔術師らがこれらの力と徳を少しでも知り信じるならば、彼らは他の全てのもの、全ての他の印章、言葉、名前、印、図形、ペンタクル、ソロモン王の聖別された印、王冠、王錫、指輪、腰ひも、儀式で用いる他のすべてすらも拒否して捨て去るであろう。そしてこれら二つによって、彼らは希望とともに安らぎ、霊らの力を召喚し、強制しようとする時に、自らが危険な試みと作業から守られていると考えただろう。真に私が語ってきたこれらの印章は、恐怖を撒き散らす全ての不浄の霊らや、彷徨うエレメンツらに対して用い、保有すべき真のペンタクルである。もっとも、信仰はこれらの印章の力を強めて確固とする。
 もっとも、ある者らは口やかましくも否定し、もっとも彼らは理解していないのだが、こう言うであろう。それらはモーセの最初の石板の神の十戒の三つ目、主なる神の名をみだりに唱えるなかれを破っているのではないかと。だが賢者らに属する者は、こう言うであろう。私が何を行ったか、私がここで神に怒らせる事をしたかと? 私は黒魔術師らや呪師らと同じような目的でこれらを用いたりはせず、ただ緊急に必要な場合や、人々を助けるため、病者に対して、医薬、黄金水、金の第五精髄、解毒剤、その他の秘密が、これらは通常は大いなる徳と効果があるものの、治療の助けとならない場合にのみ用いていたのだ。
 これらによって医者らは全ての病の源、すなわちリンゴ、植物、その他の地の果実のどの悪しき飲食から病が来たのか、また植物や根の秘密、それらのいずれによって病を癒せるかも知るようになる。だが、これらが鉱物の原因で起きた場合は、植物や根の秘密には何の関係も力も無い病に、どの鉱物の秘密で治癒できるかを知るだろう。
 似たような方法で、病が天の影響から起きたもので、先に述べたいずれの秘密でも治癒できないとしても、パルシカリアの書で記されているように、占星術と天の影響によってそれらを治癒できよう。
 最後に、呪いや何らかの妖術によって、超自然的な形で病が引き起こされ、先に述べた三つの方法全てが効かないとしても、私が先に述べたような、魔術の薬によって払う事が出来るだろう。
 これらの呪いを通じて悲惨な狂気に陥った多くの者らは、愚かな医者らによってさじを投げられている。なぜなら、これらの原因は隠されているからだ。そして彼らが他の者らにこの事を話すと、これらの印章を用いるのは神に反した行いで、その御名を虚しくすると答えられるだろう。だが私が行った事に対する彼らの言葉には何の真実も無いのだ。もし私が人を痛めたり利益を侵害するために、これらを用いたら、私は神に対しての冒涜を犯すことになったろう。また、私が霊、人、植物、根、石などに、神の御名によって呪文を唱えていたら、私は神の御名を無駄な事に用いて、罪となったであろう。だが先に述べた事はそういうものでは無いのだ。神自らや詭弁家らに、私が語った事で真理に矛盾するもののリストを並べさせるとしよう。もっとも彼らの意見は、私に大いに反するであろうが。彼らは私を呪師、黒魔術師、神の律法の侮辱者と呼び、私が全くあずかり知らない事について咎めるであろう。彼らの私に対しての異議は、キリストに対してのユダヤ人とファリサイ派のものと変わらないのは明白だからである。キリストが病者を安息日に癒したので、彼らはキリストは安息日と神の律法を破ったと告げたのだ。同様に、ダビデ王に対しても、彼が疲れ果てて祭壇のパンを食べた時に彼らは非難したのだ。これらのあら捜し好きと中傷家らに対して、何が彼らを満足させようか? だが愚者らは、石や獣によって教育されるまで、お喋りを止める事は無い。それらは長くかかるだろうと我々は予測しなければならず、それからようやく彼らは静かになるであろう。


第四章 夢の中での霊的な幻視、現れについて


 夢の中で現れる幻視には二つの種類、自然なものと超自然なものがあると言われる。眠っていたり夢見る者の心の中では様々な幻視と現れがあるが、それらについてはここでは記すのは無用である。なぜなら、これらは理性や自然な働き、あるいは心の何らかのトラブルや混乱、血の不浄さ、日々の生活での心と理解力の中で働く思い悩みが原因によって普通に起きる事だからである。サイコロやカードを扱うギャンブラーは夢の中でも儲けたり大損したりし、兵士らは戦争の夢を見て、銃兵は大砲や、火薬、銃、その他全ての武器や戦争の諸道具を扱い、勝利をしたり敗北をしたりする。酔っ払いらは、良いワインや彼らが用いる素晴らしい杯、その他の腹を満たす飲み物の夢を見る。海賊らは彼らのサーベルや獲物、彼らが出会ったお宝について夢を見る。人殺しの強盗らは盗みの夢を見て、私通男は尻軽女の夢を見る。これらの幻想と幻視全ては、夜の霊が創り出しもたらすものであり、寝ている者はそれらと夜に興じ、欺かれたり誘惑されたりする。これらは血、(すなわち)理解に灯されて、容易に消す事は出来ない火のようであり、その多くは好色な一族の中で見る事ができよう。
 多くの驚異的な術や学もまた、術師が夢の中で思いついたように見える。その理由は彼らが常にこれらの術に熱烈に影響され、それらの想像力はかくも強力なので、その多くが夢の中で現れ、一部は哲学者がこれらの術を教える。これはよく起きる事だが、その重要な部分は起きたら忘れてしまう。ある者が早朝早くに起きて、「昨夜、私は素晴らしい夢を見て、夢の中ではメルクリウス神やあれこれの哲学者が私の前に現れて、あれこれの術を教えてくれたのだが、起きたら記憶から消えているので、そのほとんどを思い出せずにいる」と言うのだ。このような事が起きたら、彼は部屋から出たり、誰にも話したりせずに、一人とどまって断食し、忘れた事を思い出すようにすべきだったろう。さて、私はこれらの夜の自然の夢と幻視について充分に語ってきた。だがそのような種類の幻視の結論として、一つまだ述べていない事がある。我々の魂を楽しませたり悲しませたりする、これらの夢のほとんど全てが、一般的に未来に起きる事と逆だっりする。そのため、そのような種類の幻視は、常に信用できるものではない。
 だが超自然である別の種類の夢もあり、それらはほとんど確実に神から送られてきた使者、真の特使、メッセンジャーであり、時には最も必要な時に我々の前に現れる天使や善霊以外の何物でも無い。東方の三賢者すらも、キリスト誕生を見るために長い旅の末に馬小屋で赤子を見てから、そのままヘロデ王の下へと帰って、どのように赤子を見つけたかを報告しようとすると、夢に天使が現れて、王の下には帰らずに、自国へ別の道を辿って行きなさいと伝えた。神はヘロデ王が三賢者らに嘘をついているのを知っており、それによって赤子を殺そうとする彼の願いが叶えられないようにするためである。似たような夢が、ヨセフとヤコブがエジプトへ行こうとした時に起き、さらにアナニアやコルネリウス、その他大勢の者にも起きている。これらの夢の全てが超自然的な夢であり、我々の時代にも時には起き、尊重されたりはしないが、しかしこれらは虚偽では無いのである。我々はこの種の幻視が、最大限の必要な時に、主なる神に祈っている時にも起きるのを知っている。そのため真にして疑いなく信仰とともに、真摯な心で祈るなら、最後には自らの天使が共にいるのを見つけ、彼は汝に霊的に忠告し、教え、約束するであろう。
 バラム*3はこの種の幻視での最も熟練した者だった。毎夜、この種の幻視を受けていたからである。だが聖書は彼について曖昧な名、すなわち妖術師の称号を与えている。これらの区別をつけるのは得策では無い。なぜなら、聖書はこれらに何の違いも与えておらず、自然の性質の経験と知識のある者ら全てを妖術師と呼んでいるからである。確かに、これらの事柄では大いなる思慮が必要である。使徒パウロが言ったように、神は我々に単純さとともに歩むのを望んでおり、このような自然を超えた絶対的で秘密の事柄を深く探求するのを望まないからである。我々はそれらの悪用に陥り、それによって隣人に害をなし、自らの肉体と魂への非難を受けるのを避けるべきである。だが、彼らは聖書が呼ぶように、全てが妖術師ではない。もしそうならば、東方の三賢者らも大妖術師と呼ばれているだろう。彼らは当時の全ての術、時に超自然のもので衆を超えていたからである。そのため、聖書は彼らを妖術師ではなく賢者と呼んでいる。彼らがこれらの術とオカルトの知恵を悪用しないなら、他に何と呼べようか? 魔術とは信仰によって、その力と徳を示す術にして学だからである。だが妖術師らはそれらから生まれた、すなわち、その悪用からである。そして、その前には、妖術と呼ぶ事が出来ないのである。
 だがここで話を戻して、夢の中での幻視についてより多く述べるとしよう。これらの夢の一部は神へ向けて霊的に高められており、彼らはそこで神の栄光、選ばれた者らの喜び、悪しき者らの懲罰について見ており、それらは決して忘れず、生涯心に留めるようになると知るべきである。我々にもこれらの事柄を求めて神の哀れみを懇願するならば霊的な方法により見る事が可能であると私は述べる。真の祈りと信仰とともに、預言者エリヤや聖ヨハネのように、全ての神の神秘を非常に良く見るであろう。この種の幻視は確実で真実のものである。これらにより、より多くの信仰は与えられるだろう。だが、鏡、水晶玉、緑柱石、指の爪、石、水といったものによる黒魔術の全ての知覚は、全てが偽りで惑わすものである。これらの(召喚した)霊は時には正しい返答をしたり、指を立てての百の誓いとともに確言させたりすることもあるが、それらは神の特別な命によるものでない限り、常には信用できないもので、全ての幻視が真理であると肯定的には述べられない。古の預言者らは真の源から来たもので、それは全ての預言者らが同意し、そこから預言者らの知恵と知識は来たものであり、それゆえ神の神秘は彼らに明かされ、彼らの夢の中の霊的で超自然的な幻視は来たのである。そのため、まず最初に真の基盤を見出すのは不可欠である。その基盤とは言い方を変えると、神の御言葉であり、神が述べた全ての事柄と約束した言葉全てである。
 また夢には別の種類の幻視もあり、それは死者から受け取ったもので、夢の中で霊的に我々の前に現れるものである。もっとも彼らは50年から100年前に死んだ者らであるが。これらは大いに考慮すべきものである。多くの場合、それらは(我々が避けるように努めている)冗長すぎて解読に手間暇がかかるからである。にも拘らず、これらの幽霊の一人が現れたら、その語ったり示した事を最大限に熱心に記録し、霊的な交渉に応じるべきで、常にそれらを作り話とは見做さないようにすべきだと私は断言する。なぜなら、人が眠っている時も起きている時と同じように理性を保てるならば、そのような霊に尋ね問い合わせる事も出来るだろうし、それらから望む事全ての真実を知ることも出来るに違いない。だがこれらの事柄について、これ以上に語る必要はないだろう。


第五章 地下で彷徨う者や霊らについて


 地下には彷徨う小人らがいて、これらが望み喜ぶ全ての一時的なものを保有する。これらは俗にノームあるいは山の住人と呼ばれているが、適切な名では、これらはシルフあるいはピグミーと呼ぶべきである。これらは他のような幽霊スプライトではないが、似ているものである。これらの術と技芸の類似性から、スプライトと共通しているからである。これらは人間のように血と肉を持っているが、スプライトにはそれらが無い。復活したキリストが部屋に籠っていた弟子らの所へと来た時に、扉を叩いたら彼らが恐れたので、キリストが「私を感じ、触れてみよ。スプライトは肉も血も骨も無いが私にはある」と弟子らに語ったようにである。キリスト自身が我々に教えるように、スプライトは触れる事の出来る真の体を持っておらず、骨も肉も血も無く、風の中の自らのエッセンスによって存在するのである。だがこれらについては私は充分に簡潔に話したので、私は地のピグミーや小人についてに戻ろう。私はこれらはスプライトとは見做さないが、似たものである。だがもしもこれらがスプライトと呼ばれるならば、地のスプライトと呼ばれるべきだろう。なぜなら、これらは混沌を抱き、地の底に住み、他のスプライトのように風の中には居ないからである。
 このような場所には多くの地のスプライトが見つけられ、見られ、聴かれ、さらにそこでは富と豊かさの多くの宝、宝石が隠されている。またこれらの山脈の下には、金や銀が豊富にあり、これらはそれらを喜び、手入れをして、管理し、それらが取り去られるのを望まない。
 これらのスプライトは鉱物の採掘の最良の知識を持つ。これらは鉱物と最も関わっており、精錬したり削ったりする熟練者だからである。また時には人々はこれらから利益を与えられ、忠告され、死の危険を警告される。この場所で一回、二回、三回、さらにより多くノックする音を聞いたら、埋められたり山から転落したりしての死が迫っているのを意味する。これらは鉱夫らがある程度は確実に経験している事である。
 これらのスプライトは悪魔らのように見えない者らと、彼らが敵意を抱く者らに対して最悪の者らである。だが、これらのスプライトと悪魔とには大きな違いがある。なぜなら、悪魔は長く生きた後には死ぬ事は無いが消え去るからで、そうでなければこれらはスプライトと呼ばれていただろう。だがこれらは血と肉を持ち、死に嫌われており、死なねばならない生き物だからである。また一般的な格言に対して、より大きく宣言しなければならない別の事もある。悪魔は富に満ちていて、多くの富、紙幣、金、銀を保有し、その力により、地の底に全ての宝を隠していて、悪魔と契約を結ぼうとする者は、彼が望むものを渡さなくてはならないと述べられている。ゆえに一般的に言われるのは、悪魔は自らを差し出し、創造主を捨て忘れる者には豊かにするのみならず、金、銀など彼が望む何であれ与えるとされるが、私はこれらは何の根拠も無い嘘と偽りの作り話であると述べたい。これらはあらゆる思慮と賢者らにより否定されねばならない。悪魔は全ての被造物の中で最も貧しい者らで、地の上にも下にも全ての他のエレメンツにも、かくも惨めで貧しい者らは他の生き物にはないからだ。彼は何の金銭も豊かさも持っておらず、それらに及ぶ何の力も無い。悪魔が持ってもいない何を信奉者に対して与えられよう? だが悪魔は術策に対して無限の技量と巧みさを持ち、好む者らに対してそれらを教えて、その詐欺により欺くことが出来るのである。悪魔には何の金銭も無く、金や銀を誰にも与えられず、さらに血の契約などを命じたり取ったりする事も無い。だが、そのような事をする他の霊らがいて、シルフやピクミーもそうでいる。これらは自然により小人であるが、人の前には大きくも小さくも、美しくも醜くも、豊かにも貧しくも、望むような姿で現れることが出来る。これらは自然の光の下で見つけられるあらゆる術に劣っていたりはせず、自らの中にそれらの知識全てを持っているのだ。これらは自らの力と管理の下で充分な金や銀やその他全ての金属の鉱脈を持っている。古の時代では、これらは人々の間で多く見られたり聴かれたりしていたが、現代ではこれらは見られなくなった。だが、これらが人間と分かれた理由は誰も知らず、説明も出来ない。これらは永遠の命があると常に思われていた。なぜなら、これらが死んだと確実に知る事も、その不在の原因も考えられないからである。今これらはどんな状態なのか、どこへ移住していったのか、放浪しているのか、何の持ち物や職能をこれらは持つのか、長い間誰も知る事が出来ない。多くの者らが考えるのは、これらは利益や幸運を人々にもたらし、そのためこれらは天使や善き従者の霊であったが、これらの利益を得た人間らを神から離れさせたので、その後に神によりその罪の大きさによって、これらは消し去られたとされる。しばしば、これらは人々に非常に多くの幸運と利益を与え、多くの重労働を彼らのために請け負い、保持したからである。
 他の者らが信じているのは、これらが今や我々から見られないのは、ある者がこれらを見て、恐怖で叫んだので、これらは消え去って、もはや二度と現れないようになったからだという。
 これらの霊を見たり聴いたりした多くの者らは、これらは非業の死を遂げた、つまり必死に溺れたり、自ら首を吊ったり、他の方法によって自らを殺した人間らの霊と魂だと考えている。彼らはそれによって神とその救い主から離れ、悪魔に自らを捧げたので、その理由から最後の審判の日まで地を彷徨ったり、悪魔によって保持されるのである。
 また一部の者らは、これらは虚しい幻影で、これらが見られた場所にて多くの財宝があるのを予感、予兆させる幻覚だと考えている。それらは多く起きなくてはならないが、多くの場合では、それに信仰が影響する。これら自身の性質では、神がこれらに強制するか、我らの信仰に拠らない限り、どんな財宝ももたらしたりはしないからである。また逆に、神の許可が無い限り、これらはどんな不幸の原因を引き起こすことも出来ない。
 そして多くの者らは、これらは魔術師の呪文の結果であると考えている。
 また、これらの宝を見たり聴いたりした者らの中には、これらはこの場所に宝を隠した人間の霊で、最後の審判の日までか、これらが保護する宝が見つけられるまで、ここに留まる宿命となったと考えている。そしてこの意見は、汝の宝は汝の心でもあるというキリストの言葉から彼らは見つけたものだが、私は霊の心として理解すべき、どのような理由も見つけられない。これらの様々な意見の間には多くの違いがある。そのため、私はこれまで述べられてきた全ての判断はいずれも偽りの意見であると述べたい。これら小人を理解するためには、四大エレメンツの規則と驚異を知る必要がある。そして原初の時代には、これらは神の代わりに崇拝されてきた。全能の神が我々に第一の石板の律法にて命ずるには、我らは神以外の別の神々を、水においても(ここでは、ニンフと理解すべきだ)、地の下においても(これらは、シルフとピグミーである)持つべからずとある。我らが主なる神は妬む神であり、父祖の罪への罰を三、四代の子の世代まで与えているからである。
 イタリアにあるウェヌス女神の山*4には、これらの霊が多く居る。ウェヌス自身がニンフであり、この山は言うならば、彼女の王国であり楽園だからである。だが彼女は死に、その王国も存在しなくなった。だがここでは、これらの霊が作り出した多くのものを人々は聞いている。古の時代に、ダンバンセヌスや他の多くの者らがここに入った時のようにである。彼らは作り話を作ったのではない。これらは自らを愛する全ての人間らを愛し、憎む人間らを憎む性質がある。そのため、これらは自らに従う者らに、多くの術と豊かさを与える。これらは我々の心と考え、さらにどこから来るかも知り、容易に我々の元へと移動できるからである。私はこの助言を誰にも与えようとは言わないが、その真の基盤と、これら小人と悪魔との真の違いは知られるようになろう。悪魔は四大エレメンツから自らのものを取らない限り、何の体も持たない。悪魔は肉も血も持たないからである。悪魔は永久に留まり、病気や有限の死には属さない。そのため悪魔は死んだりはしないが、ピグミーは死ぬのである。しかしこれら両者とも、自然と永久の死に属し、両者とも永久の命に乏しい。そのため、誰にせよこれらに自らを与えたりしたら、彼もこれらと同じ出来事が起きるのである。そのため、自らを差し出す前に、誰もが自分の言う事には特別に注意し、何を行うかをよく考慮せよ。彼は突然に、これらに常に従い命令全てを満たすように強制されるからである。そして彼が不服従だったりこれらを怒らせたりしたら、これらは彼を多く傷つけたり、滅ぼしその命を取ったりするのだ。この種の多くの例は存在している。すなわち、時には人々が死体として見つかり、彼らの首はねじ曲がっていたり、酷く扱われているのだ。このような事が起きたら、一般に言われるのは、悪魔が人々がその契約を守らなかったり、契約期間が過ぎて自らを差し出す羽目になったためにこれらを行ったとされた。だがこれらの意見は真実の泉から来たものではない。悪魔の権能は、その力においてそのようなものは無く、むしろ悪魔は人々を悪しき考えに誘惑し、神の意志と命令に従う事から離れさせようとするのだ。この方法で悪魔は人々を大きな罪びとにし、彼らの創造主である神を拒否し忘れさせる。その後には彼らを悲惨な境遇へと引きずりおろし、それにより彼らが神への祈りをもはや出来ないようにする。ここではエレメンタルの霊らは悪魔に非常に似ており、しぱしぱこれらは神の怒りと復讐の遂行者となる。しかし、これらはまた、しばしば我々に警告をし、多くの危険から我々を見守っており、時には一部の者らを牢獄から解放したり、その他の多くの助けをする事もある。
 多くの悲しみの想像力を背負っている者らは、そのままにはされず、様々な喜びの話で楽しませる必要があり、それによって心を喜ばせ、悲しみを追い出されよう。同様に悪魔もこのような場合には留まっておらず、これらの地の霊らと同様に忙しく働き、世俗の種類の誘惑をそのような者らに行う。これらから、一部の者ら、特に少女らは、夜の眠りの中で抑圧され、動くことが出来ないと考え、叫ぶ事も何の助けも呼べずに*5、朝になると鬼女ハッグによって乗っかられていたと記録されている。そして彼らは魔女や呪師がこれを行ったとなおも見做すのである。だが、彼らの体は容易には扉や窓が閉められた部屋には入る事が出来ないが、シルフやニンフは容易に行えるのだ。
 汝、かくも僅かな信仰しか無いものよ! ペトロと同じくらいに疑い深く*6、自らをあらゆる風で吹き飛ばされ、容易に溺れる者よ。それらは汝自身の僅かで、疑い、弱い信仰が原因なのだ。そして汝の悪しき考えが、ここへと汝を引き寄せたのだ。また汝は似たものを引き寄せる秘密の磁気を自らの中に持つ。これは全てに勝る天の磁石で、鉄と鋼鉄を引き寄せ、第五精髄と星々の磁気を超え、消えて隠れた鉄を現す。この天の磁気はそのような力と性質があり、100,000マイル離れたところからも、それどころかどこであれ、自らを高めたら、四大エレメンツから自らへと鉄を引き寄せる。だがこれについては、私は以下の章で記す二つの優れた例によって、より広範囲に述べる事にしよう。


第六章 想像力と、それを高めるには


 想像力が持つ強力な働きは何か、その高みへとどのように至れるのかは、疫病が流行っていた頃の出来事の例から見る事が出来よう*7。この想像力は汚染された空気よりも毒性があり、それに対してはどの解毒剤も糖蜜もあらゆる保存剤も効き目は無かった。この想像力が通り過ぎ、忘れ去られるまで、何も助けとはならないのである。かくも速やかに通る走者と使者は想像力であり、一つの家から別の家へと、一つの通りから別の通りへと過ぎていくのみならず、一つの都市や田舎の地方から別の場所へと速やかに通って行った。そのため、一人の人物の想像力により、都市や地方全体に疫病が流行り、何千もの人を殺したのも、この例からも理解することが出来よう。別の例としては、あるお互いに愛する二人の友人らがいて、一人はフランスに住み、もう一人はイタリアへ旅行へ行っていたが、彼は途中で疫病により死んでしまった。この知らせはフランスの友人にも届き、恐れおののいた彼の肌を通って想像力へとそれは貫き、そのため忘れる事が出来なくなり、それは彼の中で疫病を点火させ、この火は長く反響して働き、それらは金や銀を造る試みで、卑金属から完全に明白で分離させ再び輝くまで、かくも長く火を点けるかのようであった。同様に想像力は自らへと最も激しく逆流して働き、その後には静まっていくだろうが、今ではそれは人の中に器を得た。男の精子が女の卵子を受け取り、女の妊娠がすぐに続くようにである。このように、疫病は一つの場所から別の場所へと広がり、最終的には都市や地方全体に広がるまで続く。そのため、それらから離しておくのは良い事である。これらは(ある愚か者らが言うように)腐敗して感染した空気によるものではなく、疫病の働きを見たり聴いたりしたら、それらが彼らの心に影響するのである。先に述べたような知らせを聞いた者らは、静かに黙想して想像力が心に働くようにすべきではなく、陽気さと喜びを刺激される事によって彼らは慰められ、想像力が彼らの心から追い出されるようにすべきである。私が語った事を作り話だと考えてはならない。一見すると簡単に解決しそうに見えるかもしれないが、これらの想像力への容易な薬は無い。想像力は僅かでも容易に押し付けられ、すぐに火となって点火され、容易には消させなくなるからである。そのため、このような者らの中の疫病を止める唯一の薬は、想像力を静めて追い払う事である。これは想像力が高められた際の力と働きについての、一つの例である。
 だが次には別の例も述べるとしよう。ここでは想像力は疫病の頃に人々の中で働いて、多くの犠牲者を出しただけでなく、戦争でも働くのである。どれだけ多くの者らが、撃たれる恐怖から亡くなっているだろうか? 彼らの死の原因は、自らの想像力によるもののみで、すなわち彼らは恐怖に圧倒され、毎回の射撃で自分に当たるのではないかと恐れ、あらゆる弾丸で怪我する事以外は考えられなくなる。それらの者は、勇敢で敵に対して恐れ知らずの者らより、多く殺されているのである。これらの勇敢な者らは、撃たれたり怪我するのではないかと恐れず、他の兵士らによりも勝利への堅固な確信と希望を持っているのである。このような者らが頑強で真の兵士達である。どれだけ多くの塔、城、都市、地方の中の人々が恐れ、圧倒され、征服されたであろうか? 彼らの数が多かろうと少なかろうと、高貴だろうと下劣だろうと、騎士道に適っていようとも、そうでないにせよ、敵に立ち向かう半ペニーの勇気も欠けているならば、ほとんど働かなくなる。そのため、ユリウス カエサルやその他多くのローマ軍の将軍達は、ベテラン兵となったり騎士に取り立てられたり、その他の名誉を得る望みで、心と想像力を堅固にするようにしてきた。そうする事で、彼らはこの想像力をよく用いて心を堅固にする方法を知り、全ての英雄的な高貴な働きを達成するようにし、ベテラン兵となるだけではなく、戦争の名誉を得る望みも達成されたのである。
 これらの想像力のプロセスに従ってきた多くの者らに、これらは突然に起きて、彼らは大いなる名誉と富を得たのである。
 反論。だがある者らは、幸運と力と勤勉さが彼らの助けとなり、そのような者らを出世させたのだと反論するかもしれない。あるいは、草や根や石の中にある魔力の性質によって、圧倒されたり怪我したりしないようにされたのだとも。
 解答。これらの事柄全ては、想像力を慰め助けとなるが、この想像力こそが、主要なもので、全ての他のものを支配するのだと私は答えよう。全ての敵らとその軍に対して、大いに必要な守護をなし、身に着ける事で怪我をしなくなるものが多くあるのを認めるのにやぶさかでは無く、それらについてはここでは書かずに他の論文に任せるが、にもかかわらず、信念がこれらの物全てを高めて確固とするものであり、この信念無しには、これらやその他の全ての似たような物は、無駄で力無きものとなるのである。



パラケルススのオカルト哲学 後編
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*1 「家造りの捨てた石が、隅の親石となった。 これは神のわざ、人の目には不思議なこと」 詩篇 118篇22-23節。キリスト教徒はこれを旧約におけるイエスの預言とした。
*2 マルコによる福音書 第11章22-23節。
*3 民数記に出てくる、モアブ人の王バラクがイスラエルを呪うために雇った呪術師。だが神が現れて、イスラエルは祝福された民なので呪ってはならないと伝えたので、バラムは断った。後に、イスラエル人と共に偶像崇拝をしていたミディアン人が討伐されて多数殺されるが、その中の死者にバラムの名もある。
*4 ナポリ地方のヴェスヴィオ火山かもしれない。古代ローマ時代にはヘーラクレースとウェヌス女神がここでは崇拝されていた。
*5 金縛り現象を思わせる話である。
*6 イエスが預言した聖ペトロが三回自分を否定する話から来ているようである。しかし疑い深い聖トマスの話と混同している可能性もある。
*7 この章でパラケルススは、かなり迷信めいた事を言っている。