高等魔術の教理と祭儀 伝記的序文

ページ名:高等魔術の教理と祭儀 伝記的序文

伝記的序文


 エリファス レヴィ ザヘドは、アルフォンス ルイ コンスタンがオカルト書を書く時に用いた筆名であり、この名前のヘブライ語の同等物だと言われる。この高等魔術の教理と祭儀の著者は、1810年に靴職人の貧しい家に生まれた*1。若い頃に類まれな知力を示したので、コンスタンの教区司祭はこの地味な少年に優しい関心を抱き、彼をサン シュルピスの神学校へと送り、そこでコンスタンは無料で教育を受け、間近に司祭職を見ていた。そこではコンスタンは、周囲の期待を失望させる事無く学習を進めたようである。ギリシア語とラテン語に加えて、コンスタンは充分にヘブライ語の知識も得ていたと言われる。もっとも、その出版された書に示される諸言語の学識、特にヘブライ語のものからして、それは間違いであろう。コンスタンは新人として聖職界に入り、下級聖職者の職位を通って、やがては助祭となった。またパリの小神学校の教授にも任命された。だが、何時頃かは不明瞭であるが、コンスタンはローマカトリック教会の教えと対立する意見を持っていたので、突然に追放された。この追放の詳細は曖昧で、あり得そうにない要素が含まれている。例えば一説ではコンスタンは教会の上位者から田舎へ送られ、そこで雄弁とともに説教したが、教義的には正当なものでは無かったというものだ。だが、助祭の説教は、可能ではあるが、ラテン教会では実践されていないと私は信じる*2。約束されてきた伝記が何年も延期されている中、私はこの「神父」コンスタンの生涯のごく僅かな情報のみしか得られずにいる。ともあれ、限られた聖職者の経歴とともにコンスタンは世俗の世界へと放り出された。一方で聖職者としての出世の道は断たれた――そしてこの頃コンスタンは何の職をしていたか、どう食っていたかは不明である。1839年には、コンスタンは何人かの文士仲間を作っていたが、その中には「魔術師」という題名の今ではほとんど忘れ去られた幻想的なロマンス小説の作者であるアルフォンス エスキロスも含まれていた。そしてエスキロスはコンスタンにこの時代の狂える預言者ガノーを紹介した。この人物は女性のドレスを着て、屋根裏部屋に住み、そこで政治的啓明主義の類、おそらく王政復古に関すると思えるものを説教していた。事実、ガノーは自らがルイ17世の生まれ変わりで、再生の作業を成就すべく地上へ戻ってきたと信じていた*3。コンスタンとエスキロスは、ガノーを笑うために訪問したが、その雄弁に圧倒されて、その弟子となった。この幻視家の啓明主義と社会主義の一部の要素がコンスタンの頭の中で組み合わさり、最終的には「自由の福音」という題の本あるいは小冊子となった。それは一時的なブームとなり、充分に愚かな事に権力の目に留まり、著者コンスタンは6ヶ月の拘留となった。エスキロスもこの本の出版に関わり、同様にペナルティを負ったと見做すべき幾つかの理由もある。その監禁期間は終わり、コンスタンは不屈の意志で、なおも自らの預言者とは別れて、田舎で使徒の伝道の類を行い、田舎人らに説教し、苦しめられ、コンスタン自身が語るには悪しき者らから迫害を被った。だがこの預言者は預言を止めた。おそらくは、告解を望んだからか、死がその宣教を止めたからである。こうして王政復古は成らなかった。そのため弟子らはパリに戻り、その際にこの助祭が負っていたあらゆる誓約にも関わらず、コンスタンはノエミ カディオット嬢、16歳の美しい少女と結婚した。この婦人は彼に2人の子をもうけたが、いずれも幼児の頃に亡くなり、結果として彼女は家を捨てて去っていった。彼女の夫コンスタンは縁を戻すべくあらゆる努力をした*4と言われるが、それは無駄であり、本来は(カトリックでは)取り消せない誓いである結婚の法的な無効宣告を得る事で、彼女はさらに遠くへ去った。加えて言うと、この婦人は第二の結婚でも、家庭の冒険を1872年頃に終えている。このコンスタン夫人は非常に美しかったのみならず、優れた才があった。離婚後には彼女は彫刻家として有名となり、サロンや他の場所でクロード ヴィニョンの名で作品を展示していた。さらに、フィクション小説も書き、幾らかのジャーナリズムも――おそらくはその初期の職歴の頃に行っていた。その芸術的天才からして、今日でもこの婦人は単なる記憶以上のものとなるのは不可能な事では無い。
 アルフォンス ルイ コンスタンがオカルトの術とその文献の学習へと向けた時期については、その人生の他の部分よりもはっきりとしている。本書の187ページの文で、1825年にコンスタンは運命的な道へと入ったと述べており、それは彼を知識への苦行へと導いたというが、それは何らかの秘儀参入と考えるべきではない。この頃はコンスタンはまだ少年時代だったのである。明らかにこれはパリのサン シュルピス教会の神学校に入った事で、ある意味では苦行へと導き、おそらくは最終的にはコンスタンに、その教育の中で自らが得たオカルト学へと向かわせたのだろう。新同盟――ガノーが自らの体系に名付けたもの――の出来事は、少なくとも啓明主義の曖昧な性質とオカルトの主張を幻視の中で結び付け、この弟子の心の中に必要な衝動を掻き立てただろう。だが、1846年と1847年に「社会出版」「理想共同体出版」の賛助のもとでコンスタンが発した小冊子の幾つかが示しているのは、その興味はなおも宗教的理想主義で色付けした社会主義であった。妻に捨てられてから1855年の高等魔術の教理篇の出版の間のこの時期には、コンスタンはおそらくは概ねオカルト学習に没頭していたのだろう。その間の1851年にコンスタンは「キリスト教文献辞典」の大著を出版し、それはミーニュ神父の辞典集の一つとして長く残っていた。この書はオカルト学には向けられておらず、無論オカルト界での評価も無かった。だがここで疑いなく示しているのは著者の知的な不誠実さで、彼は正教会の仮面をかぶり、ローマ教会の声の特徴であった声音を真似ていた。そして「高等魔術の教理篇」が出版され、翌年の1856年にもう一方の祭儀篇が続き、これら両者は本書で初めて英訳されたのである。すぐに続いて、1860年には「魔術の歴史」、1861年には「大いなる密儀の鍵」、この年はまた、教理と祭儀篇の第2版も出るが、長くて無関係の序文は不幸にもそのままであった。1862年に「寓話と象徴」、「ムードンの魔女」、これは美しい田舎の牧歌で、カバラの印章も含まれていた。1865年には「霊の学」がある。コンスタンの最後の2冊の書は、1846年と1847年に出版されたある小冊子の内容を合本したものである。
 コンスタンの若い頃の危なっかしい性格は、歳を取るにつれてある程度、しかし微かに成長している。その書らは巨大な読者層を要求しなかったが、これらはコンスタンに崇拝者と弟子らを作り、彼らからコンスタンは、個人的な教授か文書で書かれた講義を求められた。コンスタンは、このフランス魔術師のパトロンをしていた彼らの家でよく魔術の衣を着ている所を見られており、その生涯唯一の写真――本書の巻頭にもある――は、その姿で写されている。コンスタンは普仏戦争を生き延び、社会主義からある種の超越的な帝国主義へと転向したが、この政治信念は、セダンの戦いでの大敗により掻き立てられた愛国心情と、パリ包囲戦の出来事で多く培われたものに違いない。コンスタンの矛盾した生涯は1875年に閉じ、かつてはほとんど彼を追放しそうだったカトリック教会の最後の秘跡を受けた。コンスタンは多くの文書を残しており、そのほとんどは今では遺作として出版され、彼の弟子らへの数えきれない手紙――スペダリエリ男爵のものだけで9巻に及ぶ――は多くの場合は保管され、文献の形式での興味深い注釈として与えている。


(後略)


高等魔術の教理と祭儀 序文
↑ 高等魔術の教理と祭儀


*1 ウェイト注。レヴィの友人にして弟子だったスペダリエリ男爵への1862年1月へ送った手紙によると、彼が生まれた時に父は52歳だったという。「魔術の密儀」第2版(1897年)を参照。
*2 ウェイト注。一説ではコンスタンはキリスト教社会主義者のラムネーと、その著「信仰仲間の言葉」の影響を被ったという。
*3 ウェイト注。ガノーの家を世話していたある女性は、この説ではさしずめマリー アントワネットであろう。
*4 ウェイト注。コンスタンの敵らの馬鹿げた中傷によれば、これには黒魔術とルシファーとの契約も含まれた。