高等魔術の教理と祭儀 2-22

ページ名:高等魔術の教理と祭儀 2-22

第二十二章 ヘルメスの書


 ついに本書の終わりが来た。ここでは完全な最後の言葉である普遍的な鍵を私は与えねばならぬ。魔術の作業の普遍的な鍵は、全ての古代の宗教教義であり――カバラと聖書の鍵であり、ソロモンの小鍵である。ところで、この鍵は何世紀も失われてきたと見なされてきたが、私により再発見され、それにより古代世界の墓を開き、死者を語らせ、過去の全ての栄光の記念碑を見て、あらゆるスフィンクスの謎を理解し、全ての聖所を貫けるのだ。古代人の間で、この鍵を使うのは高祭司のみにしか許されておらず、さらにその秘密も秘儀伝授者の信奉者にのみ委ねられてきたのだ。さて、これらが問題の鍵であった。(1)ヒエログリフ的、数的なアルファベットで、文字と数により普遍的で絶対的な概念の連なりを表現する。(2)10の数に分かれ、それらは4つの象徴により掛けられ、さらに黄道十二宮を表す12の図と繋がっている。(3)加えて、世界の東西南北の4つの精霊もある。
 この象徴的な4つ組、メンフィスとテーベの密儀ではスフィンクスの四つの顔――人、鷲、獅子、雄牛――で表されていたものは、古代世界の四大エレメンツと照応する。水エレメントは人や水がめが保持する杯により表わされ、風エレメントは天の鷲を取り囲む円や光輪により、火エレメントはそれらを生み出す木、地の熱で実を結ぶ木、太陽、獅子が典型である王者の錫により、地エレメントはミトラの剣により、毎年聖なる雄牛を生贄に捧げ、その血を振りまく事で大地の全ての果実を増す。ところでこれらの四つのサインとその全ての類似は全ての聖所に隠されている一つの言葉を説明する。その言葉によりバックスの信女らは酩酊状態で神を見、イオ エウォヘ*1の熱狂へと自らを落とした。この神秘的な言葉は何の意味があろうか? これは母語の四つの原初の文字からなる。ヨド、ワイン貯蔵庫やノアの父権の王錫を意味する。ヘー、神への献酒や母権の杯の典型である。ヴァウ、この二つを合わせ、インドでは大いなる神秘的なリンガムとして表わされている。これらが、神の御言葉の三つ組の三つの印であるが、この母語の中のヘーが二度目にも現れており、自然と女性の多産を表現し、また原因から結果へと降り、結果から原因へと上昇する、普遍的教義と漸進的類似を形成する。さらに、この聖なる言葉は発音される事は無く、これは四つの言葉として綴られ表現され、四つの聖なる言葉――ヨド ヘー ヴァウ ヘーとなる*2
 博識なガファレルは、ウリムとトンミムの神託がこれらにより行われたヘブライ人のテラフィムを、カバラの四つの動物と見做し、私がすぐに説明するように、契約の箱にあった二体のスフィンクスあるいはケルブの典型であった。ミカ書での奪われたテラフィムとの繋がりにおいて、彼はアレキサンドリアのフィロンの興味深い文を引用しており、それは我々のタロットの古にして神聖な起源の完全な啓示であった。よってガファレルはこう述べている。「彼(ユダヤ人フィロン)は先に述べた旧約聖書の士師記に隠されている歴史を語り、ミカは三体の若い少年の像と、三体の子牛の像、さらに獅子、鷲、竜、鳩の像を三体ずつ造り、全ては良い金と銀によるものであった。それにより、誰かが自らの妻の秘密について尋ねると彼は鳩に尋ね、子供らについてならば若い少年の像に、富ならば鷲に、力と権力ならば獅子に、多産についてはケルブあるいは雄牛に、一日の長さについては竜に尋ねた。」このフィロンにより明かされ、ガファレルにより軽視されたものは、我々にとっては最も重要な価値がある。ここに、四つ組の我々の鍵があり、またタロットの21番目の鍵に見つけられる四つの象徴的な動物の像がここにある。このカードの絵は第三の七つ組の中にあり、これらにより表現される全ての象徴主義を繰り返し要約する。その隣には、鳩と竜で表される対照の色があり、日の長さの典型である竜あるいは蛇により造られるROTAの円があり、最後にタロット全体のカバラの神託、後の世にエジプトのボヘミアン*3が実践するものの秘密は、エッテイラにより不完全ながらも見抜かれ復元されている。
 我々は聖書の中で、聖櫃の至聖所でケルビムあるいは雄牛の頭に鷲の翼のあるスフィンクスの間にある黄金の図表で、高祭司が主に伺う場面を読む。彼らはテラフィム、ウリム、トンミムの助けとエフォダ(高祭司が身に着ける胸甲)により伺っていた。ところで、現在ではこの胸甲は12の数あるいは12の言葉が宝石に彫られた魔方陣だと知られている。ヘブライ語でテラフィムという言葉はヒエログリフあるいは絵による印を意味し、ウリムとトンミムは上と下、東と西、イエスとノーを意味し、これらの二つのサインはエルサレム神殿のヤキンとボアズの二本の柱と照応する。そのため、高祭司が神託を望む時には、くじを引いてテラフィムあるいは金の図表、これは四つの聖なる言葉の像をくりぬいたもので、この四文字は胸甲の周囲に三回置かれている。すなわち、留め金として胸甲からの小さな鎖と繋げられている二つのオニキス石の間にあった。右のオニキス石はゲドゥラー、慈悲と荘厳を、左の石はゲブラーを意味し、正義と怒りを表していた。例えば、獅子の印がユダ族の名が彫られた石の左側で見つかったら、高祭司は神託を「主の杖はユダ族に対して怒っている」と読んだ。もしもテラフィムが人あるいは杯を表し、またベニヤミン族の石の近くの左側で見つけられたら、高祭司は「主の慈悲はベニヤミン族の愛する者らを襲った疲弊とともにあろう。それにより彼の怒りの杯から自らを零すであろう」などと読むだろう。イスラエルに主権ある祭司職が無くなったら、人を造る御言葉の臨在、賢者らの最も人気がある温和な口から放たれる言葉、全ての神託は聞かれなくなった。契約の箱が失われ、聖所が冒涜に汚され、神殿が破壊された時、エフォダとテラフィムの密儀はもはや金や宝石になぞられる事は無くなり、一部の博識なカバラ学者らにより、象牙、羊皮紙、金箔や銀箔された銅板の上に書かれた、というより描かれた。そして最終的には単純なカードとなり、それらは常にキリスト公教会からその密儀の危険な鍵を取り囲むとして危険視されていた。これによりタロットの古代性は博識なクール ド ジェブランにより明らかにされ、そのヒエログリフと数の学は後にエッテイラの疑わしい洞察と根気強い探求のもとで実践された。クール ド ジェブランは彼の著「古代の世界」の第8巻で、タロットの22の鍵と4つのエースについての概要を与え、最古の全ての象徴との完全な類似を示した。彼はさらにこれらの説明について乗り出し、自然と迷いの道に入った。なぜなら、彼は普遍的で聖なるテトラグラム、バックス信女のイオ エウォヘ、至聖所のヨド ヘー ヴァウ ヘー、カバラのיהוהから始めていなかったからである。
 エッティラ、あるいは本名のアリエッテは、彼の占術体系とそれがもたらす物質的利益に完全に心を奪われていて、元床屋のアリエッテはフランス語や正字法すら学ばなかったが、トートの書を改革して相応しくしたと装った。現在のタロットでは彼が彫った版は非常に稀にしか残っておらず、私は28番目のカード――棒の8――についての以下のナイーブな宣伝しか見つける事は出来なかった。「代数学教授にして古代トートの書の現代の間違いの訂正者(原文ママ)であるエッティラは、パリ48区のルー ド オゼイユに住む。」エッティラは確実に彼が言う「間違い」を訂正しなかった方が良かっただろう。彼の書はクール ド ジェブランにより見つけられた古代の書を、大衆の魔術とカード占いの世界へと貶めた。彼は証明を求める者らには何も与えなかった。彼はこの古い論理的格言の別の例を与える。同時に彼の読むに堪えない書の中に稀にある文で見る事が出来るように、彼の努力はカバラをある程度会得するようにした。
 エッティラの同時代人である真の秘儀参入者、例えば薔薇十字団やマルティニスト会は、サンマルタンの書が示すように真のタロットを保有していた。この書の中でタロットは分割されている。また、薔薇十字団の敵からもこの事の引用がある。「彼らは現在や未来のあらゆる書で見つけられる何物をも学ぶことのできる一冊の書を持つと装っている。この書は彼らの基準であり、これにより彼らは存在する万物の原型を見つけられ、その機能により彼らに分析、抽象化、知的世界の種の形成、あらゆる可能な事柄の創造を提供する。その哲学的、神学的、小宇宙的なカードを彼らは視る。」(「カトリック教と主権への陰謀」著者は興味ある者のためにヴェールを上げる者、パリ、1792年出版)私は繰り返して言うが、最も偉大な密儀とともにタロットの秘密を保有していた真の秘儀参入者は、エッティラの間違いに対して抗議するのを慎重に避けて、ソロモンの真の鍵の奥義を明らかにする代わりに、エッティラを無知なままにしておくようにした。そのため、私が古代世界の全ての教義と哲学の、損なわれておらずなおも未知なままの鍵を見つけたのは、深い驚きと言えない事も無い。私はこれを鍵と言ったが、これは真にそうであり、その輪として40の円を持ち、その主要部あるいは体として22文字の規模があり、その保護として三段階の三つ組がある。かようにこれはポステルにより「世界の基盤から秘密にされてきた事柄の鍵」として表されてきたのである*4。彼は以下の方法により、この鍵の秘儀参入者にのみ知られていたオカルトの名を示した。



 この言葉はROTAと呼び、エゼキエルの輪を表すか、あるいはTAROTとしたら、ヘルメス哲学者らのアゾットの同意語となろう。これは教義的、自然的な絶対者をカバラ的に表現した言葉である。これはギリシア語とヘブライ語によって、キリストの組み合わせ文字を形成する。ラテン文字のRとギリシア文字のPは、「ヨハネの黙示録」のアルファとオメガの間に見いだせ、聖なるタウ字、十字架の像は、我が祭儀篇の前で示したように、完全な御言葉を囲む。タロット無しには古代人の魔術は閉ざされ、カバラのいかなる大いなる神秘も貫く事は不可能となろう*5
 このタロット単独でも、アグリッパとパラケルススの魔方陣を解釈する。タロットの鍵とともに同じ正方形を作り、そのヒエログリフを読み訂正される事により、自ら満足できよう。以下にあるのは、パラケルススによる惑星霊の7つの魔方陣である。


土星


木星


火星


太陽


金星


水星



 これらの正方形のそれぞれの列を足し合わせる事により、きみはその惑星の性質を表す数を常に得るだろう。そしてタロットのヒエログリフにより、この数の説明を見つける事により、きみはさらに、その数により形成される、三角形だろうと正方形だろうと十字形であろうと、全ての図形の感覚を求めるよう進められよう。この作業の結果は、人生の全ての出来事に起きる、それぞれの惑星の、というより天や人のそれぞれの影響力の人格化の象徴の下に古代人が隠した、全ての寓話と神秘の完全にして深遠なる知遇となろう。
 私はタロットの22の鍵は、原初のカバラのアルファベットの22文字だと述べてきたが、以下にあるのはヘブライのカバラ学者の神託家らによるこのアルファベットの派生の図である。


א 存在、心、男、神。理解できるもの、統一、数の母、第一原質。

 これらの概念全ては大道芸人*6の図により、ヒエログリフ的に表現される。彼の体と腕はアレフの文字を形作る。彼の頭の周囲には、命と普遍的な霊の紋章である∞の形をした後光がある。彼の前には剣、杯、ペンタクルがあり、彼は天へと向けられた奇跡の杖を掲げる。彼はアポロ神やメルクリウス神に似た若い姿で巻き毛であり、確信の笑みを唇に浮かべ、彼の目には知性がある。


ב 神と人の家、聖所、法、グノーシス、カバラ、秘められた教会、二つ組、妻、母。

 このタロットのヒエログリフは女教皇、教皇の三重冠をかぶった女性、月とイシス女神の角を身に着け、さらに彼女の頭にはマントルが包む。胸には太陽の十字架を付け、膝の上に書を置き、マントルで隠す。プロテスタントの著者による女教皇ヨハンナの偽りの歴史の、彼の説の関心の下、女教皇あるいは高女祭司の二つの興味深くも古い絵図が、良きにつれ悪しきにつれタロットに合い、使われてきた。これらの絵図は彼女にイシス女神の全ての属性を与えている。一つの絵図の方では、彼女は息子ホルスを運び愛撫しており、もう片方のでは彼女は長く縛られていない髪を持つ。彼女は二つ組の二本の柱の間に座り、彼女の胸に四つの光条を持つ太陽を持ち、片手を書の方に置き、もう片方の手では秘教的な聖職のサインをする――すなわち、密儀を意味する三本の指のみを上げ、残りの二本の指を曲げる。彼女の頭の後ろにはヴェールが降り、彼女の椅子の両側には、海から咲く蓮華の花がある。私はこの古代の象徴を、彼の偽りの女教皇ヨハンナの記念碑的な肖像以外の何物でも無いという、間違った見解を持ったかの学者を心から不憫に思う。


ג 御言葉、三つ組、充満、豊穣、自然、三界での世代。

 この女帝の象徴は、高尚で、王冠を被り、玉座に座り、地球儀が尖端にある王錫を持つ女性である。彼女のサインは魂と生の像である鷲である。彼女は古代ギリシア人のウェヌス・ウーラニアーであり、聖ヨハネにより「黙示録」では、太陽を纏い十二の星の冠をかぶり月を踏みつける女として表されていた。彼女は三つ組の神秘的な精髄であり、霊性、不死、天の女王である。


ד 東洋の宮廷あるいは政府、秘儀参入、力、テトラグラム、四つ組、立方石あるいはその基底。

 このヒエログリフ、皇帝は、その体が直角三角形で、両足が十字を結ぶ君主――哲学者のエタノール(温度を自給する炉)の像である。


ה 指示、実演、教授、法、象徴主義、哲学、宗教。

 このヒエログリフは教皇あるいは密儀の高祭司である。現代のタロットでは、このサインは木星の像により取り換えられている。ヘルメスとソロモンの二つの柱の間に座る大祭司は、このサインを秘教主義のものにし、三つの横木が三角形を形成する十字架に拠り頼む。二人の低位の聖職者らが彼の前で跪いている。彼の上には、二本の柱の柱頭があり、彼の下には助手らの二つの頭があり、ゆえに彼は五つの中心であり、神の五芒星ペンタグラムを表し、その完全な意味合いを与えている。事実、柱は必要性や法を、頭は自由や活動を表す。それぞれの柱とそれぞれの頭に線を引き、それぞれの柱からそれぞれの頭にも線を引いていけば、正方形を与え、十字架により分割すれば四つの三角形となり、この十字架の中央は大祭司であり、蜘蛛の巣の中央にいる蜘蛛とほとんど述べられよう。そのような比較は、真理、栄光、光の事柄と成り得よう。


ו 連続、織り模様、リンガム、もつれ、合一、抱擁、紛争、敵意、組み合わせ、均衡。

 このヒエログリフは、美徳と悪徳の間にある人を表す。彼の上には真理の太陽が輝き、この太陽の中には愛があり、彼の腰を曲げ、彼の光線により悪徳を脅かす。10のセフィロトの序列において、この象徴はティフェレトと照応する――つまり、理想主義と美である。6の数は二つの三つ組、すなわち絶対的否定と絶対的確言の敵対を表している。そのため、これは苦難と自由の数であり、この理由から倫理の美と栄光とも繋がっている。


ז 武器、剣、ケルブの炎の剣、聖なる七つ組、勝利、王権、聖職者。

 このヒエログリフには、立方体の戦車が四本の柱と群青色に星々が描かれた掛け布とともにある。四本の柱の間にあるこの戦車には、三つの輝く黄金のペンタグラムで飾られた環をかぶった勝利者が座る。彼の胸には三つの重ねた正方形があり、その肩には主権ある生贄を捧げる者のウリムとトンミムがあり、ゲドゥラーとゲブラーの二つの三日月を表している。彼の手には球、正方形、三角形を尖端に付けた王錫がある。彼の態度は誇り高く穏やかである二重の、あるいは尻で繋がっている二匹のスフィンクスが、戦車に繋げられている。かれらは反対側へと引っ張っているが、同じ方向を見ている。これらそれぞれは白色と黒色をしている。戦車の前部を構成する正方形の面には、インド人のリンガムが描かれ、その上にエジプト人の翼ある球がある。このヒエログリフ、私が正確に以下の図で再現したものは、タロットの鍵に含まれる全てのものの中でも、おそらく最も美しく完成されたものである。


ヘルメスの戦車

タロットの7番目の鍵


ח 天秤、引き寄せと放出、命、恐怖、約束、脅威。

 このヒエログリフ、正義は剣と天秤を持つ。 


ט 善、悪の恐怖、倫理、知恵。

 このヒエログリフは、賢者が杖に寄りかかり、彼の前にランプを掲げて、それは外套に完全に包まれている。このカードの題銘は、隠者あるいは彼の東洋の外套のずきんからしてカプチン会士である。だが彼の真の名は思慮分別であり、それによりクール ド ジェブランとエッティラの説では不完全だったように思える四つの枢要徳が完成する*7


י 原理、発現、賛美、男性的な名誉、男根、男の生産力、父親の王錫。

 このヒエログリフ、運命の輪は、エゼキエルの宇宙的な輪と言われ、その右側をヘルマヌビスが上昇し、その左側をテューポーンが下降し、上では均衡のスフィンクスがその獅子の爪の間で剣を保つ――立派な象徴であるが、エッティラは自らのカバラの類似の性質によって、テューポーンを狼と、ヘルマヌビスをネズミと、スフィンクスを猿へと変え、外観を醜くした。


כ 掴み保持する手。

 このヒエログリフ、力は、命の∞の円環を頭にかぶる女性が、怒れる獅子の顎を静かに努力も無しに開いている。


ל 例、教授、公的な教え。

 この象徴では、男が片足から吊るされ、両手は背中で結ばれており、それにより彼の体は頂点が下の三角形を作り、彼の足は三角形の上に十字を作る。この絞首台は樹々であり、それぞれは6つの枝が切り取られている。私は既にこの象徴を、犠牲と終わった作業として説明している。


מ 木星天と火星天、支配と力、新たな誕生、創造と破壊。

 このヒエログリフ、死神は、人々が育っている草地で王冠をかぶった頭を刈り取っている。


נ 太陽天、気候、季節、動き、常に新しく、それでいて同じである生の変化。

 このヒエログリフ、節制では、太陽の印が額にあり、胸に七を表す正方形と三角形がある天使が、一つの杯から別の杯へと生命のエリクサーを構成する二つのエッセンスを流している。


ס 水星天、オカルト学、魔術、商業、雄弁、密儀、倫理の力。

 このヒエログリフ、悪魔、メンデスの山羊、テンプル騎士団のバフォメットの絵には、全ての彼の多神教の属性が含まれている。これはエッティラが適切に理解し、正しく解釈した唯一のヒエログリフである。


ע 月天、変更、転覆、変化、失敗。

 このヒエログリフ、稲妻が落ちた塔は、バベルの塔である可能性が高い。二人の人物、疑いなくニムロド王と彼の偽預言者か聖職者が廃墟の頂上から落下している。この転落する者らの一人は、アインの文字を完全に形作っている。


פ 魂天、思考の流出、形の概念の中での倫理の影響、不死。

 このヒエログリフは、輝ける星と永遠の若さである。私はこの象徴を先に既に述べている。


צ エレメンツ、見える世界、光の反映、物質的形態、象徴主義。

 このヒエログリフでは、月が滴を垂らし、蟹が海から大地へ向かって登り、犬と狼が月に向かって吠え、二つの塔の基底に鎖で繋がれている。道は地平線で失われ、血が振りまかれている。


ק 合成、頭、頂点、天の君主。

 このヒエログリフでは、輝く太陽と要塞化された囲い地の中で二人の裸の子供らが手を取り合っている。別のタロットの版では、紡ぎ手が運命を紡ぐ。さらに別の版では、裸の子供が白馬に乗って、深紅の軍旗を示している。


ר 生長の原理、大地の生成の性質、永遠の命。

 このヒエログリフは、審判である。天使がトランペットを吹き、死者らが墓から蘇る。かつて死に、今生きているこれらの人物らは、男、女、子供――人間の生の三つ組である。


ש 感覚の原理、肉体、永遠の生。

 このヒエログリフは愚者である。愚者の衣服を着た男が、あてもなく彷徨い、財布を担いだ棒を背負い、疑いなくこの財布の中には彼の愚劣と悪徳に満ちているのだ。彼の乱れた衣服は彼を卑しく見せ、彼は虎によって噛まれて、どうやって逃げるかや身を守るかを知らない。


ת 小宇宙。全ての中にある全ての総合。

 このヒエログリフは、ケテル、カバラの王冠が、四匹の神秘的な獣らの間にある。この王冠の中央には、それぞれの手にある杖を保持する真理がある。


 これらがタロットの22の鍵であり、その数を全て説明している。よって、大道芸人あるいは統一の鍵は、四つのエースとそれらの三界と第一原理の中での四部分の漸進的な意義を説明する。また、硬貨あるいは円のエースは世界魂であり、剣のエースは闘争的な知性であり、杯のエースは愛の知性であり、棒のエースは創造的知性であり、これらはさらに動き、発展、多産、力の原理でもある。それぞれの数は鍵により掛け合わせる事で別の数を与え、それらをさらに鍵により解釈する事で、それぞれのサインに含まれた哲学的、宗教的啓示を完成させる。ところで、この56枚のカードのそれぞれは22の鍵によって掛け合わせることもでき、組み合わせの序列の結果、啓示と光の最も驚くべき結論全てが得られる。これは真に哲学的な機械であり、心を迷いから防ぎ、それでいて直観と自由を残すのだ。これは絶対者に応用した数学であり、肯定性と理想の仲間であり、数と同じく正確な思考のくじであり、おそらくは人間の才が編み出した中でも最もシンプルで偉大な概念である。
 タロットのヒエログリフを読む方法は、それらを正方形あるいは三角形に配置し、同等の数のカードを反対側にも置き、同等で無いものによりそれらを宥める。四つのサインは与えられた順序により絶対者を常に表現し、第五のカードにより説明される。ゆえに、全ての魔術の問題の解答は五芒星ペンタグラムであり、全ての二律背反は調和された統一により説明される。かくも配置されると、タロットは真の神託であり、全ての可能な質問に対して、アルベルトゥス マグヌスの自動人形アンドロイドよりも正確で間違いなく答える。タロット以外何の書も持たない捕囚の身の人物は、数年で普遍的知識を得て、並ぶ者なき学識と疲れる事無き雄弁で全ての主題について語れるであろう。事実、この輪はライムンドゥス ルルスの雄弁の術と大いなる術の鍵であり、影から光へと変容させる真の秘密であり、大いなる作業の全ての奥義の中でも最初にして最も重要なものである。この象徴主義の普遍的な鍵により、インド、エジプト、ユダヤの全ての寓話は啓明され、聖ヨハネの黙示録はカバラの書であり、ウリム、トンミム、テラフィム、エフォダの図表と数により厳密に示されたものであるが、それら全てはタロットにより再び明かされ完成するのである。古代の聖所にはさらなる密儀は無く、ヘブライ宗教儀礼の意義は始めて理解できるようになる。契約の箱を覆っていたケルビムが支える黄金の板は、タロットの21番目の鍵のものと同じ象徴であると理解しない者はいようか?*8 契約の箱はカバラの教義全体のヒエログリフによる総合であり、ヨドあるいはアーロンの開花する杖、ヘーあるいは杯、マナを含んだゴモル、律法の二枚の石板――正義の剣の寓話的な象徴――と、ゴモルに含まれたマナ、この四つの物は神の四文字を驚異的に解釈する。ガファレルは契約の箱のケルビムは、牡牛のようなものと述べ、その博識さを示したが、彼はそれらが二匹ではなく四匹である――聖書の文が強調して言うように、それぞれの端に二匹ある――事を知らなかった。もっとも、これはほとんどの場合、聖書の解釈者らの誤解に責任がある。出エジプト記の第25章18-19節は、以下の様に読むべきである。



「そして汝は黄金による打物造りの二匹の子牛あるいはスフィンクスを、贖いのふたの両側に造らねばならない。そして汝は一匹をこちら側に、もう一匹を向こう側に見えるようにしなくてはならない。」*9 このケルビムあるいはスフィンクスは事実、契約の箱のそれぞれの端に二匹ずつあり、それらの頭は恵の座の四隅へと向けられており、その翼はアーチ状に上げられ、黄金の板の頂点に影を投げかけている。この板はケルビムらが肩で支えており、上記の図で示したように、それぞれは入り口と贖いのふたを見ていた。さらに、契約の箱は三つの部分あるいは段階があり、アツィルト、イェツィラー、ブリアー――カバラの三界を表していた*10。箱の基底には、二つのレバーの四つの輪が付けられているが、これは神殿のヤキンとボアズの柱の類似である。箱の本体にはスフィンクスが浮き彫りにされ、その蓋は翼により影を投げかけられている。この基盤はヘルメスの達人らが用いた用語である塩の領域を表している。箱は水銀あるいはアゾットの領域であり、覆いは硫黄あるいは火の領域である。この宗教儀礼の他のものも同様に寓意的であるが、それらを記し解説するには、別の特別な論文が必要であろう。
 サンマルタンは、彼の「神、人、世界の間の照応の自然の図表」の書の中で、私が述べて来たように、タロットの22の鍵の幅広い神秘的な解釈を与えている。だが彼はどこから彼の体系を得たのかを述べるのや、彼が注釈していたヒエログリフを明らかにするのを慎重に避けていた*11。ポステルも似たような裁量をしており、彼の奥義への鍵の図表の中にのみタロットの言葉を用いていて、彼の書の残りの部分ではこれをエノクの創世記という題名の下で引用していた。原初の聖書の著者であるエノクという人物は、エジプト人の間でのトート、フェニキア人の間でのカドモス、ギリシア人の間でのパラメーデースと事実上同一人物である。私は16世紀のあるメダルを極めて特別な形で手に入れたが、これはタロットの鍵である。このメダルとその場所について、神のパラケルスス自身が私に夢で啓示したと告白すべきかどうか、私には疑いがある。ともあれ、メダルは我が下にある。この片面には、16世紀のドイツの衣服を着て、片手にベルトを持ち、もう片手には五芒星ペンタグラムを持つ大道芸人が彫られている。彼の前の机には、開かれた書と閉ざされた財布の間に、10枚の硬貨あるいはタリズマンがあり、それぞれ3枚が2行に、そして残りの4枚で正方形を作っている。この机の足は、二つのהの文字を形成し、大道芸人の足は、二つの逆にしたרとなっている。メダルの反対側には、魔方陣に配置されたアルファベットの文字が含まれており、それは以下の様にである。



 このアルファベットは22文字しかなく、VとNは2回現れており、4つの五つ組と、基底と鍵のための四つ組の中に配置されていると観察できよう。最後の4文字は、二つ組と三つ組の2つの組み合わせであり、カバラ的にこれらはアゾットAZOTHの言葉と読む。原初のヘブライ文字の値により、Nをאに、Zはラテン語での同等に、Vはヘブライ文字のוヴァウに、これは二つの母音あるいは母音の値を持つ文字の間でOと発音し、Xは原初のタウで、それは正確に同じ形を持つ。よってタロット全体はこの驚異的なメダルの中で説明されており、パラケルススに相応しく、私は好奇心の自由にこれを保持するのである。5文字による4行は、ותZאと要約でき、יהוהとINRIの類似であり、カバラの全ての密儀を含んでいるのである。
 タロットの書はかくも高い学的重要性があるので、未来において内容が変更されないようにすべきである。私はフランス帝国図書館に保管されている古代のタロットのコレクションを調べ、それらのヒエログリフの全てを集め、その説明を私は先に記した。まだすべき重要な作業は残っている――真に完全でよく検討された見本の出版である。おそらく私がこの役割を果たす事になろう。
 タロットの痕跡は全ての国々で見つけられる。私が既に述べたように、イタリアが最も忠実で最良に保存しているが、スペインの派生版にある貴重な徴によりさらに完成させる事が出来よう。例えば、杯の2、ナイビは、完全にエジプトのもので、トキの取っ手のついた二つの古代の瓶は、雌牛と重なり合っている。硬貨の4のカードの中央にはユニコーンが描かれており、杯の3は瓶から出てくるイシス女神の姿を示し、2匹のトキも他の瓶から出てきて、1匹は女神の冠をかぶり、もう1匹は蓮華を持ち、それは彼女に生贄として捧げるのを表すように思える。4枚のエースは、神官文字の聖なる蛇の像を抱く。一部の別版の見本では、硬貨の4の中央には象徴的なユニコーンの代わりにソロモンの印がある。ドイツのタロットでは、大きな改変を被っており、鍵の数くらいしか合っておらず、その絵はグロテスクでパンタグリュエル的怪物で満ちている。私は中国のタロットも保有しており、帝国図書館にも他の似たような例がある。ポール ボワトー氏は彼のトランプに関する素晴らしい書の中で、幾つかの見事に描かれた見本を与えている。中国のタロットは、幾つかの原初の象徴を保持しており、硬貨と剣は自然と見分けが出来るが、杯と棒はより見分けるのが難しくなっている。


黙示録の鍵

聖ヨハネの7つの封印


 タロットがキリスト教会で失われた、グノーシス派とマニ教の異端の時代は、同時に神の黙示録の意味合いが滅びた時でもあった。もはやこのカバラの書の七つの封印が、七つのペンタクルであるのは理解されなくなり、その描写は私がここに与えた(このページの反対側に)。これらのペンタクルは、タロットの数、印、絵の類推により説明される。よって、唯一の宗教の普遍的な伝統はこの時に壊れ、闇や疑いが地の全体を覆い、愚者の目には、真のカトリック主義、普遍的啓示は世界から消え去ったように見えた。カバラの文字による聖ヨハネの書の解説は、完全に新たな啓示となるであろう。もっとも、何人かの卓越したマギらはそれらを予見しており、その中の一人であるオーギュスタン シャホ氏は自らこう述べている。
「黙示録の詩は、この若い福音記者に自ら個々に開発した完全な体系と伝統があったのを前提とする。これは博識全体の、アフリカ(エジプト)文明の思考全体が幻視の形式で書かれ、全体的に素晴らしい詩的な枠組みへと織られている。啓明された詩人である著者は、主な出来事に触れ、天変地異から天変地異へと社会の歴史の概要を大胆に描き、さらにその先にまで述べている。彼が明らかにした真理は、遠く広い場所からもたらされた預言であり、彼はその鳴り響く反響である。彼は叫ぶ声であり、荒野で唱和される祈りの声であり、光への道を整える者である。彼の言葉は支配とともに力強く響く。なぜなら彼は来るべき文明の崇敬のために未開の国々の間にIAOの神託をもたらし、太陽の長子を明らかにするからである。四つの時代の理論は、ゾロアスターの書や聖書と同様に黙示録でも見いだせる。原初の連邦の緩やかな再建、暴君の軛と過ちの絆から解放された人々の間での神の支配は、第四の時代の終わりとして明白に予見されている。そして天変地異の再発、最初の遠くから示されたものは、この時には完全に描かれる。天変地異とその期間が記され、新世界が海の波より出現し、天の下でその美のすべてを広げ、大いなる蛇サタンはこの時には天使に深淵の底へと縛られる。最後に、この詩の最初に使徒の前に現れた御言葉により預言されてきた、来るべき時代の夜明けがある。『彼の髪は羊毛や雪のように白く、彼の目は燃える火である。そして彼の足は良質な真鍮であり、炉のように燃えていた。彼の声は轟く波のように聞こえた。そして彼の手には七つの星があり、彼の口からは鋭い諸刃の剣が放たれていた。そして彼の顔は自ら輝く太陽のようであった。』かようなるは、アフラ・マズダー、オシリス、ホウリエン、神の子羊、キリスト、(ダニエル書にある)日の老いたる者、時の人、預言者ダニエルに祝された川である。彼は最初にして最後の者であり、アルファとオメガ、始まりと終わりであって、あり、あるべきである。彼はその手に密儀の鍵を持ち、中央の火の大いなる深淵を開き、そこでは死が闇の天蓋の下で眠り、眠れる大いなる蛇が目覚めの時を待っていたのである。」
 著者は聖ヨハネの深遠な寓話を預言者ダニエルのものと繋げる。ここではスフィンクスの四つの形態が、歴史の主な期間として現れ、太陽の人、御言葉の光が、預言者を慰め、教授する。
「預言者ダニエルは、天の四方の風により大海を掻き立てると、お互いに違う獣らが海から上がってくるのを見た。地の全ての帝国はこれらにひと時、ふた時、半時の間与えられた。これらの四匹であり、来るべき者らである。第一の獣は預言者の太陽の種族の象徴であり、アフリカ地方より来て、獅子に似て鷲の翼を持ち、人の心が与えられた。第二の獣は北の征服者らの象徴であり、第二の時代に鉄により支配し、熊のような者であり、鋭い牙に三つの肋骨を抱え、それは三つの偉大な征服者の家系の像である。これに向かって『起き上がって、多くの肉を食らえ』という声があった。第四の獣が現れた後、御座が起き上がり、そこに日の老いたる者、預言者らのキリスト、最初の時代の子羊が現れた。彼の衣は雪のように白く、彼の頭は輝いていた。彼が来た御座はは生ける炎であり、燃える輪の上にあった。燃える炎は、彼の顔にも示され、天使あるいは星々の軍団が彼の周りに散りばめられていた。審判は開かれ、多くの寓話的な書が開かれた。そして新しいキリストが天の雲とともに来て、日の老いたる者の前に立った。彼には全ての民、部族、言語に及ぶ主権と栄光と国が与えられた。ダニエルはそこに立っている一人のそばへ行き、これら全ての真意を尋ねた。するとこの四匹の獣は地上を支配する四人の王だと答えられた。」 シャホ氏は次に、ほとんど全ての聖書に見つけられる様々な像、著しい寓意についての説明に入る。この点での彼の観察は注記に値する。
「あらゆる原初のロゴス(御言葉)において、同様に物理的な照応と倫理の関係との間の並行が確立されている。各言葉はその物と賢明な定義を運び、この生ける言語は人の中での創造主の単純にして自然であるように完全にして真実である。預言者に同じ言葉で表現させ、僅かに修正させよ。太陽、日、光、真理、そして白い太陽や子羊にも同じ通り名にも当てはめ、彼に太陽の代わりに子羊あるいはキリストと呼ばせよ。そして真理、光、文明の代わりに太陽と呼ばれよ。それにより、もはや寓意は無く、真の照応が成り立ち、霊感により表現されよう。だが夜の子らが彼らの支離滅裂で野蛮な方言で、太陽、日、光、真理、子羊を言うならば、賢明な照応が原初のロゴスでかくも明白に表現していたものが消え去り、単純な翻訳により、子羊と太陽は寓意的存在、象徴となった。要するに、言葉の寓意自身がケルト族の定義、講話の変化、翻訳を表わすのに注意せよ。この観察は天地の全ての蛮族の言語に正確に当てはまる。預言者は育成と教授のために同じ啓明された基礎を用いていた。魂の育成は真理の学ではないか? よって、パピルスの巻物や書物は預言者エゼキエルに食べられ、「ヨハネの黙示録」の著者には天使が小さな書を食物として与え、アスガルドの魔術の宮殿の祝祭で、ガングラーは深遠なるハールに招かれ、ナザレ人イエスが7つのパンの固まりを奇跡的に増やすのを福音記者らにより語られ、太陽のイエスが生けるパンを弟子らに食べるようにと与え、「これは我が体」と言い、似たような物語の集まりは、同じ寓意の繰り返しである。魂の生は真理により養われ――真理は増やされ、決して無くなる事無く、逆に増えて養わせるのである。
 愛国主義の高貴な感情により高揚し、広大な革命の考えにより目を晦まされ、隠された物事を明らかにする者らに、この学の発見を、最も単純で初歩的な記述も欠乏している、世俗的で無知な者らの間で流行らせよ。例えば、地球は回転しており、それは卵のような形と言うなどだ。蛮人が信じることなく聞く何があろうか? この自然のあらゆる記述が、彼には高次からの教義、信仰の一種となるのは明らかでないだろうか? 賢者の寓意のヴェールが神話となるのは充分でなかろうか? 預言者の学院で、地球はボール紙や色を塗られた木の卵により表わされてきた。そして若い子らが「この卵は何ですか?」と尋ねると、彼らは「これは地球じゃよ」と答えた。預言者の小さな子らの後に、これらの年老いた子ら、蛮族らは、これを聞いて繰り返す――「この世界は卵」と。だが彼らは物理的、物質的な世界として理解するが、一方で預言者らには地理学的、概念的、想像の世界、心とロゴスにより造られたものを意味したのだ。事実、古代エジプトの神官らは卵について語る時、それは心、知性、クネフを表し、ここでの卵は比較の形態、イメージ、語調であると明白に表現していたのである。エゾウルヴェーダ*12の哲学者チョウモウントウが、狂信的なビアチェに対して、ブラフマーの黄金卵についてどう理解すべかについて、同様の方法で説明している。」
 我々はこれらの真剣で理性的な研究が現代でもなおも当てはまる事について絶望すべきではない。よって、私はシャホ氏のこれらのページを大いなる精神の満足と甚深なる共感とともに引用してきた。もはやデュピュイとヴォルネーの否定的で侘しい批判は無いが、単独の信仰と崇拝への努力は、全ての過去と同様に全ての未来で継続している。全ての偉人らが、迷信と偶像崇拝の誤った告発を受けてきたのは遺憾である。最終的には神自身の正しさにより、知性の太陽は決して正しい魂と純粋な心の者らからはヴェールを被せられる事は無い。
「偉大にして傑出しているのは、預言者、秘儀参入者、自然に選ばれた者、至高の理性である。」 私が今まで引用してきた事の結論としてこの著者はさらに叫ぶ。「彼自身が、彼の完成の原理の模倣の才能であり、一方でその霊感は、稲妻のように早く、創造と発見へと向けられる。彼そのものは正義、礼節、柔軟性、豊かさの完全な御言葉であり、思考の肉体的反応により、思考の調和を創り出し、その知覚は、まだ言語から独立してはいないものの、自然を常に正確に反映し、その印象を再現し、その照応において良く判断し表現される。彼そのものは光、知、真理である。なぜなら、想像力が受動的な二次的なものへと留められ、理性、自然の論理を決して支配せず、理想に近い結果となる。それらが存在となり、彼の必要に応じて拡張され、彼の知識の圏は偽りの判断や間違いが混ざる事無く拡大する。彼そのものは無限に進む光である。なぜなら、地の刷新の後に人口の急速な拡大が、やがて数世紀のうちにその運命が全ての想像可能な倫理と政治に照応する新社会を確立するからである。私は公正に、彼そのものは絶対の光であると加えられよう。我々の時代の者は自らを変更不能であるが、彼は自らの根拠となる自然と同様に変化する。彼を取り囲む社会環境そのものが、人の美徳、聖性、法における彼の幸福と繋がっている、彼の完成の度合いを決めよう。」
 このような説明の後には、誰がオカルト学の有用性について尋ねよう? 彼らは神秘主義と啓明主義への軽蔑のようにこれらを扱うか? これらの生ける数学、概念と形態のこれらの比例、この普遍的理性の永久の啓示、この心の流出、この信仰への不変の基盤、この意志へと明かされた全能性を? 幻影の探求をする子らよ、きみは私がきみに驚異を提供するからと失望するか? かつてある男が私に言った。「悪魔を起き上がらせてください。そうすれば私はあなたを信じましょう」私は答えた。「あなたは少なすぎる事を尋ねています。私は悪魔を出現させはしませんが、世界全体から消し去りましょう。私はあなたの夢の中から彼を追い払いますよ!」 悪魔とは無知、闇、混沌の思考、欠陥である。目覚めよ、中世の眠れる者よ! きみは日の下で見えないのか? きみは神の光が全ての自然に満たされているのを見ないのか? 今やどこで滅びた地獄の大公が自らを大胆にも示すのか?


 今や私に残されているのは、本書の結論を述べるのと、宗教と哲学の秩序と肯定的で物質的な現実化の秩序において本書の目的と意味合いを定義する事である。宗教の秩序については、私は崇拝の実践は宗教の魔術での儀礼とは無関係にはなれないと既に述べている。これらの倫理の力は三連の構造となっており、その構造の基底、原理、総合は統一である。私は様々な寓意のヴェールを成功裏にかぶられてきた教義の普遍的統一と正統性を示してきて、エジプトの冒涜者からモーセにより救われ、預言者らのカバラにより保存され、ファリサイ派の奴隷化からキリスト教学派により解放され、ギリシアとローマ文明の全ての詩的で寛大な志願者らを魅惑し、最初のものよりさらに腐敗した新たなファリサイ主義に抗議し、中世の偉大な聖人らとルネッサンスの大胆な思考家らとともにあった真理に従ってきた。私は、あえて言うが、常に普遍的で、常に生き、それのみで理性と信仰の疑いを晴らし、学にして服従の真理を示してきた――存在により示された存在の真理、調和により証明された調和、理性により現れた理性をである。世界に魔術の密儀を始めて明かしたが、私は古代諸文明の廃墟の下に葬られてきた諸実践を蘇らせるのを求めたのではなく、その働きにより自らを不死とし全能とするよう呼ばれたと現代の人々に言えよう。自由は自ら得られるのではなく勝ち取らなくてはならないと近代のある著述家は言う。それはこの学でも同様であり、この理由から、絶対的真理を漏らすのは、大衆には決して有用ではない。だが、かつてのエルサレムの聖所が荒廃し、廃墟へと没落したのは、その鍵が排水溝へと投げられたからで、それは誰の利益にもならなかったので、この鍵を拾い、それを受け取れる者に与えるのが我が使命だと思った。それにより、受け取った者は国々の博士、世界の解放者となろう。寓話と手引きひもは必要であり、常に子供らには必要であろう。だが、手引きひもを持つ者や寓話に耳を貸す者が子供である必要は無い。最も絶対的な学、至高の理性を、人々のエリートのものにせよ。祭司の術と王の術を古代の秘儀参入の二重の王錫に再び戻すのだ。それにより世界は混沌から再出発しよう。これ以上聖像を燃やさず、神殿を破壊すべきでない。神殿と神像は人に必要なものである。だが、祈りの家から商人らを追い払え。盲目の者をこれ以上、盲目の民らの指導者とすべきではない。知性と聖性の位階制度を復興させ、信じる者らの教師として知られる者らのみを認めよ。本書はカトリック(普遍的)であり、もしもその含まれた啓示に単純な精神の者を不安がらせるものがあれば、彼らは読まないだろうと私は考え自らを慰めるだろう。私は偏見なき者と狂信主義以上に無宗教におべっかを使うのを望まない者のために本書を書いた。世界に本質的に自由で不可侵のものがあるとすれば、それは信念である。この学と確信により、私は不合理さから暴露された想像力を導かねばならぬ。だが、それは彼らの間違いを全ての威厳と、脅迫されたり強制されたりする殉教者の真理とともに訂正しようとするだろう。
 信仰は迷信以外の何物でも無く、それが基底に理性が無いものならば愚行である。そして知識の領域から引き出された類推によるもの以外は知らない事を私は支持できない。全ての経験の外側にあるものを定義しようとするのは、無遠慮な愚挙であり、そこにあるか我々が知らないものを積極的に確言する事である。かくこそが信仰、大望、望みである。アーメン。私はかくあってほしいと望む。これは信仰の全ての宣言の中でも最後の言葉である。信仰、希望、慈善は分離不能な姉妹らであり、これらはお互いに同義語として取られよう。よって宗教では、普遍的で階級的な正統性、諸神殿をその全ての光輝へと復興させ、原初の華麗さへと高次の儀礼を再構築し、象徴、密儀、奇跡の階級的教授をし、子供らには伝説を、成熟した者らには光を与え、彼らには小さな子供らに、その信仰の単純さで嫌悪感を出させないように気を付けよ。これが我が理想世界の宗教であり、人類の望みと必要でもある。
 次に哲学についてであるが、私自身のものは現実主義と肯定主義のものである。理性によるものとは、誰も疑わないものである。全ては我々にはこの学により存在する。知る事とはそれになる事である。学とその目的は、知る者の知的生活で同一視される。疑う事は無知となる事である。ところで、我々が知らない物は、我々にはまだ存在しない物である。知的に生きるとは、学習する事であり、この学により開発され拡大する事である。この学の最初にすべき征服で、正確なこの学の最初の結果は、理性の情緒である。自然の諸法は代数的である。よって、単独の理性的信仰は、学徒を原理と結び付け、その全体の本質的な義は彼の知識の外側にある。もっとも、その適用と結果は彼の心の中で充分に示されるであろう。そのため真の哲学者は存在するものを信じ、帰納的なものは認めず、全ては理性的なのである*13。哲学にもはや、詐欺主義、経験主義、ただの体系は無い! 存在の学習と現実との比較である! 自然の形而上学である! そして神秘主義から離れよ! 哲学にはもはや夢は無い。哲学は詩的なものではなく、現実、物理、倫理の純粋数学である。宗教にその無限の大望の自由を委ね、この学には絶対的経験主義の正確な結論を委ねよ。
 人は自らの働きの子である。彼はなろうと望む者であり、彼は自らが作った神の像である。彼は自分自身の理想の現実化である。理想に基盤が欠けていたら、彼の不滅の体系は崩れよう。哲学は理想ではなく、その基盤に仕えねばならない。我々が知る事は、未知のものを測るためにある。見えるものにより、我々は不可視のものを認識する。知覚とは思考であり、大志の思考ですらある。この学は天の三角法であり、この絶対的三角の一辺は、我々の調査に服従した自然であり、第二の辺は自然を受け入れ反映する我々の魂であり、第三の辺はその中で我々の魂が拡大する絶対者である。この後はもはや無神論は可能ではない。なぜなら、我々はもはや神の定義を装ったりはしないからだ。神は我々にとっては最も完全で最良の知的存在であり、諸存在の上昇する階層は、その存在を充分に示している*14。私にそれ以上を尋ねる莫れ。だが神をさらに良く理解し、神に向かって上昇する事で完成へと向かうのだ。もはやイデオロギーは無く、存在は存在であり、完全になれない者は存在の真の法に従う事で救われよう。観察し、偏見を持つ莫れ。我々の才能を実践し、それらを偽らないようにせよ。生の中で生の領域を広げ、真理の中で真理を見よ! 真実であるもののみを意志する者には何事も可能である! 自然に休み、学び、知り、勇敢たれ。意志に勇敢となり、活動に勇敢となり、沈黙せよ! それにより誰もきみを憎むまい。誰もが植えたものを刈り取らなくてはならない。作業の結果は宿命的であり、邪悪な者を審判し罰するのは至高の理性である。盲目の小路に入った者は自らの足取りを戻すのだ。さもなければ彼は滅びよう。彼がなおもきみの言う事を聞くならば、温和に警告せよ。だが人間の自由は尊重されなくてはならない。我々は他者の判事ではない。生は戦場である。没落した者のために戦いを止めてはならないが、彼らを踏みつけるのは避けよ。それにより勝利は来て、両側の負傷者らは今は人類の前に共に苦しむ兄弟であり、征服者の救急車の中で出会うであろう。
 これらがヘルメスの哲学教義の帰結であり、全ての時代の真の達人らの倫理であり、古代の全ての知恵の薔薇十字団の継承者らの哲学であり、公秩序を破壊し、玉座と教会を転覆させると告発されてきた結社らの秘密教義である。真の達人は、公秩序を混乱させる事から遥かに遠いが、その最も堅固な支持者である。彼は無秩序を望むには、大いに自由に敬意を抱いており、光の子として彼は調和を愛し、闇は混乱を作る事を知っている。彼は存在する全てを受け入れ、存在しないもののみを拒絶する。彼は真の宗教が、実践的、普遍的、信仰に満ち、明白なものが、全ての生で現実化するのを望む。彼はその宗教に賢明で強力な祭司職があり、その周囲を全ての美徳と信仰の威厳に包まれるのを望む。彼は普遍的な正統派、絶対的、階級的、使徒的、聖餐的、議論の余地が無く議論がなされないカトリック(普遍)性を望む。彼は経験哲学が、現実で、数学的で、その結論に中庸で、その探求に飽くことなく、その進歩が科学的であるのを望む。そのため、神と理性が我らとともにあれば、誰がそれに歯向かえようか? 人が偏見とともに私を中傷したとしても、それに何の意味があろう? 私の完全な義は我が考えと作業の中にある。私はオイディプース王のように、象徴主義のスフィンクスを滅ぼしたりはしない。私は逆に、それを蘇らせようとするのだ。スフィンクスは盲目の解釈者のみを飲み込み、この獣を殺した者は、適切に神託をする方法を知らなかった。獣は我々に従うべく抑制され、鎖に繋がれ、強制する必要がある。スフィンクスは人類の生ける守護であり、テーベ王の征服であった。オイディプースがその謎の全てを理解したとしたら、彼の救済ともなり得たが!
 肯定的で物質的な秩序についてであるが、本書でどう結論づけるべきであろうか? 魔術はこの学が最も無謀にして邪悪な者らへと捨て去った力ではないか? これは馬鹿と低能を騙すために、ならず者どもが発明したインチキと偽りではないか? 哲学者の水銀は軽信する者を巧みに食い物にする為ではないのか? 私を知る者は、既にこれらの質問にどう答えるべきかを理解していよう。今日では、魔術は魅惑や幻影の術とはなり得ない。今や自らを欺かれるのを望む者のみが欺かれるのである。だが、前世紀の狭くて性急な懐疑主義は、自然そのものにより完全に拒絶されている。我々は預言と奇跡により取り囲まれており、不信者はかつては愚かにも拒絶したが、今ではこれらはこの学により説明される。否、ド ミラヴィル伯爵氏、かの迷える霊は神の帝国をかき乱す事は許されぬ! 否、未知のものは不可能なものにより説明は出来ない! 否、不可視のものは神の生ける被造物を欺き、苦しめ、誘惑し、殺す事すらするのは許されていない。哀れな人間よ、かくも無知で弱いゆえに、自らの妄想とも戦う事はなかなか出来ぬ! きみが子供の頃にこれら全てを語った者らと伯爵氏は、きみを欺いてきたのだ。きみが子供ゆえに聞いたとしたら、今は信じないほど大人になるのだ。人自身が自らの天国と地獄の創造主であり、我々自身の愚かさ以外に悪魔は存在しないのだ。真理により痛めつけられた心は、その懲罰により正され、夢はもはや世界を乱さない。サタンが存在するならば、彼はあらゆる存在の中で最も不幸で、無知で、恥ずべきもので、無能であろう。生の普遍的動者、生ける火、アストラル光の実在は、事実により示される。生体磁気は古き魔術の奇跡を現在において我々に理解させる。千里眼、吸引術、突然の治癒、読心術の諸事実は今では認められ、子供らすらも親しんでいる事柄である。だが古代の伝統は失われており、今こそその再発見が望まれるのである。最後に述べたいのは、観察された超常現象についてである。心は意味の無い発現へと刺激され、魅惑は理解される事も無く経験される。そのため、私は机を回転させる霊現象について言いたい。これらの奇妙な現象は目新しいものではなく、きみは自然の法を学ぶならば、それ以上の事も行えるだろう*15。そしてこれらの力により何か新しいものを得られるだろうか? 活動的で知的な人に新たな道が開かれ、人生の戦いがより完全な武器とともに再編され、知性の花に機会が回復され、全ての宿命の支配者となり、それにより世界に真の祭司と偉大な王達が来るであろう!


これにて、超越魔術の祭儀篇を終える



高等魔術の教理と祭儀 付録
↑ 高等魔術の教理と祭儀


*1 古代ギリシアで密儀で唱えられていたとされる言葉、イオは神への呼びかけ、エウォヘは召喚を意味する。現代ウィッカ教でも自らの儀式で取り入れる。
*2 ウェイト注。「ヨドは神、ヘーは栄光の光、ヴァウは永遠の愛、最後のヘーは創造あるいは創造的原理である。」スペダリエリ男爵への手紙、No.60より。レヴィの神名の四文字の不完全な象徴のごった混ぜの説明に対して、実際のゾーハルのカバラ主義では、ヨドはホクマーの至高の父であり、ヘーはビナーの至高の母、ヴァウは彼らの神秘的結合により生まれた息子、最後のヘーは息子とともに生まれた妹にして花嫁である。
*3 ボヘミアン、つまりタロット占いを生業とする放浪民族ジプシー、ロマ人は、古代エジプト出身とレヴィの時代には思われていた。
*4 ウェイト注。これはポステルにより「表されてきた」ものではなく、彼の編集者のフランケンベルグにより1646年にされた事で、この人物はポステルの鍵は別のもので説明する必要があると考えたからである。そのため、彼は鍵への付録のようなものと、さらに図表も加えたが、これはレヴィが曖昧に語っているもので、そこにはROTA、TORA、TARO、ORATの言葉を構成する四文字が示されている。その図の説明はタロットカードとは何の関係も無い。
*5 ウェイト注。この文はイスラエルの秘密伝統へのレヴィの主な命題を表しているように感じられ、そのため彼の真剣で考慮に値する観点として取らねばならない。だが、その根拠は単に22のヘブライ文字と22のタロットの大アルカナカードがあるだけである。これは「ヨハネの黙示録」の全22章の双方との繋がりと同様に、お互いに解釈者が望むように属せよう。またここで記されるTaroの言葉とキリストの組み合わせ文字との類似は、空想の世界に属する。
*6 タロットの1番目の「魔術師」の札は、古いデッキでは大道芸人と名付けられていた。
*7 ウェイト注。隠者が思慮分別を表すという仮定には最小の根拠すら無い。これは無論、恣意的な示唆であり、大アルカナの連なりの中で枢要徳はなおも完成していない。タロットには失われたカードがあるという推察が昔からあり、それにより他の矛盾も解決し、愚者の真の置き場所といった問題も明らかとなるだろう。
*8 ウェイト注。「律法の箱を覆っていた四枚の翼は人類世界の四隅での普遍的動者の四つの天の流れを象徴的な表現し、契約の箱の壁に飾られた四枚の翼は上にある物は下にあるが如しを意味した。」(「カバラの密儀」36ページ)
*9 ウェイト注。権威ある版では、恵の座の両端にケルブをそれぞれ配置し、それぞれの方向を「お互いに見えるように」せよとある。ラテン聖書ヴルガータでもほぼ同様であるが、例外として19節は、cherub unus sit in latere uno et alter in altero(一匹のケルブを片方の側に、もう一匹を別の方に置くようにせよ)とある。
*10 ウェイト注。カバラには四つの諸世界があり、それらはアツィルト、ブリアー、イェツィラー、アシアーと降下していく。
*11 ウェイト注。この文は「自然の図表」が22章で構成されている事実から思いついた、純粋なフィクションである。この書にはタロットの象徴主義は何一つ含まれていない。
*12 18世紀フランスでヴォルテールらが全ての宗教で最古の聖典としたもの。実際には偽物で、フランス人イエズス会士が作り、ヒンドゥー教徒をキリスト教に改宗させるために、イエスの福音の話を中に忍び込ませてある。
*13 ウェイト注。レヴィは演繹的の意味で書いた可能性が高い。もっとも、この修正が彼の文の意味合いに多くを加えるとは私は嘯かないが。だが、原文だとその意味が非知性的に思える。
*14 ウェイト注。「神は無限者の大いなる沈黙である。世界全体は神について様々に語るが、神は沈黙と永遠の静けさによる以上に良く表わすものはない。」(賢者の書 58ページ)
*15 ウェイト注。「奇跡を行い大衆を確信させるには、同じ事を多く行うのだ。特に我々の時代のような嘲りとふざけた時代には有効である。」(大いなる密儀の鍵 215ページ)