高等魔術の教理と祭儀 2-20

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第二十章 奇跡の術


 私は例外的な原因による自然な結果として奇跡を定義している。人間の意志の即座の活動、あるいは少なくとも目に見える方法によらずに行われる活動は、物質の面における奇跡を構成する。意志や知性に突然にせよ時間をかけてにせよ影響は働きかけられ、思考を服従させられ、最も堅固な決意を変え、最も暴力的な情熱を麻痺させる――この影響は倫理の面での奇跡を構成する。奇跡に対して一般的な間違いは、これらを原因無き結果、自然の法則と反し、神の心の突然の気まぐれ、この類の一つの奇跡が宇宙の調和を破壊し、世界を混沌へと貶めると見做す事である。たとえ神すらも不可能な奇跡はある。すなわち、不条理が含まれたものである。神が瞬時でも不条理な存在になれるとしたら、神自身も世界そのものもその後には存在しなくなるだろう。不相応な原因や、原因そのものが全く無い神の運命の定めを期待するのは、誘惑する神と呼ばれるものだ。神は自らを虚無へと投げ込む。神はその働きにより作用する――天では天使らにより、地では人らにより。ゆえに、天使の活動の圏では、天使らは神のために可能な限り活動し、人の活動圏では、神の全能と同等に処置する。人の天の概念では、人類が神を造り、人々は神が自らの像として彼らを造ったと信じるが、それは彼らが自らの像として神を造ったからである。人の領域は地の全ての物質的で見える自然であり、人が太陽や月を支配できないとしても、少なくとも彼はその動きを計算し、その距離を測り、それらの影響力と自らの意志を同一視できる。彼は環境を修正し、ある程度は季節と活動し、彼の隣人らを癒したり傷つけたりし、命を保持したり死を与えたりする。生の保持により、我々は特定の場合の復活について、既に確立したものとして理解する。絶対者の理性と意志は最大の力であり、人にそれらは与えられ、この力により彼は奇跡の名のもとに人々を驚かせる事を行う。
 意図の最も完全な浄化は、奇跡の術タウマツルギーには絶対不可欠であり、さらに都合の良い流れと無制限の確信が続く。何も恐れず何も望まなくなった者は、全てを支配する。これは荒野で神の子イエスが不浄の霊サタンを三度撃退し、天使らが仕えるようになった福音書の美しい寓話の意味合いである。地においては自由で理性的な意志に打ち勝つものは無い。賢者が「私は意志する」と言った時、それは神自身が意志する事であり、彼が命ずる全ては行われる。医者の処方箋の性質を構成するものが彼の知識と自信であるように、奇跡の術がそれらの心で実行されるならば唯一現実で効果のある薬となる。それによりオカルト治療学は全ての大衆の薬療法から隔絶するであろう。この術はほとんどの部分が言葉と息を吹きかける事で成り立ち、意志により最も単純な物質――水、油、ワイン、樟脳、塩――の様々な性質と交流する。同種療法医の水は真に磁気化され強化された水であり、信仰により働く。動的な形質を加えると、あたかも微小な量が聖別され、それは医師の意志の徴となる。
 大衆が詐欺主義と呼ぶものは、患者に大きな確信と信念の圏を形成するならば、医薬において真の成功の大いなる方法となる*1。医薬では何よりも信念が救うのだ。フランスではオカルト医薬の男女の調剤者のいない村はほとんど無いが、これらの人々は――ほとんどどこでも常に――公的に認められた医者よりも比較にならないほど成功しているのだ。彼らが処方する薬はしばしば奇妙だったり馬鹿げたていたりするが、これらはかくもより効果的なのである。これらは患者や作業者により信念を正確に植え付けるからである。私の知人の古い商人は、風変わりな性格と宗教的な感傷にのぼせ上る者だったが、仕事から引退してからオカルト医薬の実践を始め、キリスト教慈善の精神から無償で行い、フランスを代表する一人となった。彼の用いた唯一の材料は、油と息を吹きかけるのと祈りだった。医薬の非合法の実践により公的機関から訴えられた結果、公に知られる事になったのは、5年の間に一万もの者が彼によって癒されており、比例して彼の信奉者が増大するのが、その地区の全ての医者らを警戒させた。また私はル・マン地方のある貧しい修道女を知っている。彼女は少し頭がおかしいと見做されているが、にも関わらず彼女は周囲の地方の病全てを、エリクサーと彼女自身が発明した膏薬により癒していた。エリクサーは内服し、膏薬は外面の肌に用いられ、それによって何物も普遍的パナケア(万能薬)から逃れられないようにした。膏薬は用いるのが患部の肌には決して直接は塗られず、それらは自ら流れていった――少なくとも、この良きシスターが確言し、患者らにより述べられている。この奇跡の術もまた、当局に告発されたが、それは彼女が周囲の医者らの実践を貧しくしたからである。彼女は厳格に修道院に籠る様にされたが、すぐに少なくとも一週間に一度は彼女が働くのが不可欠なのがわかり、その日に私はシスター ジャンヌ フランシスが田舎者らに取り囲まれているのを見た。彼らは夜通しで到着し、自らの番が来るのを待ち、修道院の門で横たわっていた。彼らは地面で眠り、献身するシスターからのエリクサーと膏薬を得るために留まっていた。薬は全ての病で同じもので、彼女は実際には患者らの症状について知るのは不要のように思えたが、彼らの話を常に大きな注意とともに聞いて、病気の性質を知った後に特別な薬を分配した。ここに魔術の秘密がある。意図の方向が薬に特別な性質を授け、薬自体は意味が無いのだ。エリクサーは芳香のブランデーに苦い薬草の液を混ぜたもので、膏薬は色や匂いにおいて解毒剤と類似した調合だった。これはブルゴーニュ地方の樹脂の舐剤である可能性が高いが、その物質が何であれ奇跡的に働き、修道女の奇跡に疑問を抱く者には田舎者らの怒りが来るであろう。またパリの近くに奇跡の術を用いる老庭師を私は知っていたが、彼は聖ヨハネの薬草類の全ての液を薬瓶の中に入れて、驚異的な治癒を行っていた。だが彼には批判的な兄弟がいて彼を妖術師と嘲り、哀れな庭師はこの不信仰者の皮肉に圧倒され自らに疑いを抱くと、全ての奇跡は起きなくなり、患者らも信頼を失い、この奇跡術師は中傷され絶望し、気が狂って死んだ。ヴィブラエル教区長のティエール神父は、興味深い「迷信に関する論文」の中で、見たところ重度の眼炎に罹っていたが、突然に神秘的に癒され、司祭に対して魔術を行ったと告白したある女性について記している。彼女は魔術師と思っていたある店員に、彼女が身に着けられるタリズマンをくれるように長くしつこくねだった。彼は最終的には彼女に羊皮紙の巻物を与え、これを毎日三回新鮮な水で洗うように勧めた。司祭は彼女に羊皮紙を渡すようにさせ、そこにはこのような言葉が書かれていた。Eruat diabolus oculos tuos et repleat stercoribus loca vacantia(悪魔よ去れ。汝の目が見えるようにし、その汚物を虚無へと置け)。司祭はこれらを翻訳してこの良き女性に伝えると、彼女は頭がぼうっとなり、同時に癒された。
 息を吹きかけるのは、オカルト医療において最も重要な実践の一つである。なぜなら、これは命の転換の完全な印だからである。事実として啓明すると、ある人や物に向かって息を吹きかけるのは、ヘルメスの教義の一つにおいて我々が既に知っている通り、物の性質は言葉を造り、概念と発言の間には正確な比率があり、発言は概念が最初に形成され、言葉による実体化なのである。息はその温かさや冷たさに従って引き寄せたり弾いたりする。電気的には暖かい息は肯定的で、冷たい息は否定的と照応する。電気的で神経質な動物は冷たい息を恐れるが、その親交が良く知られている猫への実験で証明されよう。獅子や虎をじっと見つめて、その顔に息を吹きかけるなら、これらは我々の前から逃げ出すように震わせられよう。暖かく長く息を吹きかけるのは、血の循環、リューマチや痛風の治癒、気質の回復、倦怠を除去するのに用いられる。作業者が共感的で善人ならば、普遍的な鎮静作用としてそれらは働く。冷たく息を吹きかけるのは、過密さや流動性の蓄積により起きた痛みをなだめる。そのためこの二つの息は別の目的のために使い、人間器官の極性を観察し、その極と対照的に働き、反対側の生体磁気として用いるようにしなくてはならない。それゆえ、炎症の目を癒すためには、それらを受けていない者が暖かい息を吹きかけ、それと同時に損傷している者も冷たい息を同じ距離と比率で吹きかける必要がある。磁気の通過は息を吹きかけるのと似たような効果があり、内なる風の転移と放出による真の呼吸であり、命の光により燐光を発するものである。暖かい息がゆっくりと通過するのは霊らを強めて起き上がらせ、速やかに通過するのは拡散する性質の冷たい息であり、過密な傾向を中立化させる。暖かい息を吹きかけるのは、横方向にか、下から上へ向けて行われねばならず、冷たい息を吹きかけるのは、上から下へと向けられるとより効果的である。
 我々は鼻と口によってのみ呼吸するのではなく、我々の体の普遍的な多孔性は真の皮膚呼吸の道具であり、疑い無くそれだけでは不十分であるが、命と健康にとっては最も有用なものである。指の末端には全ての神経の終端があり、我々の望みに応じてアストラル光を放散したり引き寄せたりする。接触せずに磁気が通過するのは、単純でわずかな息を吹きかける方法によるもので、接触すると共感的で均衡させる印象を呼吸へと加え、夢遊病者の初期症状での妄想を防ぐには良く、あるいは不可欠である。これは物理的現実と一致させ、脳を諭し、彷徨う想像を現実に呼び覚ますからである。だが目的が単に磁気化させるのなら、これは長すぎて不向きである。絶対的で長期の接触は、その目的が生体磁気ではなく、孵化やマッサージの場合は有用である。私はキリスト教の聖書から孵化の幾つかの例を挙げよう。これらは全て死者の復活という名で呼ばれる、見たところ難治の無気力の治癒として表わされている。マッサージは東洋では現在でも大いに用いられており、公共浴場で実践され大成功している。これは摩擦、牽引、圧迫の完全な体系で、神経系と筋肉の領域全体でゆっくりと働き、結果は諸力を均衡させるように再生させ、完全な平安と健康を感じさせ、感覚の活動と活力を回復させる。
 オカルト医師の力全体は彼の意志の意識の中にあり、この術全体は患者の信念を刺激する事で成り立っている。師イエスは「汝に信仰があれば、信じる者には何でも可能なのだ」と言った。この主題は表現、口調、ジェスチャーによって占められなくてはならず、確信は慈父のような方法により啓明され、快活さは熟練して陽気な会話により刺激されなくてはならない。フランソワ ラブレーは世間で思われるよりも偉大な魔術師であり、「パンタグリュエル物語」を彼の特別なパナケアとして造った。彼は患者らを笑うように強いて、その結果彼が造った全ての医薬はよく効くようになった。彼は自らと患者らの間に磁気的な共感を確立させ、それにより彼自身の確信と良き気質を彼らに与えた。彼は自らの書の序文で彼らを喜び、彼らを貴重で最も輝かしい患者らだと呼び、彼の諸書を彼らに捧げた。そのため「ガルガンチュワとパンタグリュエル物語」は、この宗教間の敵意と内戦の時代に、公的な医療全体が自慢するよりも多くの黒い気質、多くの狂気の傾向、多くの憂鬱症の考えを癒していたと私は確信している。オカルト医療は本質的には共感的なものであり、医師と患者の間で相互の愛情、あるいは少なくとも良き意思が無ければならない。シロップとジュレップそのものにはごく僅かな生来の性質しか無く、これらは医師と患者の相互の意見を通じて効果を持つようになる。ゆえに、同種療法ではこれらを調合し、何ら危険な不都合が続いて起こる事は無い。油とワインに塩や樟脳を混ぜたものは、全ての傷、外的な不和を癒し、宥める塗り薬としては充分である。油とワインは福音書の伝統では主要な医薬である。これらは良きサマリア人の香膏を作り、「ヨハネの黙示録」では――最後の災いを記す部分で――預言者が報復する諸力に、これらの物質を除外するように祈った。すなわち、多くの傷のための希望と薬を残すようにと。我々が終油の秘跡と呼ぶものは、師イエスの伝統的な医療の純粋で単純な実践であり、原始キリスト教徒と使徒聖ヤコブの精神の両方において重視され、彼は世界全体の信者らへの使徒書簡の中でこの勧告を含んでいる。「あなた達の間で病者がいれば、教会の司祭を呼んで、彼について祈らせ、主の御名において油を塗るようにしなさい。」この神の治療学は徐々に失われ、終油の秘跡は宗教形式、死の必要な準備と見做されるようになった*2。同時に聖別された油の奇跡の術の徳性とその記憶は伝統教義によって消すことが出来ず、教理問答の一節において終油の秘跡の名において永続化された。原始キリスト教徒に間では信仰と慈善はヒーリングの力の最も引き金となるものだった。ほとんどの病の源は倫理の不調であり、我々はまず魂の病を癒す事から始めるべきで、その後に肉体の治癒は速やかに従うであろう。



高等魔術の教理と祭儀 2-21
↑ 高等魔術の教理と祭儀


*1 レヴィは今でいうプラシーボ効果を言っている。
*2 ウェイト注。レヴィは先に述べていた彼の秘跡についての意見を忘れたか、内なる神の恵みの外側の徴についての彼の本音をうっかりと漏らしている。聖なるラテン教会の精神において、終油の秘跡はただの形式ではなく、死の準備の意味合いが大きく、去り行く魂が天国へ行くための不可欠な安全装置であり、死が間近で聖体拝領と終油の秘跡の両方を行う時間が無いようならば、聖体拝領より優先して行われていた。