高等魔術の教理と祭儀 2-14

ページ名:高等魔術の教理と祭儀 2-14

第十四章 変身


 聖アウグスティヌスは私が先に述べたように、アプレイウスがロバへと変身させられ、また人間に戻ったかどうかについて思索している。この聖人はオデュッセイアの冒険仲間らが魔女キルケーにより豚に変えられたことも同様に考えた事だろう。大衆の意見では、変身と変容は常に魔術の本質であった。ところで世界の女王であるこの意見を反映している群衆は、完全に正しくも全てが間違っているわけでもない。魔術は作業者の意志と野心的な達人らの魅惑の力により、自然の性質の見た目を望むように変化、というよりも修正させてきた。語られた言葉はその形を作り、ある人物がある物に誤り無く名前を与えたら、この物は真に名前で表される形質へと変わるのだ。この法による発言と信念の精華は、形質の外側を変える事なく、形質を真に変容させるものである。アポロニウスが弟子らにワインの杯を与え、彼らに言った。「これは我が血であり、汝らが飲む事で、汝の中に我は永遠にとどまる」そして彼の弟子らは、同じ言葉を繰り返す事により変容を影響させると何世紀も信じていた。彼らがワインを飲むと、その匂いと味わいにも関わらず、真の人間の生けるアポロニウスの血であり、私はこの神動術の師を、最も達成した魔法使いにして全てのマギらの中で最も有能な者と認めざるを得ない。彼を崇拝する限り、これは残り続けるだろう。



 ところでメスメル主義者が、選んだ純粋な水にどのような味わいも夢遊病者に与えられる事は良く知られている。魔術師が群衆全体を包むだけのアストラルの流体に磁気化するよう命令を与えたり、あるいは群衆が激しく刺激され磁気が準備されたとしたら、私は福音書でのカナの婚礼の奇跡はともかく、同じような出来事についての説明が出来るだろう。自然の普遍的な魔術の結果である愛の魅惑は、真に莫大であり、人やものを実際に変容させたりはしないかね? 愛は魅惑の夢であり世界を変え、全ては音楽と芳香となり、全ては酩酊し至福となるのだ。愛される者は美であり善であり深遠で誤り無く放出し、健康と幸運が育つ。この夢が終わる時、我々は雲から落ちるようで、愛らしいメリュジーヌの地位を奪った騒がしい女妖術師や、アキレウスかネーレウスを我々が思わせるテルシテスの厭わしさを思わせる。我らを愛する者らへの敬意を持てずに何の信念があろうか? だがまた、そのような愛を終わらせた者らに何の理性や正義を我らは染み込ませられようか? 愛は魔術師として始まり、妖術師として終わる。地に天の幻想を造り出しても、それは地獄の現実となる。その嫌悪はその熱情のように不条理である。なぜなら、それは情熱であり、すなわち自らの影響の不幸に属するからだ。この理由から、賢者らはこれを理性の敵と宣言し禁止している。彼らは妬み、哀れんで、おそらくは理解する事なく、悪党どもの誘惑に対してこの非難をしたのだろうか? 私が言える事の全ては、彼らがこのように述べた時には、彼らはまだ愛していないか、もはや愛が尽きていた事である。
 外側にある物は、我々にとっては内側の言葉が作りだすものである。我々が幸福だと信じる事は幸福になる事であり、何であれ我々が考える事は正確な比率で考えた物そのものとなる。この意味において、私は魔術は物の性質を変えられると言える。オヴィディウスの「変容」は真実であるが、それは良きアプレイウスの「黄金のロバ」と同様に寓話によるものである。存在する生とは継続しての変容であり、その形は定められ、刷新され、さらに延長されるか、より早く破壊される。輪廻説が正しいとするならば、キルケーで表される堕落は、実際に物質的に人を豚へと変えたのではなく、この仮説によると、悪徳の応報として関連する動物の姿へと退行させられたといえないか? ところで、よく誤解されている輪廻説だが完全に正しい側面がある。動物の形態は人のアストラル体にその共感的な印象を植え付けており、人の習慣の力に従ってその顔立ちは速やかに反応する。知的で受容的で温和な人は、不活発な人相を持ち、羊に似ていると仮定できる。だが恍惚とした博識あるスウェーデンボルグが千回経験しているように、夢遊病では羊が見えて、羊のような顔つきの人ではない。預言者ダニエルのカバラの書では、この神秘はネブカドネザル王が獣へと変わった伝説として表されている。これは魔術の寓話ではよくある運命だが、実際の歴史として誤解されている。この方法により、我々は実際に人を動物へと変え、動物を人へと変えられる。我々は植物を変容させ、その性質を変えられ、鉱物に理想的な性質を授けられる。これは全て意志の問題である。同様に我々は意志により自らを透明にしたり見えるようにでき、これはギュゲスの(透明になる)指輪の神秘を説明させる事ができる。
 まず最初に、我が読者の心から全ての不条理な仮定――すなわち原因無き、あるいは矛盾した結果を取り除くとしよう。不可視となるには、以下の三つのうちの一つが必要である――光と我々の体の間に、あるいは我々の体と観察者の目の間に、ある種の不透明な媒体を挿入する事である。または、観察者の目が視野を使えなくするように魅惑させる事である。これらの方法のうち、三番目のみが魔術的なものである。何かに没頭している時に、見ていても見ていず、目の前の物にぶつかったりする経験は誰でもあるのではなかろうか? 大いなる秘儀伝授者イエスは「彼らは見るには見るが認めず」*1と言い、この大いなる師の歴史が我々に伝える所では、ある日イエスは神殿で石打をされそうになり、不可視となり去ったという。人気のあるグリモアらで不可視の指輪について神秘化している事について、ここで繰り返す必要もあるまい。ある内容では、これは固体の水銀で構成し、タゲリの巣でしか見つけられない小石を含ませ、同じ金属の箱に入れておく必要があると主張する。「小アルベルトゥス」の著者は、この指輪は荒れ狂うハイエナの頭から取った毛で構成するというが、これはロディナルドのベルの物語を思い出させる。ギュゲスの指輪について真剣に論じている唯一の著者らは、イアンブリコス、ポルピュリオス、アバノのピエトロ*2である。彼らが言う事は明らかに寓話的なもので、彼らの説明からして、その内容は実際には大いなる魔術の奥義以外の何物でも無い。その図表の一つでは、不滅の存在の普遍的な動き、調和、均衡を描いており、別のものでは七つの金属の合金によって造られ、その詳細が述べられている。これには二つの宝石の受け座と、二つの宝石――太陽のサインが散りばめられたトパーズと、月のサインによるエメラルドが含まれていた。この内側には諸惑星のオカルトの印を、外側にはこれらの知られているサイン、二重となり、カバラ的にそれぞれが対立するように配置する、すなわち五つが右側に、五つが左側に彫る必要がある。太陽と月のサインは七惑星の中の四つの知性体の後に続く。ところでこの形は、魔術教義の全ての密儀を表すペンタクル以外の何物でも無く、この指輪のオカルトの意味合いがここにある。全能性の働きであり、その視覚への魅惑は示すのが最も難しいものの一つであり、我々は全てのこの学を知り、どのように用いるかを知る必要がある。
 この魅惑は磁気によって達成される。魔術師は心の内側にて群衆が彼を見るのを禁じさせ、彼らは見る事が出来なくなる。この方法により、彼は守衛の門を通り抜けて、看守の面前で牢から抜け出す。そのような時には群衆は奇妙な痺れを経験し、まるで夢の中で魔術師と出会ったかのように思い起こすが、それは彼が去るまで起きる事は無い。そのため不可視の秘密全体は、定義可能な力――注意を逸らしたり麻痺させ、光は瞳へと到達するものの、魂の目には印象を与えないものによって構成される。この力を用いるには、我々は突然に活動的に働くのに慣れている意志、心の強い臨在、群衆の中で注意を逸らせるのに充分な技量を必要とする。例えばある人が人殺しらに追われているとしよう。彼は横道へと逸れて、すぐに本道へと戻り、完全な静けさとともに彼の追っ手へと進むか、彼らに混ざり自らも追っているように装えば、彼は確実に自らを不可視としよう。1793年に首吊りの刑にすべく追われていたある司祭は、ある特定の道へと逃げて、屈みこんで歩き、角に向かって屈みつつ激しく夢中になった表情を取っていた。彼の敵の集団はそこを走り去っていき、その誰も彼を見る事は無く、というよりも誰も彼を認識する事は無かった。この者が彼であるとは思えない! 見られる事を望む人物は、常に自らを見られるが、気付かれないままにしたい者は、自らを消し、消え去る。真のギュゲスの指輪とは意志である。これはまた変身の杖でもあり、その正確で強い形成により、意志は魔術の言葉を作り出す。魅惑という全能の言葉は、この形成の創造力を表現する事である。魔術の至高の言葉であるテトラグラムは、「有るべき者」を意味し、これを完全な知性とともにあらゆる物の変身に用いたならば、万物を刷新させ修正させ、それらは証拠と常識の歯すらあろう。キリストの犠牲のhoc est*3はテトラグラムの変容と活用である。ゆえにこの単純な発言により、全ての変容の中でも最も完全で不可視、驚くべき、明白に証明される作業がなされる。この驚異、聖変化を表すために、この変容の言葉以上に強力な言葉は公会議により必然的に審問されてきている。
 ヘブライの言葉、אמן,אהיה,אבלא,יהוהは、全てのカバラ学者らから魔術の変容の鍵と見做されてきた。ラテン語の言葉、est, sit, esto, fiat(有りて有りし者よ、有りて有れ)は完全にその意味合いを理解した上で唱えるならば、同じ力がある。モンタランベールがハンガリーの聖エリザベトの伝説で真剣に引用している話がある。ある日、この聖なる婦人は、彼女の高貴な夫とばったりと出会った。彼女は貧者に与えるためにエプロンの中にパンを運んでいる自らの善行を夫に隠すために、薔薇を運んでいると述べた。そして、調査の結果、彼女が本当のことを話しているのが証明された。パンは実際に薔薇に変わっていたのである。この物語は最も恵み深い魔術の教訓寓話であり、これは真の賢者は嘘をつけず、知恵の言葉は物の形態を、あるいは時には形態の個々の形質を定めるのを表している。例えば聖エリザベトの高貴な夫、彼女のように良き信仰深きキリスト者が、ミサの祭壇では聖餐のパンにしか見えないものに人間の体での救い主の真の臨在を信じる者が、妻のエプロンの見た目はパンの中に薔薇の真の臨在を信じられない事があろうか? 彼女は彼に疑いなくパンを見せたであろうが、彼女がこれらが薔薇であると言い、彼は彼女は最小の偽りも行えないと信じたゆえに、彼は薔薇のみを見て、見たいと望んだのである。これが奇跡の秘密である。別の言い伝えでは、ある聖人が、その名前は私は忘れたが、四旬節の金曜日に、鳥に対して魚となれと命じて、それは魚となったという。この話には何の解釈も必要あるまい。そしてこれは先に娘イレーネの魂を召喚した話を述べたトレミゾンデの聖スピリディオンの美しい逸話を思い出させる。ある聖金曜日*4に、旅人がこの聖なる司教の家へとたどり着いた。その頃の司教職は初期のキリスト教時代のもので、そのため貧しかった。宗教的に断食をしていたスピリディオンは、彼の家には復活祭のために用意していた塩漬けのベーコン幾つかしか無かった。旅人は疲れたまま来ていて、空腹だった。スピリディオンは彼に食事を与え、自らも慈善の食事を共にした。それにより、ユダヤ人がこの悔い改めの祝祭では最も不浄なものと見做していた生のものを変容させ、物質の法則を霊の法則により超越させた。イエスは自らの選ばれた弟子らを三界の自然の君主として確立させていたが、スピリディオンは自らをこの神なる人の真にして知的な弟子であるのを証明した。



高等魔術の教理と祭儀 2-15
↑ 高等魔術の教理と祭儀


*1 マルコによる福音書 第4章12節。
*2 1246年 - 1320年。初期のグリモア「ヘプタメロン、あるいは魔術のエレメンツ」の著者。ウェイトによると、彼は悪魔学者らからは妖術師の君主とされたが、実際には神も悪魔もほとんど信じていなかったという。
*3 Hoc est corpus meum, イエスがパンを指して「これは私の体である」と言った言葉。ミサで司祭がパンを聖変化させる時に述べる。
*4 復活祭前の金曜日でイエスが死んだ日を記念する。