高等魔術の教理と祭儀 2-13

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第十三章 降霊術


 私はこれまで勇敢にも我が意見、というよりも、ある場合には(邪悪なものを)復活させる可能性があるので有罪判決を述べてきた。今や残っている奥義を明らかにし、その実践を暴露する時である。死は愚者の妄想であり存在せず、自然において万物は生きている。万物は動き続け、絶え間なくその形を変え続けている。老年は再生の始まりであり、生の刷新の働きであり、古代人らは我々が死と呼ぶ神秘を若返りの泉と呼び、それは老人の中に入って新たな幼年時代へと導く。肉体は魂の衣である。この衣が完全に擦り切れたか、真に回復不能なまでに裂かれたら、それは捨て去られ、二度と再合流する事は無い。だが、何らかのアクシデントにより、まだ擦り切れたり破壊される前に取り去られたならば、特定の場合においては、我々自身の努力や、我々以上に強力でより活動的な意志の助けにより、再び取り返すことが出来る。死は命の終わりでも、不死の始まりでも無く、命の継続であり変容である。ところでこの変容は常に進展しているが、その中のごく僅かな者、明らかに死んでいる者は命に帰る、すなわち残していた衣を取るのに同意するだろう。これが復活を高次の秘儀参入の作業の中でも最も難しいものの一つとしており、そのためこの成功は確実なものではなく、ほとんどの場合は偶然や期待せずに起きている。死者を蘇らせるためには、我々は亡くなったばかりの死体に繋がっている引き寄せの最も強力な鎖を、突然かつ熱心に引き寄せる必要がある。そのため、先にこの鎖を得るのは不可欠で、それからこの鎖を捕らえて、最後に即座に否応なしにこれらと繋がるよう十分に強力な意志を放出する。私が述べたように、これら全ては極めて難いが、絶対不可能ではない。現在の物質主義的科学は自然の秩序からの復活が不可能だという偏見を持ち、これらの現象すべてを、多かれ少なかれの込み入った死の徴と期間のある昏睡状態と解釈する傾向がある。もし(イエスが蘇らせた)ラザロが再び現代の医者らの前で復活したら、彼らは公的な学会へ、見たところ腐敗が始まり、強い死臭のある奇妙な昏睡状態のケースとして記録していただろう。例外的な出来事は、一見それらしい名前でラベルを張られ、問題は解決したとされよう。私は誰にも警戒を起こす気はなく、公的な科学の学位を持つ者らへの敬意から、彼らが復活、治癒の術を例外的で重度のトランス状態と見做したとしても、私は望むが、それらの容認を阻害するつもりは無い。しかし、この世界で復活が起きたとしたら、復活が可能であることに議論の余地はない。ところで、死体は共同で宗教を保護し、宗教は復活の事実を肯定的に確言するので、そのため復活は可能である。この事実から逃げるのは難しい*1。自然の法の外側でそのような事は可能で、普遍的な調和に反した影響を与えられると語るのは、不和、闇、死の霊が命の権威ある決定者となれると確言する事である。我々は悪魔崇拝者らと論争する事無く先に進むとしよう。
 宗教のみが復活の事実を証言しているのではなく、私は他に幾つかのケースを集めている。この出来事は画家グルーズの想像力に強く印象付けて、彼の最も素晴らしい作品の一つとして再現されているが、あるドラ息子が父の死の床で、彼に不利に書かれていた遺書を取って破り捨てた。この父はすぐに死から回復し起き上がると、息子を呪い、それから即座に死体へと戻ったという。類似した、より最近起きた出来事が目撃者により確言されている。ある人が死んだばかりの場所で、その友人がサインしたばかりの信託証書を破り捨てると、この死者は起き上がって、彼の選んだ相続人の権利を守るために生き返り、この偽りの友人は追いやられた。さらにこの罪人は気が狂い、蘇った人物は慈悲深くも彼に恩給を許したという。救い主イエスがヤイロの娘を蘇らせた時、三人の信仰深く好みの弟子らとともに居た。イエスは泣き叫ぶ者らを退かせて言った。「この娘は死んでるのではなく、眠っているのだ」それから、父、母、三人の弟子のみを側に置いた、つまり確信と望みの完全な円の中にいて、子供の手を取り、突然に彼女を引き寄せて叫んだ。「若い娘よ、起き上がれ!」まだ死者の国へ行くか決断しておらず、死体のすぐそばにいたのは疑いなく、さらに若すぎて美の中で死んだことを後悔していたであろう魂は、この声に驚き、さらにこの声は父と母にも聞かれ彼らは震えながら跪いたであろう。彼女は死体へと戻り、少女は目を開き起き上がった。師イエスはすぐに食事を与えるように命じて、生命機能が新しい吸収と再生のサイクルに入るようにした。預言者エリシャがシュネムの娘を起き上がらせ、聖パウロがユテコを蘇らせた逸話も同様の事実である。使徒言行録で単純に書かれている聖ペテロがドルカスを蘇らせたのも、理性的に反論するのが難しい事実である。ティアナのアポロニウスも似たような奇跡を行っていたようであり、私自身がある事実の証人であるが、これらと類似させるのを望まない。だが現在のこの霊は最も慎重に検討すべきであり、この魔術の存在は公共からはほとんど評価されていない――だが大衆は、地球が回転するのとガリレオが偉大な人物だったのを防ぐ事は出来ない。
 死者の復活は磁気主義の精華であるが、それはある種の共感的全能性の実践が必要とされるからである。これはうっ血、窒息、疲労、ヒステリーで死んだ場合に可能となる。三階から落下して聖パウロにより蘇られたユテコは、疑い無く内臓の大きな損傷は無かったが、落下途中の風により窒息状態となったか、あるいは衝撃の暴力と恐怖に晒されたであろう。同様なケースで、このような達成に必要な力と信念を意識している者は、使徒のように、体温の回復のための四肢の接触を組み合わせた空気混入、人工呼吸が必要となろう。愚者どもが奇跡と呼んでいるものは単純な事柄であり、預言者エリヤや聖パウロも同じ行いをして、イェホヴァやキリストの名を唱えていただろう。時には死者を手に取って、素早く起き上がらせてから、大声で呼ぶのでも充分である。これは気絶した者でもよく成功するが、磁気発者が巧みな声音と呼ばれるものを持ち、強力に共感的な発言をする事で、死者に対しても効果があろう。また彼は作業する対象の死者に、生前に親密に愛されていたか深く敬意を持たれている必要もあり、強い信念と意志とともに作業する必要があるが、それらは死の大きな悲しみの最初の衝撃を受けた時には常にあるとは限らない。
 大衆が降霊術ネクロマンシーと呼ぶものは、復活とは共通する部分は何も無く、この作業が魔力の応用と関係しているかは少なくとも大いに疑いがあり、我々は召喚しようとする死者の魂と真に一致する必要がある。降霊術には光と闇の二つの種類がある――祈り、ペンタクル、香による召喚と、血、呪い、生贄による召喚である。私は前者のみを実践しており、誰も後者に自らを捧げる事の無いように忠告したい。死者の像が召喚をしようとする磁気化された人物の前に現れるのは確実で、また彼らが死後の神秘を決して明らかにしないのも確実である。彼らは生前の記憶の中にのみ存在するように見え、これらの反映はアストラル光に印象付けられたものであるのには疑いが無い。召喚した死霊に質問をしても、その答えは内なる想像力の印象として受け取り、決して耳に届く声として聞こえない。そしてこれは充分に理解できよう。どうやって影が喋るというのか? 明白な音を作るために、印象を与える方法で空気を振動させられるどんな楽器があろう? 同時に、死霊から電気的な接触も経験される事もあり、時には死霊の手により創り出されるように思えるものもある。だがこの超常現象は完全に主観的なもので、それらは想像力と私がアストラル光と名付けたオカルト力のその場所での豊富さからのみ来たものである。その証明としては、これらの霊らは、あるいは少なくとも死霊を装っているものらは、たまに我々に触れてくるが、我々は彼らに触れる事が出来ず、これは死霊らの最も恐ろしい性質の一つであり、見たところあまりにリアルであり、彼らの手が我が体の中を通過すると私は動けなくなり、その手は見えるものの、何も接触しないのである。
 私はトレミゾンデの司教スピリディオンの教会史の書を読んだが、そこでは聖人の招聘の後に、彼の娘イレーネの霊を呼び出し、彼女が旅人のために集めていた金の隠し場所について確認していた。スウェーデンボルグは所謂死者の霊と習慣的に対話を続けていたが、それらの形はアストラル光の中で彼には見えた。私の知人の中の何人かの信頼のおける人物は、愛していた故人の訪問を何年も受けていたと確証していた。著名な無神論者のシルヴァルス マレシャルの霊は、彼の未亡人とその友人の前に現れ、生前に秘密の引き出しの中に隠しておいた1500フランについて彼女に知らせていた。この逸話は、この家族の古い友人によって私に教えられたものである。
 死霊の召喚は常に動機と正当化できる目的がなければならない。さもなければ、これらは闇と愚行となり、健康と理性に最も危険なものとなろう。単に好奇心からや、何が見えるかを見つけるためなら、成果無き消耗を招こう。この超越学は疑いも幼稚さも認めない。召喚の許される目的は、愛か知性によるものだろう。愛の召喚はより少ない器具で行われ、より容易に霊から敬意を受けるが、その進行は以下の通りである。我々はまず最初に、見たいと望む彼――あるいは彼女――の遺品を慎重に集めなくてはならない。彼が用いて、印象がまだ残っている物品である。また我々はこの人物が住んでいた家か、似たような種類のものを用意し、中に彼の遺影を置き、白いヴェールをかぶせ、その周囲には彼の好みの花の輪で飾り、それらは毎日新しいのに変えなくてはならない。それから特定の日を選ぶが、それは故人の誕生日か、彼と我々自身の愛情があり特に幸運だった日、彼の魂が忘れないだろうと信じる日にする。その日を召喚の日としなければならず、その前の二週間を準備期間とする。この期間の間は、死者から我々が受けられる権利がある愛情と同じものを、他の者らに与えるのを控える必要がある。我々は厳密な禁欲を行い、隠遁生活に入り、一日に一回のみの中庸で軽い食事を摂る。毎晩の同じ時間に死者の記憶で満たされた部屋へと入り、葬儀のランプや小ロウソクのような小さな明かりのみを灯す。この灯りは我々の背後に置いて、遺影からヴェールを外して、その前で一時間ほど黙とうする。最後に、僅かな良い香料を焚いて、後ろ向きに部屋を出ていく。召喚のための日の朝になったら、我々は祝祭のように自らを飾り、誰にも最初に挨拶はせず、パン、ワイン、根菜類か果実の食事を摂る。テーブルの布は白でなければならず、二つのカバーを覆って、割ったパンの一部は脇に置いておく必要がある。また僅かなワインも、召喚する相手のためのグラスに分けておく。この食事は召喚する部屋でヴェールをかけた遺影の前で単独で摂る。これらは全ては、死者のためのワイングラスとパンの一切れを除いて、終わりには片付けねばならず、これらのパンとワインは遺影の前に置く。夜になったら、定期的な訪問の時間に、我々は部屋を静かにし、キプロス島の樹による清澄な火を灯して、その中に七回香を投げ込み、その間に我々が見たいと望む相手の名前を呼ぶ。このランプは消え去り、火が自然と消えるのを待たなくてはならない。この日、遺影のヴェールは取り去る。そして火が消え去ったら、その灰にさらに香を置いて、死者が属していた宗教の形式と、死者が神について考えていた概念に従って、神を招聘する。この祈りを行っている間、我々は召喚する相手と自らを同一視しなくてはならず、彼が語るように語り、彼が信じると感じたように信じる。それから十五分ほど沈黙してから、彼がそこにいるかのように我々は話しかけ、愛情と信念とともに、我々の前に現れるように祈る。この祈りを心の中で繰り返し、両手で顔を覆って、それから大声で彼を三回呼ぶ。なおも跪いたままにし、目は数分間は閉じるか覆い、それから再び甘く愛情を込めた声音で彼を三回呼び、それから目をゆっくりと開ける。何の結果もなかったなら、翌年も同じ日に行い、必要ならば三年目も行う。その時には望んだ死霊の出現は確実で、長くかかればかかるほど、その出現は現実的で驚くべきものとなろう。
 知識と知性の召喚は、より厳粛な儀礼のもとで執り行われる。生前に著名人だった故人を呼びたい時には、我々は二十一日間の間、彼の生涯と書いたものについて瞑想し、彼の見た目の概念を形成し、心の中で彼と対話して彼の答えを想像する。我々は彼の遺影か少なくとも彼の名前の書いたものを常に運び、二十一日間は菜食をして、残りの七日間は厳しい断食をする。次に我々は教理篇の十三章で記した魔術の小礼拝堂を建て、そこからは全ての灯りを消す。だが予定された儀式が昼間に行われるならば、我々は召喚の時間に太陽が照らすように、壁の一面の窓を開けたままにし、三角形のプリズムを窓の前に置いて、水で満ちた水晶球をプリズムへと向ける。この試みが夜に行われるならば、魔術のランプを用意して、その光線が祭壇の煙に降りるようにする。これらの準備の理由は、魔術動者に外見の見た目の要素を供給し、想像力の伸長を可能な限り容易にする。それらは夢の絶対的な幻覚に陥る危険を避けずには高める事は出来ないだろう。残りの部分については、太陽光線やランプの光線は様々な色づけられ、曲がりくねり不規則な煙の上に落ちるならば、完全な像を造るのは決して無いだろうと容易に理解できる。小礼拝堂の中央には神聖な火を灯した受け皿と香の祭壇を置かねばならない。作業者は東に向いて祈り、西に向いて招聘する。彼は単独で行うか、厳密に沈黙をした二人の助手とともに行わねばならない。また第七章で示したような魔術の衣を着て、クマツヅラと金の冠をかぶる。彼は作業の前に沐浴をし、彼の下着全てはほとんど新品で、厳密に清澄でなければならぬ。儀礼は招聘する霊に向いており、彼がなおも生きているとしたら、それに相応しいだろう祈りから始める。例えば、聖ブリギッドの形式の祈りを唱えていてもヴォルテールを召喚するのは不可能だろう。古代の偉人のためには、クレアンテスかオルペウスの賛歌に、ピュタゴラスの黄金詩編にある誓約を用いるだろう。私自身のティアナのアポロニウスの召喚では、私はゾロアスターの教義とヘルメス トリスメギストスの書が含まれているパトリキウスの「魔術哲学」を儀礼のために用いた。私は大声でギリシア語でアポロニウスの「ヌクテメロン(昼に照らされた夜)」の書を唱えて、さらに初めに「万物の父が助言者となり、三重に偉大なヘルメスが導かんことを」とある召喚の呪文を加えた。
 ユダヤ教に属していた霊らの召喚においては、以下のソロモン王のカバラの招聘文をヘブライ語か召喚する霊が生前に親しんでいた言語で使わねばならない。


 王国の諸力よ、汝は我が左足と右手の下にあれ! 栄光と永遠よ、二つの肩により私を取り、勝利の道へと向けたまえ! 慈悲と正義よ、汝は我が生の均衡と光輝とともにあれ! 知性と知恵よ、我が王冠となれ! マルクトの霊らよ、我を神殿全体を支える二本の柱の間に導きたまえ! ネツァフとホドの天使らよ、我をイェソドの立方体石の上に確立させたまえ! ゲドゥラエル! ゲブラエル! ティフェレト! ビナエル! 我が愛とともにあれ! ルアフ ホクマエルよ、我が光であれ! ケテリエルよ、常にあらんことを! イシムよ、シャダイの御名により我を助けたまえ! ケルビムよ、アドナイの御名において我が力となれ! ベニ・エロヒムよ、御子の御名と、ツァバオトの諸力により、我が仲間たれ! エロヒムよ、テトラグラマトンの御名において我がために戦え! マラキムよ、ヨド ヘー ヴァウ ヘーの御名において我を守りたまえ! セラフィムよ、エロアーの御名において我が愛を清めたまえ! ハスマリムよ、エロイとシェキナーの光輝とともに我に啓明を与えたまえ! アラリムよ、活動せよ! オファニムよ、回転し輝け! ハヨト ア カドシュよ、叫び、語り、吠え、唸れ! カドシュ、カドシュ、カドシュ、シャダイ、アドナイ、ヨハヴァー、エルカゼレイエ! ハレル・ヤー、ハレル・ヤー、ハレル・ヤー。アーメン。אמן


 上記の召喚文で、サタン、ベルゼブブ、アドラメレク、その他の悪魔らの名前は、単独の霊ではなく、不浄な霊の軍団を指すのを覚えておく必要がある。福音書で闇の霊は「我らは軍団レギオン、我らは多くあるからだ」と述べている。数は法を構成し、進歩は地獄ではアナーキーの領域として逆向きで行われる。すなわち、サタンの開発段階で最も進歩し、結果として最も品位を落としている者は、最も知性と能力の無い者である。そのため、悪魔らが上昇を望み、自らがそう信じたら、宿命の法はこれらをさらに下へと落とす。また、自らを首領と呼ぶ者らは、最も無能で全てに嫌われている者らである。ひねくれた霊の集団として、これらは未知で不可視で理解できずに気まぐれで執念深い首領の前で震え、彼は決して自らの法を説明する事は無く、その腕は理解できなかった者らを叩くべく常に用意されている。彼らはこの亡霊にバアル、ユーピテル、その他のより尊い名を与えており、それらは地獄では冒涜無しには語れない。だがこの亡霊は神の影と残存にすぎず、気まぐれな強情により醜くされており、正義の懲罰や真理の呵責のように想像の中で固執されている。
 召喚した光の霊が悲しげだったりイライラした顔つきをして現れたら、我々は彼に徳の供犠を捧げる必要がある。すなわち、彼に捧げたものを心の中で捨てるようにする。そして小礼拝堂を去る前に、「平和が汝とともにあらんことを! 我は汝に困難をもたらすのを望んでおらず、我を懲罰するなかれ。我は汝を苛ただせた何であれ、自らを高めるべく努めよう。我は汝とともに、汝のために、今も未来も祈ろう。汝も我とともに、我のために祈り、汝は大いなる眠りに戻り、再び共に目覚める日を期待せよ。沈黙とともにさらばだ」と言って彼を退去させなくてはならない。
 私はこの章を、黒魔術について興味津々な者のために少し詳細を述べる事無く終える訳にはいくまい。テッサリアの妖術師らやローマのカニディアスについては、古代の著者らの何人かが記している。そこでは、まず穴を掘って、そこで黒い羊の喉を割く。シラミや幼虫を先に穴の底に集め、血を飲ませるべく周囲を徘徊させ、それから魔術の剣によって追い払う。三重の面を持つ女神ヘカーテやその他の黄泉の神々が召喚され、それから呼び出したい死者の霊の名前を三回呼ぶ。中世では降霊術師らは墓を荒らして、死者の脂肪と血に、トリカブト、ベラドンナ、毒キノコを混ぜた魔の飲物や軟膏を造った。これらは人間の骨と教会から盗んだ十字架を使いつつ、火で沸騰させ梳かせた。それから乾燥させたヒキガエルの塵と主に捧げた灰を加え、この地獄の軟膏を彼らのこめかみ、手、胸を塗り、悪魔のペンタクルを描き、絞首台の下か廃墟となった墓で死者を召喚した。彼らの吠え声は遠くにも聴こえ、遅れて到着した旅人らは死霊の軍団が地から起き上がるのを想像した。大木らは彼らの目には恐ろしい姿に見え、火の玉らが茂みで瞬き、沼のカエルらはサバトの神秘的な言葉をしわがれた声で木霊しているように見えた。これは幻覚の磁気であり、狂気の感染であった。
 黒魔術の進行の目的は、理性を乱し、大胆な大犯罪を犯すに至る熱狂的な興奮を生み出す事にある。かつてあちこちの国家権威により抑えられ焚書されてきたグリモアは、確実に無害な書とはいえぬ。生贄、殺人、盗みは、現実化させる手段として大っぴらに、あるいは示唆する形で、ほとんど全てのグリモアには記されている。よって「大グリモア」と、その近代版である「赤竜」では、「死の混合物あるいは哲学者の石」と称するレシピがあり、希硝酸の汁、銅、砒素、緑青で構成されている。また降霊術のプロセスも記されており、その構成は墓から土を爪で引き裂いて骨を引き出して、胸の部分で十字架状にする。それからクリスマスイブの深夜ミサに参列し、パンとワインが聖別される時に教会を飛び出して、「死者よ、墓から起き上がれ!」と叫ぶ。その後、墓場へと帰って、棺桶のそばの土を掴み、叫び声によって騒然としている教会の扉へと走り戻り、二つの骨を十字架状に置いてから、再び「死者よ、墓から起き上がれ!」と叫ぶ。もしも作業者が取り押さえられて精神病院へ送られることが無ければ、彼は真っすぐな道、つまり広道か目盛りの壁に沿って、4500歩を数えつつ、ゆっくりとした歩調で退かねばならない。そして到着した場所で、彼は大地に棺桶のように横たわって、陰気な声で「死者よ、墓から起き上がれ!」と繰り返す。最後に、彼は現れるのを望む死者の名前を三回呼ぶ。疑い無く、このような作業をするよう自らを捨て去るほどに狂っており邪悪な者は、全てのキメラと亡霊の虜となるだろう。ゆえに、「大グリモア」のレシピは、最も効き目があるが、読者の誰もこれを試さないように勧める。



高等魔術の教理と祭儀 2-14
↑ 高等魔術の教理と祭儀


*1 ウェイト注。読者はこの輝ける詭弁を、「普遍的な学」に属する論理の、またフランス第二帝政時代の絶対主義の発見者の例として、よく観察する事が出来るだろう。あるいはこれはレヴィの「オカルトの聖域」の価値のテストである。これはレヴィが「この事実から逃げるのは難しい」と本当に考えていたからではなく、彼は嘲りの自由を行うのを十分に良く知っていたからである。