高等魔術の教理と祭儀 2-10

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第十章 オカルト主義の鍵


 ではペンタクルについて今度は検討してみよう。なぜなら、力の秘密とは方向付けられた知性体にあるゆえ、全ての魔術の性質はここにあるからである。私はピュタゴラスとエゼキエルのペンタクルの象徴とその解釈について述べているので、もはやそれらについて繰り返す必要はあるまい。古代ヘブライ人の崇拝のための道具の全てはペンタクルであり、そこではモーセによる聖書の最初と最後の言葉が黄金と真鍮の板やその他の装飾品に彫られていた事について、後の章で明かそうと思う。だが個々の魔術師は自らの個人的なペンタクルを持てるし、持たねばならぬ。なぜなら正確に理解するならば、ペンタクルは心の完全な要約だからである。ゆえに我々はティコ ブラーヘとドシェントゥの魔術カレンダーの中で、アダム、ヨブ、エレミヤ、イザヤ、その他全ての偉大な預言者ら、それぞれの時代のカバラの王であり、この学の大ラビだった者らのペンタクルを見つけられる。
 ペンタクル、単独の印により表現された完成され完全なる総合は、一瞥や想起や触れる事により、全ての知的な諸力への焦点を当てるのに仕える。これは意志の効果的な放出のための所謂、開始点となる。黒魔術師とゴエティア魔術師は、彼らが生贄として捧げた犠牲者の皮の上に地獄のペンタクルを描く。生贄の儀式では、子羊の皮を剥いで、塩漬けし乾燥させてから、皮をなめす方法については、幾つかの「ソロモンの鍵」とグリモアで与えられている。一部のヘブライのカバラ学者も似たような愚劣さに堕ち、高所や地の洞窟で生贄を行う者に対しての聖書の破門宣告を忘れている。儀式的に行われた全ての流血は忌わしくも不浄なものであり、ヒラム アビフの死以来、真の達人らの結社は、血の恐怖――エックレーシア アブホレット ア サングイネ(血を厭う教会)となった。
 東洋全体で用いられていたペンタクルの秘儀参入の象徴主義は、全ての過去と現代の神話学の鍵である。このヒエログリフのアルファベットの知識が無ければ、研究者はヴェーダ、ゼンド・アヴェスタ、聖書の曖昧さの中に迷うことになろう。善と悪をもたらす樹は、四つの大河の源であり、その川の一つは黄金の国――すなわち、光の国――を流れ、別のものはエチオピアあるいは闇の王国を流れる。磁気的な蛇は女を誘惑し、女は男を誘惑し、ゆえにこの蛇は引き寄せの法則として知られる。結果として、象徴の守護者の火の剣を持つケルブあるいはスフィンクスがエデンの聖域の門に置かれた。それにより、労苦による世代の流れと、苦しみによる繁殖となったが、それこそが秘儀参入と試練の法である。カインとアベルの分裂は、ギリシア神話のアンテロースとエロースの争いと同類の象徴であった。大洪水でのノアの箱舟はオシリスの棺桶と似ており、ノアが黒いカラスを放っても帰ってこずに、白い鳩を放ったら戻ってきたのは、反対物とバランスの教義を新たに定めた事を意味する――これらの創世記の素晴らしいカバラの寓話は、文字通りに実際の歴史として受け取っていたら、ヴォルテールがそれらになしたよりも、さらに嘲りと侮蔑を生み出す事にしかなるまい。それらは永遠の真理の教義と、世界の全ての聖所との同等物である秘儀参入の普遍性に情熱と愛とともに賛美する秘儀参入者には明らかとなる。
 モーセ五書、エゼキエルの預言書、聖ヨハネの黙示録は、聖書の全体系での三つのカバラの鍵である。エゼキエルのスフィンクスは、契約の箱のある聖所にあったものと同等物であり、またエジプトの四つ組の四部の再現であり、お互いに回転する輪らはピュタゴラスの調和の諸圏であり、カバラの規則に正確に合うように計画された新神殿は原初のメイソンリーの働きの典型である。聖ヨハネの黙示録は、同じ像と数を再現しており、エデンの世界を新しいエルサレムとして再構築している。だがここでは、四つの大河の源は、神秘的な樹ではなく太陽の子羊へと変えられている。労苦と血による秘儀参入は達成され、そこにはもはや神殿は無いが、それは真理の光が普遍的に放散されており、世界全体が義の神殿となったからである。この聖書の最後の輝ける幻視、教会が良き理由から、より良き生の現実化として引用するこの神の楽園は、全ての過去の大異端者らと多くの現代の理想主義者らへの落とし穴であった。全ての人間の同時の解放と絶対的平等は、進歩の阻害と結果として生そのものの阻害も含むのだ。全てが平等である世界では、赤子も老人も存在できないし、そのため誕生と死も受け入れられない。新しいエルサレムとは、善悪を知る知識も無く、自由も無く、生成と死も無かった原初の楽園以上のものでは無いのをこれらは示している。そのため、我々の宗教の象徴主義は、始まりと終わりとが永遠の円環となっている。
 ドュピュイスとヴォルネーは、その博識さから全ての象徴の相対的な同一性を見出し、結果としてあらゆる宗教の否定へと至ったが、私は同じ道により、正反対の結論へと至った。すなわち、この文明世界には偽りの宗教は無く、世界の人々を照らす神の光、御言葉の至高の理性は、聖ペテロの信仰深い羊らと同様にゾロアスターの子供らも望んでいた。永遠にして単独の普遍的な啓示は見える形で書かれ、理性により説明され、信仰の賢明なる寓話により完成した。そして最終的に単独の真理の宗教、あたかも唯一の神、理性、世界しかないかのような単独の教義と正当な信仰があり、この啓示は誰にも曖昧ではない。なぜなら、世界全体は真理と義を多かれ少なかれ理解し、可能な全てのものは、全てにおいて寓話的にのみ存在出来るからである。有りて有りし者、אהיה אשר אהיה。
 聖ヨハネの黙示録に現れる一見して恐ろしい姿は、全ての東洋の神話と似たヒエログリフであり、様々なペンタクルに作り出す事も出来る。白い衣を着て七つの金の燭台の間に立ち、片手には七つの星を持つ秘儀伝授者は、ヘルメスの特別な教義と光の普遍的な類似を表す。太陽をまとい、十二の星を頭に纏う女は、天上のイシスあるいはグノーシスであり、世俗的生活の蛇が、彼女の子供らを飲み込もうとするが、彼女は鷲の翼を与えられ、荒野へと逃れる――公的宗教の物質主義に対する預言の霊の抗議である。太陽の面を持ち、虹を腰に巻き、雲を衣とし、その足に火の柱を持ち、片足を地に、もう片足を海に置く力強き天使は、真にカバラのパンテオンである。彼の足首はブリアー界、形成の世界の同等物であり*1、足はメイソンリーの神殿の二つの柱、ヤキンとボアズであり、書を持つ手が伸びている雲に覆われたその体は、イェツィラー界、秘儀参入の試練の世界の圏であり、七つの光条をかぶる太陽の頭はアツィルト界、完全な啓示の世界である。驚くべき事に、ヘブライのカバラ学者らはこの象徴主義を認識せず説明していないが、イスラエルの全ての師らの秘密にして不変の教義とキリスト教の至高の神秘はかくも密接かつ分離不能に繋がっているのである。聖ヨハネの象徴にある七つの頭を持つ獣は、輝く七つ組の物質主義的、対立的な否定であり、バビロンの娼婦は太陽をまとう女と同様の形で対応しており、黙示録の四騎士は四匹の寓話的な生き物らと照応しており、トランペット、杯、剣を持つ七つの天使らは言葉と宗教組織と力による善と悪との闘争の絶対性を描いている。よって、秘密の書の中の七つの封印を順に解いていく事で、普遍的な秘儀参入は達成される。このカバラの超越的な書について別の解釈をする解釈者は、時間の無駄をしており、彼らの苦難はただ彼ら自身を愚かしく見せるのみである。ナポレオンを天使アポリオンとし、ルターを天から落ちた星とし、ヴォルテールやルソーを戦士のように武装したイナゴと見做すのは、ただの空想である。同様に歴史上の様々な有名人を666の獣と数値的に同等とする暴力が行われたが、この数については私は既に充分に説明している。ボシュエやニュートンのような者らがこの種のキメラを面白がっているのを考える時、私はその悪徳からは離れていると思われていた天才らも、実際にはそれほど鋭くはないと理解できるのである。



高等魔術の教理と祭儀 2-11
↑ 高等魔術の教理と祭儀


*1 ウェイト注。ここと以下の文にあるカバラの生命の樹の配置は完全に混乱している。レヴィは象徴的天使の足首はマルクト、実際には外的形態の世界を表すと言うべきだったろう。そしてブリアー界は心臓で表わされよう。アタナシウス キルヒャーの「エジプトのオイディプース」にある生命の樹の人間の姿との照応についてと比較せよ。