高等魔術の教理と祭儀 2-9

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第九章 秘儀参入の儀礼


 この学は沈黙により保持され、秘儀参入により永続化される。そのため沈黙の法は、秘儀参入されていない大衆に関しては例外として、絶対的でも不可侵でもない。このような知識は口伝によってのみ伝えられるであろう。そのため賢者らは機会に応じて語らねばならなかった。確かに彼らは語る事もあった――もっとも秘密を漏らすためではなく、他者を発見へと導くためである。ノーリー イーレ、ファク ウェニーレ(来るなかれ、我は来る)はラブレーの決まり文句だった。彼は当時の全ての学の熟達者だったので、魔術を知らなかったとは思えない。ゆえに私はここで秘儀参入の諸密儀も明らかにせねばならぬ。私が前に述べたように、人の運命とは自らを作り出す事にあり、彼は今この時も未来永劫も彼の働きの息子である。万人はこのリストに呼ばれるが、選ばれる者、すなわち先に進む者は常に少数者である。言い方を変えれば、達成を望む者は多いが、選ばれる者は少ない。ところで世界の政府は権利により人類の精華に属し、何らかの連合や権利侵害により彼らがそれを保有するのを防ぐならば、政治的あるいは社会的な革命や変動がそれに続くようになる。自らの支配者である人は、用意に他者の支配者ともなれるが、規律と普遍的な階層の法を彼が見下すならば、それらを防ぐ事もある。共通の規律に従うには、理想と欲求の共同体がなければならず、そのような一致の共同体は、知性と理性を基盤とした普遍宗教が確立されない限りは得る事は叶わない。この宗教は常に世界に存在し、それは一つにして、誤謬無く、欠陥無く、真にカトリック――すなわち普遍的と呼べよう。全ての他の宗教がそのヴェールと影であったこの宗教は、存在により存在を、理性により真理を、証拠と常識により理性を示すものだった。これは理性的な仮説を基礎とした現実により証明され、現実から遊離した仮説による思弁を禁じている。普遍的類推の教義を基にしており、信仰のものと学のものとを決して混同させたりはしなかった。1 + 2 の答えが3以外の何かであったり、その物理では含まれるものが含むものを超えたり、剛体が流体や気体のように活動する、例えば人間の体が閉じた扉を、開くことなく通り抜けられるといった信念のものでは無かった。そのような事を信じると言うのは、子供か愚者のように語る事であろう。だが未知なるものを定義したり、仮説から仮説へと議論し、最後には仮説を断言するために演繹的な証拠を拒否するようになる事は、より馬鹿げている事ではない。賢者は知ることのみを確言し、仮説にとっての合理性と知られる必要性の割合のみの事は知らないと信じる。
 だがこの理性的宗教は大衆には向いておらず、現実的な基盤のある物語、密儀、定義された希望と畏れが彼らには必要である。この理由から、神官階級が世界の歴史に確立してきた。ところで、この神官は秘儀参入により選ばれてきた。そして密儀への裏切りにせよ忘却によってにせよ、聖所での秘儀参入が失われた時、その宗教の形態も消え去っていった。例えば、グノーシス派はキリスト教会をカバラの高い真理により変質化させたものだが、超越的神学の全ての秘密を含んでいた。(霊的に)盲目の者が盲目の者らを導くようになってからは、大いなる不明瞭さ、大いなる衰退、惨めな醜聞らがそれに続き、結果として聖書の中の創世記からヨハネの黙示録までの全てのカバラの鍵は、キリスト教徒にはほとんど理解できなくなり、慎重な牧師らは信者らの間で教授をされていない者がそれらを読むのを禁ずる必要があると判断してきた。文字通りに現実的に解釈したなら、そのような書はヴォルテール学派があまりに多く示しているように、想像もつかない不条理と醜聞の塊へとなろう。これは古代の教義、輝かしき神統記、詩的な伝説全ても同様である。古代ギリシア人はゼウスの愛の放浪を信じていたと言ったり、エジプト人は犬頭やハイタカを信じていたと言うのは、キリスト教徒が老人と処刑された犯罪者と鳩の合体した神を崇拝すると言うくらいに愚かしくも間違った信念である。象徴主義への無知は常に有害である。この理由から私は知らない事、不条理さや独断すらが含まれているように思える宣言への嘲りからまず身を守る必要があり、同様に議論や試み無しにそれらを受け入れるよりも良識を望むのである。
 我々を喜ばせたり不快にさせるであろう何よりも先に、真理――すなわち、理性――が存在し、欲望によってではなく、この理性により我々の行動は規律されるべきで、我々が自らの内側にこの知性を作り出したなら、それは不死の存在理由であり、その正義は内側にある法である。真人は理性的で正当に行える事のみを行え、また彼は愛欲と恐怖も静まらせ、理性のみに耳を傾けよう。ところで、そのような人は誤った大衆のための自然な王であり、自発的な祭司である。そのため古代の秘儀参入は平坦に聖職者の術と王の術と呼ばれていたのである。古代の魔術の学院は祭司と王らのための神学校であり、真の聖職的、王的な働き――すなわち、自然の全ての弱さに超越すること――によってのみ、入門が許されていた。私はエジプトの秘儀参入や、永続しているがその力は失われていった中世の秘密結社について、現在に知られている事をここで繰り返したりはしない。キリスト教過激派*1は、この言葉「汝には一人の父、一人の師を持ち、汝らは全て信仰仲間である」への間違った解釈を基礎としており、聖なる位階制への恐るべき破壊を行った。そのような時から、聖職者の権威は策謀や偶然の産物となり、精力的な凡人は謙遜な優越者、その謙遜さから誤解されていた者に取って代わるようになった。だがそれでも、秘儀参入儀礼は宗教生活の不可欠な法であり、そのような社会は教皇の力を断りキリスト教の力全体と単独で速やかに集中するよう直観的に魔術的に形成された。なぜなら、彼らは曖昧にしか理解していなかったが、秘儀参入の試練と、受容な服従の中の信仰の全能性に拠る事により、それは肯定的に位階制の力に働いたからである。
 実際、古代の秘儀参入では、志願者は何をしたのだろうか? 彼はテーベやメンフィスの神殿の師らに対して、自らの人生と自由を完全に放棄し、数えきれない恐怖、それらは彼に対する計画的な非道と想像するようになるが、に対して敢然と進み、葬式の火葬場へと登り、黒く激しい水の流れを泳ぎ、底なしの絶壁にある未知のシーソーにより吊るされる……この概念の完全な力への盲目の服従ではないかね? しばらくは自由に厳命し、それにより解放を達成するための自由の最も絶対的な実践ではないかね? ところで、これは魔術的全能性の聖なる御国への大志ある者が正確に行わねばならない事、そして常に行ってきた事なのである。ピュタゴラスの弟子らは何年にも渡って沈黙の行を自らに制し、(快楽主義の)エピクロスの宗派の信者すら、平静さと意図的な気質を獲得する事で快楽の主権を理解した。人生とは戦いであり、我々は進歩を望むならば、その根拠を与えなくてはならない。力は自ら降参する事無く、征服されなくてはならないのである。
 そのため競争と試練による秘儀参入は、魔術の実践学の到達のためにも不可欠である。私は四大エレメンツを征服するために必要な方法については既に述べているので、ここでは繰り返さない。古代の秘儀参入儀礼についてより知りたい読者は、「燃える星」「ヒラム アビフのメイソンリー」その他メイソンリーについての幾つかの価値ある文献の著者であるチューディー男爵の書を参照するよう勧めたい。
 だが現在の我々が被っている知的、社会的混沌は、秘儀参入、その試練と密儀の無視に原因があると力説したい。知性よりも狂信性が上回った者らは、福音書の人気のある格言に影響され、人の原始的で絶対的な平等性を信じるに至った。高名な夢想者、雄弁にして不幸なルソーは、彼のスタイルの魔術全てとともにパラドックスを増殖させた。すなわち、社会自身が人を堕落させるのだ――労働における競争と模倣が労働者らを怠惰にすると言わんばかりである。自然と秘儀参入の本質的な法である、努力と自発性と労苦しながらの進歩は、ここでは致命的に誤解されている。メイソンリーには脱会者らがいて、カトリック教会には背教者がいる。その結果はどうだったか? 知的、象徴的なレベルと厳格さのレベルとの取り換えである。上昇の方法を教授する事無く、天の下にある者らの平等を説教するのは、自らを堕落させるのを非難する事にはならないのではないか? そして結果として我々は、カルマニョーラ、サン・キュロット、山岳派らの恐怖政治に苦しめられたのだ。よろめき取り乱した社会を復興させるためには、位階制度と秘儀参入を再び確立する必要がある。この任は難しいが、その必要性について知的世界全体が感じている。我々はそれらが成功する前に別の社会混乱に入らねばならないか? 私はそうではないと強く信じる。そして本書は、その果敢さへのおそらくは最大のものであるが、最後のものではなく、死と腐敗の直中にて生の再建のために生きようと望む者ら全てへ訴えるものがあろう。



高等魔術の教理と祭儀 2-10
↑ 高等魔術の教理と祭儀


*1 レヴィはプロテスタントの宗教改革の事を述べているようである。