高等魔術の教理と祭儀 2-6

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第六章 媒体と媒介者


 魔力の獲得には、私が示してきたように二つのものが不可欠である――隷属からの意志の解放と、支配の術におけるその教授である。意志の主権は、女が蛇の頭を砕くのや、輝ける天使が竜をランスと足元で抑えつける、我々の宗教の諸象徴により表わされている。この場で私は誤魔化しなく確言しよう。大いなる魔術の動者――光の二重の流れ、地の生けるアストラルの火――は古代の神起源説における頭が雄牛、山羊、犬である蛇により表わされている。これはカドケウスの杖の二重の蛇であり、創世記の古き蛇でもあった。だがまた、モーセの青銅の蛇、タウの二重の文字でもあり、生成のリンガムであった。さらに、サバトの山羊、テンプル騎士団のバフォメットでもあり、グノーシス派の質料ヒュレーである。また太陽の雄鶏アブラクサスの足を形作る二つの蛇の尾でもある。要するに、エウデ ド ミルヴィル氏の悪魔であり*1、魂が地上の鎖から解放されたいと望むならば乗り越えなくてはならない盲目の力である。彼らの意志がこの致命的な誘惑者から離れていない限り、この流れに飲み込まれてしまい、中央にして永遠の火へと戻されるだろうからだ。ゆえに、魔術の作業全体は、古き蛇の囚われから解放する事から成り、足で蛇の頭を踏みつけ、それを自らの意志のままに向かわせる。「あなたが私を崇拝するならば、私は地上の全ての国々を与えましょう」と福音書の神話でこの蛇は言った。すると、秘儀参入者はこのように答えなければなるまい。「私は汝に跪かず、汝は我が足元でうずくまってなければならない。汝は私に何も与える必要はないが、私は汝を用い、私が必要なものを取るだろう。なぜなら、私は汝の主である支配者だからである」――このような返事は、ヴェールをかけた方法により、救い主イエスの言葉に含まれているのである。
 私は個人的な悪魔などいないと先に述べた。これはその名前が示すように、誤って方向づけされた力である。誤った意志の鎖により形成されたオドあるいは磁気流が、この悪霊を構成し、福音書ではこれをレギオンと呼び、豚らを海へと飛び込ませるようにした――これは、過ちと悪意により働く盲目の力より、低位の本能の存在が誘惑されるのを示す別の寓話である。この象徴はオデュッセウスの仲間らが魔女キルケーにより豚へと変えられた話と比較されよう。オデュッセウスが何をして、自らを保ち、仲間らを救ったかに注目せよ。彼は呪文の杯を飲むのを拒否し、剣により彼女に命令したのだ。キルケーは喜びと魅惑ある自然の象徴である。我々は楽しむためには彼女を乗り越える必要がある。それがホメーロスの物語の意義であり、この古代ギリシアの真の聖なる書らには、高度な東洋の秘儀参入の全ての密儀が含まれている。
 そのため、自然な媒体は留まった意志の蛇の常に活動的で誘惑的なものである。我々はそれに常に服従させる事で抵抗しなくてはならない。好色や貪欲や情熱や愚鈍な魔術師らは不可能なまでに怪物的な連中である。魔術師は考え意志し、欲望を何も愛さず、情熱を拒否する。情熱(passion)という言葉は、受動的passiveな状態を意味し、魔術師は常に活動的で勝利者である。この成就の達成は、超越学の要点である。それにより、魔術師は自らの創造を達成し、大いなる作業は少なくともその原因と道具は満たされる。人の全能の大いなる動者あるいは自然の仲介者は、外的な自然の仲介者すなわち解放された意志により乗り越えたり方向付けられたりはできない。アルキメデスは世界を持ち上げるためには、世界の外にてこが要ると仮定した。魔術師のてこは、知的な立方体石、アゾットの哲学者の石――つまり、絶対理性の教義と対称者の共感による普遍的調和である。
 我々の時代の最も多産な著者の一人であり、これらの考えに最も捕らわれていない者であるウージェーヌ シュー氏は、不愉快さを与えるよう努める個人に関する大長編小説を書いている。彼は小説家の意志に対して興味深くなり、そのため彼はこの人物に忍耐、大胆さ、知性、天才を豊富に与えた。我々はシクストゥス V.の類の存在である――貧しく、控え目で、情熱が無く、世界全体を彼の巧みな組み合わせの蜘蛛の巣に狩らえている。この男は敵らに情熱を引き起こさせ、お互いに対立させて滅ぼす。それにより、大言壮語や虚栄や詐欺無く目的に達する。彼の目的は世界を社会性から自由にする事であり、この著者はそれを危険で悪意あり、うますぎる話だと信じる。ロダンは病んた家、病んだ服装、人間性の拒絶に満ちているが、自らの作業には忠実である。彼の意図への継続性から、著者は彼をみすぼらしく、不潔で、醜く、触るのも嫌で、見るのも忌わしい人物として描いている。だが、この外観は内なる作業への仮面であり、それにより確実に達成できるとしたら、これは高尚な勇気の肯定的な証明ではないか? ロダンが教皇となったら、彼は病んだ衣服で汚いであろうと考えるか? ゆえに、ウージェーヌ シュー氏は要点を失っている。彼の目的は迷信と狂信を嘲る事だが、彼の攻撃は知性、力、天才、最も重要な人間の美徳に向けられている。ロダンのようなタイプはイエズス会に多くいるし、それ以上の者すらいるので、華々しい提唱者らの輝ける不器用な特別な弁解があろうとも、私は対立勢力を多くは評価しないだろう。
 良く意志し、長く意志し、常に意志し、決して何事にも欲を持たないのは、力の秘密であり、魔術の奥義であり、タッソーが描いたリナルドを助けて魔女アルミダの呪文を破った二人の騎士である。彼らはニンフらの誘惑や恐るべき野獣らに耐え抜いた。彼らは欲望も恐怖も無く留まったので、自らの目的に達した。この逸話から、真の魔術師は愛されるよりも恐れられると言えなくはないか? 私はそれを否定できない。生の誘惑は豊富にある事は認めつつも、アナクレオンの慈悲深き天才と愛の詩の若き開花全てを完全に認めつつも、私は快楽主義の尊重すべき信奉者らには超越の学を好奇心の対象のみに留めて、決して魔術の三脚に近づくべきではないと伝えたい。この学の大いなる作業は、感覚の快楽を愛する者には死を招くのである。
 本能の鎖から解放された者は、動物らの服従によりまず自らの全能性に気づくだろう。預言者ダニエルの獅子のねぐらでの物語は、ただのおとぎ話では無く、初期キリスト教徒を獅子に食わせる迫害でも同様の事が起き、ローマ人らの目の前でこの神秘現象は繰り返された。どの動物も恐れない者はほとんど恐怖もしない。獅子殺しのジュールス ジェラルドの弾丸は魔術的で巧みであった。彼は一度のみ真の危険に陥った。彼は臆病な同伴者に従うのを許して、この軽率な人物が死ぬ直前に見てしまい、彼もまた恐怖に捕らわれたが、それは彼自身というよりこの仲間に対してであった。このような豪胆さを得るのは多くの人々は難しいか、あるいは不可能であり、この人格の中の意志とエネルギーの力は、生まれながらのものだと言うだろう。私はそれに反論するつもりはないが、同時に習慣は自己の性質を改善すると指し示したい。意志は教育により完成させられるし、他でも述べたように、全ての魔術儀礼、宗教儀礼は、忍耐と力により意志を試し、実践し、身に着けさせるため以外の目的は無い。我々が今では充分に理解できるように、この実践がより難しく労苦であればあるほど、その効果は強くなる。
 本来、磁気主義の現象を探知するのが不可能とされてきたのは、秘儀伝授を受け、真に放出できる作業者がまだ現れていないからである。誰が自らがそうだと自慢できよう? 我々はそのための新しい自己制御を今まで作ってこなかったのだろうか? 同時に、自然はその意志を説得できるだけの強さを持つ者の印と言葉に従うのは確実である。私は自然は従うだろうと言ったが、自然は自らを偽ったり、その可能性の秩序をかき乱すとは言っていない。言葉、呼吸、接触による神経症へのヒーリング、ある場合には肉体の復活、殺人者らを武装解除させ狼狽させるのに充分な悪しき意志への抵抗、さらには避けたい相手の視線から自らを透明にする能力――これら全てはアストラル光の放出や引き寄せの自然な効果である。よって、ウァレンティウスはカイザリアの神殿へと入った時に眩暈と恐怖に襲われ、大ヘリオドロスすらもエルサレムの神殿に入った時に、突然の狂気に襲われ、天使らに懲罰され踏みつけられたと信じたようにである。また、ガスパール ド コリニー提督*2も、その威厳の放出により彼の暗殺者どもに敬意を植え付けさせ、唯一顔をそむけて倒れ込んできた狂人の手によって殺されている。ジャンヌダルクが常に勝利してきたのは、彼女の信念の魅力とその勇敢さの奇跡によるものだった。彼女は自らを攻撃しただろう軍勢を麻痺させ、英国人は彼女を魔女あるいは女妖術師と真剣に見做していたのである。実際問題、彼女は自覚をしない女妖術師であり、彼女自身は超自然的な働きと信じていたが、実際には彼女のオカルト諸力の操作によるもので、これは普遍的で同じ法則により常に支配されているのである。
 磁気動者の魔術師は、自然の媒体に命令し、その結果として我々の器官が魂と対話する事により、アストラル体も命令するのである。彼は肉体に向けて「眠れ!」と、アストラル体に向かっては「夢見よ!」と言わねばならない。それにより、幻覚剤の幻視のように、見えるものの様相も変化するのである。カリオストロ伯爵もこの力を有していたと考えられており、彼は香によってその活動を強めさせていた。だが真の磁気力はこれらの補助を超えているべきで、これら全ては多かれ少なかれ理性に有害で健康にも害があるのである。ラゴン氏は、彼のオカルトメイソンリーの学究書で、夢遊病を誘引させる薬のレシピを与えている。この知識を否定するわけではないが、分別のある魔術師はこの実践は避けるべきであろう。
 アストラル光は一瞥により、声により、手の親指と手のひらにより放出する。音楽は声の補助として有力であり、それゆえ、enchantmentの言葉がここから由来する。人間の声よりも魅了させる楽器は無いが、ヴァイオリンやハーモニカの高い音色は、この力を強めさせるだろう。服従するよう指示された患者は、この方法により準備され、そして彼が呪具チャームにより包まれるなどで半分麻痺したら、両手を彼に向けて伸ばして、眠れや見よなどと命令されるならば、彼は自らが否定しようとしても従うだろう。彼がなおも抵抗するようなら、凝視をして、片方の親指を彼の両目の間に、もう片方の親指は胸元に軽く触れさせる。呼吸はゆっくりと柔らかく温かく行い、低い声で「眠れ!」や「見よ!」と繰り返すのだ*3



高等魔術の教理と祭儀 2-7
↑ 高等魔術の教理と祭儀


*1 ウェイト注。エリファス レヴィの本にはよく引用されるので、J. エウデ ド ミルヴィル侯爵は、聖霊論や「霊の流体的出現」に関する大著により、フランスの斯界に考慮に値する印象を与えたと述べられよう。彼は1853年から1868年の間に少なくとも10巻に及ぶ書を書いている。磁気の夢遊病と心霊主義を含めた全ての超常現象は、サタンの力として扱われている。この観点を除けば、彼の徹底した歴史的記録は、考慮に値する研究と見做されており、それらは現在でも価値があるが、これらの巻の完本は容易には得られない。
*2 ユグノー戦争でのユグノー派の将軍。1572年のサン バルテルミの虐殺で死亡する。
*3 これは今でいう催眠術であり、レヴィの19世紀半ばにはオカルトのメスメル主義、動物磁気理論と混同していて、ややこしくなっていた。