古今の秘密の教え 人類創造のカバラの鍵

ページ名:古今の秘密の教え 人類創造のカバラの鍵

人類創造のカバラの鍵


 ヘンリー ステファンは1607年に出版した「驚異の世界」の中で、ある聖アントニオの修道士について記している。この修道士はエルサレムにいた時に、古代のヘブライ父祖らにより、御言葉が受肉した四肢の一つや、ベツレヘムの星からの光線のみならず、セラフの鼻、ケルブの指の爪、モーセの角、キリストの息が含まれている小箱も示されたと宣言している! セラフが充分に物質化した鼻を持っていると人々が暗に信じていたような時代には、ユダヤ哲学のより深遠な内容が理解されなくて当然であった。さらにケルブ――聖アウグスティヌスによれば福音書記者を意味し、アレキサンドリアのフィロンによれば諸天の中の最外周を意味し、教父らの何人かは神の知恵を表すとした存在――が指の爪を伸ばすと聞いた時、古代の賢者らがどう考えたかを想像するのも難しくはない。秘儀参入を受けておらず理解力に限界がある者らのために寓話として造られた人物らと、神的な諸原理との、このどうしようもない混同は、霊的諸真理の最も酷い誤解を生み出した。だが今でも、これらに近いような馬鹿げた諸概念は、旧約、新約聖書の象徴主義を真に理解する事への堅固な障壁となっている。人が何世紀にもわたって自らの心に降り注いできた、迷信の不条理の蜘蛛の巣を思考力により解き崩さない限り、真理はどう見つけられようか?


 旧約聖書――特に最初のモーセ五書――には伝統的な世界と人の創造の物語が含まれているのみならず、その中にはモーセのエジプトの秘儀参入者らの神人(秘儀参入者)の創造と、哲学を通じての彼の再生の密儀に関する秘密も隠されている。イスラエルの立法者モーセは一般的に彼が書いたとされる書の他にも、幾つもの書を書いていたと知られてきた。現在一般的に第6、7のモーセの書として噂されているものは、実際には中世の頃の軽信に基づいた黒魔術のまがい物の文献群にすぎない。聖書の何億という敬虔で思慮深き学徒らがいる事を思えば、ごく僅かの者のみが、神の秘密の教え(アドナイのユダヤ密儀)の深遠さを感じているのは、ほとんど信じがたい事である。だがゲマトリア、ノタリコン、テムラーと呼ばれる3つのカバラの技法に熟達する事により、古代ユダヤの超物理学の多くの深遠な真理を見つける事が可能となる。


 ゲマトリアとは文字をその同等の数値と取り換える事のみならず、それらで建てられた構造の神秘的目的を測る解析の方法でもあった。S.L.マクレガー マサースは、「ヴェールを剥がれたカバラ」の中で、ゲマトリアの応用の例を挙げている。「また創世記 第18章2節の一節、VHNH ShLShH、ヴェヘナー シェルシャ。「見ると、三人の人が」は、ALV MIKAL GBRIAL VRPAL、エル ミカエル ガブリエル ヴェ=ラファエル、「これらはミカエル、ガブリエルとラファエル」と同値で、どちらの句も701である。」11、9、6インチの不等辺三角形があるとして、そのような比率の三角形はイェホヴァの象徴として相応しいだろう。なぜなら、この3面の合計は26で、それはヘブライ語のIHVHの値となるからである。ゲマトリアはまた、様々文字の組み合わせの中で用いられる、文字の大きさや筆法を解析する事により、言葉の中の秘密の意味合いを見つける体系も含まれていた。ゲマトリアはユダヤ人だけではなくギリシア人も用いていた。新約聖書の諸書――特に聖ヨハネが書いたとされるもの――には、この使用に関する多くの例がある。ニケフォロス カリストスは、エルサレムの神殿の地下洞窟で見つかった聖ヨハネの福音書は、「キリスト教時代よりも遥かに古くから」隠されていたと公言した。この第4の福音書の中の様々な改竄箇所の存在は、この書は元はイエスについての何ら具体的な引用が無く書かれており、彼についてとされている文は元は普遍的精神の個人化による神秘的な講話だったという考えの証拠となっている。残りのヨハネの書――使徒書簡とヨハネの黙示録――にも、似たような神秘のヴェールにより取り囲まれている。


 ノタリコンとは、ある言葉の中のそれぞれの文字が、新しい言葉の最初の文字とする技法である。よって、創世記の最初の言葉、BRAShITh、ベラシートは6つの言葉へと拡張でき、それらは「始まりにおいて神エロヒムはイスラエルは律法を受け入れるだろうと見た」という意味となる。マクレガー マサース氏は他にも、上記の言葉から中世のカバリスト、ソロモン メイル ベン モーゼスによりノタリコンを用いての6つの別の例も挙げている。エリュトライの神託に帰する有名な折句から、聖アウグスティヌスはΙΧΘΥΣの言葉をノタリコンにより、「イエス キリスト、神の子、救い主」の句へと拡張させた。別のノタリコンの方法は、先に話した内容の反対で、句の中の言葉らの最初、最後、中間の文字を組み合わせて、新しい単独や複数の言葉を作り出す。例えば、アーメン ἁμήνという言葉は、おそらくארנימלרנאטז「主は忠実な王」を短縮したものだろう。これらが聖書の中に暗号的に含まれているので、古代の神官らは弟子らに、聖書の中身を決して翻訳、編集、書き換えをしないようにと警告していた。


 テムラーの技法により、先に用意された図表を用いたり、文字、レギュラー、イレギュラーな数学的な配置により、様々な文字を他の文字へと置き換える事によって、様々な体系は集約され説明される。これにより、アルファベットは二つの同じ長さの行に分割され、下の行にある文字が上の行の文字と置き換えられたり、その逆を行ったりする。この方法により、言葉Kuzuの文字は、テトラグラマトンのIHVHの文字と交換される。テムラーの別の方法では文字は再配列のみされる。שתיהは世界の中心で見つかる石であり、この点から地は全ての方向へと広がる。そして石が二つに割れたら、שת יהとなり、これは「神の場所」を意味する(「ペクデイ ラコヴ」71、72を参照)。またテムラーには、英語の言葉liveを逆にしたらevilになるように、単純に逆から読む方法もある。テムラーは古代ラビらの最も複雑で深遠な諸技法に属する。


エゼキエルの幻視

「熊」の聖書より


 この絵はスペイン語で出版された最初のプロテスタント版聖書からのもので、預言者エゼキエルがケバル川のほとりで視たメルカヴァー、イェホヴァの戦馬車が記されている。預言者は4匹の奇妙な生き物(絵の中のEと書かれた場所)を観て、それぞれの生き物には4つの頭、翼があり、牛のもののような青銅の蹄があった。そして多数の目で満たされた4つの輪(F)もそこにはあった。ケルビムが行く場所には輪らも共に進んだ。ケルビムと輪らの間には燃える炭で満たされていた。戦馬車の頂点には御座があり、そこには人のような者(H)が座っていた。エゼキエルが渦巻く雲と炎(A,B,C)に包まれたメルカヴァーを観ると跪いた。雲から手(K)が伸びてきて預言者は手が握っていた巻物を食べるように命ぜられた。


 神秘家らによると、神の御座を支えているこの輪らは、惑星らの軌跡を表している。そして太陽系全体はまさに、メルカヴァー、神の戦馬車なのである。カバラの部門の一つでは、天の下にあるこれらの諸惑星の術と学を扱うもので、メルカヴァーと呼ばれる。ゾーハルでは、エゼキエルの幻視の天の御座は伝統的な律法を表し、御座に座る人のような者は、書かれた律法を表わすと記している。アレキサンドリアのフィロンは、契約の箱にあるケルビムの像は、天全体の循環の暗示であると公言した。ケルビムの一匹は、太陽系の外側の周回を表し、もう一匹の方は内なる圏である。それぞれが向き合う事は、世界の二つの半球を表している。創世記にあるケルビムの燃える剣とは、動きの中心であり、天の諸惑星を刺激するものである。また、太陽光線を表す可能性も極めて高い。


 神学者らの間では、これまで受け入れられてきた聖書の翻訳は、原典の精神を適切に表現していないという確信が強まってきている。


 H.P.ブラヴァツキーはかく記す。「神の書の最初の版はユダ王国の祭司ヒルキヤにより編纂され世界へと放たれました。この版はやがて消え去り、大祭司エズラが新しい聖書を作る必要が起き、ユダ マカバイが完成させました。(中略)この聖書が角文字から四角文字へと変換された時に、知らないままに腐敗しました。(中略)そしてマソラ本文がこの破壊の作業を完成させました。最終的に、我々は900年の伝統ではなく、省略され、改竄され、計画的に曲解された聖書を得ています。」(「ヴェールを剥がれたイシス」参照)


 ハーヴァード大学のクロフォード ハウエル トイ教授は、こう記している。「聖書は写字生らにより何度となく複写されてきたが、彼らは時に文字や言葉を間違えるのみならず、文書に新しい内容を加えたり、分割の記述もせずに、違った者によって書かれた文書を一つの文書に纏めたりするのを自らに許していた。この種の例は、特にミカ書やエレミヤ書、預言者イザヤやザカリアの名の下の様々な預言の集まりの中に見つけられる。」(「ユダヤ教とキリスト教」参照)


 この聖書の細切れにされた状態――部分的には偶然による――は、秘儀参入を受けていない読者らを混乱させる決定的な効果があり、その結果としてユダヤ教のタンナーイーム(賢者)らの諸秘密を隠す事にならなかったろうか? キリスト教徒らが、イスラエルの秘密教義が含まれた隠された巻物らを保有する事は無く、カバリストらが断言する様々な密儀の失われた書らがトーラーの織物の中に織られているという仮説が正しいとするならば、聖書とはまさに書の中にある書である。ラビらの中では、キリスト教徒らは旧約聖書を理解してこなかったし、おそらくこれからも永遠に理解出来ないという意見が一般的である。実際、彼らの間では――少なくともその一部では――旧約聖書はユダヤ教の排他的な保有物であるという感覚がある。また、キリスト教徒はユダヤ人への呵責な弾圧の後に、自らの聖書の中に厳格なユダヤ教の書も含める不当な自由を手にしたが、キリスト教徒らがユダヤ聖書を使わねばならないならば、少なくともある程度の知性とともに励む必要があると、あるラビは注記している!


 創世記の始めにて、光が創られ闇と分かたれた後、7体のエロヒムは天空の上にある海を、天空の下にある海と分けたと記されている。それにより低位の宇宙が確立したという内容は、ヒンドゥー、エジプト、ギリシア密儀の秘密の教えと完全に一致する。次にエロヒムらは植物と動物、最後に人の創造へと注意を向けた。「そして神は言った。『我らの』形に、『我らに』似た姿に人を作ろうと。(中略)そして神は『彼』自身の形に人を創造された。すなわち、神の形に創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、『生めよ、増えよ、地に満ちよ――』」


 「英国文献の最も完全な例」からの上記の引用にて、複数形代名詞の驚くべき使用について黙想せよ。ヘブライ語の複数形で両性具有のエロヒムという言葉は、英語聖書では単数形で性の無いゴッドという言葉へと翻訳された時、創世記の最初の諸章はかなり意味を失う事となった。この言葉が「男と女の創造的な諸力により」として正確に翻訳されていたとしたら、キリスト教徒らは常に一神教を主張しているくせに、複数形の神々を崇拝していると正当に非難されるのを恐れたのかもしれない! だが我々や我らといった複数形の代名詞は、神の多神的性質を誤り無く明らかにする。さらに、エロヒム(神)の両性具有の構造は、次の句で「彼」(神)が男を、「彼の」姿に形どって作り、男と女を、あるいはより適切に言うならば、性の分離はまだ起きていなかったので、男・女を作り出したと記す事で明らかにされている。これは神はミケランジェロがシスティーナ礼拝堂の天井に描いたような男性原理であるという長い伝統概念への致命傷の一撃である。そしてエロヒムはこれらの両性具有の存在らに「生めよ」と命ずる。ここでは男性原理も女性原理もまだ分離していないのに注意せよ! そして最後に、地に「満ちよ」(replenish)という言葉のreの接頭辞には「元あるいは前の場所あるいは状態へと戻る」や「繰り返しや回復」の意味があるのにも注意しなくてはならない(「ウェブスター国際辞典」1926年版参照)。この創世記で後に記される「人の創造」の前に、人類が既に存在していた決定的な引用は、聖書を最も表面的にしか読まない読者にとっても明らかである。


 エロヒムの言葉の複数形についての聖書辞典、事典、注釈書の考察は、これらの高名な著者や編者らの理解力を超えている。よって「シャフ・ヘルツォーク宗教知識百科事典」は、エロヒムの言葉の複数形への論争を要約している。「神は単数形に変えられたのか、それとも元々そうだったのだろうか?」 ジェームズ ハースティングス編集の聖書辞典には、以下の結論が含まれているが、それらは聖書の語源学者らのより批判的な感情を反映している。「複数形の使用により、エロヒムは説明が難しくもなった。」ハヴァーニック博士は、エロヒムの複数形を、神の豊かな存在を強調するためと考えた。「定評ある聖書百科事典」の中での彼の意見は、この極めて危険な言葉の抜け道を探す努力を表している。「国際標準聖書辞典」は現代の神学者ら――ハヴァーニック博士はその良い例である――が与える説明は、初期のヘブライ人らの考えについて技巧的すぎると見做し、この言葉はヘブライ人の多神教時代の思考の生き残りを表すという意見を保持している。「ユダヤ百科事典」は、以下の簡潔な文とともにこの仮説を支持している。「碑文、言い伝え、民話をこの問題の光に当てる限り、古代ヘブライ人らは多神教徒だったのを示している。」


 ユダヤ教や異教の様々な哲学学派は、アダムの本性についての学識深い違った説明を与えている。この最初の人間について、新プラトン学派は人のプラトンのイデア――人の原型あるいはパターンを認めている。アレキサンドリアのフィロンは、アダムは人の心を表すと考えた。彼は生き物らを理解する(ゆえに、名前を付ける)が、自らの性質の神秘については理解していない(そのため、名前無きままにしている)。またアダムはエデンの圏で完全な統一状態で住んでいたので、ピュタゴラスのモナドとも同一視された。単独者モナドが二つ組ドゥアド――不一致と迷いの適切な象徴――に分かれたように、アダムも天の家から追放された。よって、二つに分けられた人類は分割されない創造に属する楽園から追い払われ、ケルビムと燃える剣が原因界の門を守護するために置かれた。その結果、自らの中に統一を再構築した後にのみ、人は自らの原初の霊的状態を回復できる。


 イサリムによれば、イスラエルの秘密教義では、それそれがカバラの4世界に住んでいる、4人のアダムの存在を教えていた。第1は天のアダムで、アツィルト界に住み、彼の中に全ての霊的、物質的な潜在性がある。第2のアダムはブリアー界に住んでいて、最初のアダムと同様に両性具有であり、その体の第10の部分(足首、マルクト)は、イスラエルの教会と関連しており、蛇の頭を砕かねばならない。第3のアダム――同様に両性具有である――は光の体を纏い、イェツィラー界に住む。第4のアダムはアシアー界へと「没落」した後の第3のアダムであり、この時にはこの霊人は動物の殻あるいは皮の衣を身に纏う。第4のアダムはなおも単独の存在と見做されていたが、分割は彼の中で始まっており、二つの殻あるいは肉体が存在し、その一つは男性原理の具現化であり、もう一つは女性原理のものである(更なる詳細については、アイザック マイヤーの書を参照せよ)。


 アダムの普遍的性質は、彼がそれにより形成された様々な形質について考える事で明らかとされる。彼を形成するために用いる「塵」は元は7つの世界からもたらすよう神により定められた。だが、これらの諸界が形質を与えるのを拒否したので、創造主は力づくで、これらからアダムを形成するためのエレメンツをねじり取った。聖アウグスティヌスはアダムの名前の中にノタリコンの要素があるのを発見した。アダムの4文字A-D-A-Mは、Anatole Dysis Arktos Mesembria、世界の4隅の名であるギリシア語の4単語の頭文字であるのを彼は示した。また彼は、アダムをキリストの原型と見て、こう記している。「アダムは眠っている時にエバが創られた。キリストは死に、教会が創られよう。アダムが眠っているうちに、彼の脇腹からエバが創られた。キリストが死んだとき、その脇腹は槍で突かれ、そこから教会が創られる聖餐(血)が流れた。(中略)アダム自身は来るべきキリストの形象なのである。」


 最近出版された「ユダヤ教」で、ジョージ フット ムーアはアダムの大きさについて記している。「彼は世界の四方全てを満たす巨大な形質である。彼の体が創られた塵は、世界のあらゆる部分や後の祭壇から集められた。この者は両性具有として造られたという記述は非常に興味深い。なぜなら、それは創世記の最初の部分に当てはめるには、少し異質だからだ。R.サムエル バー ナフマン(3世紀の人)は、神がアダムを創る時、神は2つの方法により創り出した(דיו פרעופים)。そして神はこれら2人を見て、その2つの背中もそれぞれ1つずつ作ったと述べている。


 ゾーハルはこの2人のアダムの概念を保持している。第1の者は神的な存在で、至高の原初の闇から流れ出て、第2の地上のアダムを自らの像から創り出した。高次の天のアダムは、原因の圏にいて、神的な能力と巨大な人格性としての潜在性を有していた。グノーシス派によると、そのメンバーらは存在の基礎エレメンツであった。このアダムは、片方の面が自らに近い原因を観て、もう片方の面が自らが浸される宇宙の巨大な海を観る、両方を観る者の象徴だったと見做せよう。


 哲学的には、アダムは人の完全な霊的な性質――両性具有で、腐敗に属さない――を表すと見做されよう。この充分な性質について、死すべき定めの人間はわずかしか知らない。霊が形質を自らの中に含み、形質の源と究極の状態の両方であるように、イヴはより偉大で満たされた霊的な創造から取られたか、あるいは一時的な存在である、低位で死すべき定めで部分的な存在を表していた。個人性の低位の部分を表す存在として、イヴは死すべき定めの知識の蛇と策略する誘惑者として、アダムを自らの高次の自己に無意識となる昏睡状態へと沈める原因となった。アダムが表面上は目覚めた時、実際には彼は眠りに陥っている。彼はもはや霊とともにではなく、肉体とともにあるからである。彼の中で分割は始まり、真のアダムは楽園の中で安らぎ、その間彼の低位の部分は物質的構造体(イヴ)へと転生し、死すべき定めの存在の闇の中を彷徨う。


 イスラーム教徒らは、他の宗派の秘儀参入を受けていない者らと比べて、楽園の神秘的な重要性についてよく理解していたように思える。彼らは、没落の前に人が住んでいた場所は、地上のどこかにある物理的な園ではなく、命の4つの神秘的な流れが注がれてくる高次の圏(天使の世界)だと気づいていたからである。楽園から追放された後、アダムはセイロン島に降りたという言い伝えがある。そしてこのスリランカ島――かつてはインド亜大陸と陸橋で繋がっていた――はエデンの園の実際の場所であり、ここから人類は発祥したと知る一部のヒンドゥー宗派からは聖地と見做された。「千夜一夜物語」(リチャード ブルトン卿の翻訳)によれば、アダムの足跡はなおもセイロン島の山頂で見る事が出来るという。イスラームの伝説では、アダムは後に妻と仲直りをし、彼の死後には、その死体は大洪水の結果としてエルサレムまで運ばれ、祭司王メルキセデクにより埋葬されたという(「アル クルアーン」を参照)。


 ADMという言葉は種族あるいは民族を意味し、適切な理解を欠けた者のみが、アダムを個人と考えている。大宇宙としてアダムは巨大な両性具有者で、デミウルゴスですらある。小宇宙として、彼はデミウルゴスの主な生成物で、その性質の中にデミウルゴスは自らが持つ力と性質全てを植え付けている。だがデミウルゴスは不死を持っておらず、そのためそれをアダムに与える事は出来なかった。伝説によればデミウルゴスは創造主の不完全さについて人が学ぶのを防ごうと努めていた。結果としてアダムの子孫の人は、デミウルゴスの配下の天使らの特質と特徴を共有する事となった。グノーシス派キリスト教徒は人類の贖罪は、ヌース(普遍的精神)から降下してきて、デミウルゴスより上位の霊的存在である者、人の中へと入ってきて、デミウルゴスの生成物へ意識の不死を授ける者により確実とされると断言していた。


 初期のユダヤ神秘主義で男根の象徴が重要な役割を占めていたのは疑いない。ハーグレイブ ジェニングスはアダムの像をシヴァ神のリンガム、ヒンドゥー教で世界の創造力を表す石と同類のものと見ていた。ジェニングスは記す。「グレゴリウスの書には『ノアはアダムの体、すなわち男根――アダムは原初の男根、人類の偉大な父祖である――の前で箱舟について日々祈っていた』と記している。この日々の祈願はアダムの体の前で行われねばならないという決まりは一見奇妙に見えるかもしれないが、『アダムは自らの死体を約束の時が来たるまでは、いと高き神の祭司によって、פדככאלאוע 地の中心にて地下に埋められずに置かれなければならないと神から命ぜられていたというのは、オリエントの人々の間で最も認められた言い伝えである』と彼は記す。この地の中心とは、モリア山、インドでのメール山を意味する。アダムの体はミイラ化され、親から子への世代へと受け継がれていき、やがてはラメクからノアの手へと渡された。」(「男根主義」参照)


 この説明は、最初のアダムはイスラエル人の全ての魂を含んでいるというカバラの主張をある程度は明白にしている(「ソド」参照)。アウレア レゲンダではアダムは知識の樹の3つの種を口に含んだまま埋められたとあるが、相矛盾する神話らが、単独の人間を巡って織り成されることがよくあるのは、心に留めておく必要がある。カバラの密儀の深遠さの一つは、アダム(ADM)の名前の文字のノタリコンにある。この3つの文字はアダム、ダビデ王、メシアの頭文字でもある。そしてこの3つの個人は1つの魂を含むと言われる。この魂は人類の世界魂を表すとして、アダムは巻き込む魂を、メシアは進化する魂を、ダビデ王は後成説と呼ばれる魂の状態を意味する。


ノアとその黄道の箱舟

マイヤーの「カバラ」より


 初期のキリスト教教父ら――特にテルトゥリアヌス、フィルミニアヌス、聖キプリアヌス、聖アウグスティヌス、聖クリュソストモス――は箱舟を聖カトリック教会の原型あるいは象徴と見做していた。ベーダ ヴェネラビリスはノアは全てにおいてキリストの原型であると公言した。ノアはその時代で唯一の義人であり、キリストも罪無き唯一の者だったからである。キリストとともに7つの恵みの霊らがあり、ノアには7人の正しき者らがいたからである。ノアは水に飲まれ、木が彼の家族を救ったが、キリストは洗礼を受け、(木の)十字架がキリスト教徒らを救う。箱舟は木により創られ腐敗する事が無い。教会は永遠に生き続けるだろう人々により構成される。なぜなら、箱舟は教会が世界の波の上に浮かぶのを意味するからである。


 上記の図も、ハーグレイブ ジェニングスの「薔薇十字団」からの再現である。この著者は「古代ユダヤ 第9の書」からと思われるオリジナルの図に黄道のサインを追加し、白羊宮を先頭に第5の横梁のある獅子宮まで順に置いている。ジェニングスは扉を含んだパネルを、処女宮・天秤宮・天蝎宮の星座の連なり(それらは、第2の部分の第1の副区分まで続く)に置き、残りの4つの断面図に、人馬宮から双魚宮までを配置している。この図を検討するなら、箱舟は11の主な部分に分割され、それぞれは底と天井の部分で3つに副分割できるのが明らかとなる。よって、全てを合わせたら聖数33となる。箱舟に人の姿を重ねたなら、性器の部分が中央の扉と重なり合うのも注記すべきであろう。箱舟には2つの開かれた部分が示されており、その一つはメインの扉で、ここを通じて動物の生らは物理的存在へと降りていくのを表す。別のものは、頭頂と重なり合っている小さな窓で、ここを通じて霊は古代の儀式に従って自由を得る。


「両性具有の天蝎宮・処女宮が分離され、天蝎宮により作られ、天蝎宮すなわち男性原理と、処女宮すなわち女性原理の間の均衡あるいは調和が崩れた時、我々が今持つ32の星座あるいはサインが現れた。箱舟には3階(おそらくは天と人と地の象徴であろう)ある。この人の姿では、髪は前髪と、顎髭と頬髭と口髭の集まり、さらに首と肩の後ろの髪の3つに分割できるのに注意せよ。」(アイザック マイヤーの「カバラ」参照)


 アジアの一部の哲学の学院らと同様に、ユダヤ密儀には、神々の影らに関する奇妙な教義が含まれている。深淵をのぞき込んだエロヒムは自らの影らを見て、それらの影から低位の創造が形成されたというものだ。オクスフォードのベリオール カレッジの匿名の師はこう記す。「密儀での人の創造のドラマチックな描写において、エロヒムはアダムの創造で自らの影をかたどった、あるいは壁に映った自らの影をなぞった人々を表している。これは古代エジプトを起源とする描画の術から来ており、神殿に刻まれたヒエログリフの人物像は、なおも影に似たものとなっている。」


 初期のユダヤ密儀の儀式において、創造の祭典が制定されており、様々な役者らが創造の諸力の役を扮していた。アダムがそこから創られた赤い土は火を意味するが、それはアダムはヨドの文字、火の炎、イェホヴァの御名の最初の文字と関連づけられていたのが主な理由である。ヨハネによる福音書 第2章20節で、神殿は46年かけて建てられたという言葉があるが、ここに聖アウグスティヌスは秘密にして聖なるゲマトリアを見た。数のギリシア哲学によれば、アダムの名前の値は46だからである。そのためアダムは神殿の種類となる。神の家は――原初の人と同様に――宇宙の縮図である小宇宙だからである。


 この密儀において、アダムは霊的生成の特別な力を持つとされた。肉体の生成のプロセスを用いて自らの子孫を作る代わりに、アダムは自らから影を放った――あるいはより正確に言うならば、形質へと反映させた。この影は魂を与えられ、生き物となった。だが、これらの影は反映の元となったオリジナルが存在する限りにおいて存在できた。オリジナルが無くなると、似たような者らも消え去るからである。ここに、アダムの脇腹から創られたエバの寓話的創造の鍵がある。アダムはイデアあるいはパターンを表し、それはエバで表される集合的な無数の魂が与えられた像らとして、物質宇宙に反映する。別の理論によれば、性の分離は原型の圏で起こり、それにより低位の世界で影らは原型によって確立した秩序に基づく二つの区分に分かれた。男女が一見して理解しがたいように引き寄せ合うのを、プラトンは原型の存在の片割れ同士が再統合を望む宇宙的衝動と見做していた。


 創世記で象徴的に記されている性の分離は正確に何を暗示しているかには、多くの議論がある。人が原初には両性具有だった事は、極めて普遍的に認められており、彼はやがてはこの二重の性の状態を回復できるだろうと考えるのは筋の通った仮定である。それによって、2つの意見がさらに伴うであろう。一つの学派は、人間の魂は実際には2つの部分(男性と女性)に分割されており、人が愛と呼ぶ感情を通じてこれらの部分が再統一されるまで、人は不完全なままであろうと確言する。この概念は「ソウルメイト」の多くの乱用されている教義に育っていき、そこでは人は魂の片割れを見つけ出すまでは、長きにわたって旅をしなくてはならないと伝える。現代の結婚の概念は、ある程度はこの理想主義に基盤がある。


 もう一つの学派では、いわゆる性の分離は、理性機能の開発のために生命エネルギーが用いられるために、両性具有の一つの極の優位性の結果だと考える。この観点からは、人は実際にはなおも両性具有であり、霊的には完成しているが、この物質世界では男性の性質の中の女性原理の部分と、女性の性質の中の男性原理の部分は活動停止状態にある。だが密儀によって授けられる霊的な拡張と知識を通じて、それぞれの性質の中にある潜在的な要素は徐々に活動性をもたらされ、やがては人間は性的均衡を取り戻せるとする。この理論からは、女性は男性の逸脱した部分という立場から完全な平等へと引き上げられる。この観点から結婚は、2つの対称の極性を発現する完全な個人による交わりであり、それによりもう片方の眠っている性質を目覚めさせ、人格の完全性の達成を得る助けとなると見做される。第一の理論では結婚は目的として、第二の理論では結婚は目的のための手段として見做せよう。哲学のより深遠な学派では、創造の両方の側面での神の完全性の無限の潜在性をより認めているので、後者の方と考えるのを好んでいた。


 キリスト教会はこの結婚の理論には本質的には反対しており、霊性の至高の段階は、童貞状態を保持した者らのみが得られると主張していた。この概念は初期のグノーシス派キリスト教の一部の宗派から来ているように思える。彼らは出産はデミウルゴスの力を増大させ永続させると教えていた。この低位の世界は産まれた全ての魂を捕らえる悪しき創造と見ていた――よって、魂を地上にもたらすのを助けるのは、犯罪であった。そのため、不幸な父や母は、最後の審判の被告席に立ち、その前に全ての子供達が現れ、この物理的存在の苦悩をもたらした原因として告発される。この観点はアダムとエバの寓話により強められた。生成の神秘において彼らの罪を通じて人類が低位の世界にもたらされたというのは普遍的に認められていた。父アダムに物理的存在を負う人類は、この父祖をその苦悩の主要な原因と見做しており、最後の審判の日に力ある子孫として蘇り、その共通の父形の先祖を告発するであろう。


 これらのグノーシス宗派は、この主題にはもっと理性的な考えを持っており、これらの低位の諸世界には、いと高き創造主がそれらの創造には決定的な目的があったのを意味すると宣言した。そのため神の判断に疑いを抱く事は、重大な過ちと見做された。だが教会はこの点に関して神を正す驚くべき特権を持っているかのように称した。可能な限りにおいて独身主義を人々に押し付けていき、この実践は多くの神経症患者を作る結果となった。密儀においては、独身主義は特定の霊的達成を得た者のために取っておかれていた。だが、これが啓明をされていない大衆に唱えられた時、危険な異端、宗教と哲学の両方への致命傷となった。狂信的なキリスト教徒があらゆるユダヤ人にイエスの十字架刑を非難してきたように、同様の有害な態度があらゆる女性にも向けられた。エバの弁護のために、この寓話は人が理性の安全な道から逸れるよう感情によって誘惑されるという意味にすぎないと哲学は主張する。


 初期の教父らの多くは、アダムとキリストの直接的な関係を確立するのを求めた。それにより、人類共通の先祖の極めて罪深い性質は明らかに差し引かれるのである。聖アウグスティヌスがアダムとキリストと、エバを教会と繋げた時、教会が人類の没落の直接の原因として意図していないのは明らかであったからである。だが、ある不可解な理由から、宗教は常に知性主義――実際の所、全ての知識の形態――を人の霊的成長には致命的と見做していた。イエズス会士らはこの態度の極端な例である。


 この儀式的なドラマ――古代エジプトから伝えられた可能性が高い――でアダムはエデンの園から追放され、これは人が真理の圏から哲学的に追放されるのを表している。無知を通じて人は没落し、知恵を通じて人は自らを贖う。エデンの園は、その中心に生命の樹と善と悪の知識の樹が育つ密儀の家(エノクの幻視を参照せよ)である。


 人、追放されたアダムは、聖所の外縁(外的宇宙)から至聖所へと入ろうとするが、彼の前には燃える剣を持つ巨大な生き物が起き上がる。その剣はゆっくりと、しかし確実に円形に動き、この「通過できない輪」によって、アダムの人は通り抜けられない。


 よって、ケルビムは探究者に尋ねる。「人よ、汝は塵であり、塵に帰らねばならない。汝は形の建築者によって形作られた。汝は形態の圏に属し、汝の魂へと注がれた息は、形態の息であり、火のように、それは立ち消えになる。汝はそれ以上のものにはなれぬ。汝は外側の世界の住人であり、内なる空間に入るのは禁じられている」


 するとアダムは答える。「私は何度もこの中庭に来て、我が父の家に入るのを懇願してきましたが、あなたは常に拒否して私を闇の中へと彷徨うよう戻しました。私は塵から作られ、我が創造主は私に不死として生まれるよう授けなかったのは真実です。ですが、あなたはもはや私を追放すべきではありません。闇の中の放浪の間、全能者が我が救いを宣言したのを私は見出したからです。神が生み出した、最も隠された神秘がデミウルゴスにより作られた世界へと送られたからです。この世界のエレメンツにより、彼は十字架にかけられ、その彼から私の救済の血が流れました。そして神は、自らの被造物らの中に入り、それを加速させ、その中に神自身へと導く道を確立しました。我が創造主は私に不死を与えませんでしたが、私が形作られた塵の奥深くに不死は受け継がれています。世界が創られ、デミウルゴスが自然の摂政となる前に、永遠の命は自らを宇宙の面へと烙印しています。これがその徴――十字架です。あなたは私が入るのを拒否しますか? ようやく自らについての神秘を学んだ者を?」


 すると声は答えた。「目覚めた者よ! 見よ!」


 彼を見ていると、アダムは自らが輝く場所にいるのに気づいた。その中央には輝く宝石が実となる樹があり、その幹には星々の王冠をかぶった翼のある燃える蛇が絡まっていた。蛇から声が聴こえた。


「あなたは誰ですか?」アダムは尋ねた。


「我は打ち付けられたサタン、我は敵対者――汝に対する主、永遠の審判の前で汝の破滅を弁護する者である。我は汝が産まれた時からの敵である。我は汝を誘惑に試み、汝を悪の手へと渡した。我は汝に悪意をもたらし、汝の堕落のために常に努めてきた。我は知識の樹の守護者であり、我が道を迷わせられる者が誰もこの果実を取れないように誓っている」


 アダムは答えた。「数えきれない間、私はあなたの従者でした。我が無知により、私はあなたの言葉を聞き入れ、あなたは私を苦悩の道へと導きました。あなたは私に力を得る夢を抱かせましたが、苦悩とともに私はそれらの夢は痛み以外は何ももたらさないのに気づきました。あなたは私の中に欲望の種を植え、私が肉の欲望に従った時には、苦悩のみが報いでした。あなたは私を偽預言者と偽の考えへと送り込み、私が真理の莫大さを掴もうと努めていた中、これらの諸法は偽りであるのに気づき、狼狽のみが我が努力の報酬でした。私はあなたとは二度と付き合いません、狡猾な霊よ! 私はあなたの幻覚の世界には飽き飽きしています。私はあなたの邪悪なワイン園ではもはや働きませんとも。誘惑者よ、そしてあなたの配下の誘惑者の集団よ、消え去るがいい。あなたの教える自己愛、憎しみ、愛欲の教義の中には、幸福も、平和も、善も、未来も無い。これら全てを私は放り出します。あなたの支配を永遠に捨て断ちます!」


 すると蛇は答えた。「見よ、アダムよ。汝の敵対者の性質を!」蛇は太陽の輝きの中へと消え去り、やがてそこには一人の輝く天使が立っていた。天使は黄金の衣を着て、その大きな緋色の翼は天空の片方からもう片方まで広がっていた。狼狽と畏怖の念とともに、アダムはこの神の生き物の前に跪いた。


 声は響いた。「我は汝に敵対する主であり、よって汝の救済を達成させる者である。汝は我を憎んできたが、世々限りなく汝は我を祝福すべきであった。なぜなら、我は汝をデミウルゴスの圏から解放するよう導いてきたからである。我は汝を俗世の幻影に対するようにしてきた。我は汝に欲望を捨てさせ、我が共にある不死を汝の魂の中で目覚めさせた。我に従え、アダムよ、我は道、命、真理だからである!」


古今の秘密の教え タロットカードの分析
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