古今の秘密の教え 結論

ページ名:古今の秘密の教え 結論

結論


アリストテレスとアレクサンドロス王子


 マケドニアの王ピリッポス2世は最高級の教育を彼の14歳の息子アレクサンドロス*1に与えられる教師を得ようという熱意があった。王子が偉大な哲学者らの中でも最も学識深い者を師とする希望を持ち、アリストテレスに白羽の矢を立てた。王は以下の手紙を偉大な賢者へ送った。


「ピリッポスよりアリストテレス殿へ、つつが無きよう。
 余には息子がいるのをご存知でしょうか。余は彼が生まれた事というより、彼が『あなたの時代に』生まれた事に対して、神々に多くの感謝をしております。なぜなら、余はあなたにより彼が教育され鍛えられるのを望むからです。彼は我々と彼が継承する王国にとって価値ある者となりましょう。」


 ピリッポス2世の依頼を受け入れ、アリストテレスは第108オリンピア紀の4年目にマケドニアへと旅立ち、それから8年間、アレクサンドロスの家庭教師として留まった。この若き王子へのアリストテレスの影響は多大なものがあり、彼はアリストテレスを父のように感じるようになった。王子は言った。父ピリッポスは余に存在を与えたが、アリストテレスは余に良き存在を与えたと。


 古代の知恵の基礎諸原理はアリストテレスを通じてアレクサンドロス大王へと授けられた。この大哲学者の薫陶のもと、マケドニアの若者はプラトンの不滅の弟子として人格化されるギリシア哲学の超越性を理解した。その偉大な教師により哲学の圏の境界へと高められ、大王は賢者らの世界を見た――自らでは征服できないと告げる魂の宿命と限界の世界を。


 アリストテレスは余暇にホメーロスの「イーリアス」を編集し注記し、完成した書をアレクサンドロスへと贈った。若き征服者はこの書を高く崇め、その東方遠征中でも常に肌身に離さずにいた。ダレイオス3世*2への勝利の時、ペルシア王が放棄した持ち物の中に宝石が散りばめられた軟膏を入れる小箱を見つけた。大王は中身を地面へと捨てて、ようやく余は「イーリアス」のアリストテレス版を入れる価値のある箱を見つけたと宣言した!


 アジアへの遠征中に、アレクサンドロスはアリストテレスが最も誉れある論文集を出版したのを知り、この出来事は若き王を深く悲しませた。そのため、未知なる世界の(知的)征服者アリストテレスに、既知なる世界の(軍事)征服者アレクサンドロスは、世俗の虚飾と権勢からの恨みと悲しみと告白の手紙を送る。「アレクサンドロスよりアリストテレス先生へ、お元気でありましょうか。先生は本来、口承で伝えなくてはならないこの学のこれらの部門を出版したのは悪い事でした。余が先生から教えられた深遠な知識が、誰もが読めるようになるとしたら、余が他者に勝る何がありましょう? 余は征服と支配を広げるよりも、この深遠な学の部門で人類の大半よりも勝る方を好みます。つつがなきよう。」この興味深い手紙は、アリストテレスの穏やかな生活に小さなさざ波も与えなかった。哲学者は大王に、大勢のものがこの論文集を読む事が出来るものの、その講義は(霊的理解が欠けた者らには)誰もその真の意味は理解出来ないと返事に書いた。


 アレクサンドロス大王の生涯は非常に短く、その個人的天才性によって建てられた帝国は大王の死とともに崩れ去った。その1年後、アリストテレスもまた世を去り、リュケイオンで何度となく弟子らとその神秘について語り合っていた大いなる世界へと旅立った。だがアリストテレスはアレクサンドロスを生涯超えていたように、その死においても超えていた。その肉体は忘れられた墓の中で朽ち果てつつも、偉大な哲学者はその知的到達においてなおも生きている。時代につぐ時代にアリストテレスに大いなる賛辞が捧げられ、世代につぐ世代にその理性的な思索の鋭い超越性による理論は思案されていた。アリストテレス――「知者らの師」とダンテが呼んだ――は、アレクサンドロス大王が剣により征服しようとした世界全体の実際の征服者となったのである。


 よって、人を捕らえるには、その肉体を奴隷にするのは充分ではなく――その理性の支持を得るのが不可欠なのを表している。そして、人が自由を得るには、その四肢から枷を外すのでは充分ではなく――その心も自らの無知の束縛から解放されなくてはならない。物理的な征服は、憎しみと意見の対立を作り出し、怒れる肉体の復讐に心を駆り立てるゆえに、常に失敗する。だが全ての人間は望もうが望むまいが、性質と徳が自らよりも上位と認める知性には服従する。


 古代ギリシア、エジプト、インドの哲学文化が現代社会よりも優れていたのは、全ての者らから、たとえ最も確信のある現代主義者らからも認められている。これまでギリシアの黄金時代の芸術、知性、倫理に並ぶ時代はなかった。真の哲学者は人類の最も高貴な集団に属する。これら啓明された思想家らを持つ国家や民族は祝福された者らであり、無論、幸運であった。そして、これらのために、彼らの名前は記憶されよう。クロトーンの有名なピュタゴラスの学院では、哲学は人の生には欠く事の出来ないものと見做されていた。思弁の力の尊厳を理解出来ない者は、生きているとは適切には言われなかったろう。そのため、生来の頑迷さから、この哲学の友愛団から自発的に出ていくにせよ、強制的に追い出されたにせよ、出ていくメンバーがいたら、その者のために共同墓地に墓石が建てられた。知的、倫理的追求を禁じられ、物質の圏へ感覚の幻影と偽りの野心とともに再び入る者は、現実の圏での死者と見做されたからである。束縛により表わされる生は、ピュタゴラス学派の感覚においては、霊的な死と考えられ、一方で感覚の世界の死は霊的な命と見做されていた。


 哲学は威厳と生の意味を明らかにする生き方を与える。物質主義は創造的な考えと気高き美徳を活気づけさせる人間の魂の機能を麻痺させたり曇らせる死を与える。この20世紀に生きる人々が基準とする法のなんと低位なことか! 今日の人間、自己進化の無限の可能性のある深遠な生き物は、偽りの基準に忠実であろうとし、自らの生来の理解を――その結果を知らずして――物質の幻影の渦巻へと飛び込ませている。その世俗の日々に、耐え難い物事の領域に耐えようと哀れにも無益な努力に捧げている。その霊的存在としての記憶は徐々に心の中から消え去り、自らの部分的に目覚めた能力全てを産業界の働きバチとして集中し、それを唯一の現実とまで考えるようになる。自己尊厳の高潔な高みから、ゆっくりと束の間の暗い泥沼へと自らを沈めていく。獣のレベルに自らを落とし、神の計画への不十分すぎる知識から起きる諸問題に対して野卑な仕草で愚痴をこぼす。この大いなる産業的、政治的、商業的な地獄の毒々しい騒ぎの中で、人々は自らが招いた苦難にもがき苦しみ、渦巻く霧へととびこみ、成功と力へのグロテスクな亡霊を掴んで握り続けようと足掻く。


ヨハネの黙示録の幻視

ジャン デュヴェの銅版画より


 ラングル地方出身のジャン デュヴェ(1485年に生まれ、およそ1561年頃に死ぬ。この年に自らのヨハネの黙示録の銅版画は本の形で出版される)は最も古く偉大なフランスルネッサンスの版画家である。その生涯は、フランス王の金銀細工師であった以外には、ほとんど知られていない。その70歳での死の後に出版されたヨハネの黙示録の銅版画は代表作である(この忘れ去られた師についてのさらなる情報は、「芸術」誌の1926年5月号のウィリアム M.アイヴィンス Jrの記事を参照せよ)。この画での聖ヨハネの顔は、実際のデュヴェの顔の描写である。この版画は、デュヴェの他の多くの版画と同様に、哲学的象徴の宝庫である。


 生の原因への無知、生の目的への無知、死の神秘の背後に何が横たわっているのかへの無知、それら全ての答えは自らの内側にあるにも関わらず、人は自らの内外にある真善美を世俗の野心の血塗られた祭壇に捧げようと望む。哲学の世界――同胞愛の絆の中に住む賢者らの思考のかの美しい庭園――は人々の視野から消えた。石と鋼鉄と煙と憎しみの帝国の勃興のこの場所、人となり得る何百万もの生き物が、未知の目的に向かってゴロゴロと転がるジャガナート*3に似た、彼らが立てた巨大な組織を存在させ保持しようと、死に物狂いの努力であちこちと走り回る世界、人が天上の世界より勝れるとの空しい信念により打ち立てたこの物質主義の帝国で、獲得の輝きに幻惑させられ、全ては石となる。あたかもメデューサの貪欲の顔を見た人が石化するようである。


 この商業主義の時代、科学はただ物理的な知識の区分と、自然の一時的で幻影的な部分の研究のみに向けられている。いわゆる実践的発見は、人を物質的な限界により縛り付ける働きしかせず、宗教もまた物質主義的となった。信仰の美と威厳は、教会建築の石材の多さ、不動産の面積、収支決算書により測られる。天と地を巨大な梯子のように繋げ、その格(こ)を登る事で、万世の啓明された者らが現実の生ける実在へと至ろうとした哲学――この哲学すらも、自己矛盾する記法による活気の無く異質なものから成る塊となった。その美、その威厳、その超越性はもはや無い。人間の思弁の他の分野と同様に、これもまた物質主義化――「実践的」――となり、これらも石と鋼鉄の現在社会を建てる部分として貢献するように方向付けられた。


 現在のいわゆる学者の集団により、思考家らの新秩序が起き上がったが、それらは「世俗の賢者の学派」と名付けるのが最良であろう。彼らが知的な地の塩という驚くべき結論に到達した後、これらの物書きの紳士らは、自らを人と神両方の全ての知識の最高裁判官の地位に就任させた。この集団は、全ての神秘家らは癲癇病者で、ほとんどの聖人らは神経症患者だと確言した! 神は原始的な迷信による作り物だと宣言し、宇宙は特別な目的のためには無く、不死は想像力の産物で、天才は細胞の偶然の組み合わせにすぎないと! ピュタゴラスは「豆恐怖症」に罹っていたと見なされ、ソクラテスは悪名高い飲んだくれ、聖パウロは怒りっぽく、パラケルススは悪名高い山師、カリオストロ伯爵はいかさま師で、サンジェルマン伯爵は歴史上の驚くべき詐欺師だと!


 世界の啓明された救い主と賢者らの高尚な諸概念と、この世紀の「現実主義」のこれらの矮小化し曲解した産物と一致するものがあろうか? 今日の魂無き文化体系の中に取り囲まれた世界中の男女らは、美と啓明の失われた時代が帰るよう泣き叫んでいる――言葉の高次な意味における「実践的」な何かのために。現在のいわゆる文明の形態は、消失点にあるのに少数の者らは気づき始めている。冷たき、心無き、商業主義で、物質的効果性は「非実践的」で、愛と理想の表現のための機会を与える事のみが、真に価値があるものである。世界中の人々は幸福を探しているが、どこを探せばいいかは知らない。幸福は理解のための魂の探求に栄光を帰させると人は学ばねばならない。無限の善と無限の達成を悟る事によってのみ、内なる平和は確立する。物質中心の世の中にあっても、人の心の中に哲学へと向かう何かがある――哲学的な専門用語あれこれではなく、広い完全な意味での哲学にである。


 過去の偉大な哲学の学院らは再興されなくてはならない。それらだけでも、原因の世界と結果の世界を分けるヴェールを覆い取ることが出来よう。密儀――これらの知恵の聖なる学院――のみが苦闘する人類に対して、より偉大でより栄光に満ちて、人と呼ばれる霊的存在の真の故郷である宇宙を明らかに出来る。現代哲学はそれに失敗したが、それは考えるという行為を単純な知的プロセスと見做したからである。物質主義的思考は商業主義そのものと同様に、希望無き生の規定である。真実について考える力は人の救い主である。あらゆる時代の神話的、歴史的な贖い主は、全てこの力の擬人化であった。隣人らよりも少しだけ理性的な者は、隣人らより少しだけ良い者である。世界の残りの者らより理性の高次の界で働く者は、最も偉大な思考家と呼ばれる。低次の界で働く者は野蛮人と見做される。ゆえに、相対的な理性の開発は、個々の進化の状態の真の測定ゲージなのである。


 簡潔に言うと、古代哲学の真の目的は、自然のゆっくりとした進歩のプロセスを待つ代わりに、理性的な自然の開発を加速させる技法を発見する事だった。この力の至高の源、知識の獲得、この内なる神の解放は、哲学的な生の警句的な文の中に隠されている。これこそが大いなる作業の鍵であり、哲学者の石の密儀である。なぜなら、これは錬金術的な変容が達成されたのを意味するからである。ゆえに古代哲学は主に生きる道であり、第二に、知的な技法である。哲学的な生を生きるだけで、その者は高い意味における哲学者となる。彼は人はどう生きるべきかを知るようになる。結果として、偉大な哲学者とは、三重の生――肉体的、精神的、霊的――を自らの理性に全て捧げ、完全にそれで満たされた者である。


 人の肉体的、感情的、精神的性質は相互の利益や損失の環境を与える。肉体的な性質は精神に直接的に影響するので、肉体的な気質の洗練と調和を通じてのみ、高められた心は理性的思考を可能とする。そのため、正しい行い、正しい知覚、正しい思考は、正しく知るための前提条件である。そのため、思考と生き方が調和されている場合にのみ、哲学的な力は達成可能となる。そのためある賢者は生きる学の至高に到達しない限り、知る学の至高には到達できないと宣言した。哲学的な力は哲学的な生の自然の延長である。強固な肉体的な存在が肉体的なものの重要性を強調し、修道士的な形而上学的禁欲がエクスタシー状態を引き起こしやすくするように、完全な哲学的な没入は、思考家の心を全ての圏の中でも最も高くて高貴な場所――純粋な哲学的あるいは理性的な世界へと導く。


 主に一時的な働きの極限の達成を考慮する文明社会では、哲学者は文化的な成長を確立し導く能力のある知性と同等として表わされる。だが個々の中に哲学的リズムを確立するには、通常は15年から20年はかかる。その間の全てにおいて、古代の弟子らは最も厳しい試練に継続的に従っていた。生のあらゆる活動は、徐々に他の興味から遠のかされて、理性的な部分に集中するようになる。また古代世界では理性的知性を生み出して、現代の思考家らの及びもつかない別の最も重要な要素もあった。すなわち、哲学的密儀への秘儀参入である。精神的、霊的な適応性を示した者は、学んだ者の集団へ受け入れられ、幾世代にも渡って継承されてきた値を付けられない遺産が明らかにされた。この哲学的真理の遺産は万世無比の宝であり、それぞれの弟子らはこれらの賢者の友愛団へ入る事が許され、その代わりにこの秘密の知識の貯蔵庫への個々の貢献が求められた。


 世界の唯一の希望は哲学である。なぜなら、現代の生の全ての悲しみは、適切な哲学の規約の欠如から来ているからである。生の威厳の一部しか感じない者も、今の時代の活動に見える底の浅さに気付かざるを得ない。誰も生の哲学を開発しない限りは成功できないと言われる。どの民族も国家も、適切な哲学を形成し、その哲学原理に基づいた手段にその存在を捧げない限り、真の偉大さを得る事はできない。(第1次)世界大戦の時には、いわゆる文明社会は二分され、憎しみの狂乱の中で、人々は人の命よりもある意味では貴重なものを破壊した。彼らはそれにより生は知的に方向付けられる人間の思想の記録を消し去った。ムハンマドが言った、哲学者らのインクは殉教者らの血よりも尊いという言葉は真に正しい。賢者らによる値を付けられない文書、達成の無比の記録、何世代にもわたる忍耐強い観察と実験による知識全ては、ほとんど後悔もせずに破壊された。時のわずかな瞬間のために、宇宙の領域の微小な点を支配しようとする人の欲望と比べられると、何が知識か、何が真理、美、愛、理想主義、哲学、宗教か。野心家の気まぐれと衝動をわずかに満足させるために、宇宙全体は根絶されよう。もっとも、彼は数年で自らも死去し、自らが持つもの全ても後世の者らに取られ、新たな論争の火種となるのを知ろうが。


 戦争――不合理の議論の余地のない証拠――はなおも人々の心の中に燻っている。それは人の利己主義が乗り越えられない限り、死ぬことは無い。様々な発明や破壊的な組織によって武装し、文明社会は未来の世においても兄弟殺しの闘争を続けるだろう。だが人の心に大きな恐怖が起き上がっている――やがては文明は一つの破壊的な闘争により自らを滅ぼすだろうという恐怖が。ならば、再建の永遠のドラマを行わねばならない。その理想主義の死による文明の死の廃墟から、運命の子宮の中にいるまだ原始的な人々が、新世界を作るだろう。その日の必要を予期し、万世の哲学者らはこの新世界の構造の中に、先に滅びた全ての真理にして最良のものが組み込まれるのを望んだ。これは神の法であり、先に達成されたものの総体が、新秩序それぞれの基盤でなければならない。人類の偉大な哲学的な宝は、保存されなくてはならない。迷信的な部分は取り除かれ、本質的で必要な部分はあらゆる代価を払っても残されねばならない。


密儀の家の入口

クンラートの「永遠の知恵の劇場」などより


 この象徴的な図、永遠の生への道を表すものは、クンラートにより要旨が以下の様に記されている。「これは唯一の真にして永遠の知恵の劇場への入り口である――無論、狭い道であるが、充分に威厳があり、イェホヴァの神により聖別されている。この入り口への上昇は神秘家により行われ、争う余地なく先に示され、階段を飛び上がろうとしているのは、この絵で示されている。この階段は信仰深い子らの教義の7段の神学、というより哲学により構成される。この階段を上昇してから、道は父なる神への道に従っていき、それらは直観か様々な瞑想の手段により導かれる。この入り口に輝く7つの神託の法に従い、神の霊観を受けた者は入る力を得て、肉体と心の目によりキリスト教とカバラ、神と魔術、肉体と化学の方法、知恵の性質、創造主の善意と力を見て、熟考し、研究する。この目的のためには、志望者らは詭弁家的に死ぬのではなく、神智学者的に生きよ。良き正当な哲学者らは主の働きを哲学的に説明し、神を全面的に称える事で、神はそれらの友に恵みを与えるだろう」上記の絵と説明は、賢者の家と入るための道の表現の中でも最も優れたものの一つである。


 2つの無知の本質的な形態、単純な無知と複雑な無知が、プラトン学派により認められていた。単純な無知とはただの知識の欠如であり、それは唯一、完全な知識を持つ第一原因(創造主)の後に作られた、全ての者らに一般的である。単純な無知は常に活動している動者で、魂を知識の獲得へと駆り立てる。無垢なる眠りの状態から目覚める願望が育っていき、結果として心の状態の向上となる。人間知性はその部分的に開発された知覚能力を超えた諸存在の形態により取り囲まれている。理解を超えたこの世界は、常に精神の刺激の源であり続けた。よって知恵は、この未知の問題と理性的に対処しようとする努力による結果である。


 最後の分析で、究極の原因のみが、賢者と呼ばれるに値する。より単純に言うならば、神のみが善である。ソクラテスは知識、徳、効用を善の生来の性質と述べた。知識は知ろうとする状態であり、徳は存在の状態であり、効用は行いの状態である。知恵が精神の完全性の別名であるのを思えば、そのような状態は完全な者にのみ存在できる。なぜなら、完全よりも劣った存在は、全てを満たすものを保有できないからである。創造されたどの部分も、完全ではない。ゆえに、それぞれの部分は完全性を満たさない程度に不完全である。この不完全から無知の共存が従う。それぞれの部分は、自らについて知る事はできても、他の部分の自己に気づくことは出来ないからである。哲学的に考えて、人間進化の観点からの成長とは、不均質性から同質性へと進むプロセスである。そのため、やがては個々の断片の孤立した意識は全ての完全な意識へと再統一される。それによって、それによってのみ、全てを知る状態が絶対的な現実となる。


 よって全ての生き物らは相対的に無知であり、同時に相対的に賢い。比較的に無であり、同時に比較的に全てである。顕微鏡は人にその重要性を明らかにし、望遠鏡はその非重要性をである。永遠の時の中で人は徐々に知恵と理解の両方を高めてきたが、その常に拡張する意識は自らの内部よりも外側へと向けられて生きた。人の現在の不完全な状態においても、彼は完全にならない限り、真に幸福とはなれないと気付かせる。そして自己完成に貢献しないどの能力も、理性的知性には無用に等しいと。多様性の迷宮を通じて、啓明された精神の持ち主が魂を統一の完全な光へと導けるし、しなければならない。


 この精神の成長の最も主要な要素である単純な無知に加えて、はるかに危険で微細なものもある。この第二の形態は二元性あるいは複雑な無知と呼ばれ、それらは無知の中の無知と簡潔に定義されよう。太陽、月、星々を拝み、風に供犠を捧げていた原始人らは、その未知の神々を宥める粗雑な呪物を求めた。彼は自らが理解できない驚異に取り囲まれた世界に住んでいた。背むしの原始人らが徘徊していた場所は、今では巨大都市が立ち並んでいる。人類はもはや自らを原始的とも土着的とも見做さない。驚異と畏敬の精神は、知的素養に取って代わられた。現代人は自らの達成を崇拝し、時空の広大さを無意識へと追放するか、完全に無視した。


 20世紀は文明社会の呪具を作り、自らの作り物により圧倒された。その神々は自らの流儀である。人類は自らが実際にはどれだけ卑小で仮初の存在で無知であるかを忘れた。プトレマイオスは大地が宇宙の中心と考えた事で嘲笑され続けているが、それでいて現代文明は、地球が天の全ての圏の中で最も永遠で重要であり、星々の玉座の神々は、この圏の混沌のアリ塚で起きている不朽にして画期的な出来事に魅了されているという仮説の上に成り立っているように思える。


 太古より人々は絶え間なく都市を苦心して建て、華麗さや力とともに支配してきた。あたかも、金の紐や1000万の家来らが、人を自らの考えよりも高められ、その王錫の輝きが遠い星々からも見えるようにするかのようにである。この宇宙を回転する小さな惑星に、20億の人類が住み、この岩の塊を超えた測り知れない存在があるのを忘れながら、生死を繰り返している。時空の無限で測るならば、産業界の隊長らや金融界の君主らに何の意味があろう? これらの財閥の一つが地球そのものを支配するまで興隆したとしても、彼は宇宙的な塵の一粒に座る、ただの小さな独裁者でしかないのではないか?


 哲学は人に、全てと自らとの類似性を明らかにする。人は天空に輝く太陽の兄弟であると示す。人を回転する粒子の上に住む納税者から宇宙市民へと引き上げる。人は物理的には地球(自らの血と骨はその部分である)に結び付いているものの、その内には霊的な力、神の意識があり、それにより宇宙全体と協和していると教える。そのため、無知の無知とは無自覚の自己満足状態であり、それにより人は自らの制限された肉体の感覚の外側を何も知らず、知るべきものはもはや無いと傲慢に宣言する! どの生も肉体を救えないと知る者は、ただの無知である。だが、物質的な生が重要な全てであると宣言し、それを超越的現実の座に押し上げる者は、彼自身の無知の中の無知である。


 もしも無限の存在が、人が賢くなるのを望まないならば、この存在は人に知る力を与え無かっただろう。人が美徳を持つのを望まないならば、人の心に美徳の種を蒔く事も無かっただろう。人が狭い物理的な生に限界させるよう運命づけたいならば、人の知覚や感性に、他の宇宙の広大さを少なくとも部分的にも掴ませる能力を与えなかっただろう。哲学の叫びは万人に精神の友情、思考の友愛、自己の招集をするよう呼びかける。自己中心の空しさから、無知の悲しみから、世俗の絶望から、野心の戯画から、貪欲の残酷な捕縛から、憎しみの灼熱地獄から、死んだ理想主義の冷たい墓から、哲学は人を招く。


 哲学は全ての人々を広大で穏やかな真理の展望へと導くだろう。哲学の世界は平和の国であり、最良の者らが集められ、それぞれの人間の魂は表現の機会が与えられるからである。ここは人々は草葉の驚異を教えられ、小枝や石らも語る力が与えられ、その存在の秘密を述べるだろう。理解の放出を浴びる全ての生は、驚異的で美しい現実となる。世界の創造の四隅から、喜びの讃美歌が広がる。ここでは、哲学の光は存在の理由を明らかにするからである。知恵と善意は全体に広がり、人間の不完全な知性においても明らかとなる。ここで人類の熱望の心は、あたかも鉱脈の最も深い部分に貴金属が眠るように、善の大いなる蓄えである魂の最も内奥より友愛を引き出す。


 賢者らに指し示された道に従い、真理を求める探究者は最終的には知恵の山の頂きへと至り、下を見下ろすと、彼の前に広がる生のパノラマを見る。平原の諸都市は小さな染みにすぎず、どの地平線にも未知の灰色の靄がある。そして魂は幻視の広がりの中に知恵があると気づく。それはこの展望とともに増大していく。そして人の心は天へと引き上げられ、街の中の諸街路は見えなくなり、街々は国へと消えて、国々は大陸に、諸大陸は地球に、地球は宇宙の中に、そして宇宙は永遠の無限の中へと消えていき、ついには2つのもののみが残る。自己と神の善意である。


 人の魂が肉体の中にいつつ、無頓着な群衆と混ざっている状態では、人は実際には自らの世界――自らを内なる性質の深みとの合一へと引き上げる事で見つけ出した世界に住んでいると考えるのは難しい。人は2つの生を生きているといえよう。1つは、生まれてから死ぬまでの苦闘である。その範囲は、人自身の創造物――時によって測られる。これは軽視した生と呼べよう。別の生は、無限への悟りからのものである。それは理解から始まり、その範囲は無限であり、永遠の世界で完成する。これは哲学的な生と呼ばれる。哲学者らは生まれもしなければ死にもしない。なぜなら、ひとたび不死の悟りに到達すれば、彼らは不死だからである。ひとたび自己の内側に不死の基盤があるのを見つけたら、それらは去る事が無くなる。この生ける鼓動する基盤――自己――とともに、彼らは文明を打ち立て、それは太陽も月も星々も存在しなくなっても耐えるだろう。愚者は今日のために生き、哲学者は永遠に生きる。


 ひとたび人の理性意識が墓石から転がり出て、その墓から出てきたら、彼はもはや死ぬことは無い。この第2の、あるいは哲学的な誕生には、死滅が無いからである。これを肉体の不死と考えるべきではない。むしろ、哲学者は物理的な地球は自らの真の世界ではないのと同様に、自分の肉体は真の自己ではないと学ぶ。自己とその肉体は別のもの――肉体は消え去っても、命は滅びない――という悟りともに、彼は意識の不死に到達する。これはソクラテスが「アニュトゥスとメリトゥスは勿論私を死に追いやるだろう。だが、彼らは私を傷つけられない」と述べた時の不死である。賢者にとって、物理的な存在は生の広間の外の間でしかない。この控えの間の扉を開け、啓明された者は大いなる、より完全な存在へと入っていく。無知な者は時空に縛られた世界に住むが、存在の意味と尊厳を掴めた者は、これらの世界は形の幻覚、感覚の幻影――神性の存続への無知から人工的に課せられた限界――である。哲学者はこの存続を悟りつつ生き感動する。なぜなら、彼にとって、この無限の期間は全能の第一原因により、全てを達成する時として定められたからである。


 人は一見すると見える重要でない生き物では無く、その肉体は本当の自己の真の測りではない。人の不可視の自然は、その理解力が及ぶだけ広大で、その思考が及ぶだけ計り知れない。人の心の指は、星々に届いて掴む。その霊は宇宙そのものの鼓動する生と混ざり合う。この理解に到達する事で、知る力は増大し、徐々に宇宙の様々な要素を自らに組み込んでいく。未知なものは、探究者の意識の中にまだ含まれていないものに過ぎなくなる。哲学は人の評価の感覚を開発するのを助ける。なぜなら、これは知識の栄光と充足を明らかにするゆえ、人が7つの圏の秘密に熟達するようになる潜在的な力と機能も解放するからである。


 物質の追求の世界から、古代の秘儀参入者らは精神と霊の生活へと弟子らが入るようにさせた。何世代にもわたって、密儀はリアリティ――ヌーメノン(実体)とフェノメノン(事象)、実体と影の間の仮説的な焦点、その境界に位置していた。密儀の門は常に半開きで立っており、この門を通った者は広大な霊の家へと入れよう。哲学の世界は左にも右にも、上にも下にも無い。全ての空間と物質の中に浸透する微細なエッセンスのように、これはあらゆる場所にある。これは全ての存在の最も内側と最も外側の部分を貫いている。あらゆる男女に、これらの2つの圏は門により繋がっており、非自己から導き、自己とその悟りに関連させる。神秘家には、この門は心臓にあり、彼の感情の霊化を通じて、より高い世界と接触し、やがてこれを感じて知るにつれ、それは全ての価値あるものの総体となる。哲学者には、理性が外側と内側の世界の間の門となり、啓明された精神の者は、肉体的なものと精神的なものとの懸け橋をもたらす。よって、神性は視た者の内側に生まれ、人々と関連する者から彼は神々と関連する者へと至る。


 この「実践的」な物事の時代には、人々は神の存在すらジョークの種にする。彼らは善を鼻で笑い、一方では物質の幻影に酔いしれた心とともに思いめぐらす。彼らは星々を超えた場所へと導く道を忘れている。人々を神の遺産へと導いていた古代の偉大な密儀の学院らは滅び、かつて磨かれた大理石と縦溝彫りの柱で飾られた古代の密儀の学院のあった場所には、今では欲のための策謀を教授する大学が建っている。世界に文化と美の理想を与えていた白ローブの賢者らは、彼らのローブを畳んで、人々の視野から去っていった。にも関わらず、この小さな星は古代も今も神の創造の陽光を浴びている。大きな瞳の赤子らはなおも物理的存在の神秘へと顔を向ける。人はなおも、笑い、泣き、愛し、憎む。ある者らは、なおも高貴な世界、完全な生、より完全な認識を夢見ている。人の心にも知性にも、死すべき定めの者から不死へと導かれる門はなおも半開きにある。美徳、愛、理想主義は、なおも人類を再生するものである。神は今も被造物を愛し、その運命を導いている。この道はなおも達成へ向かって風が吹く。人の魂の翼はまだ欠けていない。それらは肉の衣の下で折り畳まれているのにすぎない。哲学は魔力が土の器を砕くように、習慣と曲解の束縛から魂を解放するのを止めない。古代と同様に、解放された魂はその翼を広げ、自らの源へと向かって飛翔する。


 密儀の叫びは再び語られ、全ての者らを光の家へと案内する。物質主義の大いなる学院は失敗した。人によって作られた偽りの文明は曲がり、フランケンシュタインの怪物のように、その作り主を滅ぼそうとする。宗教は神学的推察の迷路を当ても無く彷徨い続ける。科学は未知の壁の前で無力に自らを叩いている。唯一、超越的哲学のみが道を知る。唯一、啓明された理性のみが、人の理解する部分を、光へと上昇させられる。唯一、哲学のみが、人はどう良く生まれ、良く生き、良く死に、完全な手段で再び生まれるのを教えられる。この選ばれた者の集団――知識と美徳と効用の生を選んだ者たち――万世の哲学者らは「あなた」を招いている。


↑ 古今の秘密の教え


*1 アレクサンドロス3世、大王。紀元前356年 - 紀元前323年。ギリシア連合軍を率いて宿敵ペルシア帝国を滅ぼし、ヘレニズム文化をエジプトと東方まで広げた。
*2 紀元前380年 - 紀元前330年。アケメネス朝ペルシア帝国最後の王。イッソスとガウガメラの戦いでアレクサンドロス軍に敗北し、敗走中に部下の裏切りで殺される。
*3 インドの祭りで使う山車。この下に轢かれて死ぬと天国へ行けるという俗信があり、自殺者が絶えなかった。現在のインドでは飛び込みは禁止されている。