高等魔術の教理と祭儀 2-3

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第三章 ペンタクルの三角形


 コルネリウス アグリッパの魔術の師であったトリテミウス修道院長は、「ステガノグラフィア」の中で召喚の秘密について非常に自然で哲学的なやり方で説明している。もっとも、この理由から、単純で容易に語りすぎているきらいがある。彼は霊の召喚は、その霊の優勢な思考へと入り、我々がその線で高い倫理に立つことが出来るならば、霊を我々から引き離すことが出来、それは確実に我らの助けとなるであろう。呼び寄せるのは、流れの抵抗に反対する事であり、孤立した霊への鎖であり、伴に誓う事であり、すなわち信念の共通の行動をなす事である。この信念の力と情熱が強ければ強いほど、召喚はより効果的となる。これは〈二千年前に〉新たに生まれたキリスト教が古代の神託を沈黙させた理由である。キリスト教のみが直観を持ち、キリスト教のみが力を持つ。後に、聖ペテロ〈の座〉が老いた時、すなわち、世界が教皇庁に対して訴訟するようになった時、預言の霊が神託と取り換えるべく来る。サヴォナローラ、フィオーレのヨアキム、ヤン フス、その他多くの者らが、人々の心を変えて影響を与え、悲嘆と悪意により解釈し、全ての者らの心に秘密の不安と抗議を植え付けた。
 私は霊を召喚する時には個別に活動するだろう。だが、呼ぶには、私はサークルや提携する者らの名前を語らねばならない。これは作業する魔術師について彫られているヒエログリフのサークルの重要性である。ここでは彼は自らの全ての力を取り除かない限り、通り抜ける事は出来ない。この点で、ある重要な疑問と対処するとしよう。霊らの現実の召喚や呼び出しは可能なのか、それらは科学的にデモンストレーションが出来るのかである。この質問の最初の部分は、証明が不可能ではない全ての事は、暫定的に認められるし、認めなくてはならないと答えよう*1。第二の部分については、階層と普遍的類推の大いなる魔術の教義の性質において、現実の召喚のカバラ的な可能性のデモンストレーションは可能だと私は断言する。誠実に達成された魔術作業の結果の超現実的な現象については、経験の問題である。既に述べてきたように、私はそれらは自らに確立しており、この祭儀篇の方法により、私は読者に我が諸経験を繰り返し確認する立場を与えるであろう。
 自然において何物をも消え去りはしない。生きているものは、常に生きており、ただ新しい形態となるのである。それどころか、前の形態も破壊されない。それらは我々の記憶に残るからである。我々はかつて知っていた子供が、今は老人となっていても、子供の頃を想像できないだろうか? 我々が記憶の中で消えたと信じている軌跡は、実際には消えてはおらず、偶然に喚起され思い出すことがある。だが、どのようにしてそれらを見るだろう? 私が先に述べたように、それはアストラル光であり、神経系のメカニズムを通じてその記憶を我々の脳へと転換しているのだ。一方で、全ての形態はそれらを決する概念の比率、類推である。これらは自然な性質で、魔術師は概念の署名と名付けている。概念が活動性へと喚起されると、形態は現実化し形作る。ライプツィヒの有名なイルミナティのシュレイファーは彼の召喚により全ドイツを震撼させ、彼の魔術実験の大胆さは、彼の評判が耐えられない重荷となるまでに大きなものであった。作り出した膨大な幻覚の流れに自らを流すのを彼は許し、他の世界の幻視は彼を悩ませ、自殺する結果となった。彼の物語は儀式魔術に興味のある者への警告であろう。自然は不純な者へは憤慨せず、誰も未知で計算不能な諸力を安全に扱うことは出来ぬ。これらの事は、信じるために見ようとする者らの無駄な好奇心を拒否するよう導こう。私は彼らに、私を懐疑主義により脅してきた、ある著名な英国人にしたのと同じように返答するだろう。「あなたが信じるのを拒否するのには完全に正当な権利があります。あなた自身においてはですな。それは私の勇気を失わせる事も、確信を減らす事もありません」 丁重に勇気をもって全ての儀式を行い、それでも何の結果も無かったと確言する者らに対しては、私はそれらから離れるよう忠告するだろう。それはこれらの異例の作業に彼らを導こうとしない、自然の警告の可能性があるからだ。だが彼らが好奇心のために追求するならば、最初からやり直さねばならないだろう。
 三つ組トライアドは魔術教義の基礎であるので、召喚でも観察されなくてはならない。これは現実化と効果の象徴的な数だからである。ヘブライのシンשの文字は、カバラのペンタクルの中に一般的に描かれ、それは願望の成就を表す。これはまた、神秘のカバラの犠牲の山羊の印であり*2、サンマルタンは畏れ多き四文字の神名テトラグラムの中に入れる事で、贖罪者イエスの名יהשוהとした。中世の秘儀伝授者らからは、これは夜の集会での象徴的な山羊、二本の角の間にある輝く松明の展示により表されていた。この祭儀篇の第15章で、私はこの怪物的動物の寓話的形態と奇妙な宗教儀式について記すつもりである。これは、破門へと落ちるも、光の印により解放された自然を表す。グノーシス的愛餐と多神教の陰茎の饗宴は、達人らが展示から引き出す倫理の結果を充分に明らかにする。これら全ては、大いなるサバトと黒魔術と今では伝説的に見做され非難される儀式とともに、後の章で説明されよう。
 召喚の大円の中に通常三角形は描かれる*3。そして頂点が向く方角は慎重に定められなくてはならない。召喚する霊が天国からのものならば、召喚者は頂点の方に立ち、香の祭壇は底辺の方に置く。だが霊が地獄からのものなら、逆にする。さらに、二つの三角形を組み合わせたペンタクルともソロモンの印とも呼ばれる六芒星の聖なる象徴は、額と胸に身に着け、右手に刻む必要がある。これらの印に加えて、古代人らは召喚において、私が教理篇でヘブライのカバラ学者らから再現した諸神名を組み合わせたものを用いていた。多神教の神学者らの魔術的三角形はアブラカダブラとして祝っていて、これらは極めて徳あるものとされ、以下の様に描かれていた。



 この文字の組み合わせは、ペンタグラムの鍵である。最初のAは、5回繰り返されており、この図全体で30回複製されている。それにより以下の二つの図の要素と数を与える*4



 孤立したAは第一原理の統一を表し、その他のは知的や活動的な動者を表す。AとBの統一は、二つ組ドゥアドが一者モナドにより肥沃となるのを表す。Rは三つ組トライアドの印であるが、それは二つの原理の統一からのヒエログリフ的な放出を表すからである。この言葉の文字数である11の数、秘儀参入の統一の数とピュタゴラスの10の数とを足したものであるが、これに66と全ての文字の総数を足したら、カバラ的には90の数を形成する。これはトライアドの平方であり、結果的に円の神秘的な四分の一となる。ちなみに注記すべきなのは、キリスト教カバラの鍵であるヨハネの黙示録の著者は、獣、すなわち盲目的崇拝の数666として、アブラカダブラの66に6を加えており、これらはカバラ的には18の数となり、この数はタロットでの月の札、夜と世俗のヒエログリフ的な印となる。月と二つの塔、犬、狼、ザニガニ――神秘的で曖昧な数であり、そのカバラ的な鍵は9、秘儀参入の数となる。この主題について聖なるカバラ学者*5は明白に述べている。このカバラの数の鍵を「理解した者は、獣の数を数えるがよい。これは人の数であり、その数は666である。」これは事実、ピュタゴラスの10の数を自らで掛けて、アブラカダブラの三角のペンタクルの総数を足した数である。これは古代世界の全ての魔術の要約であり、人間の天才の計画全てであり、福音書の神の天才が吸収し移植しようと務めたものである。
 これらの文字と数のヒエログリフ的な組み合わせは、この観点からゲマトリアとテムラーに分かれるカバラの実践部に属する。現在の我々には恣意的だったり関心が無いように見える、そのような計算は、東洋の哲学的象徴主義に属し、オカルト諸学から立ち現れる聖なる教えにおける至高の重要性がある。絶対的カバラ的アルファベット、すなわち原初の概念と寓話を、寓話と文字を、文字と数を繋げていたものは、ソロモンの鍵と呼ばれていた。私が既に述べてきたように、これらの鍵、現在まで残されているが大きく誤解されているものは、タロットのゲーム以外の何物でも無い。これらの古代の寓話は、博識ある考古学者クール ド ジェブランにより現在社会に初めて注目され評価されたのである。
 ソロモンの二重の三角形(六芒星)は聖ヨハネにより注目すべき方法により説明された。彼は言う。「天に記される三つのものがある――父と、御言葉と聖霊である。」そして「地には三つの証人がいた――霊と水と血である。」よって、聖ヨハネは硫黄をエーテルの名に*6、水銀を哲学的水に、塩を竜の血や地の経血に当てはめるヘルメス哲学の師らに同意する。血あるいは塩は父、アゾートと対立した形で照応し、水銀の水は御言葉、ロゴスと、エーテルは聖霊とである。だが超越哲学のものは、真のこの学の子供らによってのみ正当に理解できるのである。
 様々な音調による名前の三重の繰り返しは、魔術儀式の三角形の組み合わせと結ばれている。魔術の杖は小さな磁気化したフォークにより、しばしば取り換えられていたが、パラケルススはこれを以下で記す三又の槍と取り換えていた。



 この三又の槍は、一者モナドの中にある三つ組トライアドの総合、それにより聖なる四つ組テトラドの完成を表現するペンタクルである。パラケルススはこの図を全ての徳に帰しており、カバラのヘブライ人らはイェホヴァの名とアブラカダブラのの魔術的特性と関連づけ、アレキサンドリアの密儀の高祭司らにより使われていた。これはペンタクルであり、それゆえに教義全体の具体的、絶対的な印であると認識しよう。これは莫大な磁気サークルのものであり、古代の哲学者らのみならず、中世の達人らの用いるものでもあった。その密儀の会得による、我々の時代でのそのオリジナルの価値の復元は、その奇跡的な徳全てと人間の病弊に対する全ての力の復元にもならないだろうか?
 古代の女妖術師らは、深夜に三つの十字路の集会場所で、三重のヘカーテ女神の名誉を三回叫んだ。これらの全ての図らは、その中の寓話の活動とともに、これら全ての数字と文字の性質とは、私が既に述べたように、意志の教育のために、その習慣を修正し決意する事による、かくも多き道具である。さらにこれらは、人間の魂の全ての力を行動へと組み合わせて、想像の創造的力を増大させるのに仕える。これは思考の現実化のための訓練の場である。そして自然に似て、これらが絶対的な確信と不屈の忍耐で満ちていたならば、これらの実践の効果は絶対確実である。大いなる師イエスが我々に語るように、信仰は海に木々を移植し、山を取り除けるのである。たとえ迷信的でばかげた実践も効果があるが、それは意志の現実化の結果である。ゆえに教会へと赴いての祈りを述べるのは、家で唱えるよりも力があり、有名な聖域でその目的のために唱えると奇跡を起こすだろう。――言い方を変えると、その振動数の大いなる数により強く磁気化された者は――二、三百リーグを裸足で旅して、その間に施し物を求めるのだ。単純な女が教会堂で魔術の三角形で燃やすための一ペニーの小蝋燭を運ぶために、朝にペニーの値段の牛乳を買うのを拒否するのを笑う男らがいるが、笑っている者らは無知であり、単純な女は忍従と勇気を買うために、多くを払っていないのである。大いなる精神らは大いなるプライドの中で過ぎ去り、彼らの肩を竦める。彼らは世界で鳴らされている迷信に対して立ち上がる。そして何が起こったか? 大いなる精神の塔が崩れ、それらの廃墟は供給者らとペニーの小蝋燭を買った者らに帰る。その者らは彼らの支配は永遠に続き、その支配は常に与えられるという宣言を聞いて満足する。
 偉大な宗教らは一つ以上の真剣なライバルを持つことは無く、そのライバルは魔術である。魔術はオカルトの諸組織を生み出し、それはルネッサンスと名付けられた革命をもたらした。だがそれは人間精神の破滅でもあり続け、ヘブライのヘラクレス*7の寓話にあるように、無分別な情熱により盲目にした。神殿の柱を投げ出す事により、彼は自らを崩れ落ちる廃墟の下へと埋めたのである。現在のメイソンリー結社は三つの上昇する位階に関して、カバラ的七進法の右から左へ、左から右への横の連続において、セーフェル イェツィラーやゾーハルのラビらよりも、これらの象徴の高度な意味合いについて無知ではない。G∴A∴のコンパスとソロモンの正方形は知性無きジャコバン主義の粗雑で物質的レベルとなり、鋼鉄の三角形により現実化した。これは天と地のために得た。啓明されたカゾットが暴力的な死を予言した秘儀参入を漏らした者らは、我々の時代においては、アダムの罪に勝っているのだ。知識の樹の果実を軽率に集めた者らは、この果実をどのように使うかを知らず、地の獣や爬虫類らに投げ与えた。迷信の支配はかくも始まり、それらは真の宗教が再び、三位階や三界にこの位階が盲目的や慎重に実践する三重の力の永遠の基盤で立てられるまで続こう。



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↑ 高等魔術の教理と祭儀


*1 ウェイト注。このレヴィの答えは無価値である。「証明不可能性」を構成するものとしての批判規準を満たさないからである。霊を召喚できる可能性は、以下の問題を引き起こす――すなわち、何であれ召喚されてもレヴィはそれらが持つ何の証拠も提供しないのだ。彼自身のアポロニウスの召喚は最良の場合でも、自発型の幻覚の証拠にしかならない。
*2 ウェイト注。これは、エリファス レヴィの想像力の中の、あるいは自作したものと言える。真にしてオリジナルのカバラにも、イツハク ルリアのような後期の継承者の注釈の中にも、いわゆるテンプル騎士団のバフォメットのどんな軌跡も痕跡も無いからである。サタンへ投げる餌としての山羊の生贄については、セーフェル ハ=ゾーハルの第2部33aを参照。ヤコブの全ての罪を背負う使者の山羊については、ゾーハル 第3部28aを参照。山羊を払う儀式と高祭司アロンにより作られたイスラエルの罪の告白の興味深い内容については、ゾーハル 63aを参照。
*3 これはレヴィの独自説で、ゴエティアでは円の「外」に三角形が置かれるのが通常であり、さらにグリモアの中でも三角形を使うのはゴエティアくらいしか無い。
*4 ウェイト注。この「発見」は「オカルト学」に惹かれた数学者に――いたとしたら――褒められよう。そしてこれは、レヴィが以前に述べた「思考の永遠の数学」の正方形の循環と比較されよう。問題は、たとえ見掛け倒しの魔術師ですら、それらを真剣に受け取るかどうかである。
*5 使徒聖ヨハネ。ヨハネの黙示録の著者。
*6 ウェイト注。ヘルメス学の著者らで、このエーテルの言葉を、哲学的硫黄の同義語として使っていた者はおらず、錬金術の辞書でもどんな重要性も与えていなかったように思える。
*7 士師サムソンのこと。