高等魔術の教理と祭儀 2-2

ページ名:高等魔術の教理と祭儀 2-2

第二章 魔術的均衡


 均衡は、二つの諸力の結果である。二つの諸力が絶対的に常に同等だとしたら、均衡は不動であり、それゆえに生の否定となろう。動きとは交互の優位の結果なのである。天秤の片方の側への衝動は、もう片方の側の動きを必然的に決めるのだ。よって、お互いの対立する運動は、関連して類似する繋がりによって、全ての自然を通して存在する。生の全ては霊感とその反応からなる。創造において、光を縛るために影が、空間を満たすために虚無が、能動的な創造原理の力を維持し現実化させるために受動的果実的な原理が前提として必要である。自然の全ては男女があり、死と生を作り出す動きは、継続しての生成である。神は虚無を満たすために愛し、知は無知を啓明させるために愛し、力は弱さを支えるために愛し、善は見た目の悪を栄光に導くために愛する。昼は夜を望み、終わり無く世界を回りながら追い続ける。愛は渇きであり、自らに注がれる充満である。与える者は受け取る者であり、受け取る者は与える者である。動きとは継続しての相互作用である。この変化の法を知る事、これらの諸力の交互だったり同時だったりする比率を得る事は、真の人間の神性を構成する大いなる魔術の奥義の最初の原理を得る事である。科学的には、電磁気の現象を通じて、普遍的な動きの様々な現れを我々は認識できる。特に電気は特定の形質の引き寄せと反発を物質的、可能性的に明らかにする。銅と亜鉛との結婚、電気タイルにある全ての金属の活動は、絶え間なく間違えようのない啓示である。物理学者らに、それらを調べさせよう。カバラ学者らは学の発見を常に説明するであろう!
 人間の肉体は地球と同様に、二重の法に従う。それは引き寄せ、放出する。両性具有の磁気により磁気化され、魂の二つの力、知性と感性に逆向きに反応する。だが肉体のオーガニズムにおいて、二つの性で違った優位の比例のものにある。磁気発者の術は、この法を知り用いる事で構成される。極化させる行動と両性で違った力を動者へ与える事は、いまだ知られざる技法であり、磁気の現象を意志により操作するこの技法は、無駄に探し求められていた。内なる動きに対しての高度に訓練された判断と大いなる正確性が、磁気の直観とその反応の徴を混同しないために求められた。それのみならず、我々はオカルト解剖学と作業する相手の特別な気質も完全に得なくてはならぬ。この主題への間違った信念や意志は、磁気主義の方向への致命的な障害となろう。とりわけ女性は――本質的に常に女優であり、他者に感銘を与え、それにより彼ら自身にも感銘させるのを喜びとし、神経的メロドラマを演じる時に最初に欺かれる――磁気主義の真の黒魔術である。そのため、至高の秘密の秘儀参入を受けておらず、カバラの光により支えられていない磁気発者が、この御しがたく消えやすい要素を制御するのは不可能である。女性の主となるには、彼女こそが我々を騙していると思い込ませる事で、我々は彼女に巧みに気を逸らせ欺かねばならぬ。磁気医者らに主に与えるこの助言は、夫婦間の関係で見つけられ用いられよう。
 人は彼の好みで二つの呼吸を放つ。一つは温かく、別のは冷たいものだ。また彼は意志により活動的か受動的な光を放てる。だが彼はこの力の意識を、その中に住む事で得なくてはならない。同じ手先の仕草で我々が流体と慣例で呼ぶものを吸収され発せられるだろう。そして磁気発者は彼の意図の結果について、手の温かさや冷たさの二つの感覚により警告されるだろう。あるいは両手を用いると、主体の感覚は同じ時に経験するが、対照的な感覚により、つまり両方とも完全に違った風に経験されるだろう。
 五芒星ペンタグラム、小宇宙のサインの魔術的密儀の一部は、人間の肉体の中のアストラル光の循環における、人間の先端の二重性の共振を表している。よって、アグリッパのオカルト哲学の中で見られるように、人はペンタグラムの星として表される。頭においては男性の共振は右足に、女性の共振は左足に関連している。右手は左手と左足であり、逆の手も同様である。これらの原理は、磁気を通過させようとする時に、我々が肉体全体を支配し、その部分を類推と自然な共振の適切な鎖により縛りたいならば、心に留めておく必要がある。似たような知識が、霊の召喚、大衆が降霊術と呼び、私が祭儀篇の第五章で説明するつもりのアストラル光の不規則な形態の召喚の時にペンタグラムを用いる時に必要となる。だが、ここでは以下を観察するので充分であろう。あらゆる行動は反応を生み出し、他者へ磁気を与え魔術的に影響しようとすると、我々は彼らとの繋がりを確立し、正反対だが類似した影響を受け、それらは愛に関する共感の作業で充分以上に起きるように、彼らが我々に服従するのではなく、我々が彼らに服従するようにする。そのため、我々は攻撃している最中に防御をするのも、高く必要不可欠である。それにより我々は右に反応させている間に左に影響されずに済む。祭儀篇の最初のページに描いた魔術的両性具有〈バフォメットの絵〉は、右手にはSOLVE(解く)の文字が、左手にはCOAGULA(縛る)が刻まれている。よって、片手に剣を持ちもう片手に鏝を持つ第二神殿の象徴的建築家らを連想させる。建設中に彼らは自らの作業を守り、敵を散らす必要があった。自然自体も破壊と再生を同時に行っている。ドゥシェントーの魔術カレンダーの類推によれば、人、すなわち秘儀参入者は自然の猿であり、鎖に縛られているものの、とめどなく働き、彼の神的な女主人と不朽の原形の進行と働きを真似る。
 熱と冷たさ、温和と峻厳、愛と怒りなどといった対立する力の別の使い方は、永久運動と力の不変性の秘密である。男をもてあそぶ女らはそれらを直観的に知っており、ゆえに彼女らは希望から恐怖へ、喜びから落胆へと行き来する。常に同じ側で同じ方法により作業するのは、天秤の片方の皿を荷重させる事であり、均衡の完全な破壊は速やかに起きる。継続しての愛撫は飽き飽きとさせ、いや気、反感を生み出すが、それは継続しての冷たさと峻厳さは、孤独感と勇気を失わせる影響を与えるのと同様である。錬金術の熱烈な火は第一形質を煆焼させ、ヘルメスの瓶を爆発させるのも珍しくも無い。石灰とミネラル肥料の熱は、枠組みの熱のために定期的に取り換える必要がある。それは魔術においても同じである。怒りと厳しさの作業は、慈悲と愛の作業によって鎮められる必要がある。作業者の意志が同じ緊張で同じ線へと向けられるならば、大いなる疲労は倫理の不能とともに確実に起きるだろう。
 よって、魔術師は彼の作業場、錬金炉、エリクサー、ペンタクルと同じ場所で住むべきではない。だがオカルト力と呼ばれるキルケーを思い起こすに、我々は彼女にオデュッセウスの剣とともに向き合い、彼女が与える杯を我々の唇に含むのを毅然と拒絶する事が出来よう。魔術作業を行った後は、その同等の期間だけ休むべきで、類似するが対称的な気晴らしをすべきである。継続して自然の法に対抗し征服しようとすることは、理性と生命のリスクを取る事である。パラケルススはあえてそう行ったが、それでも自らの内的葛藤の中で知性の酩酊に対立するワインの酩酊の均衡する諸力を利用していた*1。パラケルススはかくも直観と奇跡の人だったのである。だが彼の人生は激しい活動により疲れ果てた。あるいはむしろ、その衣は急速に貸されて擦り切れた。だがパラケルススのような者らは恐れる事無く用いて乱用する。彼らは大衆の様に長生きするのは、より多く死ぬことだと知っているのである。
 悲しみほどに我々を効果的に喜びへと向かわせるようにするものは無い。喜びほど悲しみに近いものは無い。ゆえに、良く学んでいない作業者は彼の目的と正反対の結果を得て驚く。なぜなら彼は自らの行動をどのように横切ったり変更するのかを知らないからである。彼は敵を呪おうと望むが、彼自身が病となり惨めになるのである。彼は愛される事を望むが、女らの嘲りの笑いに失われるのである。彼は黄金を作ろうと努めるが、その資産を全て使い果たす。彼は苦難はタンタロスのものである。彼が水を飲もうとすると、その水が逆流していくのである。古代の象徴と魔術の作業は一対のドゥアドの印を多く用いた。それにより、均衡の法がよく覚えられるようにである。召喚儀式において彼らは二つの祭壇を立てて、白いものと黒いものの二匹の生贄を捧げていた。作業者は男であろうと女であろうと、片手には剣を、もう片手にはワンドを持ち、片足は靴を履いて、もう片足は裸足のままであった*2。さらに、一人か三人の人物が魔術の作業に必要とされた。なぜなら、ドゥアドは不動か均衡が無い時には死を意味するからである。そして男と女が儀礼に参加している時は、作業者は常に処女、両性具有者、子供であった。何とこれらの儀式の奇抜さは独断的であろうかと、魔術の作業の難易度を上げる事で意志を強める実践が目的だろうかと私は尋ねられよう。私は魔術において独断は無いと答えよう。なぜなら、全ては三界の類推であるヘルメスの一つにして普遍的教義により支配され定められているからである。それぞれのサインは概念と概念の特別な形態と照応している。それぞれの行動は思考と関連する意志と照応し、その思考と意志の類推の形式を作る。そのため、儀式はこの学自身により既定されている。この学の教授を受けておらず、三重の力を得ていない者は、この神秘的な魅惑に属する。賢者はこれを理解し、彼の意志の道具とする。厳正と信念とともに作業が達成されたら、それは決して無駄にはならぬ。
 全ての魔術の道具は二つ作る必要がある。二本の剣、二本のワンド、二つの杯、二つの卓上なべ、二つのペンタクルに、二つのランプとだ。二枚の衣も重ねて着なくてはならず、それらは対称的な色にする。この規則はカトリック司祭らによってなおも従われている。最後に、二つの金属は少なくとも身に着けなくてはならず、他の場合は何もつけない。月桂樹、ヘンルーダ、ヨモギ、クマツヅラの冠は、以下のやり方により二つ用いる。これらの一つは召喚儀式で用いて、もう一つの方は燃やし、その曲がりくれる煙を占術として観察する。これらの行動は無駄にはならぬ。なぜなら、魔術の作業では全ての術の道具は作業者により磁気化されるからだ。空気は彼の匂いにより変化し、彼が聖別した火は彼の意志に従い、自然の諸力は彼に聞き応えると見える。彼は全ての現れを読み取り、彼の考えを修正し完成させる。彼は水が刺激され、自ら泡を出し、火が盛んに燃えたり突然に消えたり、花輪の葉が切望したり、魔術の杖が自発的に動いたり、奇妙な未知の声が風を通過するのを聞いたりする。それらの召喚こそは、ユリアヌス帝が見た、彼が愛する神々が老いぼれて蒼白となった亡霊の姿であった。
 キリスト教は常に儀式魔術を弾圧し、旧世界の召喚と生贄を禁止しているのに私は気づいている。そのため、これらの何世紀もの前に崩壊した古代の密儀を再び明かす事で、これらの存在に新たな基底を与えるのは我が意図ではない。実際問題として、我が実験は研究のためであり、それ以上の何物でもない。私は大義を認め、永遠に失われた儀礼を復活させるのは我が主張ではないというのは立証された事実である。イスラエルの正統派信仰は、かくも理性的で神的で悪く知られているが、儀式魔術の密儀を非難する点ではキリスト教に劣る事は無かった。レビ族の観点からは、超越魔術の実践は祭司職の権利侵害と見做された。そして同様の理由は、魔術の実践をあらゆる公的な宗教から禁止される原因となった。奇跡の自然な根拠を演じ、それを自由に作り出す事は、奇跡は各宗教の特別な持ち物であり、最終証明であるという主張を、大衆の心から消し去る事である。確立された宗教に敬意を持て。ただし、学のための部屋も! 幸運にも、異端審問官と火炙りの時代は過去のものであり、不幸な賢者らが少数の気の狂った狂信者らやヒステリーの女らの信仰のために殺される事は無い。残りの者らについては、我々の学びは、興味深い学習にあるのであり、不可能なプロパガンダとともにあるのではないと明らかに理解してもらいたい。大胆にも自らを魔術師と呼ぶと我々を非難する者らは、この例から恐れる事は何も無い。我らが妖術師となる可能性は全く無いからである。



高等魔術の教理と祭儀 2-3
↑ 高等魔術の教理と祭儀


*1 ウェイト注。ストッダート婦人の「パラケルススの生涯」――ドイツの擁護者らから引用したもの――では、ホーヘンハイムの賢者が酔っ払いとして過剰に飲んでいたという話は、敵らにより作られた根も葉もない噂だという。
*2 ウェイト注。これらの複製や、その道具も含めて、魔術実践の記録の中には何の権威も無いと思える。