高等魔術の教理と祭儀 2-1

ページ名:高等魔術の教理と祭儀 2-1

第一章 準備


 行動により自らを主張しない全ての意図は無駄な意図であり、そのように表現する言葉は止まった言葉である。行動こそが、生を証明し、意志を確立するのだ。ゆえに、聖なる象徴の書らは、人は考えや理想ではなく、彼らの働きによって裁かれると述べている。我々は存在するために行動しなくてはならない。
 そのため、私はここで魔術の作業の大いなる恐るべき問題を扱わねばならない。私はもはや理論や抽象を考えるのではなく現実に向かい、私は奇跡の杖を達人の手に渡そうとし、同時に彼に言うだろう。「私がきみに話したことで満足するなかれ。自らで行動するのだ」と。ここでは相対的な全能性の作業*1、自然の最高の秘密を捕らえる方法について、啓明され不屈の意思にそれらを従わせる方法について扱わねばならない。
 一般に知られている魔術儀式の多くは、大衆を欺くものか謎であり、何世紀もオカルトの聖域のヴェールに包まれていたものを、私は初めて裂こうとする。密儀の聖性を明かす事は、それらの冒涜への救いを与える。それこそが私の勇気を支える考えで、可能な限り人の心が想像でき実行できる、この大胆な試みに伴う全ての危険と向き合う力を与える。
 魔術の作用は、自然の力の実践であるが、自然の通常の諸力よりも上位にあるものである。これらは学と実践により高めた人の意思が通常の限界を超えた結果である。超常とは、極めて高い段階の自然、高められた自然でしかない。奇跡は大衆の心を打つ現象であるが、それは彼らには予想外のものだからである。驚異的なものは大衆を驚異させるものであり、奇跡はこれらの原因に無知な者らを驚かせる効果か、彼らがそのような結果に対応しない原因のせいにするものである。奇跡とは無知な者にのみ存在するが、人々の中には絶対の学はほとんど無いので、超自然なものは俗世の世界のためにのみ得られ行われる。私はまずかように述べたい。私は全ての奇跡を信じるが、それは私自身の経験からも、その可能性に確信をしているからである。幾つかの奇跡は私にも説明できないが、私はそれらは、同様に説明可能と見做している。大いなるものから小さなものへ、小さなものから大いなるものへ、結果は同一的に類推でき、進歩的に厳密に釣り合う。だが、奇跡を起こすには、我々は人間の通常の条件の外側にいる必要がある。我々は知恵により抽象化されるか、狂気により高揚する必要があり、エクスタシーや熱狂を通じて、全ての愛欲の上位となるか超える必要がある。それらは、作業者の第一にして最も絶対必要な準備である。ゆえに、神の摂理あるいは運命の法則により、魔術師は物質的な興味と反比例してのみ全能性を発揮できる。錬金術師は貧しい程に金を精製でき、貧しさがこの大いなる作業の秘密を守ると尊重した。その心が愛欲から離脱した達人のみが、彼の学の道具にしようとする者の愛と憎しみを配置できるだろう。創世記の神話は永遠の真理であり、神は知識の樹を、その果実への切望を自ら拒絶するだけ強かった者のみに到達するのを許した。ゆえに、きみが欲望を満たすために、この学を求めるならば、その致命的な道を進むのを止めるのだ。きみは狂気か死しか得られないだろう。これは、悪魔は遅かれ早かれ妖術師の首を絞めて殺すという大衆の民話の意味である。ゆえに魔術師は愛欲を超え、冷静、貞淑、無関心、無欲、全ての偏見と恐れを受け入れないようにしなくてはならない。彼は肉体の欠陥が無いようにし、全ての反対と難行に耐える必要がある。魔術の作業の最初にして最も重要な事は、この稀な事前段階に到達する事である。
 私が先に述べたように、愛欲無きエクスタシーは、絶対的な超越性と同様の結果をもたらし、それは正しい事ではあるが、魔術の作業の方向性を定める事は出来ない。情熱は強制的にアストラル光を放出し、普遍的動者に予測不能な動きを強制するが、その衝動の機能を測る事はできず、自分の馬に引きずられたヒッポリュトスや、他者のために発明した拷問道具の犠牲者と自らなったファラリスに似た運命となろう。行動によって実現される人の意志は障害が軌道にない弾丸に似ている。弾丸は貫通するか、地面に埋まる。だが、忍耐強く前進するなら、それは決して失われない。それは絶え間なく打ち付けて鉄をすり減らす波に似ている。
 人は習慣により修正され、金言にもあるように、彼の第二の性質となる。粘り強く段階的な鍛錬により、肉体の力と活動は素晴らしく進歩する。魂の力においても同様なのである。きみは自らと他者の上に君臨するだろうか? 意志を用いる方法を学ぶのだ。どのように意志を習えよう? これは魔術の秘儀参入の最初の奥義であり、かくも多くの恐怖と幻影がある聖域へ参入しようとする者に取り囲まれた古代の聖なる術の守護者だと本質的に悟るであろう。彼らはその証明が作り出されない限り意志は無いと認めており、それは正しかった。力は達成により正当化される。怠惰と忘却は意志の敵であり、この理由から全ての宗教は彼らの儀式を増大させ、その崇拝を細かく難しいものとした。この考えのために自らを拒絶すればするほど、この考えの範囲内で得られる力は大きなものとなる。子供が面倒をかけ不安がらせればするほど、母親たちはより偏愛するようにならないか? 同様に、宗教の力はそれらを実践する者らの不屈の意志の中にあるのだ。ミサの聖なる犠牲を信じる信仰深い人が一人でもいる限り、彼のために挙行する司祭がいるだろう。そして日々聖務日課書を唱える司祭が一人でもいる限り、世界には教皇がいよう。宗教儀式は一見するとこの目的のためには重要でなく関係ないようだが、実際には意志の鍛錬と実践により、その目的へと導くのだ。もしも農夫が毎日朝の2、3時に起きて、家から長い距離を旅して日の出前に同じ薬草を取りに行っていたら、ただその薬草を対象者へ持っていくだけで多くの偉大な奇跡を行えるだろう。なぜなら、これは彼の意志の印であり、彼の望みが現実となる全ての徳がこの中にあるからだ。物事を達成するためには、我々は行える可能性を信じなければならず、この信念は行動として現れなくてはならない。子供が「僕はできないよ」と言ったら、母親は「やってみなさい」と答える。信念はやってみさえしない。それは終わらせる確信とともに始まり、静かに進ませる。あたかも全能の力を持ち、永遠はその前にあるかのようにである。では、魔術師マギの学からきみは何を求めるのか? きみの望みを大胆に形式化させ、それからすぐに作業に入り、目的に達するまでは休まない事だ。それにより、きみの意志は現実化し、きみのため、きみによって、それは既に始まるに違いない。シクストゥス5世はかつて彼の信者らの前で「私は教皇になりたい」と言った。きみが貧乏人であり、金を作るのを望むならば、作業を始め、決して諦めない事だ。私はフラメルとライモンドゥス ルルスの文献全ての学の名において、成功を約束する。「じゃあ、まず最初に行うべき事は何だ?」 きみの力を信じ、それから行動せよ。「でも、どう行動するの?」 同じ早い時間に毎日起きよ。どの季節でも日の出前に泉で沐浴せよ。汚れた衣服を決して着るな。必要な時に自ら洗うのだ。自発的に清貧の実践をするなら、求めずともに物を得られるようになるだろう。それから、偉大な作業とは関係ないあらゆる願望に対して沈黙するようにせよ。
 「なんと! 毎日、泉で沐浴すれば、私は金を作れると?」 きみはその目的のために作業するだろう。「それは冗談でしょう!」 いいや、これは奥義だ。「私が理解できない奥義をどう用いられるのですか?」 信じて行動せよ。きみは後には理解できるようになるだろう。
 ある日、ある人物が私に言った。「私は熱心なカトリック信者になりたいのですが、私はヴォルテール*2主義者です。私は信仰を持てないのですか!」 私は答えた。「二度と『なりたい』と言わない事です。『私はなる』と言うなら、私はあなたが信じられるようになると約束します。あなたはヴォルテール主義者だと私に言いましたし、イエズス会が示す様々な信仰の行い全ては、あなたには気にくわないでしょうが、同時にそれらは最も強く、望ましいものに見えます。聖イグナティウスの実践を、諦める事無く何度となく実践しなさい。それによりあなたはイエズス会の信仰を得られるでしょう。その結果は絶対確実であり、あなたはそれらを単純に奇跡と呼ぶでしょうな。今あなたは自らがヴォルテール主義者だと自己欺瞞しているのです」
 立ち止まっている人は決して魔術師にはなれないだろう。魔術はあらゆる時間と瞬間の実践である。大いなる作業の作業者は自己への絶対的な主でなければならぬ。彼は快楽、貪欲、睡眠の誘惑を抑えつける術を知らねばならぬ。彼は成功と侮辱に対して無感覚でなければならぬ。彼の生は思考により導かれ、自然全体に仕えられる意志によるものでなければならぬ。彼は彼自身の器官の自然と、それらと関連する普遍的な諸力全てを共感により心に従わせよ。全ての能力と感覚はこの作業で共有すべきだ。ヘルメスの祭司に留まっている部分はどこにも無い。知性はサインにより定式化され、印章やペンタクルにより要約されなくてはならぬ。意志は言葉により定められ、行いにより言葉は満たされなくてはならぬ。魔術の概念は目のための光となり、耳にとってのハーモニーとなり、嗅覚にとっての香りとなり、味覚にとっての味となり、触覚にとっての対象物とならねばならぬ。簡潔に言うなら、作業者は彼の人生全体で、彼無しでもこの世界に現実化させたい望みを、現実化させねばならぬ。彼は望むものを引き寄せる磁石とならねばならぬ。そして彼が充分に磁気的となれば、物事は考える必要も無く自らで彼の元へと来ると自らに確信させよう。
 魔術師にとって、秘中の秘を得るのは重要であるが、彼は形式的な学習ではなく直観によってそれらを知るだろう。人里離れた場所で独居し、黙想を繰り返す事で、神のハーモニーに包まれ、それらの単純な良き感覚により、学校の詭弁家らにより自然の洞察力が偽りである学者らよりも、多くの事を教えるだろう。真の実践魔術師は常にほとんど確実に田舎に住んでおり、しばしば学歴の無い者で単純な羊飼いである。さらに、特定の肉体的な組織はオカルト世界の啓示のためには他よりも重要である。感覚的、共感的な性質があり、これらのアストラル光の中の直観はあたかも生まれつきのようである。特定の苦悩と不満は神経系に反応し、意志の流れから独立して、それを多かれ少なかれ当たる予言的な機能へと変える。だがそれらの現象は例外的であり、一般的に魔力は忍耐と労働を通じて得られるし、得られなくてはならない。また、ある物質はエクスタシーを作り出し、催眠を引き起こしやすくする。またエレメンタルの光を反映した生き生きとして高い色のつき、想像力を刺激する場所もある。だが、麻痺と酩酊を引き起こしがちなので、それらを用いるのは危険である。これらは過去には用いられてきたが、それらは慎重に性質を検討され、完全に例外的な環境においてのみであった。
 自らを魔術の作業に真剣に捧げると決めた者は、その妄想と幻覚の危険全てに対して心を固めた後に、自らの内外を40日間清めなくてはならぬ*3。この40の数は聖なるものであり、非常に魔術的である。アラビア数字では、これは一つは無限を表す円を形成し、4は三つ組トライアドに統一を足したものである。ローマ数字では、以下の方法により並び替えると、ヘルメスの本質的な教義のサインであり、ソロモンの印章である*4



 魔術師の浄化は、下等な楽しみを自制し、節度のある菜食にし、禁酒し、睡眠時間を規則正しくする。この準備行は、生の再生の象徴的な祭儀の前の懺悔と試練の期間として、あらゆる宗教により課せられてきた。
 すでに述べてきたように、肉体の外側の最も厳正な浄化は行われねばならない。貧しい者は、泉の水を見つけられよう。儀式で用いる全ての衣服や道具、器もまた、自らか他者の手により慎重に洗われよ。全ての汚れは怠慢の証拠であり、怠慢は魔術には致命的である。儀式で用いる部屋は日の出と日の入りに月桂樹の樹液、塩、樟脳、白色樹脂、硫黄により構成される香によって浄化しなくてはならない。同時に四文字の聖なる言葉を四方へと向きながら繰り返し唱える。我々が達成した作業は誰に対しても明らかにしてはならない。既に教義篇で特別に述べたように、密儀はこの学の全ての作業の正確で本質的な条件だからである。詮索好きな連中に対しては、工業の目的のため化学実験、衛生学の処方薬、ある自然の秘密の探求などといった、他の作業や研究をしていると装って誤解させるようにせよ。だが魔術の禁じられた名は決して発音されてはならない。
 魔術師は自らの力を集中し、交際を選べるように、最初から孤立した場所に住み、到達するのが難しくしなくてはならない。だが、最初に厳格で到達不能にしていても、彼が自らの鎖の磁気を強め、イデアと光の流れの中に自らの場所を選ぶごとに、彼は人気が高まり探し求められるだろう。労働的で貧しい生活は実践的秘儀参入にとって利益になるので、偉大な師らはたとえ世界の富を得ていても、この環境を好んだ。そしてサタン、他の場合は無知の霊が、この学を嘲り、疑い、ひどく嫌った。なぜなら、彼は心の中でそれを恐れていたので、世界の未来の師イエスのもとへ来て彼に言った。「汝が神の子なら、これらの石がパンになるよう命ぜよ」そして、この傭兵らは知識の大公に対して、彼の労働を困惑させ、軽視させ、むさくるしく利用することで辱めようとした。彼が必要へと下さるパン切れは十の断片へと分けられており、彼は自らの手を十回突き出したであろう。だが魔術師はこの不条理に対して笑みすら浮かべず、ただ黙々と自らの作業を続けた。
 可能な限り、我々は忌わしいものや醜い者を見るのを避け、尊敬できない者と会食するのを拒否し、最も一定で規律の取れた方法で生活しなくてはならない。我々は自らを高い尊敬のある中に保持し、我々は王位を失った者であり、その王冠を取り戻すべく存在すると考えよ。我々は中庸で、万人に思いやりがあるようにするが、社会関係が我々を取り込むのを決して許さず、また我々が何らかの主導権を握れない集団からは退くようにせよ。最後に、我々は義務を全うし、自らが属する宗教の儀式を実践できようし、すべきである。ところで、最も魔術的な崇拝の形態は、最も奇跡を実現できるもので、その基底は最も信じがたい密儀が至高の理性の上にあり、光と影が同等にあり、大衆はそれらを奇跡とし、信仰による全人類の中の神の化身とした。この宗教は常に世界に存在し、この一つにして支配する宗教には様々な名前の下にある。今、国々の下にあるのは三つの見たところ敵対的な形態としてあるが、それらは普遍的教会の建設が起きるかなり前に統一される運命にある。私はこれらをギリシア正教、ローマカトリック、仏教の最終的変容の事を述べているのだ。
 そのため、私はこれまで明らかに示してきたが、私が信じるに、我々の魔術はゴエティア系や降霊術の類とは反対するものである。これはかつては絶対的な学と宗教であり、勿論それらは崇拝の全ての意見や形態を破壊し吸収したりはせず、それらを秘儀参入者の集団の再編により、再生させ導かれねばならない。それにより盲目な大衆は賢明で明白に見る指導者らを与えられよう。
 我々は何も破壊されるために残されず、全ては作り直される時代に生きている。「作り直す? 何を? 過去をか?」誰も過去を変える事は出来ない。「じゃあ、我々は何を再建しなくてはならないのか? 神殿や玉座か?」前者は崩れ落ちているのに、再建に何の目的があろう?「あなたはこう言うでしょう。我が家は過去に崩れ、別のものを建てるのに何の利益があろう?」だが、きみが建てようと考えている家は崩れているのだろうか? 否。一つは古く、別のものは新しいからだ。「ですが、それは常に家ですよ」きみは何を他に望めようか?



高等魔術の教理と祭儀 2-2
↑ 高等魔術の教理と祭儀


*1 ウェイト注。この言葉の完全な意味合いは、エリファス レヴィの後期の書でのみ明かされている。それらからの雄弁な引用の一部は、この注釈で与えている。実際にはいわゆる「オカルトの聖所」のヴェールを裂くのは、自動幻覚や他の幻覚の形で示される。これらがより厳しい用語で述べられるに値しない時にはである。
*2 1694年 - 1778年。フランスの啓蒙主義を代表する哲学者、文学者、歴史家。大の皮肉屋でキリスト教をおちょくり続けた事でも有名。
*3 ウェイト注。エリファス レヴィは彼自身の作った規則を述べているのを理解しなくてはならない。儀式魔術ではこの種の一般法、特に40日に及ぶ浄化の前行というのは存在しない。
*4 ウェイト注。これらの図のいずれも権威あるものでは無い。そして最初のものの合計は40を超えているのも明らか――計算すればだが――である。