高等魔術の教理と祭儀 2-序文

ページ名:高等魔術の教理と祭儀 2-序文

サバトの山羊 バフォメット



第二部 超越魔術の祭儀


序文


 常に疲れず行進する世界の古き女王を汝は知っているか? あらゆる抑えられぬ情熱、利己的な快楽、人類の放蕩なエネルギー、その暴君的な弱さが、我らが涙の谷のくすんだ色の女主人の前を行き、その手に持つ鎌で、永遠なる収穫を疲れを知らずに刈っていく。その女王は時の様に古いが、彼女の骨は彼らの若さと愛から取り出した女の美の残骸へと隠される。彼女の頭蓋骨には、自らのではない死者の髪で飾っている。王冠をかぶった頭らの略奪者として、彼女は女王らの略奪品で飾る。ベレニスの星の宝石で飾った老いでは無い白い髪、処刑人が分けたマリーアントワネットの眉。彼女の土色の冷たい体は汚れた衣と痛んだ死衣で纏い、彼女の骨の手は指輪で覆われ、王冠と鎖、王錫と骨の十字架、宝石と灰を持つ。彼女が近づくと、扉は自ら開き、彼女は壁を通り抜け、彼女は王らの個室へと入り、秘密の饗宴の中で貧乏人らの搾取者を驚かせる。彼女はこれらのボードに座り、ワインを注ぎ、歯の無い口で彼らの歌に笑い、カーテンの背後に隠れた淫乱な娼婦の代わりをする。彼女は眠りつつある酒色にふける者らが近くにいるのを喜び、彼らとの抱擁により温かさを求めるかのように、彼らの愛撫を求めるが、彼女は触れた者ら全てを凍らせ、彼女は決して温まらぬ。だが時には、ある者は彼女は狂乱すると考える。彼女はもはやゆっくりと歩かず走り、彼女の足が遅すぎるならば、青白い馬を駆り、その突撃とともにもはや息をしない者らを増やしていく。殺人者は彼女とともに赤い馬に乗り、その煙の鬣を震わせ、赤と黒の翼持つ火は彼女の前を飛ぶ。病みやせ衰えた馬の後を飢餓と疫病が続き、彼女の収穫を完成させるべく少しの束の残りを狩り集める。
 この死の行進の後に、二人の幼子が来る。彼らは笑みと命を放出し、未来の知と愛である、新たに生まれた人類の双子の天才である。明けの明星の前の夜のように、死の影らは彼らの前に潰され、速足で地を滑るように逃げ、新たな年の希望という種を両手で蒔く。もはや無慈悲で恐ろしい、新時代の刃のために熟した干し草を刈るような死は来ない。それは進歩の天使に場所を譲り、天使は温和に魂らを死すべき定めの鎖から解放するだろう。魂らが神へと上昇するように。人々がどのように生きるべきか知った時、もはや彼らは死ぬことは無い。彼らは美しい蝶へと変わる蛹のように、変容するだろう。死の恐怖は無知の娘であり、死自体は彼女を覆うゴミと彼女を覆う像の憂鬱な色合いによってのみ醜くなる。死は実際には生命の生みの苦しみなのだ。死なない自然の中には力があり、この力は存在を保持のために永遠に変化させる。この力は自然の理性や言葉である。人の中にも自然のものと類似する力があり、人の理性と言葉がある。人の言葉は理性により導かれた彼の意志の表現であり、理性的であるならば、それは全能となる。なぜなら、それは神自身の御言葉と類似されるからだ。この彼の理性の言葉により、人は命の征服者となり、死に勝利する。人の生全体は、彼の言葉の出産か流産かのいずれかである。理性の言葉を理解しなかったり形成せずに死んだ人は、永遠なる希望無き死である。死の亡霊に成功裏に耐えるには、我々は生のリアリティと一致する必要がある。流産が衰え、生が永遠に見えるなら、それは神に現れるだろうか? 非理性的なものが滅び、理性は決して滅びないので、なおも生の鍵を保持するだろうか? 自然はそれが現れるだろうか? 流産を永遠に破壊する第一にして恐るべき力を、ヘブライ人らはサマエルと名付けた。他のオリエント人らはサタンと呼び、ラテン人らはルシフェルと呼んだ。カバラではルシフェルは呪われ打たれた天使ではなく、彼は啓明をもたらす天使であり、火により復活させる。彼と平和の天使との関係は、春の星座の温和な星々と彗星との関係である。恒星は美しく輝き静かであり、彼女は天の匂いを飲み、その姉妹らを愛と共に見つめ、輝く衣を身に纏い、その額にはダイヤモンドの王冠をかぶり、朝と宵の聖歌を唄えように微笑み、何も妨げられない永遠の休息を楽しみ、光の番兵らとともに定められた位置から外れずに厳かに進む。だが放浪する彗星、乱れ血塗られたアスペクトは、天の深淵から速やかに来て、ウェスタの巫女らの行進の合間を進む戦車のように、平和的な天体らの道を横切る。彼女は太陽の番兵らの燃える槍に大胆に向き合い、それは失われた妻が、その寡婦の夜の間に見た夫の夢を探すように、彼女は昼の神の聖域の奥深くを貫く。再び、彼女は長い火の尾を引いて、彼女を飲み込もうとする火から逃げ出す。彼女が近づくと、星々はかすみ、星座は散りばめられ、光の花を空の広大な草地に放ちつつ、彼女の恐るべき息の前から逃れようとしているように見える。天体の大会議が集められ、宇宙の驚きとともに、ついに恒星の中で最も愛らしい者が、全ての星々の名前を語るよう委任され、向こう見ずなならず者に平和を与える。
「我が妹よ」彼女はゆえに話し始める。「なぜ汝は天体の調和を乱すのか? 我々が何か汝に悪しき事をしたのか? そしてもなぜ勝手にさまよう代わりに、太陽の宮廷の我々の様に固定しないのか? なぜ汝は我々の様に胸にダイヤモンドの留め金で留めた白い衣を着て、宵の讃美歌を唄わないのか? なぜ汝は夜の霧の中を火の汗を垂らしつつ尾を漂わせるのか? あぁ、汝が天の姉妹らの間に居いたとしたら、汝はなんと美しかっただろうか! 汝の顔は信じがたい夜の労苦でもはや燃えず、その目は純粋で、他の幸運な姉妹らのように白と赤の顔つきでほほ笑んだろうに。全ての星々は汝を知り、汝が飛ぶのを恐れず、汝が近づくと喜ぼうに。なぜなら、汝は普遍的な調和の壊れない絆によって、我々と繋がって作られただろうし、汝の平和的な存在は普遍の愛の讃美歌のもとで一つの声以上だったろう」
 そして彗星は恒星に応えよう。「我が姉妹よ、信じがたいだろうが、私は思い通りに彷徨い、天体の調和を揺さぶるのを許されているのだ! 神は汝と同様に、我が道を定め、汝にはそれは不確実でさまよっているように見えても、我が進む道のために与えられた日蝕の周辺を汝の光線が貫けないからだ。我が燃える髪は神の灯であり、私は恒星らの使者で、彼らの燃える熱に自らを浸し続け、我が旅とともに十分に温まっていない若い世界達と、さらに孤独で冷たくなった老いた星々にもその熱を分け与える。もし私が長い旅に疲れ、我が美が汝よりも劣ったとしても、そして我が衣が汚れてきても、なおも私は汝と同様に天の高貴な娘である。私の恐るべき運命の秘密を、私を囲む恐怖をそのままにし、たとえ汝が理解できなくても、私を呪いなさい。私はどうあろうとも我が務めを果たねばならず、神の息の波動の下で我が務めを続けるつもりだ! 休息する星々は幸せであり、宇宙の平和な社会で若い女王のように輝いている! 私は迫害され、無限の宇宙を永遠に彷徨う。彼らは私が熱により再生させた惑星らに火を点けると非難する。彼らは私が啓明させた星々を恐れさせていると非難する。宇宙の調和を破壊すると非難する。なぜなら、私は彼らの特定の中心点から円運動をせず、私は彼らに続々と加わり、我が目は全ての恒星らの唯一の中心を見つめているからだ。ゆえに、美しき恒星よ、安心せよ! 私は汝の平和な光を霞ませるつもりはなく、むしろ、我が命と熱で汝のために仕えるつもりだ。私は自らを燃えつかせた後には、この天から消え、我が死は十分に栄光があろう! 神の神殿には様々な火が燃え、それら全てが神の栄光を与えると知れ。汝は金の七枝の燭台の光だ。私は犠牲の火である。それぞれが自らの宿命を満たそうではないか」
 このような言葉を話してから、彗星は神の善意と、それが決して失われないの知ると投げ返す。天の放蕩息子が家に留まっていたとしたら、神の無限の愛、慈悲の喜びは決して投げられなかったろう。全てが光ならば、どこにも光は無い。光はそれをもたらそうとする神の胸の中に満たされている。そして神が「光あれ!」と言った時、彼は闇が光を払うのを許し、宇宙が混沌から放たれるようにした。生まれた時から奴隷となるのを拒否した否定の天使は、世界の均衡を作り出し、天体の動きが始まった。無限の距離はこの自由の愛を認め、それは永遠の夜の虚無を埋めるのに充分であり、神への憎しみを支えるのにも充分に強かった。神はその子供達の中で最も高貴な者を憎めず、彼の怒りは彼の力を強めるのみと証明させた。また神の御言葉イエス自身は、ルシフェルの嫉妬であるかのように、天から降りて、地獄の影を堂々と行進する。彼は迫害され罵られるのを望んだ。彼のもだえ苦しむ玉座の中で「我が神、我が神、なぜ私を見捨てられるのですか?」と叫ぶ恐ろしい時を事前に計画していた。明けの明星が太陽の前に現れるように、ルシフェルの反乱は神の受肉が来るのを生まれたばかりの自然に告げた。おそらくは、ルシフェルは夜を堕天する中で、彼の栄光の引き寄せにより、太陽と星々の雨も共にもたらしたかもしれぬ。おそらくは、我々の太陽は、ルシフェルが天使らの中の星であるように、星々の中のダイモンかもしれない。上記の理由から疑いなく、それは人類の恐るべき苦悩と地の長い苦しみを静かに照らそう。なぜなら、それは孤独の中では自由であり、その光を持っている。
 それらが、初期の時代の異端派(グノーシス)の指導者らの傾向であった。オフィテス派のように、蛇の姿をしたダイモンを崇拝する者らもいれば、カイン派のように、最初の人殺しカインのように最初の天使の反乱を正当化した。全てのこれらの過ち、全てのこれらの影、インドが魔術的な三神一体*1のその象徴に反対した全ての無秩序な怪物的な偶像は、キリスト教の司祭と崇拝者の中に見つけられる。創世記には悪魔という言葉はどこにも記されておらず、寓話的な蛇が我々の最初の両親を騙した。聖書の一般的な訳はこうである。「主なる神が創造した野の獣らのうち、蛇は最も狡猾であった。」だがモーセがヘブライ語で書いた文は、フェーブル ド オリヴェットの版に従うと、「源の引き寄せる力(貪欲)は存在の存在、ヤハウェの作品である自然の(低位の活動的力の)全ての根源的な生の情熱を引き寄せようとする」となる。だが、フェーブル ド オリヴェットは真の解釈を外した。なぜなら、彼はカバラの大いなる鍵を知らなかったからである。蛇ナハシュנחשという言葉は、タロットの象徴的な文字により、厳密に説明する。
 14 נ――結合を生み出す力
 5 ה――形の受容と受容的に産み出すもの
 21 ש――二つの極を均衡させる自然で中央の火


 ゆえに、モーセにより書かれたこの言葉は、カバラ的に読むと、魔術的な普遍の動者の記述と定義を与え、全ての神起源学は蛇により表わされている。この動者が活動的な力を表したなら、ヘブライはオドの名を当てはめ、受容的な力を表す時にはオブであり、その近郊の力を完全に表し、天に光を、金属の中で金を表す時には、アウルと呼んだ*2。それゆえ、古き蛇は世界を包み、尾を飲み込む頭を乙女マリアの足元へ置く、これは秘儀参入の象徴である――乙女は幼子を三人のマギに与え、彼らから金、乳香、没薬を代わりに受け取った。そのため、全ての組織宗教で教義は秘儀参入者が容易に用いられる自然のこれらの諸力の秘密を隠す役に立つ。宗教の形式は神々を天から降ろし、人の意思に報いらせる神秘の力のこれらの言葉の要約である。ユダヤ人はエジプトからこの秘密を受け継ぎ、ギリシア人は密儀の祭司らと、後には神智学者らを偉大な預言者らの学院へと送り込み、カエサルらのローマ人は地下墓地の秘儀参入により精神を侵食され、やがて教会へと崩れ、世界の女王により取り込まれた全ての崇拝の残骸で象徴主義を再構築した。福音書によれば、キリストの霊的な王権はヘブライ語、ギリシア語、ラテン語で刻まれた*3。これは普遍の総合の表現である。事実、ヘレニズムは形式の大いなる美しき宗教であり、ユダヤ教の預言者らと同様に救い主の到来を告げていた。プシュケーの寓話はキリスト教を極めて摘出したもので、パンテオンの宗教儀式は、ソクラテスを蘇らせることで、イスラエルが神秘的に保持してきた神の統一のための祭壇を用意した。だが、シナゴーグはメシアを拒否し、少なくともユダヤ人らの盲目な目からはヘブライ文字は消えた。ローマの迫害者らはヘレニズムを汚し、ユリアヌス帝の偽りの融和によってもそれは回復できなかった。背教者という彼の綽名はおそらくは正しくなかろう。なぜなら、彼のキリスト教信仰は心からでは無かったからだ。続く中世の愚かさは、聖人らと乙女マリアを神々、女神、ニンフらと対立させ、ギリシア密儀の深遠な意味は以前よりも理解されなくなった。ギリシア自身も古代の宗教の伝統を失ったのみならず、ラテン教会からも分離した。ゆえに、ギリシア人の目からはラテン文字は消えたように、ラテン人らの目からはギリシア文字は姿を消した。そのため、救い主の十字架の碑は完全に消え去り、神秘的な頭文字INRIのみが残った。だが、学と哲学が信仰と一致したら、全ての様々な象徴を統一しよう。それにより、全ての古代崇拝の威厳は再び人の記憶に花咲き、神の光の直観の中での人の精神の進歩を閉めそう。だが最大の進歩の全ての形態は、自然の鍵を学の手に回復させ、サタンの憎むべき幻を永遠に鎖に繋がずばならぬ。そして全ての自然の稀な現象を説明し、迷信と馬鹿げた妄信の支配を破壊すべきである。この作業を達成すべく、私は生涯を捧げてきて、なおも最もつらく難しい研究に捧げている。私は偶像を投げ飛ばす事で、祭壇を解放するだろう。私は知のある者が自然の祭司、王となる事を望み、私は説明する事で、普遍的な聖域の全ての象徴を保存するだろう。
 預言者らは例え話と象徴により語るが、それは大衆は抽象的な言語に欠けているからと、預言者の理解は調和の感情または普遍的な類推で、象徴により自然と訳されるからである。大衆により文字通りに取られると、これらの象徴は偶像や到達不能の神秘となる。これらの象徴とそれらで構成される密儀の総体と継承は象徴主義と呼ばれている。それゆえ、象徴主義は人によりまとめられているが、神から来るものである。全ての時代で啓示は人と伴ってきて、人の天才らにより変わってきたが、常に同じ真理を表現してきた。真の宗教は一つであり、その教義はシンプルで、全てに届く。同時に、象徴の多様性は、人間の才能の教育には不可欠の詩の書であった。外見の美しさの調和と形態の詩は神により、人の幼年期に示されねばならなかったが、すぐにウェヌスはプシュケーのライバルとなり、プシュケーは愛の神エロスを誘惑した。よって形の宗教儀式はこれらの野心的な夢に従い、プラトンの雄弁な知恵を既に飾っていた。キリストの降誕が準備され、この理由から、期待された。そしてキリストが降臨したが、世界が待っており、大衆的な哲学が信仰へと変容したからである。信仰自身により自由にした人の精神は、速やかにそのサインを物質化しようとした学派に抗議し、ローマカトリックの作業はただ意識を自由にするのを知らずに準備する事であり、普遍的な共同体の基盤を確立する事だった。これらの事全ては人間の中の神の生の正常で通常の開発であった。なぜなら、神は全ての魂の中の大いなる魂であり、星雲のように全ての知を引き寄せる不動の中心だからである。
 人の知性はその朝があり、正午は来るであろう。そして堕落がそれに続く。だが、神は常に同じであろう。だが太陽は朝には小心な若者として昇り、昼には全力で輝き、夕方には疲れて休みに向かうよう地上の民からは見える。だが、地球こそが公転し、太陽は動かない。そのため人間の進歩の中で信仰を持てば、神の安定の中で、自由人は過去の形として宗教を敬い、イェホヴァよりもユピテルに冒涜はせず、デルポイのアポロンの輝く神像になおも愛の敬礼をし、輝く贖罪者イエスの栄光の顔つきとの兄弟的な類似点を見つけよう。彼はカトリックの位階制の大いなる使命を信じ、中世の教皇らが諸王らの絶対王権に宗教を対立させた事を見て満足するのを見つける。だが彼は意識の隷属が教皇の天国への鍵を鎖でつなぐのに革命的な諸世紀とともに講義する。彼はルターよりもプロテスタント的であるが、それは彼はアウグスブルグ信仰告白の無謬性を信じないからで、教皇よりもカトリック的であるが、それは裁判所の悪意により宗教の統一が壊される事に恐れを持たないからである。彼は統一の理想の救いのためにはローマの政治よりも神を信頼する。彼は教会の古い時代を尊重するが、教会が死ぬ事を恐れないだろう。彼は見かけの死は変容、大いなる被昇天であることを知っているからである。
 本書の著者は東方の三人のマギらが新たに現れるよう懇願し、揺り籠の神の師イエス、万世の偉大な秘儀伝授者が敬礼されたのを再び認める。彼の敵らは全て堕ち、彼を罵った者らは全て死に、彼を迫害した者らは永遠の眠りへと入った。彼は永遠に生きている。彼に対して嫉妬が集まり、一点にまとまり、彼を滅ぼすべく党派が一つにまとまり、自らを王にし彼を迫害し、自らを偽善者にし彼を非難し、自らを判事にして彼の死刑を宣告し、死刑執行人となり彼を処刑し、彼に毒人参を飲ませて、彼を十字架につけ、彼を石打にし、彼を燃やし、そして彼らは恐怖と共に深紅となった。なぜなら、彼はなおも彼らの前に立ち、彼の傷は彼らを責め、彼の傷口の輝きは彼らを圧倒したからである。彼らは彼をベツレヘムの揺り籠の中で殺したと信じていたが、彼はエジプトで生きていた! 彼らは彼を突き落とすべく山頂へと運んだ。彼の殺人者の群衆が彼を取り囲み、彼の確実な破滅を既に勝ち誇る。叫びが聞こえた。彼は深淵の岩によって砕かれたのか? 彼らは白くなり、お互いを見つめたが、彼は静かに憐れみながら微笑み、彼らの真ん中を通り過ぎ消えた。彼らが彼の血で染めた別の山を見よ! 十字架を、墓を、彼の墓を監視する兵士らを! 狂人どもを! 墓は空であり、死んだと考えられていた者は、エマオへの道を二人の旅人らの間を平和裏に歩く。彼はどこなのか? 彼はどこへ行くのか? 地の支配者らよ注意せよ! 皇帝カエサルらに、その権力は脅かされていると伝えよ! だが誰にか? 彼の頭に置く石の無い貧しき者がだ。大衆から奴隷の死を宣告された人によってだ。何たる侮辱、何たる狂気! だが問題はない。カエサルらは全ての力を集めて、血の勅令が彷徨う者らを迫害し、どこでも足場が建てられ、獅子と剣闘士らの円形競技場が開かれ、薪に火がつけられ、流血が流れて、カエサルらは自らの勝利を信じ、これらの記念碑に別の名を加えすらする。そして彼らは死に、彼らが自らを神格化し、守ろうとした神々をも冒涜した。世界の憎む者らはユーピテルとネロを混同し軽蔑した。墓になった神殿は迫害の灰に打ち倒され、偶像の過激の上に、諸帝国の廃墟の上に、彼のみが、カエサルらが迫害した、多くの権力の取り巻きが迫害し、多くの死刑執行人らが痛めつけた、彼だけが生きており、単独で支配し、単独で勝利する!
 だが弟子らは速やかに彼の名を悪用している。傲慢さが聖域へと入り、彼の復活を公言すべき者らは彼の死を不滅化させようとし、彼の永遠に蘇る肉をカラスのように口ばもうとする。彼の犠牲と信仰の子供らのために流した血を見習う代わりに、彼らは別のコーカサス山脈としてヴァチカンに彼を鎖にし、この神のプロメテウスの禿鷹らとなった。だがこれらの悪しき夢は何を意味するのか? 彼らは彼の像に囚われているだけで、彼自身は自由に立ち、追放から追放へと、征服から征服へと歩く。人を縛る事は出来るが、神の御言葉を捕らえる事は出来ない。語るのは自由であり、何もそれを抑えつけられず、この生ける言葉は邪悪な者らの非難であり、彼らはそれを破壊しようと探すが、彼らのみが死に、真理の御言葉は彼らの記憶を裁くために残ろう! オルペウスはバッカスの女狂信者らに引き裂かれたかもしれず、ソクラテスは毒人参の杯を飲んだかもしれず、イエスとその使徒らは大いなる苦難の中で死んでいったかもしれず、ヤン フス、プラハのイェロニーム、その他の名も無き者らは焼き殺され、サン バルテルミーの虐殺と九月虐殺が犠牲者らを集め、ロシア皇帝はコサック、ロッツ、シベリア砂漠をなおも好き放題にしているが、オルペウスの、ソクラテスの、イエスの、全ての殉教者らの精神は、これらの死んだ迫害者らの中を永遠に生き、法が沈み、諸帝国が崩壊していく中、立ち続ける。ヨハネの黙示録で、聖ヨハネが神の霊、神の独り子の霊として表す者が黄金の燭台の中に立つが、それは彼は全ての光の中心であり、彼の手に新しい天の種のように七つの星を持ち、地へ放たれる彼の言葉は諸刃の剣として記される。賢者が疑いの夜の中に落胆の眠りに入っている中、キリストの精神は立ち、油断なく番をする。疲れた労働者らが自由にした国々が横たわり、彼らの鎖を夢見ている時に、キリストの精神は立ち、抗議する。不毛な諸宗教の盲目の党派主義者らが古い神殿の塵に自らを投げている時、キリストの精神は立ち、祈っている。強者が弱者となり、徳が腐敗し、恥ずべき草地を求めて全てが沈み歪む時、キリストの精神は立ち、天を見つめ、父なる神の時を待つ。
 キリストはその超越性により王にして祭司を意味する。現代の秘儀伝授者キリストは学と特に慈悲により、新しい司祭らと王らを形成した。古代のマギは祭司にして王であり、救い主の降誕は彼らに星によって伝えられた。この星はそれぞれの頂点に聖なる文字がある魔術の五芒星ペンタグラムである。これは四大エレメンツの潜在性の上に統一の力により支配する知性の象徴である。これはマギのペンタグラムであり、ヒラムの子供らの輝ける星であり、均衡の光の原型であり、それぞれの頂点から光が昇り前進する。これは自然の大いなる至高の錬金炉を表し、人の体であり、その頭と両手と両足より二つの光線で磁気的影響を発する。肯定の光線は否定の光線により釣り合う。頭は両足と、それぞれの手は手と足と、それぞれの足は頭と片手と照応する。均衡の光の支配するサインは、秩序と調和の精神を表し、魔術師の全能性のサインであり、ゆえに壊れたり不完全な描画は、アストラルの酩酊を表し、歪んだ病んだアストラル光の放出であり、そのため呪い、倒錯、狂気を表し、そしてこれをルシフェルのサインと魔術師は名付けている。また光の神秘を表す、ソロモンの印と呼ばれる別の象徴もある。このタリズマンの片面には彼の印があるが、それらは私は教理篇で示している。もう片方の面には、以下のような象徴があるが、それらは磁気の構造のヒエログリフ的な理論と、稲妻の循環の法を表す。反逆の霊らは、この五芒星やソロモンの印を見せる事で縛り付けられるが、それは彼らの愚かさの証明を与え、秩序を思い出させて痛めつける権威の力で彼らを震わせるからである。善ほど、悪しき者らを痛めつけるものは無く、理性ほど狂人らを不快にさせるものは無い。だが、無知な作業者が、これらのサインを知る事無く使うのは、盲人が盲人に光について語るようなものであり、ロバが子供に読むのを教えるようなものである。神の密儀の祭司イエスは「もし盲人が盲人を導けば、両者とも穴に落ちるだろう」と言っている。



 ではこれより、この序文全体の要約をしよう。きみがサムソンのような盲目なら、神殿の二つの柱を倒してしまい、その崩れてくる廃墟はきみを押し潰すだろう。自然に命令するには、我々は彼女の魅惑に耐えて、自然の上に立つ必要がある。きみの精神が全ての偏見、迷信、懐疑から完全に自由ならば、きみは霊らに命令するだろう。きみが盲目の諸力に屈しなければ、これらはきみに屈するだろう。きみがソロモン王にように賢明なら、ソロモンの作業を行えるだろう。きみがキリストのように聖なる者なら、キリストの作業を達成できるだろう。変化しやすい光の流れを方向付けるには、我々は動かぬ光を内部に確立しなければならぬ。エレメンツに命令をするには、我々はこれらの嵐、稲妻、深淵、嵐を克服しなくてはならぬ。大胆であるには、我々は知らねばならず、意志を持つには、我々は大胆でなければならぬ。帝国を保有するには意志しなければならず、支配するには我々は沈黙しなければならぬ。



高等魔術の教理と祭儀 2-1
↑ 高等魔術の教理と祭儀


*1 ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァ神は三体あるが本質は一つという考え。
*2 ウェイト注。この内容を、「大いなる奥義」第2版の8-9ページの引用と比較せよ。「アストラル光あるいは命の大いなる動者はヘブライ人らからはオド、オブ、アウルと呼ばれる。作業者の意志により制御された生体磁気はオドであり、受動的な夢遊病はオブである。この二つの動きは、カドケウスの杖の二匹の蛇で表されている。右側の蛇はオドで、左側はオブであり、中央、ヘルメスの杖の頂点には黄金に輝く球があり、これはアウルあるいは均衡の光と呼ばれる。オドは自由に動く命を表し、オブは運命づけられた命である。生体磁気の秘密全体は、アウルの完全な均衡を作るために、オブの運命をオドの知性と力により支配する事から成っている。
*3 ヨハネによる福音書 第19章19節。