高等魔術の教理と祭儀 1-20

ページ名:高等魔術の教理と祭儀 1-20

第二十章 ר U 万能薬


頭と輪と復活


 唯一不変の教義と類推の法の論理に従うと、我々の体の病気の多くは心の病から来る。大きな欲に身を委ねると、常に関連した大病にかかるのだ。七つの大罪は肉体の死に繋がるから、そう呼ばれているのである。アレクサンドロス大王は傲慢のために死んだ。彼は自然な気質の持ち主で、その傲慢さを通じて、彼は限界以上に働き、それが彼の死を招いた。フランソワ1世は色欲により死に、ルイ15世も彼の「鹿の園」という個人的娼館により死んだ。マラーが暗殺された時、彼は憤怒と嫉妬により腐敗していた。彼は自分だけが正しく、マラーでない者全てを殺そうとした傲慢の狂人だった。我々の同時代人の幾人かは1848年のフランス二月革命で失敗した野心のために消えた。誰にせよ意志を不条理に向けた傾向に固めたら、その者は死に、彼が壊す石は遠くは無い*1。ゆえに、知恵は命を長持ちさせるという格言は真実である。大いなる師イエスが言う。「私の肉は真の食物、私の血は真の飲み物である。我が肉を食べ血を飲む者は永遠の命を得るだろう。」*2そして、群衆が囁いていたら、彼は加えた。「ここで肉は何の役にも立たない。私があなた方に話した言葉は霊であり、また命である。」そして彼が死のうとする時、彼は最後の晩餐で自らの命をパンで象徴し、自らの霊をワインで象徴した。それにより、信仰、希望、愛の教会を教えた。さて、これはヘルメスの師らがいう事と同じである。金を運べるようにせよ、さすれば汝は万能薬を得るであろう。――すなわち、きみが必要な相応しい真理を持ち、それをきみが日々飲む源としたら、きみは賢者らの不死の中に入るだろう。節制、魂の平静、性格の純粋さ、意志の静かさと理性は、我々を幸福にするだけでなく、強く健康にもする。理性と善の中で育つことで、人は不死となろう。我々は自らの運命の支配者であり、神は我々自身の協力無しには我々を救わない。賢者には死は無く、死は亡霊であり、弱く愚かな大衆を恐れさせる。変化は動きのサインであり、動きは生を明らかにする。死体そのものが死んでいたら、その腐敗は不可能であろう。その死体の構成要素の分子は生きており、その解放のために働く。だがきみは霊はまず自由となり、生が終わると夢見ている! あなたは考えや愛がまだ粗雑な物質の死体が消えないうちから死ぬと信じている! 変化を死と呼ぶとしたら、我々は日々死と再生を繰り返している。なぜなら、日々我々の形は変わるからだ。ゆえに、きみの衣服の土や避けるのを恐れ、数時間の眠りのために横たわるのを恐れるな。
 死体の防腐保存やミイラ化は自然と反する迷信である。それは死を作り出す試みだ。それは命が必要とする物質の強制的な石化である。だが一方で、我々は肉体を急速に破壊しようとしてはいけない。自然の働きに突然なことは無いのだ。魂を去らせるために、肉体と魂の繋がりを急に断絶するリスクを冒してはならない。死は決して一瞬ではなく、眠りの様に徐々に進行する。血がまだ温かく神経が震える限り、人は完全には死んでいない。臓器がどれも破壊されていなければ、偶然や強い意志により、魂は呼び戻す事が可能である。ある哲学者が、死者の復活を信じるよりも、全員の証言を疑うと公言したが、彼は急ぎ過ぎた。それは全員の証言を信じて、彼は復活の不可能性を信じているからだ。仮にそのような事が起きたとしたら、どう従うべきか? 我々は証拠を拒否するか、理性を放棄するか? そう言うならば不合理であろう。我々は復活は不可能と決めつけるよりも、復活が可能だと類推すべきである。
 では私は勇敢に確言しよう。復活は可能であり、人々が考えているよりもしばしば起きているのだ。法的、科学的に死が確認された多くの人々が、実際には後に蘇り、棺桶の中でこの恐るべき責め苦から逃れるために動脈を切り開くために縛られた手を噛んでいるのが見つかっている。医者はそういう人物らは死者ではなく昏睡状態だと告げるであろう。だが昏睡状態とは何だろうか? これは不完全な死、命へ復活した事で偽りだった死に名付けられた名前である。事実を説明するのが不可能だった時に、言葉で困難から逃げるのは容易である。魂は感覚により肉体と繋がり、その感覚が無い時には、魂が肉体から去ろうとする確実な兆候である。催眠状態は、昏睡状態あるいは意志により治せる人工的な死である。ジエチルエーテルやクロロホルムにより麻酔は、時には絶対的な死に至る真の昏睡状態である。死による一時的な解放により忘我状態になった魂が意志の努力により共に自由となれば、地獄を征服するのも可能となる。すなわち、それらの心の力は、アストラルの引き寄せよりも強くなる。ゆえに復活はエレメンツ的な魂のみが可能であり、墓の中で不規則に蘇るリスクがある。偉大な人物らと真の賢者らは決して生き埋めにはならない。この復活の理論と実践は、我が祭儀篇で与えられるであろう。その間、私にどうやって復活するかを尋ねられたなら、私は確言をもって語っても、彼らは信じないだろうと答えるであろう。
 本章の残りにおいては、痛みを無くすことは可能かどうかを考えよう。外科の施術にクロロホルムによる麻酔や催眠術を用いる事が健全であるかを考えよう。私が考え、科学は後に認めるであろうことは、感覚を弱めるのは生命を弱める事であり、そのような環境下で痛みを取る事は、死の利益になろう。痛みは生命のための闘争の生きた証拠であり、ゆえに私は麻酔の下で手術した人が傷の手当が極めて痛むのを見た。さて、傷の手当ごとにクロロホルムに頼っていたら、二つのうちのいずれかが起きよう――患者が死ぬか、傷の手当の間、痛みは蘇り続くかである。自然は罰を受けずに犯されないのである。



高等魔術の教理と祭儀 1-21
↑ 高等魔術の教理と祭儀


*1 マタイによる福音書 第21章44節。石の上に落ちる者は打ち砕かれる。
*2 これらは皆、ヨハネによる福音書 第6章から。