古今の秘密の教え キリスト教神秘主義

ページ名:古今の秘密の教え キリスト教神秘主義

キリスト教神秘主義


 ナザレのイエスの生涯の真の物語は世界には隠されたままである。それは公認の四福音書においても、ヨハネの黙示録においてもである。もっとも、前ニカイア教父らの書いた注釈の中に、ごくわずかなヒントは残されている。イエスの正体と任務は「信仰者の家」の隠れ家に他の値段が付けられない諸神秘とともに隠されている。聖地に滞在していたテンプル騎士団*1の中のごく僅かの騎士達は、ドルーズ派*2、ナザレ派*3、エッセネ派*4、ヨハネ派*5、その他の未だに聖地の辺境の余人には到達不能な地で住む宗派から秘儀参入を受け、そこで奇妙な物語の一部を聞かされた。原始キリスト教の真の歴史の知識をテンプル騎士団が知ったことは、彼らの教会からの弾圧と最終的な壊滅の原因の一つであることは疑いない。初期の教父らの書いたものの不一致ぶりは、矛盾しているだけでなく、キリストの帰天後五世紀経っても、学者らの書いたものの基盤は民話や風聞に毛の生えたものに過ぎない事は疑う余地も無い。信じやすい人らには、何もかもが可能であり、何の問題も無い。だが、冷静に事実を調べる人には、不確定なファクターの集まりに直面する。以下の内容はその中でも典型的なものである。


 衆目の一致するところでは、イエスは彼の生涯で33歳の時、つまり洗礼者ヨハネより洗礼を受けて公生活(宣教活動)を始めてから3年目で十字架に掛けられた。西暦180年、リオンの司教聖イレネオは前ニカイア時代の神学者らの中でも最も著名な一人であったが、グノーシス派の教義を攻撃している著書「異端反駁論」の中で、聖イレネオはイエスが生きていた年数に関して使徒らの権威を宣言している。引用すると、「しかし彼らは『主の受け入れられる年を宣言する』のに関する偽りの意見を確立しようとした。彼らは主は1年のみ説教をしたと言い、それから12ヶ月目で十字架にかかったという。彼らは自らの欠点を忘れ、主の全体の働きを破壊し、何よりも必要で誉れある主の年を奪ったのである。それらの年数の間に、主は誰よりも優れた教師であった。主が教えなかったら、どのようにして弟子らを持てただろうか? そして主が熟達した年にならないで、どのように教えていたのだろうか? 主が洗礼を受けた時、まだ30歳にはなってなかったが、30歳になろうとしていた時であった(ルカによる福音書では、主の年を記しており、『年およそ三十歳の時であって』と表現されている)。そして(これらの者によれば)主は洗礼を受けてから1年のみ説教していたという。30歳で受難に遭われたのであれば、事実なおも若者であり、熟達した年を得たとは言えない。ところで、30代から40代まではまだ若者の頃であるのは、誰もが認めるところである。だが40代から50代にかけて人は老いが始まる。そしてそれこそ、『我らが主が公生活をなおも行っている時だったのだ』。福音書や全ての長老らすら証言している。(小)アジアの教会で布教活動をしている者らや使徒聖ヨハネがそのような情報を確言している。そして彼はトラヤヌス帝の御代(在位 98年 - 117年)まで我々と共にいた。さらに使徒聖ヨハネのみならず、他の使徒らもまた同じことを述べており、この主張の証言人となっている。誰を信じるべきだろうか? これらの者たちか、使徒を一度も見ておらず、夢の中ですら使徒の影も見なかったプトレマエウスか?」


 この文への注釈で、ゴッドフリー ヒギンズは、この文は福音書の物語を首尾一貫したものにするために、全てのこのような文章を歴史から消し去ろうとした破壊者らの手から幸運にも逃れられたと記している。彼はまた記すに、十字架の教義は2世紀になってすらキリスト教徒らの間で議論されている問題だった。彼は言う。「聖イレネオの証拠は疑いを入れられない。良い批評主義のあらゆる原理と、蓋然性の教義でも、それは歴然としている。」


 さらに記さねばならないのは、聖イレネオはイエスは「1年のみの」公生活をしていたという彼の時代の別の有力な意見に反論すべく、その前段階として先の文を書いているのである。全ての初期の教父らのうち、聖イレネオは福音書記者聖ヨハネの死後80年以内に書いた者であり、合理的に正確な情報でなければならない。イエスと関連する使徒らが高齢までイエスは生きていたと述べているとしたら、イエスの生涯を象徴するのに、なぜ神秘的な33の数が恣意的に選ばれたのだろうか? イエスの生涯の出来事が起きた年数をある目的により修正される事により、イエスの行動は、彼より先立つ数えきれない救世主神話の神々の確立されたパターンにより近づかせられるのではないか? このような寓話はギリシア人やローマ人を改宗させる有力な道具として使われていたのは、別の2世紀の権威、殉教者聖ユスティノスの書いたものを熟読する事により明らかとなる。その「弁明」の中で、聖ユスティノスは多神教徒らに向けて、このように書いている。


「そして私が御言葉について語る時、神の長子であり、性的結合無しに産まれた方、すなわちイエス キリスト、我らの教師は十字架にかけられ死に、そして再び蘇り、天へと帰られました。私はあなた方がユピテル神の息子らを尊重する崇拝と全く変わらないものを与えるのです。(中略)そして神の御言葉は一般的な出生とは違った特別な方法により産まれた神であり、私が先に述べた通り、メルクリウス神は神の天使的な言葉と述べているあなた方には珍しくも無いでしょう。ですが、主が十字架にかけられた事を不審に思う方がいれば、ユピテル神の息子らのうちにも先に私が述べたような形で損失を受けた者もいるのです。」


 この文から明らかなように、キリスト教会の最初の宣教団は、多神教の信仰と自らの信仰の類似性を認めるのに、後の世紀の継承者らよりもはるかに積極的だった。


 イエスの生涯の正確な年代記を求めるあらゆる試みに対して起き上がる問題を解決しようとする努力において、この時代にシリアに生きていた少なくとも2人のイエス、イェホシュアあるいはヨシュアの名を持つ宗教教師らがいたのを示唆されてきた。そしてこれらの者の生涯は福音書の物語とよく混同されてきたようである。フリーメイソン会員のバーナード H.スプリンゲットは著書「シリアとレバノンの秘密宗派」で、初期の書から引用している。その書の名前を彼は明かす自由は無かった。なぜなら、それは宗派の儀式と繋がっていたからである。その引用の最後の部分はこの主題と密接に関わっている。


「だが、イェホヴァの神はエッセネ派の種に、聖性と愛の中で幾世代も栄えた。そして神の十戒に従い、イェホヴァの声への継承者を起こすべく天使らの首領が来た。それからさらに四世代の後、継承者は産まれ、ヨシュアと名付けられた。そして彼はイェホヴァの熱心な信仰を持っていたヨセフとマラの息子で、エッセネ派を救うべく他の全ての者らから超然としていた。そしてこのヨシュアはナザレにてイェホヴァの神との絆を復旧し、多くの失われた儀式や儀礼を回復させた。彼は36歳の時にイェルサレムで石打の刑によって死んだ――」


アーサー王の円卓

ジェニングスの「薔薇十字団、その儀式と神秘」より


 言い伝えによれば、西暦516年、アーサーがまだ15歳の少年だった時、ブリタニアの王として戴冠した。即位のすぐ後に、王はウィンザーで円卓の騎士団を設立した。その後、騎士たちは毎年カーリーアン、ウィンチェスター、キャメロットで聖霊降臨祭を祝うために集まった。ヨーロッパの全ての場所から勇敢にして大胆な者達が、この高貴な英国騎士団に加わるべき集まってきた。高潔さ、美徳、勇気がその必要条件で、これらの保有が充分に認められた騎士らはキャメロットのアーサー王の宮廷に迎えられた。ヨーロッパ中から最も勇気があり高貴な騎士たちを集めたアーサー王は、その中からさらに勇気と高潔さで衆に優れていた24人を選んで、円卓の集団を設立した。伝説によると、騎士それぞれが威厳と力において優れていたので、誰も他の者よりも上席に座る事が出来ず、そのため年に一度の祝祭で集まった時、同じ距離になるよう円卓にしたという。


 円卓の騎士団には、独特の儀式と象徴があった可能性はあるが、その知識は今日まで残っていない。イライアス アシュモールは、ガーター騎士団に関する書の中で、騎士団の全ての騎士の記章を2ページの絵の中に示している。円卓の象徴主義が失われた主な理由は、カンブランの戦場でのアーサー王の41歳での死(西暦542年)である。王は宿敵モードレッドをこの有名な戦いで滅ぼしたが、その代償はその命のみならず、ほとんど全ての円卓の騎士らも主君を守るべく死んでしまったのだ。


 19世紀には、イエスの福音書とその公生活についての不十分な説明を補うべく多くの書が出版された。その中のあるものは、最近発見された初期の文書の物語だと主張していて、一方で他のものは、直接的な霊的啓示によるとする。これらの中の一部は高く信ぴょう性があり、他は信用できない。イエスはギリシアとインドに旅して学習していたという絶え間ない噂がある。そして1世紀にイエスの誉れについて彫ったコインがインドで見つかっている。原始キリスト教の記録がチベットにあると知られており、セイロン島の仏教寺院の僧らは、イエスが彼らの下に留まって、この哲学に精通したという記録を今なお保持している。


 原始キリスト教にはあらゆる東洋の影響を示しているが、それは現代の教会で議論するのはタブーになっている主題である。もしもイエスがギリシアの多神教徒やアジアの密儀の秘儀参入者だと疑いなく知られたなら、キリスト教会のより保守的な信者らに与える影響は破滅的であろう。教会の荘厳な公会議が宣告したように、イエスが神の受肉ならば、なぜ彼は新約聖書で「神によって、メルキゼデク*6に等しい大祭司と唱えられた」*7とあるのか。ここにある「に等しい」という言葉は、イエスがその中の1人であり、他にも同等かさらに優れた威厳の者がいる可能性もある。この「メルキゼデク」は世俗の支配が始まる前の地上の国々の神か祭司の支配者であり、聖パウロが書いたとされるこの手紙の中で、イエスはこれらの「哲学的に選ばれた」者の一人か、これらの神権統治を再構築するよう努めたかを示している。メルキゼデクもまたイエスが最後の晩餐で行ったようにパンを割いてワインを飲む同じ儀式をした事も忘れてはならない。


 ジョージ フェーバーはイエスの本当の名はイェシュア ハムマシアーと述べた。ゴッドフリー ヒギンズは2つの引用、ミドラーシュ ヨホレトとアボダザラ(聖書への初期のユダヤ教の注釈)の中で、ヨセフの家の苗字が豹だと見つけている。両書において、人は「豹のイエスの名によって」癒されると記されている。この豹の名はイエスとバッコス神――この神は豹によって養われ、時には豹の上か引かれたチャリオットに乗った姿で表される――との直接的な繋がりを確立する。また豹の毛皮はエジプトの秘儀参入の儀式の中で神聖なものとして扱われていた。今ではIesus Hominum Salvator(人々の救い主イエス)と解釈されているIHSは、キリスト教とバッコス儀礼との別の直接的な繋がりを示唆している。IHSはギリシア語のΥΗΣから来ており、この値の合計608は太陽の象徴であり、またバッコスの聖なる名を構成する(ゴッドフリー ビギンズの「ケルトのドルイド教」を参照)。だがここで疑問が湧き上がる。原始ローマキリスト教はバッコス崇拝と幾つもの類似性から混同されてなかっただろうか? もしも肯定性が証明されたら、これまで新約聖書にある多くの不可解な謎は解決されるだろう。


 最初はイエスは宇宙的な活動性の寓話として提起されたが、後にイエス自身の生涯と混同されるようになった可能性はあり得ない事ではない。Χριστός、クリストスは古代の多くの国々で崇拝されていた太陽の力を表すのは議論の余地が無い。もしイエスが太陽の力の目的と性質をクリストスの名の下に明らかにするなら、この抽象的な力を神人の属性に加える事により、イエスは全ての過去の世界教師らの先例に従うであろう。この神人はゆえに、全ての神の性質を授けられ、あらゆる人間の中の潜在的な神性を表す。死すべき定めの人間は神自らの贖罪を通じてのみ神化に到達する。不死の自己との統一は不滅を定め、それゆえ自らの真我を見出した者は「救われる」。このクリストス、あるいは人の中の神人は人の救済の現実の希望なのである――抽象的な神性と死すべき定めの人類との間の生ける調停者である。アッティス、アドーニス、バッコス、オルペウスらはほとんど確実に、元は啓明された人で、後に彼らが神の力の個人化として作り出した象徴的人物と混同させられた。イエスも同様に、自らが教えていたクリストス、神人と混同された。クリストスは万物の中に閉じ込められている神人なので、秘儀参入者の最初の任務は、自らの中にある永遠なるものを解放する、あるいは「復活する」事である。自らのクリストスと合一した者は、結果としてクリスティアン、キリスト化された人と呼ばれよう。


 最も深淵な多神教の哲学者らの教義の一つは、再生された人の魂を自らの性質により天へと運ぶ普遍的な救世主神に関するものであった。この概念は疑いなくイエスの属性である御言葉のインスピレーションであった。「私は道であり、真理であり、命である。私以外により、誰も父のもとへ行くことは出来ない。」イエスとそのクリストスを1つの人物にするために、後のキリスト教著者らは教義を混ぜ合わせた。キリスト教の真の意味合いを再発見するためには、それらは元の構成要素に戻さなくてはならない。福音書記者らにおいて、クリストスは完全な人として表されていた。イエスは33年として象徴される様々な「世界の神秘」の段階を通り過ぎてから、天の圏へと上昇し、そこで永遠の父と再合一する。現在伝わっているイエスの物語は――フリーメイソンリーのヒラム アビフの物語と似て――原始キリスト教と多神教の密儀に属する秘密の秘儀参入儀式主義の部分なのである。


 キリスト教時代の数世紀前、多神教の密儀の秘密は徐々に大衆の手に落ちていった。比較宗教学の研究者には明らかであるが、少数の信仰深い哲学者と神秘家らにより集められたこれらの秘密は、新たな象徴的な衣を被せられ、何世紀もの間、キリスト教神秘主義の名の下に保存されていた。エッセネ派はこの知識の管理者であり、またイエスへの秘儀伝授者と教育者だったと一般的に考えられている。これが正しければ、イエスは疑いなく、ピュタゴラスが6世紀前に学んだメルキゼデクの神殿で秘儀参入を受けている。


 エッセネ派――初期シリアの宗派の中で最も卓越した派――は禁欲主義で生活し、昼は単純労働し夜には祈る敬虔な男女の教団だった。偉大なユダヤ人歴史家フラウィウス ヨセフスは最も高く彼らを評価していた。「彼らは魂の不死を教え、義への報酬は、真面目に努力する者に与えられると信じた。」別の場所でヨセフスは付け加えている。「彼らの生き方は他の者らよりも良きもので、また彼らは完全に自らを統御する事に没頭していた。」エッセネの名前は、古代シリア語の「医者」を意味する言葉から来たようである。そしてこれらの慈悲深い者らは、自らの存在意義を精神、魂、肉体が病んだ者らを癒す事にあると信じていた。エドゥアール シュレーによれば、エッセネ派には2つの主要な共同体、中心地があった。1つはエジプトのマオリ湖の沿岸にあり、もう1つはパレスティナの死海周辺のエン ゲディにあった。ある権威らは、エッセネ派は預言者サムエルの信奉者らの時代まで遡れるとした。だが多くの者は、エジプトか東洋起源と考えている。彼らの祈り、黙想、断食の方法は東洋の聖人らのものと似ていた。エッセネ教団の団員は1年の準備期間のみでなれた。この密儀学派は多くの他の同類らと似て、3つの位階があり、ごく僅かの志願者のみが全てを通過できた。エッセネ派は2つの共同体に分けられており、1つは生涯独身の誓いを立てた者らで、もう1つは結婚した者らだった。


 エッセネ派の者らは決して商人になったり、都市の交易生活に入ったりせず、農民や羊飼い、陶工や大工といった職人に職を制限していた。四福音書やヨハネの黙示録において、イエスの父ヨセフは大工や陶工として記されている。外典のトマスによる福音書と偽マタイによる福音書では、子供の頃のイエスは泥からスズメを造り、両手を叩くことで命を与えて飛び立たせたとある。エッセネ派はユダヤ人の中でも高い教育がされた者達と見做されており、シリアに駐屯するローマ軍団の士官らの子弟の家庭教師として雇われていた。多くの技工らが彼らの団員にいたのが、エッセネ派が近代フリーメイソンリーの創始者と見做されてきた理由だった。エッセネ派の象徴には様々な建築道具が含まれており、彼らは生ける神の住居としての霊的、哲学的神殿を建てるのに秘密裏に携わっていた。


ガーター勲章の大綬章と襟章

アシュモールの「ガーター騎士団」より


 ガーター騎士団はおそらくエドワード3世によりアーサー王の円卓の騎士団を模倣して創設された。だが円卓の騎士団の教授はカンブランの戦いの後には絶望的なまでに失われていた。ソールズベリー伯爵夫人がガーター騎士団の創設の起源だったという人気のある逸話はほとんど根拠が無い。ガーター騎士団のモットーは「Honi soit qui mal y pense」(悪意のある者に災いあれ)。聖ジョージが騎士団の守護聖人とされたが、それは人が自らの低位の自然である竜を高い性質により打ち倒す典型だからである。聖ジョージは3世紀頃に生きていたとされるが、実際は多神教神話から援用された神話的人物だっただろう。


 グノーシス派に似て、エッセネ派も流出論者だった。エッセネ派の主な目的の一つは、その創設時から保持してきた秘密の霊的な鍵によりモーセの律法の再解釈をする事だった。そのため、エッセネ派はカバリストらであるともいえ、シリアに繁栄していた他の宗派らと同様に、彼らも旧約聖書の著者らが約束していたメシアの到来を待ち続けていた。イエスの両親ヨセフとマリアはエッセネ教団の団員だったと信じられている。ヨセフはマリアよりもかなり年上だった。外典の「ヤコブによるイエスの幼時福音」によると、ヨセフは既に子供が育っていた男やもめで、「偽マタイによる福音書」ではヨセフはマリアを自身の孫よりも若い子供として扱っている。マリアは赤子の頃に主に捧げられており、様々な外典で彼女の子供時代の多くの奇跡が記されている。マリアが12歳になった時、祭司らは主に捧げられたこの子供の未来を相談し、胸甲をつけたユダヤの高祭司ザカリアが至聖所へと入り、そこで天使が現れて言った。「ザカリア、行け。そして人々からやもめ男らを集めて、それぞれに杖を持たせよ。主が徴を見せた者が、彼女の妻となろう」やもめ男らの頭としてヨセフは祭司に会いに行き、他の全ての男らの杖を集めて祭司に渡した。それから祭司は杖を男らに配るが、ヨセフの杖は半分ほどの大きさしか無く祭司は気づかずに至聖所に置いたままにした。全員に渡し終えると、祭司らは天からの徴が来るのを待ったが、何も起きなかった。ヨセフは高齢だったので、杖を取ろうとはしなかった。自分が選ばれるのは想像もつかなかったからである。だが天使が高祭司のもとに現れ、至聖所にある短い杖を取ってくるように命じた。祭司が杖をヨセフに渡すと、白い鳩が杖の尖端から現れて、この年寄りの大工の頭に止まった。こうしてヨセフは子供マリアを与えられた。


 「東洋の聖なる書と初期の文献」の編者は、子供時代のイエスの特有の精神について注意を払っている。この事は新約聖書のほとんどの外典で扱われているが、特に疑い深い聖トマスに帰する西暦200年頃のギリシア語版の書で顕著である。「子供の頃のイエスは小悪魔のような評判があり、気に入らない者をことごとく呪い、滅ぼしていた」。この外典の書は、読者を恐れさせ混乱させつつも、中世でとても人気があった。なぜなら、これは中世キリスト教の残酷で迫害する精神に完全に一致していたからである。多くの初期の聖書の書と同様、トマスによる福音書は2つの緊密に関連する目的のために贋作された。1つは奇跡の働きで異教徒らを上回る必要があったこと。もう1つは全ての不信心者らに「主の畏れ」を与えること。この種の外典の書は事実とは何の関連性も無い。一時的な利益はあったが、キリスト教のこの「奇跡」の乱用は最大のマイナスとなった。騙されやすい時代には無知な者らを印象付けるために超自然的現象が改竄されたが、今の時代には知性のある者らを疎外させるのみだったのである。


 ギリシア語のニコデモの福音書では、イエスが総督ピラトのもとにもたらされた時、衛兵らは防ごうとあらゆる努力をしたにも関わらず、頭を下げて敬意を払っていった。ピラトの手紙では、ローマ皇帝が義人イエスを処刑するのにピラトは価値があるので、彼に処刑を命令した。ピラトが許しを請う祈りをしていたら、主の天使が現れて、このローマ人総督に全てのキリスト教徒は彼の名前を憶えていて、キリストが最後の審判で再来した時にピラトはイエスの証人として彼の前に来るだろうと約束し安堵させたとある。


 前述のこのような物語は過去何世紀もの間にキリスト教の体へと張り付けられた化粧張りを表している。群衆心理そのものがこれらの伝説の自薦の守護者でそれらを永続化させ、この疑わしい蓄積の信仰を取り除こうとする努力に対する苛烈な敵対者となった。人気のある伝統はしばしば真理の基本的な要素を含んでいるものだが、この要素は通常バランスが崩れて歪んでいる。そのため、物語の普遍性はおそらく本質的には真実だろうが、詳細は絶望的なまでに間違っている。真実性については、飾られていないものが最も飾られた美があるとよく言われる。キリスト教の真の基盤を覆っている幻想的な霧を通じて微かに見えるのは、偉大にして高貴な魂により世界と対話する少数の偉大で高貴な教義である。ヨセフとマリア、2人の献身的で聖なる精神の魂らは神により聖別され、イスラエルに仕えるメシアが来るのを夢見、偉大な魂が来るための体を用意するためのエッセネ派の高祭司の指令に従った。これにより、汚れなき受胎によるイエスが産まれた。この汚れなきとは超自然というよりも清澄を意味する。


 イエスはエッセネ派により育てられ教育を受け、後には彼らの最も深淵な密儀の秘儀伝授を受けた。全ての偉大な秘儀参入者らと同様に、イエスも東洋へと旅したに違いなく、彼の生涯の沈黙の期間*8に疑いなく世界と対話するための秘密の教えに熟達するのに用いられただろう。エッセネ教団の禁欲主義を完成させ、イエスは洗礼を達成する。よって自らを自身の霊的な源と再統合し、世界の前で十字架にかかった者の名へと赴き、彼の弟子と使徒らを集め、彼らにイスラエルの教義から秘密の教えを教授したが、それらは失われた――少なくとも一部は――。彼の運命がどうなったかは不明であるが、おそらくその時代の倫理的、哲学的、宗教的な体系を再構築しようとした多くの者らと同様に迫害を被ったであろう。


 イエスは何度も例え話を使っている。その弟子らにも、より高尚で哲学的な性質によってであるが、イエスは例え話で語った。ヴォルテールはプラトンはクリストス密儀の最初の提唱者としてキリスト教会により列聖されるべきだったと言った。プラトンは他の誰よりもキリスト教の本質的教義に貢献している。イエスは弟子らに低位の世界は大いなる霊的存在により支配されており、永遠の父の意志に従って動かされると明らかにした。この偉大な天使の精神は世界の精神であると同時に、精神の世界である。人が世俗で死なないように、永遠の父はその力の中でも最も古く高きもの――神の精神を被造物へ送った。神の精神は自らを生贄に捧げて、世界により滅ぼされ食べられた。その霊と肉の体を理性的な生き物の12の方法に晩餐として捧げた事で、神の精神はあらゆる生けるものの部分となった。人はそれにより不死へと到達するための架け橋としてこの力を使うことが出来るようになった。自らの魂を神の精神へと上げ仕える者は義人であり、義を得てこの神の精神を自由にし、この精神は再び自らの神の源の栄光へと帰還する。そしてイエスは彼らにこの知識をもたらしたので、弟子らはお互いに言い合った。「見よ、この御方は自ら自身でこの精神を体現されている!」


ヤコブ ベーメ、ドイツの接神者

ウィリアム ロウ訳のヤコブ ベーメの書より


 ヤコブ ベーメは1575年にゲルリッツの近くの村で生まれ、1624年にシレジアで亡くなった。ベーメはわずかしか学校へは行かずに、若いうちに靴屋の徒弟となった。ベーメは後には靴職人となり、結婚して4人の子供を持った。まだ若い頃のある日、ベーメが師匠の靴屋で番をしている時、神秘的な旅人が店に入ってきた。この人物はごく僅かしかこの世界の物を持っておらず、最も賢く高貴な霊的達成を果たしているように見えた。旅人は靴の値段を尋ねたが若いベーメは人物の名前を聞く勇気は無かった。それにより自らの師匠を不快にするのではないかと恐れたからだった。旅人はさらに買うのを主張し、ベーメは最終的に師匠が靴のために望むだろう値を述べた。旅人はすぐにそれらを買い去っていった。少し離れた街路で神秘的な旅人は立ち止まり、大声で叫んだ。「ヤコブ、ヤコブ、来なさい!」好奇心と恐怖から、ベーメは店を飛び出した。旅人は視線を若者へと向けた――大いなる瞳は輝き、神の光に満ちているように見えた。旅人は少年の右手を取り、以下の様に命じた。「ヤコブ、汝は小さな者であるが、偉大な者であり、世界が驚異に感じるような別の人物となろう。それゆえ、謙虚であれ、神を畏れよ、主の御言葉を崇敬せよ。心地よく教育を受ける場所で聖書を熱心に読め。汝は多くの悲惨と貧しさを耐え忍び、迫害を被るが、勇気と辛抱を持つのだ。神の愛とあわれみが汝とともにあらんことを」 この預言に強い印象を受け、ベーメは真理の探究をさらに激しく行うようになった。やがてその労苦は報いられる。7日間の間、ベーメは神秘的な精神状態に陥り、その間に不可視の世界の神秘が目の前に明かされた。ヤコブ ベーメは全人類に錬金術の深遠な秘密を明らかにしたと言われる。ベーメは家族に囲まれて亡くなったが、辞世の言葉は「さて、楽園に行くか」だった。


アーサー王物語と聖杯の伝説


 伝説によれば、クリストス(霊的な法)の体は2人の人物に与えられたが、福音書には彼らについては僅かにのみ記されている。彼らはニコデモと、アリマタヤのヨセフで、両者とも熱心な信徒であったが、クリストスの弟子にも使徒にも含まれていない。2人はイエスの聖なる遺体の管理人として選ばれた。アリマタヤのヨセフは秘儀参入を受けた信徒仲間の一人で、A.E.ウェイトから「フリーメイソンリー新百科事典」の中で、「キリスト教の最初の主教」と呼ばれている。世俗的な(あるいは目に見える)聖座*9の力が聖ペトロ(?)により確立したように、霊的な(あるいは見えない)信仰体はアリマタヤのヨセフを祖とする「聖杯の秘密の教会」に確立した。この裏の使徒継承を通じて、後継者らは契約の永遠の象徴――永遠に溢れ出る聖杯と出血するロンギヌスの聖槍――を与えられてきた。


 おそらく聖フィリポの指示により、アリマタヤのヨセフは聖遺物を運び、様々な多くの苦難の後にイギリスへと到達した。そこでヨセフに教会を建てる土地が割り当てられ、グラストンベリー修道院が設立された。ヨセフは自らの杖を大地に差したら、奇跡的な茨の低木となり、1年に2回花を咲かせ、今ではこれはグラストンベリーの茨と呼ばれている。アリマタヤのヨセフの最期は知られていない。ある者らは、エノクのように変容し天へと迎えられたと信じている。他の者らはグラストンベリー修道院に埋められたと信じる。この古代の修道院の下の地下室に隠されていると多くの者が信じている聖杯を探すべく、何度となく試みがなされた。グラストンベリーの聖杯は最近見つかり、信奉者らはこれがオリジナルの聖杯と主張するが、批判的な研究者らには正当なものとは、ほとんど受け入れられていない。有名なアンティオキアの聖杯のような聖遺物としての本来の興味を除いて、実際には何も証明されておらず、現在で発見されているものは、18世紀前にキリスト教神秘主義について知られていた事からほとんど変わっていない。


 聖杯神話の起源は、偉大なドラマの要素の多くがそうであるように、奇妙に入り組んでいるものである。その十分な基盤は、ブリタニア島の民話の中に見つけられるだろう。それらには、多くの魔術の鍋、やかん、杯、角製の杯が含まれている。最初期の聖杯伝説では杯はまさに、その中身は無尽蔵に溢れ、これを持つ者は飢えも乾きも無くなるという潤沢な角だった。伝説の1つが述べるには、どれだけ重病の者も、この杯を8日間見ていたら、死ぬことは無いという。ある権威らは、聖杯はアドーニス とアッティスの儀礼で使われていた永遠の聖なる杯だと信じている。聖餐の杯やカリスは古代の様々な密儀で使われており、バッコス神はこの器、杯、かめの形でよく象徴されていた。自然崇拝において、尽きぬ聖杯は人の一生を支えられるだけの収穫の賜物を意味する。メルクリウス神の底なしの水差しと似て、それは自然の賜物の尽きる事なき泉である。これらの証拠から、聖杯の象徴主義の起源が純粋にキリスト教のみと考えるのは過ちであろう。


 アーサー王物語には、奇妙で神秘的な人物――魔術師マーリン――が現れている。伝説の1つではマーリンについてこう語っている。イエスが悪の束縛から世界を解放すべく送られてきた時、サタンはイエスの働きを無駄にすべく反キリストを送るのを決意した。悪魔は恐ろしい竜に変身して、ある若い女を襲った。女は家族をみな殺され、この悪から逃げるべく聖域へと入った。そこで彼女の子供マーリンが産まれ、この子は人間の母と悪魔の父の両方の性質を受け継いだ。しかしマーリンは闇の力に仕える事は無く、真の光へと改心し、その父から受け継いだ超自然的な力のうち、予言と奇跡の働きの2つのみを保持した。マーリンの物語の地獄の父などについては、マーリンは蛇あるいは竜の「哲学的な息子」の事実の寓話的なほのめかしと考えるべきである。この称号は密儀の全ての秘儀参入者らに用いられてきた。彼らは自然を自らの死すべき定めの母と見て、蛇や竜の姿をした知恵を自らの不死の父と見ていた。竜や蛇と悪の諸力との混同は、創世記の最初の章の誤読から導かれたものである。


 赤子の頃のアーサーは魔術師マーリンに与えられ、育っていく中でマーリンから秘密の教義を教えられ、さらにおそらくは自然魔術の深遠な秘密についても伝授を受けた。マーリンの助けのもと、アーサーはブリタニアの指導的な将軍となり、その威厳は王に等しいものとなった。アーサーがブランストックで金床から聖剣を抜いて、指導者の資格である神権を得た後、マーリンは湖の乙女から聖剣エクスカリバーを守るべく働いた。アーサー王が円卓の騎士団を設立した後、自らの任務は満たされたので、マーリンは消え去った。伝説の1つでは、空の中へ消え、そこでマーリンはなおも死すべき定めの人間らと影の対話をして存在し続けているという。別の伝説では、大きな石作りの地下室に引退して、出口は内側から封印したという。


 シャルルマーニュ大帝の多くの伝説が後にアーサー王へと当てはめられたのは合理的に確実視される。アーサー王はウィンチェスターで円卓の騎士団を設立した事で最も有名である。この「円卓」の秘儀参入の儀式や儀礼に関して信頼できる情報は見つかっていない。伝説の1つでは、この円卓は拡張と収縮の力に耐えられ、必要ならば1500人から1600人が周囲に座る事が出来たという。最も一般的な話では、この円卓に同時に座れる騎士らの数が12か24に固定されているというものだ。12の数は黄道12宮とイエスの使徒らの数を意味する。騎士らの名前と紋章も彼らの椅子に彫られていた。座席が24の時は、それぞれの黄道の宮は2つの部分――光と闇の半分――に分かれる事で、それぞれの宮の昼と夜の相を示す。黄道のそれぞれの宮は毎日2時間ずつ上昇するので、24人の騎士らは24時間、ヨハネの黙示録の24人の長老達、ペルシアで1日を分割する霊を表す24の神々を表す。円卓の中心は、我らが主イエス キリストの受難の象徴的な薔薇roseであり、イエスが死者から復活した(rose)象徴である。また、「危険の包囲」と呼ばれる神秘的な空席もあり、そこは聖杯探索に成功した騎士のみが座れるとされた。


 アーサー王の人格は、永遠に回帰する宇宙的神話の新しい形である。ブリタニアの王は太陽で、その騎士らは黄道で、王の輝く剣は太陽光線、この剣により王が戦い征服した闇の竜らは、地球の軸を表していよう。アーサー王の円卓は世界である。「危険の包囲」は完成された人の玉座である。その世俗的な意味合いにおいては、アーサー王は自らを騎士団と呼ぶ哲学的神秘家らの秘密のキリスト教・メイソン兄弟団のグランドマスターだった。アーサー王はこれらの騎士団のグランドマスターの高貴な地位を与えられた。なぜなら、王は信仰深く剣(霊)を卑金属の金底(自らの低位の性質)から引き抜く偉業を達成したからだ。このような類で常に起きるように、歴史的アーサー像はすぐに、これら騎士団の伝説と寓話とに混同され、今では2つは分離不可能となっている。アーサー王がカンブランの戦場で死んだ後、その密儀は消えていった。そして秘教的にはテニスンの「アーサー王の死」で美しく描画されるように、王は黒いはしけで運ばれていった。聖剣エクスカリバーもまた、永遠の水の中へと投げ込まれた――これら全ては普遍的顕現の昼の終わりでの宇宙的夜への降下の躍動的な描写である。歴史的アーサー王の遺体はおそらくはグラストンベリー修道院に埋められただろう。ここは聖杯とアーサー王伝説の両方の神秘主義儀式が非常に近い建物である。


 中世の薔薇十字団員らは疑いなく、アーサー王物語と聖杯伝説の真の秘密を知っていた。これらの象徴主義の多くは団の中に組み込まれた。もっともキリスト教神秘主義の全ての鍵の明らかなもののうち、聖杯伝説は最小の考慮が払われていたが。


象徴主義の中の後光と光輪

オーズリーのキリスト教象徴主義の手引きより


 多神教の神々とキリスト教の聖人らの頭の周囲に描かれる光輪は、両者とも太陽の栄光を浴びているのを表し、また自らの自然の中にある霊的な太陽がその輝く光線を放出し、天の光輝が彼らを取り巻いている事実も表す。後光が放出する直線で表されていると、それは太陽を意味する。曲線を光線として使われていたら、それは月の性質を意味する。これらの両方が混ざり合っていたら、それは両者の原理の調和的な混合を象徴している。円形の後光は太陽と男性原理を表し、ひし形の後光、あるいは2つの同じ半径の円の一部を重ねた形は、月と女性原理を表す。同様の象徴主義は、大聖堂の円形や菱形の窓に見つけられる。聖人や殉教者の光輪の形、色、装飾に関する完全な学も存在する。黄金の輪は通常、聖人の頭に描かれて、父なる神、子なる神は遥かに多くの飾られた後光があり、さらに通常は聖ジョージの十字架、花模様の十字架、百合形の十字架の3つの腕のみが見える装飾がなされる。


古今の秘密の教え 十字と十字架刑
↑ 古今の秘密の教え


*1 十字軍時代に聖地守護を目的として設立された騎士修道会の一つ。ソロモンの神殿(テンプル)に本拠地を置いた事から、こう呼ばれる。後に莫大な富を持つようになり、それを欲したフランス王と教皇庁によって異端者扱いされて壊滅させられる。
*2 レバノン地方にあるイスラーム教シーア派の秘教的宗派。現在も数十万人信者がいる
*3 キリスト教がユダヤ教の分派と考えられていた1世紀頃には、こう呼ばれていたが、4世紀にも別の異端で聖地周辺に存在する。
*4 紀元前2世紀から1世紀にかけてのユダヤ教の宗派。霊性を重んじて、キリスト教に影響を与える。教典の断片の死海文書で有名。
*5 イエスを洗礼した洗礼者聖ヨハネが殉教後も奉じるユダヤ教の一派。
*6 旧約聖書 創世記 第14章18節で「神の高祭司」「サレムの王」とされる人物。アブラハムがエラムの王らの連合軍に勝利した際に祝福した。
*7 ヘブライ人への手紙 第5章10節。
*8 イエスの生涯は少年時代から30歳で洗礼者ヨハネの下へと来るまでは不明になっている。
*9 The Holy See。ローマ教皇庁の正式な名称。