古今の秘密の教え 錬金術とその代表者達

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錬金術とその代表者達


 卑金属を金へと変容させるのは可能だろうか? 現代の科学者は嘲笑う考えだろうか? 錬金術は思弁の術以上のものであった。それはまた実践の術でもあった。不滅のヘルメースの時代より、錬金術師らはスズ、銀、鉛、水銀から金を作れると力説していた(そして彼らには具体的な証拠もあった)。過去二千年間の輝ける哲学的、科学的精神の持ち主らは、他の全ての哲学と科学の問題では完全に正気で理性的であったが、実際の金属の変容と増殖の現実性は、希望無くこの一点で誤解し、支持できないと断言していた。また、金属を変容させたと言っている何百人もの実践者らを、全て騙されやすい人、馬鹿、嘘つきと決めつけるのも理性的とは言えない。


 全ての錬金術師らは精神異常者と決めつける者は、このカテゴリーを古代と中世のほとんど全ての哲学者と学者らに拡大する羽目になるだろう。皇帝、君主、僧侶、一般の都市市民らは、金属の変容の明らかな奇跡を目撃してきた。存在する証言者らの面から、誰でもなおも確信できない特権があるが、嘲笑う者らは、尊重に値する証拠も無視してきた。多くの偉大な錬金術師らとヘルメース哲学者らがこの栄誉の殿堂の誉れある壁龕を占めているが、彼ら多数の批評家らは忘れ去られたままである。彼ら自然の大いなる奥義を追い求めた者ら全てのリストを作るのは不可能であるが、高い知性を持ち、この抽象的な主題を知りたいと望む読者に、少数の者を知らせるので充分であろう。


 これらの中で高名な者は、トーマス ノートン、オランダ人イザク、バジル バレンタイン(アンチモンの発見者とされる)、ジャン ド マン、ロジャー ベーコン、アルベルトゥス マグヌス、ニコラス フラメル、ヨハン フリードリヒ ヘルヴェティウス、ライモンドゥス ルルス、アレクサンデル セトン、ミハエル センディヴォギウス、トレヴィーゾのベルナルド伯、ジョージ リプリー卿、ピコ デッラ ミランドラ、ジョン ディー、ハインリッヒ クンラート、ミハエル マイアー、トーマス ヴォーン、J.B. フォン ヘルムート、ジョン ヘイドン、ラスカリス、トーマス チャーノック、シネシウス(リビアのプトレマイス司教)、モリュー、カリオストロ伯爵、サンジェルマン伯爵である。また伝説によれば、ソロモン王とピュタゴラスも錬金術師であり、ソロモン王は錬金術で作った金を神殿に用いたという。


 アルバート パイクは、ヘルメース学者らの金は現実のものだと公言する事で錬金術的哲学者らの側についた。彼は言う。「ヘルメース学は、全ての現実の諸学と似て、数学的に実証される。その結果も、その実体すら、正しい方程式と同じくらいに堅固なものである。ヘルメースの金は真の教義であるのみならず、影なき光、偽りの合金無き真理である。これはまた物質的な金でもあり、地の鉱山で見つけられるもののうちで、現実で純粋で最も貴重なものである。」メイソンの見地としては充分であろう。


 ウィリアムとメアリーが共に1689年にイングランドの王位を継いでから、王国内には錬金術師らで溢れた。なぜなら、彼らの御代の最初の年にヘンリー4世によって立てられた、金属を複製するのを王家への犯罪とする勅令を廃止したからである。シギスムンド バクストム博士の「錬金術文書集」には、ウィリアムとメアリーの最初の一年の御代の法令の第30章から引用した、手書きの勅令文が含まれている。勅令は以下のように読める。「イングランド王ヘンリー4世の5年目の御代の勅令を廃止する布告。それには、他の事柄とともに、これらの言葉が含まれる。すなわち、『以後、金や銀を増やしたり、増やす術を用いる事を禁止する。行った者らは、重罪に処す。』(後略)」この勅令が実効された後、ウィリアムとメアリーは錬金術のさらなる学習を推奨した。


 フランツ ハルトマン博士は、四人の違った錬金術らが卑金属を金へと一度のみならず何度も行った信用できる証拠を集めていた。それらの一つは、聖アウグスティヌス修道院のウェンツェル ザイラーという名の修道士で、修道院の中で少量の赤い神秘的な粉を見つけた。神聖ローマ帝国皇帝、ドイツ、ハンガリー、ボヘミア王のレオポルト1世の目の前で、彼はスズを金へと変容させた。彼の神秘的なエッセンスを零した物の中でも特記するのは、巨大な銀のメダルだった。メダルの金を作る形質に触れた部分は純粋な金に変容しており、残りは銀のままだった。このメダルについて、ハルトマン博士は書いている。


「この卑金属を金へと変容させる可能性の最も否定できない証拠(外見が何にせよ証明されるとしたら)は、誰にせよウィーンを訪問した者は見る事が出来よう。これは帝国の宝物庫にあり、このメダルは元は銀だったが、ウェンツェル ザイラーの錬金術の手段により部分的に金に変わったと言われる。ザイラーは後には皇帝レオポルド1世により騎士の位を授けられ、ウェンツェラウス リッター フォン レインブルグの称号を受けた。」(彼の著「知恵の神殿の内陣より」)


 錬金術師らの長い議論をするには紙面が足りない。その中でも4人の生涯の簡潔な描写が、彼らの働いた一般原理、彼らがこの知識を得るために用いた技法、彼らが作るために用いたものについて示すのに役立とう。これらの4人はこの秘密の学のグランドマスターだった。そして彼ら自身の手や、このヘルメースの術の同時代人の学徒らにより書かれた記録での彼らの冒険や努力は、あらゆるフィクションのロマンスと同じくらいに面白い。


パラケルスス

ホーヘンハイムのパラケルスス全書より


 フランシス バレットは「古代の伝記」でパラケルススの名に、以下の栄誉の称号を加えていた。「火による医師と哲学者らの大公、大いなるパラドックスの医師、スイスのトリスメギストス、化学哲学の最初の改革者、錬金術、カバラ、魔術の達人、自然の忠実な僕、生命のエリクサーと哲学者の石の師」さらに、「化学の秘密の大君主」。


ホーヘンハイムのパラケルスス


 錬金術とヘルメース哲学者の中で最も有名なのは、フィリップス アウレオルス テオフラストス ボンバストゥス フォン ホーヘンハイムであり、自らをパラケルススと呼び、いずれは全てのヨーロッパの博士らは他の学派から転向して自らに従い、あらゆる他の医師らより崇めるだろうと公言した。パラケルススの誕生日は1493年12月17日というのが研究者らの概ねの同意である。パラケルススは一人息子で、両親は薬学と化学に興味があり、父は医者で母は病院の院長だった。まだ若いうちに、パラケルススはオランドのイザクの書に強い興味を持つようになり、自らの時代の医学を改革する大志を抱いた。


 20歳になると、パラケルススは12年間、連続しての旅をするようになり、ロシアを含めたヨーロッパの多くの国々を訪れた。またアジアへも赴いた可能性もある。コンスタンティノープルでパラケルススはアラブ人の達人らからヘルメースの術の偉大な秘密を授けられた。パラケルススの自然霊や不可視の世界の住人らの知識は、おそらくはインドの僧侶らから直接的か弟子を通じて教えられたものであろう。やがてパラケルススは軍医となり、その医学の理解と技能は彼に大きな成功をもたらした。


 ドイツに帰ると、パラケルススは医療の術と学の長く夢見てきた改革を始めた。彼は当時のあらゆる医学者と対立し、情け容赦無く批判した。その暴力的な気質と途方もなく押しの強い人格は、疑いなく本来ならば避けられる無数の嵐を引き起こした。パラケルススは薬師らを叩き、彼らは処方箋の適切な成分を使わず、患者の必要を考えず、ただその調合の膨大な手数料を集める事のみしか考えていないと断言した。


 パラケルススが行った驚異的な治療は、その敵らをさらに深く憎ませるのみだった。彼らはその治癒を再現できなかったからである。パラケルススは同時代の一般的な病を治癒するのみならず、ハンセン病、コレラ、癌も実際に治したと言われる。友人らにパラケルススは死者の復活以外は何でも出来ると言ったと主張する。その治療体系は当時では異端すぎて、敵はゆっくりと、しかし確実にパラケルススを追い詰めて、何度となく追放させ、まだ知られていない国へと亡命させる事となった。


 パラケルススの人格には多くの議論があり、癇癪持ちの気質であったのは疑いない。また、パラケルススは医師と女性を狂的なまでに近づかせなかった。彼らにとってパラケルススは虐待以外の何物でもなかった。これまで知られている限り、パラケルススには女性との浮ついた話は一切ない。その特定の外観と中庸を欠いた生活態度は常に敵らに攻撃の材料を与えた。肉体の異常が、パラケルススの偏狭で嵐のような生涯の通じての社会への憎しみの原因だと信じられている。


 その酒飲みの悪評は、さらに迫害の原因となった。パラケルススはバーゼル大学の教授職にあった時でも、ほとんど素面だった事が無いと言われる。そのような告発は、彼が常に精神的に極めて明瞭だった記録からは理解し難い。パラケルススが書いた膨大な書(全集のストラスブルグ版はそれぞれが数百ページの3冊の大著である)は、パラケルススがアルコール中毒だった伝説の生きた反証である。


 パラケルススが告発されてきた悪癖の多くが、敵らの発明品であるのは疑う余地が無い。敵らは彼を殺すのに暗殺者を雇うだけでは満足しなかったので、その生涯を報復的に終わらせた後に、その記憶を汚すのを求めた。パラケルススがどのように死んだかは明らかではないが、最も信憑性のあるのはパラケルススが不正を暴いた公敵の何人かが雇った暗殺者らとの乱闘の間接的な結果として死んだという。


 パラケルススの手記のうち少数のみが現在まで残っている。なぜなら、その書の大半は弟子に口述筆記させたものだからである。スタンフォード大学のジョン マクソン スティールマン教授は以下の賛辞を送っている。「中世の医療科学と実践でのパラケルススの相対的な重要性に関する最後の審判が何であれ、彼はバーゼル大学で彼のキャリアーを熱意を持って入り、大いなる真理に到達し、医学の学問と実践を大きく進歩させるよう運命づけられたと自称した。彼の生得の気質から観察するものに偏見なく注意深く見て行った。もっとも、観察した事象への批判的解析はそれ程でも無かったかもしれないが。彼は明らかに普通でない独立独歩の独立した思考家であった。もっとも、彼の考えのオリジナリティの程度については議論の余地がある。確実なのは、彼が影響の組み合わせが何であれ、それらは彼の精神にアリストテレス、ガレノス、アヴィケンナの権威の不可侵性を拒否させた。そして古代の教義らを彼の新プラトン哲学の修正をした後は、背後に残った船を燃やす事に何の躊躇いも無かったのである。」


「彼の時代の主要なガレノス主義との絆を切ったので、彼は未来の医学の基礎は自然の研究、患者の観察、経験と実験にし、遥か昔に死んだ著者の不可侵の教義にすべきでないと唱え教えた。疑いなく彼の若い情熱のプライドと自己過信から、彼が直接攻撃した保守派の膨大な力を見誤った。もし彼が謙虚ならば、バーゼル大学での経験は確実に彼に真実を教えていただろう。この時期から彼は再び放浪する羽目となり、時には大きな貧困に陥り、時には心地よい場所につき、彼の活動の即座の成功については幻滅する事になった。もっとも、彼は究極の成功には何の疑いも無かった――彼の精神には、医学の彼の新しい理論と実践は自然の諸力によるもの、神の意志の表現で、いずれは勝たねばならぬものだったのである。」


 多くの矛盾した性格をしたこの奇妙な男は、中世ヨーロッパの哲学と科学の暗黒時代に綺羅星のように巨大に輝く天才だった。その同僚らの妬みと自身の短気さに対して闘争し、少数者の支配に対して多数者の善のために戦った。パラケルススは一般の言語で科学書を書き、それにより誰もが読めるようにした最初の人だった。


 パラケルススは死後も安息を得られなかった。その遺骨は何度となく掘られて、別の場所へと移された。パラケルススの墓の上に置かれた大理石には以下の文字が刻まれていた。「ここに横たわる遺体は、有名な医学博士テオフラストスで、彼は傷やハンセン病、痛風、水腫、他の肉体の治癒不能な病を驚異的な知識により癒し、その持ち物を貧民らに分け与えた。1541年9月24日、彼は生と死を取り替えた。生ける平和と永遠の休息の墓に。」


 A.M.ストッダートは、「パラケルススの生涯」で、この偉大な医師に大衆が抱いていた愛情の注記すべき証言を与えている。その墓について述べる中でこう記している。「この日、貧民らはここで祈った。ホーヘンハイムの記憶は『塵の中で咲いた花』として、貧民らは彼を聖人化させた。1830年にコレラがザルツブルグを襲った時、人々は彼の墓を巡礼し、彼にこの病が彼らの家から去るように祈った。恐るべき病は彼らから去り、ドイツとオーストリアの残りの町で猛威を振るった。」


 パラケルススの初期の教師は、自らをソロモン トリスモシンと名乗る神秘的な錬金術師だったとされる。この人物についてはほとんど知られていないが、何年もの放浪の末に、金属を変容させる術式を知り、それにより膨大な金を作ったと主張する。この著者の1582年に書かれた「太陽の光輝」という題名の美しく描かれた文書が、大英博物館に残っている。トリスモシンは錬金術の知識の結果として150歳まで生きたと主張している。その著「錬金術的放浪」の中で一つの非常に需要な文がある。この書は哲学者の石の探求の日記である。「汝自身を学び、汝の部分を学び、この知を学べ。それらは真に汝が何者かを教える。汝の外にある全てのものは汝の内にもある。ゆえに、トリスモシンは記す。」


アルベルトゥス マグヌス

ヨヴィウスの著名人伝より


 大聖アルベルトは1206年に生まれ、74歳で亡くなった。アルベルトゥスは「魔術の師、哲学の博士、神学の至上の者」と呼ばれ、ドミニコ会に属し、聖トマス アキィナスの錬金術と哲学の師だった。アルベルトゥス マグヌスの他の卓越した地位は、レーゲンスブルクの司教であり、1622年に列福*1された。アルベルトゥスはアリストテレス学派哲学者、天文学者、医学と薬学の深い学徒だった。若い頃、知恵足らずと見做されていたが、その真摯な献身の結果、聖母マリアの幻視が現れ、アルベルトゥスに大きな哲学的、知的な力を授けた。魔術の諸学に熟達した後、アルベルトゥスは興味深い自動人形を作り始めた。それは喋ったり考えたりする力があったという。それはアンドロイドと呼ばれ、金属と星々に従って選ばれた未知の形質で出来ており、魔術の形式と招聘による霊的な特質も与えられ、30年間働き続けた。聖トマス アクィナスは、この考える機械を悪魔的なメカニズムと考え、これを破壊し、アルベルトゥスを落胆させた。にもかかわらず、アルベルトゥスは聖トマス アクィナスに(伝説によれば)哲学者の石の秘密を含めた錬金術の術式を与えた。


 ある時、アルベルトゥス マグヌスはホラント伯にしてローマ王ウィレム2世を冬至の庭園パーティーへと招いた。地面は雪で覆われていたが、アルベルトゥスは自らのケルンの修道院の庭に豪華な食事を用意した。客人らはこの哲学者の軽率さに驚いたが、彼らが食べるために席に座るとともに、アルベルトゥスが数語を呟くと、雪は消え去って、庭園は花に満ち小鳥らが唄い、空気は夏のそよ風とともに暖かくなった。饗宴が終わるとすぐに雪は戻った。集められた貴族らは大変に驚いたという。(詳細については、「錬金術の哲学者らの生涯」を参照)


ライムンドゥス ルルス


 このスペインの錬金術師全ての中で最も有名な人物は、1235年に生まれた。その父はアラゴン王ハイメ1世の執事長で、若いライムンドゥスは誘惑と放蕩に包まれた宮廷へともたらされ、後に父の後を継いだ。富豪の妻との結婚はライムンドゥスの経済状況を保証し、豊かな生涯を歩んだ。


 当時のアラゴン宮廷で最も美しい女性は、ドンナ アンブロシア エレアノラ ディ カステロで、その美と徳は大いに称えられていた。彼女は既婚の身で、若いライムンドゥスが急速に彼女に惚れ込んでいくのを知って好ましく思わなかった。彼女が行く所にはライムンドゥスも従い、ついにはラブレターの詩を彼女に贈った。だがライムンドゥスが期待していたのとは大きく違った結果を生み出した。ドンナは招きのメッセージを送り、急いで向かった彼に対して、あなたが書いた詩により相応しい美のある人を探しなさいと言い、彼女が衣の一部を脱ぐと、そこには癌によりほとんど変異した部分があった。ライムンドゥスはこの衝撃から二度と回復しなかった。この事件は彼の生涯を大きく変えた。ライムンドゥスは宮廷社会の軽薄さを捨てて、隠遁者となった。


 そのしばらく後に、大罪の告解(懺悔)をしていたライムンドゥスの目の前にキリストの幻視が現れ、そこではキリストが我が導く道に従えと語った。後にも、同じ幻視が繰り返された。もはや躊躇することなく、ライムンドゥスは遺産を家族らに分け与え、丘の横にある小屋へと隠居し、そこで異教徒のムスリムらを改宗させるためにアラビア語の勉強を始めた。この隠居から6年後、彼はあるムスリムの従者を連れて旅に出た。このムスリムはライムンドゥスが自らの同胞らの信仰を攻撃し改宗させようとしているのを知ると、その背中にナイフを突き刺した。ライムンドゥスはこの暗殺者アサシン志望者が実行するのを防ぎ、このムスリムは後に牢獄で絞殺された。


 ライムンドゥスが健康を回復すると、彼は聖地を旅しようと考えている者へのアラビア語の教師となった。しばらくして、アルナルドゥス デ ビラ ノバと出会い、彼に錬金術の原理を教えた。この訓練の結果、ライムンドゥスは金属の変容と増殖の秘密を学んだ。彼は放浪生活を再開し、チュニスへと到着すると、そこでイスラーム教の教師らとの論争を始め、彼らの宗教への狂信的な攻撃の結果として、ほとんど命を失いそうになった。彼は国外退去を命ぜられ、再び来るならば死刑となると警告された。これらの脅迫にも関わらず、彼はチュニスに再び訪れたが、住人らは彼を殺す代わりにイタリアへと追放した。


 チャールズ ディッケンズの雑誌ハウスホルド ワーズの匿名の記事では、ルルスの錬金術の技量に考慮に値する光を投じている。「ウィーンで彼(ルルス)はイングランド王エドワード2世とスコットランド王ロバート ブルースから訪れるよう懇願する書簡を受け取った。彼はまた、旅の途中でウエストミンスター修道院長のジョン クレマーと出会い、深い友情を培った。そして王よりも彼のためにイングランドへ行くと同意した(ジョン クレマーのパンフレットはヘルメース博物館にはあるが、ウェストミンスターの記録にこの名はどこにも見当たらない)。クレマーは錬金術の最後の秘密――変容の粉を作る――を知る激しい願望があり、ライムンドゥスは彼との深い友情にも関わらず、決してそれを明かそうとはしなかった。だが彼は巧妙な策を思いついた。彼はライムンドゥスの心の底にある願望――異教徒の改宗――をやがて見つけ出した。彼はイングランド王にルルスが作り出した金に関する驚異的な物語を語り、そしてライムンドゥスにエドワード王がこの方法で金を作れたら、王はイスラーム教徒らに対する十字軍を起こすよう容易に説得されるだろうと働きかけた。


「ライムンドゥスは教皇らや王らに何度となく哀願して断られてきたため、もはや彼らに何の信用も持たなくなった。だがそれにも関わらず、最後の希望として、彼は友人のクレマーと共にイングランドへと赴いた。クレマーは彼を修道院の客人とし、特別扱いした。ここでルルスはクレマーが長らく待ち望んでいた粉の生成法の秘密を教えた。粉が完成したら、クレマーは彼を無限の富を与える者として王へと紹介した。ライムンドゥスは一つだけ王に条件を与えた。この金は宮廷の豪奢さや、同じキリスト教徒の王との戦争のために用いてはならないと。そしてエドワード自身も、異教徒らへの聖戦に従事するようにと。エドワードは全てを約束した。


 ライムンドゥスは塔を与えられ、そこで彼は5万ポンドの重さの水銀、鉛、スズを金へと変容したと言われている。これらからは600万枚のノーブル金貨が鋳造でき、それぞれの金貨は現在の価値では3ポンドはあろう。これら鋳造された金貨のうちの一部は、今なお古物収集家のコレクションの中に見つけられる(この文を否定しようと激しい試みがなされたが、なおも証拠は賛否相半ばす)。ロバート ブルースには、彼は「金属を変容する術について」という小冊を送った。エドムンド ディッケンソン博士はウェストミンスターでライムンドゥスが住んでいた場所を取り壊す際に、労働者らは粉の一部を見つけたが、それらは彼らを豊かにしたと伝えている。


 ルルスがイングランドに滞在している間、彼はロジャー ベーコンと友人となった。勿論、エドワード王は十字軍を起こすつもりなどさらさら無かった。ライムンドゥスの住む塔は、体のいい牢獄だった。そして彼はこれら全てをすぐに気づいた。彼はエドワードは信仰への彼の違反により、不幸と悲惨以外の何物も出会わないだろうと公言した。彼は1315年にイングランドを脱出し、異教徒らへの説教のために再び旅に出た。彼は今や非常に老人となっており、彼の友人らは二度と彼と再会出来ないだろうと考えた。


 彼はまずエジプトへと旅し、それからイェルサレム、そして三度目のチュニスへと赴いた。そこで彼はようやく、しばしば待ち望んでいた殉教者となった。群衆は彼を石打ちにした。あるジェノヴァ商人らが体を運び出し、そこで彼がまだ弱々しく生きているのに気づいた。彼らはルルスを船に乗せた。彼はしばらく生きていたが、1315年6月28日に船が故郷のマヨルカ島が見え出した頃に81歳で亡くなった。彼は聖ウルマの家族教会に、総督や全ての貴族らが参列する中、大いなる名誉とともに埋葬された。」


ジョン クレマーに帰する錬金術文献の表紙

宗教改革期と近世のヘルメース博物館より


 ウエストミンスターの神話的な修道院長ジョン クレマーは14世紀の錬金術の紛糾劇の中での興味深い人物である。ウエストミンスターの記録にこのような人物がいた理性的な確実性は無いので、疑問が自然と沸き起こる。「ジョン クレマーの偽名の下で隠れた本当の人物は誰だろうか?」ジョン クレマーのようなフィクション的な人物は中世の錬金術の二つの重要な実践を明らかにする。(1)世俗政治と宗教界の多くの高位の人物らが秘密裏にヘルメース化学の研究に赴いていたが、迫害や嘲笑を避けるべく、様々な偽名の下で彼らの見つけたものを出版していた。(2)何千年もの間、偉大なヘルメースの奥義への真の鍵を持っていた秘儀参入者らは彼らの知恵を永続させるために、著者として想像上の人物を作り出し、同時期の歴史を含ませて、これらの存在を社会の高名な一員として確立させた――ある場合、この目的のために系譜の完全な偽造まで行われた。これらのフィクションの人物の名前は、秘儀参入を受けていない者にはその裏の意味は理解できないようにした。だが、秘儀参入者には、彼らが当てはめられた人格は、象徴的なもの以外には存在しないのを意味した。秘儀参入を受けた年代記作者らは慎重にこれらの奥義を想像上の人物に帰する生涯、思考、言葉、行動の記録の中に隠した。それにより、何世代にも渡って、オカルティズムの深淵な秘密を安全に伝えていった。これらの書は無知な者には年代記以外の何物でもなかったからである。


ニコラス フラメル


 14世紀後半に、パリで装飾写本と証書と文書の準備をする商売をしている男がいた。世界は彼、ニコラス フラメルに、最も素晴らしい書の知識のために借りがある。この書を彼は公証人としての仕事からある書籍売りからもたらされ、タダ同然で買った。この「ユダヤ人アブラハムの書」と呼ばれる興味深い文書の物語は、彼の著「ヒエログリフの図形」の中の彼自身の言葉で語るのが最良であろう。「そのため、私、公証人ニコラス フラメルは、両親が亡くなった後に、書の技芸で生活をしていた。目録を作り、記述を装飾し、教師と生徒らの費用を会計していた。ある日、2フローリンで非常に古く大きなガイド書を手に入れた。それは紙でも羊皮紙でもなく、若い柔らかい樹の繊細な外皮(私にはそう見えた)で造られていた。その表紙は真鍮製で、よく縛られていて、文字や奇妙な図形が全面に彫られていた。私にはそれらはギリシア文字か古代文字の何かのように思えた。私は確信した。私はこれらを読む事は出来ない。これらには私が少し知っているラテン語やゴール語(フランス語)は注記にも文字にも無いのを知った。


 本の中身については、ページは樹皮か外皮であり、文字は素晴らしく勤勉に鉄筆により彫られていた。美しく小奇麗にラテン文字は色塗られていた。この書は7の3倍のページで構成され、最初のページと7ページ目ずつに乙女と彼女を飲み込もうとする蛇が描かれていた。第2の7番目では、蛇が十字架に架けられており、最後の7番目では、砂漠か荒野が描かれて、その中央には多くの美しい泉があり、そこから何匹かの蛇が放たれて、あちこちへと走っていた。最初のページには、金色の大文字で、ユダヤ人アブラハム、王子、祭司、レヴィ人*2、天文学者、哲学者、ユダヤの国から神の怒りによりゴール(フランス)へと散らされ、治療のために送られたと記されていた。その後、このページは生贄を捧げる宗教者か書記で無い者が本書を読む事への呪いの言葉で満ちていた(マラナタという言葉が何度となく繰り返されている)。


 この本を私に売った者は、これが価値あるかも知らなかった。私はこれは不幸なユダヤ人から盗まれたか取られたものか、ユダヤ人が住んでいたある古代の場所で見つかったものと信じる。この書の2ページ目で、著者は彼の国を慰め、悪行、特に偶像崇拝を避けるよう忠告し、忍耐と共にメシアが来るのを待つように述べた。メシアは地の全ての王らを消し去り、ユダヤ人らとともに永遠の栄光とともに世界を支配するだろう。疑いなく著者は非常に賢く理解をしている人である。


 3ページ目とそれ以降は、著者の囚われた国ユダヤがローマ皇帝らへの貢物を払う事を助けるよう書かれており、さらに他の事柄もあるが私はそれらについては語れない。彼はラテン語で金属の変容についても教えている。彼は入れ物の側面を塗って、その色についても指示し、さらに他の事全てもである。第一の動者について、彼は言葉では説明せず、4と5ページ目の全面的に塗られた絵図によるもので、それらは非常に巧みでよく描かれていた。これは良く知的に造られ塗られていたが、彼らの伝統であるカバラに熟達し、よく彼らの書を研究していない限り、誰も理解できないだろう。


 4と5ページ目には、何も文字は書かれておらず、美しい絵図で説明している。この作業は非常に美しい。まず足首に翼のある若い男を描いてある。片手にはカドケウスの杖を持っていたが、絡みつく二匹の蛇は描いていなかった。それで彼は自らの頭を覆っているヘルメットを叩いていた。彼は私の乏しい判断では、異教のヘルメース神のようだ。彼に向かって、翼のある偉大な老人が飛んできた。彼の頭には砂時計が縛り付けられていて、彼の手には死に関する書を持っていた。これにより、この老人はヘルメースの足を恐ろしく激しい方法で切り取れるだろう。また非常に高い山の頂に北風でわずかに揺れる美しい花を描いていた。茎は青く、花は白と青で葉は金のように輝いている。その周囲には北に巣を持つ竜らとグリフォンらが取り囲んでいた。


 5ページ目には、甘い庭園の真ん中に美しい薔薇の木が咲いていた。中空のオークの樹に対して昇っている。その底には白い水の泡立つ泉があった。それは底なしに深かった。無数の人々が地面を掘ってそれを求めていたが、彼らは盲目なので、あちこちにいる重要性を考えている人らを除いて誰も知らなかった。5ページ目の最後には、豪華に着飾った王が描かれていた。彼は多くの兵士らに多数の赤子を殺すよう命じていた。そのそばには母たちが容赦なき兵士らの足元で泣いていた。その後、これらの赤子らの血は他の兵士らが集め、大きな瓶の中に入れて、太陽と月がこれを温めていた。


 ヘロデ王の無実な赤子殺害の部分をこの歴史は繰り返しており、私は本書によりこの術の最大の部分を学んだので、この秘密の学のこれらのヒエログリフ的な象徴を彼らの教会墓地へと置いた理由の一つである。そして、これにより汝は最初の5ページを見た。


 私は汝に他のページの良く知的なラテン語の文を繰り返しはしない。神が私を懲罰するだろうからだ。もしそうしたら、私は一人の人物の頭を切り落とすために全ての人を殺そうと望んだ者(かく言われる)よりも、大いなる悪事を犯すだろう。この公正な書を持ち、私は日夜この学習以外の事はせずに、ここで示される作業について非常によく理解したが、どの物質から私は始めるかは知らず、私は重く苦しみ、多くの溜息をなした。我は妻ペレネラを私自身と同じくらいに愛しており、最近結婚したのだが、これに非常に驚き、私を慰め、どんな方法にせよ、このトラブルから私を解放したいと熱心に要求した。私は黙っていられずに、全てを彼女に話し、この書を彼女に見せた。彼女はそれらを読み、私同様に夢中になって、その公正な表紙、彫刻、像、描写を視るのを非常に喜んだが、私と同様に少ししか理解できなかった。だが彼女とこの本について語るのは非常に快適であり、これらを解釈するには我々は何をすべきかを語るのは私を楽しませた。」


 ニコラス フラメルはこの神秘的な書を何年にもわたって研究した。彼はこの本の絵を彼の家の壁に模写すらし、さらに書の無数のコピーを作って、知り合った学者らに見せた。だが誰もこの秘密の意味を説明出来なかった。最後には彼は達人、賢者を求めて探求する事にして、長い放浪の末に彼はある医者――その名はカンシュ師という――と出会い、彼は即座に絵に興味を持ち、オリジナルの書を求めた。彼らはパリで共に研究を始め、その中で医者の達人はフラメルにこのヒエログリフの多くの原理を説明した。だが、この旅の終わりに到達する前に、カンシュ師は病によって亡くなってしまった。フラメルは彼をオルレアンで埋めて、彼らの短い知遇の間に得た情報を深く黙想した。やがて彼は妻の助けとともに、卑金属を金へと変容させる作業の公式を理解した。彼はこの実験を何度か繰り返し、完全な成功をした。そして彼の死の前に、パリの聖インノケンティウス教会の墓地のアークに幾つかのヒエログリフ的な絵を塗った。この中に彼はユダヤ人アブラハムの書が彼に明かした公式全てを隠した。


トレヴィーゾのベルナルド伯


 生命のエリクサーと哲学者の石を求めた全ての者のうち、ごく僅かのみが落胆の鎖を通り抜けたが、その一人こそはトレヴィーゾのベルナルド伯で、彼は1406年にイタリアのパドヴァに生まれ、1490年に亡くなった。彼の哲学者の石と金属の変容の研究は、わずかに14歳の頃から始まった。彼は生涯をかけて探求したのみならず、それにより富も得た。ベルナルド伯はあちこちの錬金術師と哲学者らを訪ね、彼らからは心地よい理論を聞いたが、彼が熱心にそれを受け入れ実証しようとするも、いずれも失敗した。彼の家族は、彼が狂人になったと信じ、家から追い出した。それにより彼は急速に貧乏となった。彼は多くの国々を旅し、これらの遠い場所で彼を助けてくれる賢者を見つけるのを期待した。最後に彼が76歳となろうとした頃に、成功の報酬を得た。生命のエリクサー、哲学者の石、金属の変容の大いなる秘密は、彼に明かされた。彼はその労働の結果を記した小冊を書いて、残りの生涯で、彼の発見の果実を楽しみ、彼が生涯かけて求めた宝は、それだけの価値があったのに満足した。彼によって示された労苦と忍耐の例の一つは、ある愚かな詐称者が彼をハメて、その結果、彼は12年の間、卵の殻を煆焼し、また同じ年数アルコールと他の物質で蒸留させた。錬金術の探求の歴史で、大いなる奥義の弟子らのうちで彼ほど忍耐強く辛抱強い者はいない。
 ベルナルドは、溶解のプロセスは、火によってではなく、水銀によって達成でき、これが錬金術の最高の秘密だと宣言した。


ユダヤ人アブラハムの象徴

フラメルのヒエログリフの図形より


 ニコラス フラメルのヒエログリフの図形の再版の脚注でロバート H.フレアは言う。「この物語が現実である疑いない証拠と思えるものは、ユダヤ人アブラハムの書のこの版には、『フラメル』の注釈があり、この医師から受け取った教授が書かれているが、実際の著者はリシュリュー枢機卿の手によるものであり、それは実際に見て確認したカブリネス伯がボレルへ語っている。」


古今の秘密の教え 錬金術の理論と実践1
↑ 古今の秘密の教え


*1 カトリックで聖人となる前段階の福者となること。これ自体、通常は何百年もの調査が必要である。ちなみに、1932年に彼は列聖される。
*2 古代イスラエル人で祭司を司った部族。