古今の秘密の教え 序文 哲学の歴史2

ページ名:古今の秘密の教え 序文 哲学の歴史2

 六世紀のボエティウスの死をもって、古代ギリシア哲学学派の時代は終わりを告げた。そして九世紀には、新たに哲学と神学を和解させようとするスコラ学派の興隆があった。スコラ学の主な分野の代表は、ソールズベリのジョンの折衷主義、クレルヴォーの聖ベルナルドゥスと聖ボナヴェントゥラの神秘主義、ピエール アベラールの理性主義、マイスター エックハルトの汎神論神秘主義である。アラブ人のアリストテレス学派の中では、アヴィケンナとアヴェロエスである。スコラ学は、アルベルトゥス マグヌスとその輝ける弟子、聖トマス アクィナスの出現により頂点へと達した。トマス主義(時にはキリスト教のアリストテレスとも呼ばれる聖トマス アクィナスの哲学)は様々なスコラ学派を和解させようと考えた。トマス主義は基本的にはアリストテレス学派に信仰は理性の投射という概念を加えたものである。


 スコトゥス主義、あるいはフランシスコ会学者ヨハネス ドゥンス スコトゥスにより広められた主意主義哲学は、トマス主義に反して個々の意志の力と効能を強調していた。スコラ学派の顕著な特徴は、全てのヨーロッパの思想をアリストテレスの型に押し込めようとする必死な努力である。やがては学者らはただの言葉屋のレベルに落ち、アリストテレスの言葉を取り続けて骨だけが残るまでにした。この退廃学派の無意味な言い回しに対して、フランシス ベーコン卿は皮肉を浴びせて、捨て去られた記法の陶芸場に例えた。


 ベーコン主義あるいは帰納法の思考(ここでは事実は観察のプロセスから到達し、実験により承認される)の体系は近代科学思考のための道を開いた。ベーコンの後を継いだのは、トマス ホッブス(彼はベーコンの秘書であった時期がある)で、彼は数学は唯一の厳密な学であり、思考とは本質的には数学的プロセスと見做した。ホッブスは物質が唯一の現実であり、科学的調査は肉体、可能な原因と関連する事象、あらゆる違った環境でも流れる結果の研究にのみ制限すべきだと公言した。ホッブスは言葉の重要性に特別な強調をし、理解するとは言葉とそれが意味するものとの関連性を知覚する能力だとした。


 スコラ学や神学から離れ去る事により、後宗教改革哲学あるいは近代哲学は多くの多様な線の中で多彩な成長を経験した。人文主義においては、人は万物の基準となる。理性主義では、理性機能を全ての知識の基礎とした。政治哲学は人は自らの自然的、社会的、国家的な特権を理解しなくてはならないとした。経験論は経験や実験によって行われたもののみを真理だと公言した。倫理主義は本質的な哲学的信条として正しい行為の必要性を強調した。理想主義は宇宙のリアリティは超物理的――精神的か霊的なものである。現実主義はその逆である。現象主義は科学的に記して説明できる事実、事象のみに知識を制限しようとする。最も最近のこの哲学思想の領域の進歩は行動主義あるいは新現実主義である。前者は行動の分析を通じて内的な状態を測るもので、後者は理想主義の完全な絶滅として要約されよう。


 著名なオランダ人哲学者バールーフ デ スピノザは、神を絶対的な自己存在する形質で、完全であり知的であるのに、自ら以外に何の概念も必要としないと考えた。この存在の性質は、拡張と思索というその属性を通じてのみ理解されるとスピノザは考えた。これらの組み合わせは限りなきアスペクトあるいはモードの多様性を形成する。人の精神は無限の思考の一つのモードである。人の肉体は無限の拡張の一つのモードである。思索を通じて人は自らを感覚の幻影の世界を超えさせて、神のエッセンスとの完全な結合の中で永遠に安らぐ。スピノザは神から全ての人格性を奪い取り、宇宙を神の代名詞としたと言われる。


プトレマイオスの宇宙の図

カール オスカー ボーグより頂いた古書より


 クラウディオス プトレマイオスにより解説された天文学の天動説体系を嘲笑する事で、現代天文学者らはプトレマイオス系の哲学的な鍵を見落とした。プトレマイオスの宇宙は、様々な神々と万物のエレメンツの部分との関連性の図表による表現であり、天文学を現代に考えられているような科学として見做していなかった。上記の絵で、特に注意すべきなのは惑星の軌道の周囲にある三つの黄道十二宮の円である。これらの黄道は宇宙を構成する三重の霊的な構造を表している。惑星の軌道は世界の支配者らであり、中央の四大エレメンツは人と宇宙双方を構成する物質的な構造を表す。プトレマイオスの宇宙の図は宇宙的オーラ、惑星、エレメンツの単純な断面であり、現代天文学者らが認識するものとは何の関連性も無いのである。


 ドイツ哲学はゴットフリート ヴィルヘルム フォン ライプニッツより始まる。彼の理論には楽観主義と理想主義に満ちている。ライプニッツの充足理由律はデカルトの延長の理論の不十分性を明らかにし、形質そのものが数えきれない分離され充分の単位の形態の中に生来の力を含んでいると結論付けた。物質は実質的な体を失うまでに究極の分子へと分解され、非物質的なイデアの集まり、力の形而上学的単位となり、それを彼はモナドと呼んだ。よって宇宙は生来の活動性により自発的に展開される無数のモナド的な存在によって構成される。万物は様々な段階、あるいは集合からなる単一のモナドからなると考えられた。それらは、物理的、感情的、精神的、霊的形質として存在される。神は最初にして最も偉大なモナドであり、人の霊はモナド的力が半分眠っている状態の低位界に対して目覚めたモナドである。


 ライプニッツ=ヴォルフ学派に属していたものの、イマヌエル カントはロックに似て、自らを人間理解の力と限界に捧げていた。その結果として、彼の純粋理性批判、実践理性批判、判断力批判の三部作の批判哲学となった。W.J.ドゥラント博士はカントの哲学を彼は精神を物質から救出したと簡潔に要約している。カントは精神を全ての知覚の選択者にして調停者と考え、その結果として感覚は自らをある外的なものに集まるとした。感覚と考えの類別化により、精神は特定の部類を用いる。感覚においては、時間と空間を。理解においては、特質、関連性、様相、因果律を。そして統覚の統一を。数学的法則に属するので、時間と空間は正確な思考には絶対的で充分な基底と考えられた。カントの実践理性が公言するに、ヌーメノンの性質は決して理性により理解は出来ないが、倫理の現実は三つの必要な公準を示している。自由意志、不死、神である。判断力批判の中でカントは技芸と生物的進化の中でのヌーメノンとフェノメロンの統一を証明した。ドイツの超知主義はカントの精神が感覚や考えに対して専制的上位にあるという理論の過度の強調の産物である。ヨハン ゴットリープ フィヒテの哲学はカントの哲学の派生であり、彼はカントの実践理性を自らの純粋理性と統一させようと試みた。フィヒテは知る事は知られたものの意識の中身にすぎず、これらの中身の一部となるまで知られたものには何も存在できないとした。それゆえ、自らの精神の敬虔した事実以外には実際に現実のものは何も無いとした。


 イエナでフィヒテを継いだフリードリヒ ヴィルヘルム ヨーゼフ フォン シェリングは特定の客観的現実の必要性も認め、哲学の完全な体系のために同一性の教義を基礎として用いた。フィヒテは自己を絶対的と見做したが、シェリングは無限にして永遠なる精神を全てに浸透する原因と考えた。絶対の認識は知的直観、霊的感覚、主観と客観の区別の消滅によって可能となる。カントの時間と空間の類別に対して、シェリングは肯定と否定とそれぞれ考え、物質の存在はこれら二つの表現の相互活動の結果と見た。シェリングは絶対者は三つの動きからなるリズムの法則に従って自己開発を進めると考えた。一つ目は反射運動で、無限から有限なものへと自らを当てはめる試みである。二つ目は包摂で、絶対者が有限なものに含まれた後に無限へと帰ろうとする試みである。三つ目は理性で、二つの前の動きが混ざり合った中間点である。


 ゲオルク ヴィルヘルム フリードリヒ ヘーゲルはシェリングの知的直観を哲学的には不合理と考え、純粋論理を基底とする哲学体系を構築するのに注意を払った。ヘーゲルは無から始めて、論理的な順序によりそこからどのように万物が出現したかを正確な論理により示したと言われる。ヘーゲルは論理を至高の重要性の位置に押し上げ、事実、絶対者と同一視した。彼が考える神は、展開しようとするものの決して展開しない永遠の試みと見た。同様に、考えは始まりも終わりも無いとした。ヘーゲルはさらに万物はその存在をその対称物に負い、全ての対称物は実際には類似物だと信じた。ゆえに、唯一の存在はお互いに対称する関連性のみであるが、それらの組み合わせにより新しい要素は生み出される。神の精神は決して達成しない永遠の思考のプロセスなので、ヘーゲルは有神論を激しく攻撃し、彼の哲学は不死を永遠に溢れる神単独へと制限した。結果として進化は永遠に終わらない神の意識の流れとした。全ての創造は、継続して動くものの、止まらない流れ以外の状態には到達出来ないとした。


 ヨハン フリードリヒ ヘルバルトの哲学は、フィヒテやシェリングの理想主義に対しての現実的反応だった。ヘルバルトにとって、哲学の真の基底は人間精神の中で継続して動く事象の大いなる集まりだった。だが、それらの事象を調べても、その大半は非現実、あるいは少なくとも精神に実際の真理を与えるには不可能と示された。この事象による偽りの印象を正し、現実を見つけるには、ヘルバルトは事象を要素へと分離するのは不可欠と信じた。現実はその要素の中にあり、全体には無いからである。彼は主体は三つの一般的な用語により区別されると唱えた。ものと物質と精神である。第一は幾つかの属性のある単位であり、第二は存在する主体であり、第三は自己意識のあるものである。だが、これら三つ全てがヘルバルトが主に考えていた解決法との特定の矛盾がある。例えば、物質について考えると、空間を満たす事は出来るが、これを究極的に減少させたら、不可解なまでに神のエネルギーの最小の単位となるが、物理的な空間はどこにも占拠しなくなる。


 アルトゥル ショーペンハウアーの哲学の主な主題は意志である。彼の哲学の目的は精神を意志を支配できるまでに高める事にあった。ショーペンハウアーは意志を強い盲目な人に例え、彼は知性を肩から背負っているが、こちらは弱いが視力を持っている。意志は発現の疲れ知らずの原因であり、自然のあらゆる部分は意志の生産物である。脳は知りたいと望む意志の生産物で、手は掴みたいと願う意志の生産物である。人の知的、感情能力全ては意志に従属し、そのほとんどは意志の方向性を正当化させるために努力すると考えていた。よって、精神は意志の必要性を与えるためにのみ精巧な思考体系を作った。だが天才は意志を超える知性を表し、彼らの人生は感情によってではなく理性によって支配される。彼自身の宗教信念は仏教に似ていた。彼にとって、ニルヴァーナとは意志の服従を表す。生命――盲目の意志の愛の顕れ――については彼は間違いと見て、真の哲学者とは死の知恵を認識し、種族の繁栄本能に抵抗する者だと唱えた。


古典的神話学の木

ホルトの「新パンテオン」より


 ギリシア神話学の深い科学的様相の適切な評価が可能となる前には、ギリシアのパンテオンを組織化し、神々、女神ら、様々な超人を秩序づけて配置するのは不可欠であった。偉大な新プラトン主義者のプロクロスはプラトンの神学への注釈の中で、第一原因から流出した低位の諸力との関連性に、様々な神々を配置する貴重な鍵を与えた。これらが配置されたら、神の階層秩序は大きな木の枝のようになるだろう。この木の根は知る事が出来ない存在の中に深く入り込む。木の幹と大枝は上位の神々の象徴であり、小枝と葉は第一にして普遍の力に従属する数えきれない存在を表していた。


 フリードリヒ ヴィルヘルム ニーチェについて、彼の人間の希望の大義への主な貢献は、神は惨めに死んだという朗報であった! ニーチェ哲学の目だった特徴は、彼の永遠回帰の教義と力への意志――ショーペンハウアーの生への意志の放出――を極めて強調した事だった。ニーチェは存在の目的は全てにおいて強力な個人、彼が超人と名付けたものを産み出す事であった。この超人は慎重な文化培養により生まれる。この個人は大衆から切り離され、力の生産物として聖別されなければ、致死的な平凡さのレベルへと沈むであろうからだ。ニーチェは愛は超人の出産のために犠牲にすべきと唱え、この恐るべき型を産める素質のある者だけが結婚すべきとした。ニーチェはまた貴族支配を信じ、超人による統治には、血と配合が不可欠とした。ニーチェの教義は大衆を解放しなかった。むしろ、超人の解放のためにあり、それより劣った兄弟姉妹は死に絶えるべきとした。民族主義的、政治的には、これらの超人は自らが法である。徳と自立と真理への力の真の意味合いについて理解した者には、ニーチェの理論の背後にある理想主義は明らかである。だが迷信深い者には、この哲学は心無く、打算的で、適者生存のみを考えているように見える。


 他のドイツ哲学の学派について詳細を語るには紙面が足りない。より最近のドイツ学派の進歩については、フロイト主義と相対性理論(しばしばアインシュタイン理論と呼ばれる)である。前者は精神病と神経的事象を通じての精神分析の体系である。後者は速度の現在の理論での機械的諸原理の正確さを攻撃している。


 ルネ デカルトは、哲学のフランス学派の先頭に立ち、フランシス ベーコン卿と現代科学と哲学体系の創始者の名誉を分かち合っている。ベーコンが外的事象の観察を自らの結論の基底としたように、デカルトは内的な事柄の観察を自らの形而上学哲学の基盤とした。デカルト主義はまず最初に全てを取り除いて、それから存在が不可能でない前提のみを置いていく。デカルトは考えをものについて考える時に精神を満たすものとして定義した。考えの真理性は明快さと分類可能性の基準により決められねばならない。デカルトは明快で分類可能な考えは真理と唱えていたので、彼の哲学は権威に頼らずとも進化する分類を持っていた。結果として、彼の結論は前提の最もシンプルなものから作り出され、彼の哲学が形作られていくにつれて複雑なものになっていった。


 オーギュスト コントの実証哲学は人間知性は考えの三つの段階を進歩していくという理論を基にしていた。第一にして一番低い段階は神学であり、第二は形而上学、第三にして最も高いのは実証主義である。ゆえに、神学と形而上学は人類の子供の精神での微かな知的努力で、実証主義は大人の知性の精神的表現である。彼の「実証哲学講義」で、コントは書く。


「最後の実証の状態で、精神は絶対者や、宇宙の起源や目的地、事象の原因を探す無駄な探索を乗り越え、自らの法則の学習へと向ける――すなわち、連続と類似の不変の関連性である。思索と観察が組み合わされたら、この知識のための方法となる。」コントの理論は物質主義の数えきれない体系として記される。コントによると、天は昔は神の栄光を宣言していたが、今ではニュートンとラプラスの栄光のみを語っているという。


 哲学のフランス学派の他の主要なものは、伝統主義(しばしばキリスト教と同一視されている)は哲学にとって伝統が適切な基盤として重んじている。社会学は、人類を一つの巨大な社会的有機体と見做す。百科全書派はヨーロッパ思想界を革命させたベーコン体系に従って知識を区分するよう努めた。ヴォルテール主義はキリスト教信仰の神的起源を攻撃し、神学に関する全ての問題について極端な懐疑主義に立っている。ニュー クリティシズムは、イマヌエル カントの教義のフランスでの修正版である。


 直観主義者のアンリ ベルクソンは疑いなく現存する者の中で最大のフランス哲学者である。創造的進化の前提の上に建てられた神秘的な反知主義理論により、彼は急速に人気を獲得したが、それは希望無く幸福無き物質主義科学と現実主義哲学に対する反逆と人間精神への良き情緒が魅力となったからである。ベルクソンは神を物質の限界に対して継続して闘争する生命として見た。彼は生命の物質への勝利の可能性とその際の死の消滅すら考えた。


 ベーコンの方法を精神に当てはめ、偉大なイギリスの哲学者ジョン ロックは精神を通過してくる全てのものは、精神哲学の正当な主題であり、これらの精神現象は他の科学の主題と同じくらいに正当だと公言した。彼の精神現象の起源の探究により、ロックはそれらは事実の自然な歴史を作るものでなければならないというベーコン主義の必要条件から外れた。ロックは精神は経験により刻まれるまでは空白と見做した。ゆえに、精神は印象と反響によって作られる。ロックは魂は神を理解する能力が無く、人の神の認識あるいは認知は純粋に思索能力の影響によるものと信じた。デイヴィッド ヒュームは最も情熱的で最も強力なロックの弟子だった。


 ロックの感覚主義を批判することで、ジョージ バークリー司教は自己の哲学の基礎をロックの本質的な前提にしたが、そこから彼自身の観念主義へと発展させた。バークリーは観念は知識の現実的なものであるとした。彼は感覚が物理的な対象に占拠されているのを根拠として挙げるのは不可能だと公言した。また彼は物質は存在しないと証明しようと努めた。バークリー主義では、宇宙は精神により充満し支配されているとする。よって、物質のものが存在するという信念は、ただの精神条件に過ぎず、ものそのものが、精神による作り物であろう。同時にバークリーは知覚の正確さを疑うのは、狂気よりも悪いと考えていた。知覚能力の力を疑う事で、人は何にせよ知り、推定し、理解する能力が全て無い生き物へと退化するからである。


 ハートレイとヒュームの認識論は観念の連合は心理学の基礎原理であり、全ての精神現象を説明するという理論を進めた。ハートレイは感覚が何度か繰り返されたら、その自発的な繰り返しの傾向もあるとし、それは例え元の反応が無かったとしても原因となる他の観念との連合を目覚めさせるとした。ジェレミ ベンサム、ウィリアム パリー、ジョームズとジョン スチュアート ミルの公益主義*1は、最大多数に最も利益があるものが最大善と公言した。ジョン スチュアート ミルはものの性質の知識を感覚を通じて得る事が可能ならば、精神の高い状態――すなわち、直観や理性――でものの真の形質の知識を得るのも可能だと信じた。


 進化論は、自然淘汰と物理的進化の教義である。チャールズ ロバート ダーウィンは、宇宙から霊を追い払い、無限にして全能の精神を全てに浸透する非個人的な自然の諸力の代名詞にしようと決意したと言われる。不可知論と新ヘーゲル主義もまた、この時代の哲学思想の注記すべき産物である。前者は究極の自然は知る事が出来ないという信念で、後者はヘーゲルの観念論の英米でのリバイバルである。


 W.J.ドゥラント博士は、ハーバート スペンサーの大著、第一原理は彼を一夜にして時代の哲学者に押し上げたと述べる。スペンサー主義は哲学的実証主義で、進化をその最大の可能な状態として均衡する永遠に増大する複雑性として記した。スペンサーによれば、生命は均質性から異質性に、そして再び均質性へと帰還する永遠のプロセスである。生命はまた内的な関係を外的な関係へと継続して修正する働きもある。スペンサーの格言の中で最も有名なものは神の定義に関するものである。「神は無限の知性があり、無限の時と空間を通じて無限の多様性があり、常に進化し続ける無限の個々の中に現れる。」進化の法の宇宙はスペンサーにより強調され、それは肉体の形のみならず、その背後の精神も含まれた。存在のあらゆる顕れは、単純なものから複雑なものへと向かう本質的な傾向があり、均衡に到達した時に、常にそれから分解のプロセスが始まるのが観察されるとした。だがスペンサーによれば、分解の後にはさらに高い存在のレベルへの再統合が従うとした。


キリスト教の三位一体

ホーンの古代神秘詳説より


 キリスト教の三位一体の教説の適切な絵図を作るにあたって、三人の人物――父、子、聖霊――分かれているが実体は一つ、の像を考えるのは不可欠である。ヨーロッパの異国の中には、上記の三面が一つの頭に統合されている像と似たような絵を見る事があろう。このような表現法は、三重の頭の偉大な神秘を悟った者には正当な方法である。だがキリスト教絵画の象徴主義のこのような用い方がある中で、他の信仰の哲学者ら、例えばヒンドゥー教での三面のブラフマー神やローマ神話の二面のヤヌス神を暗愚と考えるのはほとんど正当化出来ない。


 哲学のイタリア学派でまず挙げられる人物はジョルダーノ ブルーノであろう。彼はコペルニクスの太陽が太陽系の中心であるという理論を情熱的に受け入れた後、太陽は恒星であり、全ての恒星は太陽であると公言した。ブルーノの時代、地球は全ての創造の中心と見做されていた。結果として、彼が世界を変えて、人を宇宙の辺境の端へと押しやった結果は破滅的であった。宇宙の多様性を断言し、宇宙をどの信条でも満たせないほどに莫大なものと考えた異端説により、ブルーノは自らの命を失う事となった。


 ヴィーコ主義はジャンバッティスタ ヴィーコの思想を基にした哲学である。彼は神は世界を奇跡によってではなく、自然の法則によって支配すると唱えた。ヴィーコは、この法により人は自らを支配でき、人の中にある霊的な源から、神の法へと上昇出来るとした。物理法則は神が起源であり、霊的な父の命令の反映だからである。ヴィンチェンツォ ジョベルティ(一般的に哲学者よりも神学者と考えられている)によるオントロジズムは、神は単独の存在であり、全ての知識の源であり、知識は神そのものと同一であるとする。神は結果として存在と呼ばれ、全ての他の現れも存在する。真理はこの神秘の反映を通じて見つけられる。


 現代の最も重要なイタリア哲学者はヘーゲル観念論のベネデット クローチェである。クローチェは観念を唯一の現実と考えた。彼は反神学の観点を持ち、魂の不死を信じなく、宗教の代わりの倫理と美学を求めた。イタリア哲学の他の重要な分野で記すべきものは、センシズム(感覚主義)は感覚のみが知識を受け取るチャンネルと唱えた。批判主義、あるいは正確な判断の哲学。新トマス主義はトマス主義のリバイバルでローマカトリック教会により推奨された。


 アメリカでの二つの卓越した哲学学派は、超越主義と実用主義である。超越主義はラルフ ワルド エマーソンの書が例示するように、超越的なものの物質への優位性を強調する。多くのエマーソンの書には明白な東洋の影響が示されているが、特に魂についてと償いの法のエッセイに顕著である。実用主義は元はウィリアム ジェームズが始めたものではないが、この思想を広げるのに大いに貢献した。実用主義は、ものの意味と自然はその結果により見つけられるという教義として定義されるであろう。ジェームズによれば、「真は我々の考えのやり方で好都合なもののみで、「正しい」が我々の行動のやり方で好都合なもののようにである。」(彼の「実用主義」を参照。)ジョン デューイはこの実用主義を人生の目的にまで当てはめ、ジェームズの注釈者とすら見做せよう。デューイにとって、成長と変化には限界は無く、あらゆる究極の存在の仮定は無かった。アメリカに長く滞在したジョージ サンタヤーナはアメリカ哲学者らのリストに加えられる偉大なスペイン人としての十分な理由がある。自らを懐疑主義の盾で守り、著書「感覚の幻影」と「古今の蓄積された過ち」を共に、サンタヤーナは人類を「理性の生」で彼が示したより高き状態へと導くのを求めた。


(すでに私が引用してきた諸権威を別にして、哲学思想の諸分野へのこの簡潔な説明のために、現在の著者らで助けになったのは、スタンリーの「哲学の歴史」、モーレリの「十九世紀のヨーロッパの思弁哲学の歴史的、批判的展望」、シンガーの「近代思想家らと現代の諸問題」、ランドの「近代と古典哲学者達」、ヴィンデルバントの「哲学の歴史」、ペリーの「現代の哲学的傾向」、ハミルトンの「形而上学と論理講義」、ドゥラントの「哲学の物語」である。)


 古代のターレスから現代のジェームズとベルクソンまでの哲学的思想の流れを多かれ少なかれ追ってきた今、次は読者の注意を哲学的思考の創世記へと付き添う環境とそこへ導く要素に向ける時である。古代ギリシア人らは哲学の発展に大きな役割を果たしてきたが、この諸学の中の学は彼らが発祥と考えるべきではない。トーマス スタンレーは記す。「ギリシア人らの中で、哲学の起源を主張する者らもいるが、さらに学んだ者らはその起源が東洋からもたらされたのを認めている」。バラモン教、カルデア、エジプトの学者らの卓越した集団が、ギリシアの知恵の実際の源と認めなくてはならない。エローラ、ウル、メンティスの諸神殿により影が投げかけられた後、古代人らの思考も形作られたのである。ターレス、ピュタゴラス、プラトンは哲学的放浪の間に、多くの様々なカルトと遭遇し、エジプトと謎めいた東洋の知識をギリシアに持ち帰ったのである。


 哲学は古代の密儀宗教から生み出されたといった明白な事実がある。密儀が腐敗する時代まで哲学は宗教から分離されていなかった。ゆえに、哲学的思索の深みを測りたい者は、秘儀参入を受け神の啓示の第一の守衛として定められた祭司らの教えに自らを親しませなくてはならなかった。密儀は超越知識の守護者と主張していた。この知識は最も優秀な者にしか理解できないほど深淵であり、これを明かされるのは、個人的野心が死に、自らの生を人類に無私で仕える者のみにしなければ危険なまでに強力であった。これらの聖なる教育機関の威信と、普遍的知恵を有するという主張の有効性は、古代のほとんどの高名な哲学者らを引き寄せ、この秘密教義の秘儀参入を受け、その効能を間近で見たのだった。


 読者の中には、ある質問が正当に浮かんでくるだろう。古代の密儀教育がそのような「偉大な核心と瞬間」があるなら、なぜ現代では彼らとその保有すると主張する奥義が、こうも少ない情報しか残されていないのか? その答えは充分に単純なものである。密儀集団は秘密結社であり、これらの秘儀参入者は秘密の誓いをたてられ、その聖なる信用を裏切った者には死が与えられた。これらの学院は古代哲学者らが広めた様々な教義の真の霊感であったが、これらの教義の水源は決して大衆に明かされる事は無かった。さらに、古代衰退の時代にはこれらの教えは宣伝者の名前と密接に繋がるようになり、実際の深遠な源――密儀――は完全に無視されるようになった。


 象徴主義は密儀の言語である。事実、それは神秘主義や哲学のみならず全ての自然の言語だった。宇宙で働くあらゆる法も力も、人の限界のある知覚に対して象徴という媒体を用いて現わされた。存在の多様な圏にあるあらゆる形は、それを産み出した神々の活動の象徴だった。象徴により、人はお互いに言語の限界を超えた思考のやり取りをしてきた。人が考えた言語を永続する神の考えを表わすには不十分で価値が無いと拒否したため、密儀ではこれらの超越的知識を保存するのに遥かに巧妙で最適な方法として象徴主義を選んだ。一つの図の中に、象徴は明かされも隠す事も出来よう。賢者には象徴の主題は明らかであるが、同時に無知な者らには図は謎のままである。そのため、古代の秘密教義を明らかにしたいと望む者は、価値無き者の手に落ちる可能性のある本のページの中に探すのではなく、その教義が元々隠された場所を探すべきである。


 古代の秘儀参入者らは卓越した歴史的視野を持っていた。国々は来ては去り、諸帝国は興亡を繰り返し、技芸、諸学、理想主義の黄金時代は迷信の暗黒時代に取って代わられるのに彼らは気づいていた。後世の一流の精神らの必要のために、古代の賢者らは彼らの知識が確実に残るように、想像もつかない極端な方法へと赴いた。彼らは山脈の表面にそれを彫ったり、巨大な彫像の中に隠したりした。それぞれは幾何学的驚異だった。彼らは化学や数学の知識を用いて、無知な者らが知らずに保存した神話の中に隠したり、彼らの時代にまだ失われていなかった神殿の径間やアーチの中に隠した。建物を破壊する暴力にも、自然の無慈悲さにも完全に消し去れないように、彼らは文字でもそれを書いた。今日、人々はエジプトの砂の上に力強く立つメムノーン像やパレンケ*2の不思議な段々ピラミッドを畏敬と共に見る。これらは古代の失われた技術と学の沈黙の証言者である。そしてここに隠された知恵は、人類が普遍的言語――象徴主義――を読むのを学ぶまで、残されたままであろう。


 古代の象徴的な像、寓話、儀式の中に隠されているのは、生の内なる神秘に関する秘密教義であり、それらは歴史の始まりから秘儀参入された精神のごく少数の集団により保護されてきたという主張に本書は捧げられている。啓明された哲学者らは他の者らに理解されるようにこれらの定式を残した。だがこれらの秘密のプロセスが野蛮な者の手に渡って悪用されないように、大いなる奥義は常に象徴や寓話の中に隠された。そして今日、この失われた鍵を見つけられる者は、哲学的、科学的、宗教的真理の宝の館を開けられるであろう。


オルペウスの卵

ブライアントの古代神話学の分析より


 オルペウス教の古代の象徴は卵に巻き付く蛇だった。これは火的な創造的霊により宇宙は取り囲まれているのを意味する。卵はまた哲学者の魂を表す。秘儀参入の時には卵は割れており、人は肉体の存在の胎生状態から出て、彼は哲学的再生の胎児の間中ずっとそこに留まる。


古今の秘密の教え 古代密儀と秘密結社
↑ 古今の秘密の教え


*1 Utilitarianismは、昔は功利主義と訳される事が多かったが、最近では俗に使われる「功利主義」と混同、誤解されないように、公益主義と訳される事が多くなった。
*2 メキシコのマヤ文明の遺跡。