高等魔術の教理と祭儀 1-2

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第二章 ב B 神殿の柱


ホクマーは知恵(グノーシス)の家


 このオカルト学は、絶対的で完全な真理の保有者である。ゆえに全ての時代の賢者らは、このような絶対的で恐ろしい言葉の前に震えた。彼らは神の恩寵の前にこの学を保有していると自らを傲慢に主張するのを恥じ、この学の場所にて学ぶのを表現する知るという動詞を用いる代わりに、グノーシスという言葉を用いるので満足した。これは単純に直観により学ぶ方法を表している。事実、人は何を知ろう? 無である。同時に、彼は何に対しても無知ではないと許される。知識に欠ける事で、彼は全てを知る事へと呼ばれるのである。次に、知識は二元性を仮定する。知る者と、知られるものである。この二元性は社会と法の生成者である。これはまた、グノーシスの数でもある。これは自らを掛ける事により創造し、ゆえに、聖なる象徴主義においてエバはアダムの脇腹の奥より産まれたのである。アダムは人間の四文字であり、神秘のヨド、カバラにおける男根により総合される。そしてこのヨドをエバの三文字に加える事により、イェホヴァの名、神の四文字が形成される。これは著しくカバラ的、魔術的な言葉יהוה、神殿の高祭司がヨド・ヘー・ヴァウ・ヘーと唱え、この四文字の中から三文字が産み出されるゆえ、この四文字は数と全ての動きと全ての形態の鍵である。その中心から回転する事で、四角形は自らと同等の円を作る。これは円の四方であり、同じ点の周りを四つの同等の角が円運動する*1
 「上にあるものは下にあるものと同等である」とヘルメスは言った。ここで二元性は統一を測るべく仕え、上と下の均等の関係は、ここで三つ組を形成する。創造原理はイデアの男根である。創造原理は儀礼の膣である。垂直の男根を水平の膣へと挿入する事により、グノーシスのスタウロス、メイソンの哲学の十字架が形成される。ゆえに、二つの交差により四の数が作られ、その動きにより、円の全ての角度が定義される。
 אは男であり、בは女である。一は原理であり、二は御言葉である。Aは活動性であり、Bは受動性である。単子モナドはボアズであり、一対ドゥアドはヤキンである。易経の三つ組のうち、陽は統一であり、陰は二元性である。



 ボアズとヤキンはソロモン王のカバラの神殿の原理の入り口の前にある、一対の象徴的な柱の名前である。カバラではこれらの柱は、それが自然であれ政治であれ宗教であれ全ての対立存在を説明する。これらは男と女の間の生殖の闘争も明瞭にする。自然法により、女は男に抵抗せねばならず、彼は彼女を誘惑するか乗り越えなくてはならない。活動原理は受動原理を捜し、充満した空間は虚無を望む。蛇の顎は蛇の尾を求め、彼自らを飲み込む。彼は逃げるのと同時に、彼自身を追うのだ。女性は男性の創造物にして、普遍的創造は第一原理の花嫁である。
 至高の存在が創造主となった時、ヨド、男根を選び、非創造の光に満ちた場所を与えた。それには膣あるいは影の同等物による溝を抉るのが不可欠であった。彼の創造的欲望の次元を定められ、彼によりイデアのヨドの放出される光へと帰した。これらがタルムードの中にあるカバラの神秘の言語である。そして大衆の愚かさと悪意から、私はこれ以上説明する、あるいはさらに単純化するのは不可能である。では、創造とは何か? それは創造的な御言葉の家である。膣とは何か? それは男根の家である。活動的原理の性質とは何か? 集める事と、実を結ぶ事である。男とは何か? 秘儀参入を受ける者、難渋しながら進む者、溝を作る者、種を蒔く者である。女とは何か? 形作り、統一し、水を注ぎ、刈り取る者である。男は戦争を始め、女は平和をもたらす。男は創造のために破壊し、女は維持するために建てる。男は革命であり、女は和解である。男はカインの父であり、女はアベルの母である。また知恵とは何か? これは二つの原理の同意と統一であり、アベルの温厚さは、カインの活動性に向けられる。女の甘いインスピレーションに男は導かれ、法的な結婚により放蕩に征服し、革命のエネルギーは平和と秩序の温和さにより和らげられ落ち着いた。プライドは愛により服従し、科学は信仰のインスピレーションを認める。それによって科学は賢者の学となり、愛や普遍的な慈悲により教授され、普遍的原因の不可謬性に従う。それにより、これはグノーシスの名を引き受けられる。少なくとも完全に知る事を自慢できなくなると知るからだ。
 単者モナドは一対ドゥアドなしには現れられない。統一そのものと、その統一を理解するものの二つが要るからである。大宇宙の統一は、二つの反対側を指す三角形の組み合わせによって自らを明かす。人間の統一は右と左によって満たされる。原初の人間はアンドロギュヌス(両性具有)である。全ての人間の器官は二つ組で成り立つ傾向があるが、例外は鼻、舌、臍、カバラのヨドである。神はエッセンスにおいては一つであるが、その存在としての二つの本質的な状態があり、それは必要性と自由である。至高の思索者の法は必要であり、神の中で規則は自由である。神は必要なだけ賢く思索できるからである。
 神を見ようと光を当てても、影を投げかけるのみである。真理を顕すためには、神は疑いの可能性を許した。影は光を示し、過ちの可能性は真理の一時的な顕現のためには不可欠である。サタンの盾がミカエルの槍に介さなかったら、天使の力は虚無の中に失われるか、上から下へと無限の破壊をもたらしていただろう。ミカエルの足がサタンを踏みつけて上昇を抑えていなかったら、サタンは神の地位を押しのけるか、あるいはむしろ彼は高き深淵へ自らを失っていただろう。ゆえに、ミカエルにはサタンが彫像の台座として必要で、サタンにはミカエルが運動を止めるために必要なのである。この類推と普遍的な動力学においては、あるものは抵抗できるものにのみ寄りかかる。さらに、宇宙は二つの力によってバランスの均衡を維持しており、それらは引き寄せる力と排する力である。これらは物理学のみならず、哲学と宗教でも同様である。物理学ではこれらは均衡を、哲学では批評を、宗教では漸進的啓示を作る。古代人はこの神秘をエロスとアンテロスの闘争、ヤコブと天使の取っ組み合い、インドの黄金山脈での象徴的な蛇を取り囲む神々と悪魔の均衡として表している。これはヘルマヌビスのカドケウス、契約の箱の二体のケルビム、オシリス神の戦車の二体のスフィンクス、白と黒の二体のセラフィムとしても表される。その科学的な現実は、極の現象や、共鳴と反感の普遍的法則として働いている。



 ゾロアスターの認識力の欠けた弟子らは、一対を統一への引用を欠いたまま分けた。ゆえに、神殿の柱は分かたれて、神を分けるのに務めた。絶対者を二つとして認識するなら、すぐにこれを三つとして認識する事で統一原理を回復できよう。この理由から、物質のエレメンツ、神的なエレメンツの相似は、まず四つとして理解され、二つとして説明され、三つのとして最後には存在する。
 啓示は一対である。あらゆる言葉は二重であり、二を仮定する。啓示の結果としての倫理は、反対物の上に基礎があり、ゆえにドゥアドの結果である。スピリットと形態はお互いに引き寄せて排する。サインとイデア、フィクションと真理のようにである。至高の原因は、有限の知性と対話するためには教義が必要となる。そして教義がイデアの領域から形成の領域へと通過すると、二つの世界に参与する事により、結果として二つの感覚がその継承と同時性を証言する。すなわち、それらはスピリットと肉である。同様に倫理の領域にも二つの力があり、一つは攻撃し、もう一つは抑制し償う。これらは創世記の神話で、カインとアベルの人格の類型として表されている。アベルはカインを彼の倫理的超越性により抑圧する。カインは彼を殺す事で不死の呪いを得、彼自身の犯罪の犠牲者となった。場合によってはカインはアベルの命を傷つけずに、アベルの血はカインの眠りを傷つける事は無かったろう。福音書において、カインの類型は放蕩息子の例えとして表され、彼が長い間苦難に耐えた後に、父は彼の帰還を許すのである。
 神には慈悲と正義がある。公正であるために神は正義を免じて罪びとらに慈悲を与える。普遍的な動者である世界魂において、愛の流れと憤りの流れがある。これには、これは全てを取り巻き貫く流体である。この光条は太陽の光彩により緩められ、大気圏の重みと中心への重力により固められる。聖霊の体、これは普遍的な動者を我々が名付けたものだが、古代人らには自らの尻尾を飲み込もうとする蛇として象徴されていた。この電磁的エーテル、生命力と輝く熱者は、イシス女神の腰ひも、二つの極を取り囲む二重の縁結び、自らの尻尾を飲み込もうとする蛇、思慮深さと土星の象徴として古代では表されていた。動きと生命は二つの力の激しい緊張によって成り立っている。師キリストはこれを「汝は冷たいか熱いかであってほしい」と述べている。事実として、大いなる罪びとは、生温く柔弱な男よりも生き生きとしている。そして彼が心改めたならば、その罪を補うだけの美徳となろう。蛇の頭を砕くと定められた女は知性であり、それらは盲目の力の流れから起き上がる。カバラ学者らは彼女を海の乙女と呼び、その足は地獄のドラゴンの火の舌のある口を押さえつけて、彼らは喜びとともに眠りに落ちるのである。
 これらが、一対の古代宗教の神秘である。これは一つにして、全ての終わりであり、世人には知られてはならぬ。その理由は、ヘルメス トリスメギストゥスによれば、俗人らの邪悪な認識によって、盲目の宿命の不品行の様相から、この学は隠されねばならない。「未知への恐怖から、大衆は自制されなくてはならぬ」。彼は別の場所でも述べており、キリストもまた言う。「真珠を豚に渡すな。それを足で踏み砕くだろうから」。善と悪の知識の樹の果実は死であり、それは一対の古代宗教の秘密であった。この秘密が洩らされたなら解釈を誤られ、一般大衆は自由意志の邪悪な拒絶へと導こう。もっともそれは倫理生活の原理ではあるが*2。これが、秘密を洩らした者には死が与えられた理由である。これは魔術の大いなる秘密と同じではないが、一対の奥義は四つ組の奥義へと導く。より正確に言うならば、その形態へと進み、三つ組により解決される。これがスフィンクスの謎の言葉であり、これを見つける事により、生は救われ、無意識の罪は贖われ、オイディプースの王国を建てた。
 タロットともトートの書とも呼ばれるヘルメスのヒエログリフの書において、一対はイシスの両角により表わされていた。彼女の頭はヴェールで覆われ、手に持つ書は部分的に彼女のマントルにより隠されている。あるいは他の例は、ギリシアの女神ユノーで、片手は天へ掲げられ、もう片手は地を指す。この姿勢は一つにして二重の教義を表し、それは魔術の基礎でありヘルメスのエメラルドタブレットの素晴らしい象徴を始める。聖ヨハネの黙示録で、二人の証人、殉教者がいたが、預言の伝統では彼らはエリヤとエノクとされている。エリヤは信仰、熱意、奇跡の人で、エノクはエジプト人らからはヘルメスと呼ばれ、フェニキア人らからはカドモスとして称えられ、聖なるアルファベットとロゴスの秘儀参入の普遍的な鍵の作者であり、カバラの父である。聖書の寓話では彼は普通の人間のように死ぬことは無く、天へ直接導かれ、世界の終わりの時に帰ってくるとされる。同様の事は、聖ヨハネ自身にも言える。彼は黙示録でエノクの言葉の象徴主義を受け取り説明した。この無知の時代の終わりに聖ヨハネとエノクが蘇るという期待は、統一の神殿と普遍的哲学の扉を開くカバラの鍵による、彼らの教義の刷新であろう。これらは長く秘められ、選ばれた者にのみ明かされてきたが、それらの者らは世界の手により滅びているのである。
 だが一対による単者の再生は、三つ組の教義と概念へと導くと前に私は述べている。ゆえに、我々は今、この大いなる数へと到達した。これは統一に満ちるのと完全な言葉なのである。



高等魔術の教理と祭儀 1-3
↑ 高等魔術の教理と祭儀


*1 ウェイト注。同じ点の周りの四つの同等の角の円運動は、数学を当惑させる問題とは何の関係も無く、単に円の正確な面積のままである。レヴィは幼稚なナンセンスを語っている。
*2 ウェイト注。だが、これをレヴィのずっと後の著書と比較せよ。賢者の書の60ページでは「知識の樹は理性であり、生命の樹は愛であり、信仰を生み出す。」とある。また大いなる奥義の14ページでは「不和の確言である限りにおいては悪は現実であると言われ、これは本質的に永遠なる秩序の前では束の間のものである。」