高等魔術の教理と祭儀 序文2

ページ名:高等魔術の教理と祭儀 序文2

 これらが、オカルト学の秘密であり、魔術の歴史である。次にそれらの書や行動の中に、その秘儀参入儀礼や儀式の中に現れるものを一瞥しよう。全ての魔術の寓意の鍵は、私が先に述べてきた石板にあり、それらはヘルメスの書と見做されている。この書は、オカルト学の全体系の根本原理と呼ばれており、部分的な訳の中や引用した何千という書の中にある、数えきれない伝説に取り囲まれている。時には、幾つもの巧妙な伝説が上手く組み合わさって大いなる叙事詩となり重要な事件を特徴づける。だが、どのように、あるいはなぜかは秘儀参入を受けていない者らには明白ではないが。これらにより、金羊毛の伝説的な歴史*1は理解されよう。また、オルペウスのヘルメス的魔術的教義のヴェールについてもである。そして私はギリシアの神秘的な詩のみを回顧するとしよう。なぜなら、エジプトやインドの聖域は、それらの情報源から私を狼狽えさせるのみで、そのような豊富な富の中では私の選択を辱めるのみだからである。私はさらに、過去、現在、未来の教義の恐ろしき総合であるテーバイド*2へ到達しようと努める。それらは、――言うなれば――無限の伝説であり、オルペウスの神のように、人生のサイクルの終わりにも到達しよう。


 驚くべき事実! テーベの七つの門は、犠牲者の血で誓った七人の首領らにより攻撃され守られるが、彼らは聖書の中の黙示録の七つの封印と同じ重要性を持っている。この聖ヨハネの寓意的な書は、七人の天使らにより解釈され、七つの頭を持つ怪物に襲われ、ひとたび生きて死した子羊により開かれる。オイディプース*3の神秘的な起源がキタイローン山脈の樹に果実のように吊らされているのを見つけられたという逸話は、モーセの象徴と創世記の話を思い出させる。彼は自らの父に戦を仕掛け、彼は知らずに父を殺す――学と思考からの盲目の解放の途方も無い予言によりである。その後、彼はスフィンクスと出会う。象徴の象徴、世俗の者には永遠の謎、賢者らの学の御影石の台座、貪欲にして静かな怪物は、大いなる普遍的な神秘の教義の表現から変わる事は無い。四つ組の数をどのようにして二つ組に変えて、さらに三つ組により解釈できようか? より一般的であるが、より象徴的な用語を使うならば、朝に四本足の動物で、昼には二本足、夜には三本足とは何か? 哲学的に語るならば、四大エレメントの諸力の教義がどのようにゾロアスターの二元論を産み出し、ピュタゴラスとプラトンによる三つ組により要約されたのか? 何が寓話と数の究極の理由、全ての象徴主義の最終的なメッセージなのか? オイディプースは一言によりスフィンクスを滅ぼし、彼をテーベの神官王とした。この謎の答えは、人! ……不幸な! 彼は多くを見すぎたが、曇ったガラスを通じてであった。すぐに彼は自らの不吉な不完全な透視力を自発的な盲目により失い、嵐の中へと消えていった。それは全ての文明が――彼らの時代に――スフィンクスの問いかけに対してその重要性と神秘を理解しないまま答えていったようにである。この巨大な人間の宿命の伝説の中で、全ては象徴的で超越的なのである。二人の対立する兄弟らが、大いなる神秘の第二の部分を形成した。アンティゴネー*4の犠牲により神の力による完成を得た。彼らは戦争へと従い、兄弟はお互いに殺し合った。カパネウスは侮っていた稲妻により滅び、アムピアラーオスは大地へと飲み込まれた。そしてこれらの全てには多くの寓話があり、これらの真理、これらの崇高さは、これらの三重の神官文字を読める者らを驚かせた。バランシュに注釈されたアイスキュロスは、彼らに対してわずかに示すのみであった。それはギリシア詩人のせいなのかフランス批評家の無能さのせいであろうか。
 古代の密儀参入の秘密の書は、ホメーロスには知られていなかった。彼はアキレスの盾の詳細な概要を書き、彫刻を施したのだ。だがホメーロスのフィクションは人々の記憶から太古の啓示のシンプルで抽象的真理を素早く取り換えてしまった。人類はこの新形式にしがみ付き、古き考えを忘れさせてしまった。サインはこれらの増加の中で力を失った。魔術はこの時代にまた腐敗してしまい、テッサリアの妖術師らの最も汚らわしい呪術へと堕落してしまった。オイディプースの犯罪は、その致命的な果実を産み、この善と悪の学は神々への生贄の悪へと落ち込んだ。人々は光に飽き、肉体物質の影へと逃げ込んだ。かの虚無の夢は神と同等となり、彼らの目には神自身よりも偉大に見えた。ゆえに、地獄が創られた。
 本書において、私は神、天国、地獄という用語を用いているが、理解してもらいたいのは、これらの意味合いは世俗の者らが加えたものからは遥かに遠いという事である。秘儀参入は大衆の考えからは遠いゆえにである。私にとって神は、賢者らのアゾート*5であり、大いなる作業の効果的で最終的な原理である*6
 オイディプースの伝説に戻ると、このテーベ王の犯罪は、彼がスフィンクスを理解するのに失敗したことだ。そして彼の民の名を贖うのを完成させられるだけ純粋ではなかったので、テーベの天罰のもとで破滅した。この災厄はその結果として、怪物の死への復讐をなし、テーベ王は退位を強要され、自らをさらに貪欲で活発となったスフィンクスの恐るべき鬣への生贄へと捧げられた。オイディプースは人とは何かを見抜いたが、神とは何かを見抜けなかった*7ゆえに、自らの目をくり抜く結末となったのである。彼は大いなる奥義の半分を漏らした。そして彼の民を救うためには、彼はこの恐るべき秘密の残りの半分を亡命と墓の中にまで背負わねばならなかったのである。
 オイディプースの並外れた伝説の後、我々はプシュケーの優雅な詩と出会う。これらは確実にアプレイウスによって作られたものではあるまい。だが大いなる魔術の奥義はここで再び、神と見捨てられ裸で岩に縛られた、か弱き常命の者との神秘的合一の下で現れる。プシュケーは彼女の理想的な忠義心の秘密の無知の中に留まらねばならぬ。彼女が夫を見たならば、彼女は彼を失うだろう。ここでアプレイウスはモーセについて語り解釈する。だが、イスラエルの神エロヒムと、アプレイウスの神々は両方とも、メンフィスとテーベの聖域より発したのであろうか? プシュケーはエバの妹なのか、あるいはむしろ、彼女は浄化されたエバなのか? 両者とも知ろうと望み、厳しい試練の誉れのために純潔を失った。両者とも地獄へ落ちる罪を犯し、その片方はパンドラの古き箱をもたらし、もう片方は時と罪の象徴である古き蛇の頭を見つけて砕いた。両者とも罪を犯し、それらは古代のプロメテウスか、キリスト教伝説のルシファーにより贖われねばならぬ。その片方はヘラクレスによりもたらされ、別の方は救世主により乗り越えられた。大いなる魔術の秘密は、ゆえにプシュケーのランプと短剣、エバのリンゴ、プロメテウスの神聖な火にして、ルシファーの燃える王錫であり、さらに贖罪者*8の聖なる十字架なのである。この精通は乱用に繋がり、これを漏らす者は全ての損失を受けるに値する。これを知るには、単独で知るようにする、すなわちこれを用いて、かつ秘密にするのは、絶対の師となる道なのである。


 一つの言葉が万物を含み、この言葉は四つの文字で成り立っている。これはヘブライではテトラグラマトン(IHVH)であり、錬金術師らにはアゾット(AZOT)、ボヘミアンらにはトート(Thot)*9で、カバラ学者にはタロー(Taro)である。この言葉、様々な表現をされているが、世俗の者には神を意味し、哲学者と達人には人間の諸学の最終的な用語にして神の力の鍵なのである。だがこれは決して世間に明かしてはならないと理解した者のみが使うことが出来る。オイディプースがスフィンクスを殺さずに、これを乗り越え、彼の戦車の馬としてテーベに入ったならば、彼は近親相姦も不幸も亡命もせずに王でいられたであろう。プシュケーが、柔和さと愛情により、愛する者に明かすように説得していたら、彼女は決して愛を失うことは無かったろう。さて、愛は大いなる秘密と大いなる行為者の神話的な像の一つである。なぜならこれは行動と情熱と虚無と充足と軸と傷を仮定するからである。秘儀参入者は、私の言うことが理解できるだろうが、俗人には私はこれ以上に明白に語る事は許されない。
 アプレイウスの驚くべき黄金のロバ*10の後、我々は魔術的な伝説はもはや見つけられない。アレクサンドリアの学は、ヒュパティア*11の人殺しの狂信主義に征服され、キリスト教徒となった。あるいは、アンモーニウス、シネシウス、ディオニュシオスを名乗った匿名の著者らの諸書とともに、キリスト教徒のヴェールの下に自らを隠した。このような時代には、この奇跡を免れさせ、非知性的な言語を用いて迷信と学を装うのは不可欠であった。ヒエログリフの書法は蘇り、全体の教義、言葉による啓示と傾向の流れ全体をサインにより要約するために、ペンタクルと印章が発明された。この知識の求道者の目的は何か? 彼らは大いなる作業の秘密、哲学者の石、永遠の動き、円の求積法、普遍的な医薬、を探し求めた。この形式はしばしば彼らが狂人だと思われる事により、弾圧と憎悪から救った。だが、この大いなる魔術の秘密の句の一つはその全てを表しているが、それは私は後に示すとしよう。この伝説の不在は、我々の薔薇のロマンスの時代まで続いた。だが、この薔薇の象徴、ダンテの詩の神秘的で魔術的センスを表すものは、超越的なカバラから借りたものなのである。私は今こそ、この普遍的哲学の巨大にして隠された源流を訪れる時であろう。
 聖書は、その全ての寓話とともに、ヘブライの宗教知識を不完全でヴェールをかけられたやり方により表現している。私が先に述べた書、それらの神官文字は後に説明するが、これはウィリアム ポステルがエノクの創世記と名付けた書で、モーセや預言者らの時代より前に確実に存在し、その教義は本質的には古代エジプト人のものと同等で、またそれ自体に秘教とヴェールがあった。聖書では寓話的に、モーセが人々と話す時にはヴェールを顔に被せて、神と対話する際にはそれを外したとある。これは俗に言う聖書の不条理を説明しており、ヴォルテールもこれには随分と皮肉を込めたものだった。聖書は伝統の記録としてのみ書かれており、俗人らにはこの象徴は理解される事は無い。モーセ五書と預言者らの詩などは、基本の書である。教義、倫理、祈祷書なども同様である。真の秘密にして伝統の哲学は、後の世になるまで書かれる事は無く、それらはさらに分かりにくいヴェールを被せられている。ゆえに、この第二にして知られざる聖書、あるいはキリスト教徒により理解されていない宝庫は、いわば信者らには怪物的な不条理、同じくらい愚かな批判家らにもである。これには全ての哲学と宗教の天才らが達成し、深淵まで想像してきた事により構成され、棘により取り囲まれた宝、くすんだガラクタの石の中に隠されたダイヤモンドである。我が読者らは既に私がタルムードについて述べてきたと推測しているであろう。ユダヤ人の運命はなんと奇妙なものであろうか。これら世界のスケープゴート、殉教者、生存者。生命力に満ちた民、勇敢で堅固な種族。彼らへの迫害はなおも止まる事は無いが、それは彼らの任務がまだ達成されていないからだ! 我らの使徒の伝統は、異邦人らに囲まれ信仰の衰退の後に、ヤコブの家から救済は再び来て、十字架に掛けられキリスト教徒らに崇められた一人のユダヤ人が、世界の帝国を彼の父なる神の手に渡すと宣言してなかったか?
 カバラの聖域へと踏み込むと、誰もがこの教義を充分に敬慕するであろう。かくも論理的で、かつシンプルで同時に絶対的であると。理想とサインの本質的統一。原始的な文字による、最も本質的な現実の聖別。言葉と文字と数の三位一体。アルファベットのようにシンプルな哲学にして、言葉のように深淵にして無限。ピュタゴラスのものよりも完全にして明快。指の数により要約できる神学*12。赤子の手のひらの中の空洞で掴める無限。十の数と二十二の文字と三角形、四角形、丸。それらこそが、カバラの要素である。これらはまた、書かれた言葉の原理の構成要素であり、世界を創造した御言葉の反映なのだ! 全ての教義的宗教はカバラより発し、そこに帰る。ヤコブ ベーメ、スウェーデンボルグ、サンマルタン、その他の者にせよ、啓明された者の宗教的な夢は全て、カバラから借りたものである。全てのメイソンリー結社は彼らの秘密と象徴をこれに負っている。カバラ単独で普遍的な思弁の集合と神の御言葉を清めている。これは一見して対立する二つの諸力により作られ、永遠のバランスを維持している。これは単独で思弁と信仰、力と自由、科学と神秘を調和させる。これには過去、現在、未来の鍵がある!
 カバラの秘儀伝授者となるには、ロイヒリン、ガラティヌス、キルヒャー、ピコ デッラ ミランドラの書を読み瞑想するので充分である*13。また、ヘブライ人の著者らの書の学習と理解も不可欠である。ピストリウスの全集やセーフェル イェツィラー、さらに全てにまして大いなるゾーハルの書に熟達するのは絶対的に必要だ。カバラ デヌダタという題名の1684年版を求めるのだ*14。特に、カバラの流出論と魂の循環の書をだ。その後は、勇敢に教義的で寓意的なタルムードの書の闇の中に輝く光へと入るのだ*15。我々はそれにより、ウィリアム ポステルを理解する立場に立とう。そして、彼の非常に未熟で極端な女性原理の流出の夢はともかく、この高潔で学識深く啓明された人物はまだ彼の書を読んだことの無い者らが決めつけるほど狂ってはいない事を秘密裏に認められよう。


 私はオカルト学の歴史について簡潔に記してきた。私はその源を示し、わずかな言葉によりその主な記録を分析してきた。本書において、二つの部に分けられているうちの片方の学のみを今までは言及してきたが、もう一つの魔術、というより魔術の力の二つ、学と力により本書は構成される。力無き学は無である。というよりも、危険である。この知識は力を同時に与えるが、それこそが秘儀伝授の至高の法なのである。ゆえに、大いなる解説者は言った。「天の王国は暴力を被り、暴力はただそれを遠ざけるのみである」。処女の聖域のように、真理の扉は閉ざされた。真の男のみがそこに入れるであろう。全ての奇跡は信仰により与えられる。そして闇の中を恐れずに全ての試練と障害を乗り越え光へと歩む意志無くして何の信仰か? ここで古代の秘儀伝授の歴史について繰り返すのは不要であろう。危険で恐ろしいものであればある程、これらの効果が高まるのである。古の時代により、世界にはこれらを支配し教授する者らがいた。聖職者の術と王の術は、なによりも勇気と慎重さと意志の試練により成っていた。それらに似た修練院でのイエズス会の神父らは、現在では不人気であるが、彼らが真に賢く知的ならば、世界を支配していただろう。
 我らの生涯を賭けて宗教、科学、正義の中に絶対的なるものを探し続け、ファウストの円の中で循環した後に、我々は主要な教義と人類の最初の書に到達した。ここで我々は留まり、人類の全能の秘密、果てしなき進歩、全ての象徴主義の鍵、最初にして最後の教義を発見した。我々はしばしば福音書で述べられている表現――神の王国が何を意味するのかを理解する。
 人間活動の支点としての固定点を与えるのは、アルキメデスの問題を彼の有名な梃子を用いて解く事である。これは世界から選ばれた偉大な秘儀参入者らにより達成されてきた。そして彼らは偉大にして語られざる秘密の方法無しには行えなかったであろう。だが、その新生の若さの保証のためには、象徴的なフェニックスは厳粛にその遺骸と前世の証拠を消す前に、世界の目の前に再び現れてはならない。同様に、モーセはエジプト時代に彼とその行ってきた神秘を知っている者達全員が砂漠で死なねばならないのを見ていた。同じくエペソスの聖パウロがオカルト学を扱う全ての書を焼いたのも、フランス革命で偉大な東方ヨハネ団とテンプル騎士団の灰とともに、教会は略奪され、その神聖な宗教体系の寓話は貶められたのも。だが全ての教義も全ての再生も魔術を禁止し、その神秘を火と忘却の中へと貶めた。その理由は、世界に現れたどの宗教も哲学も人類のベニヤミン*16であり、その母を滅ぼす事により自らの生を保証したからである。その理由は、象徴的な蛇は常に己の尻尾を飲み込もうとするからである*17。その理由は、存在するための本質的な条件として、あらゆる完全性のために虚無が、あらゆる次元のために空間が、あらゆる否定のために肯定が不可欠だからである。ここに、フェニックスの寓話の永遠の現実化がある。


 私に先立って二人の学者らが私が旅する道を進んでいた。だが、彼らはいわば闇の夜を費やしていた。私が言うのはヴォルネーとデュピュイ*18である。特にデュピュイの広大な博識は、否定的な働きを産み出すのみであった。全ての宗教の起源に、彼は天文学のみを見たのだ。よって彼は教義のための象徴的な周期と伝説のためのカレンダーを上げた。だが彼には一つの知識の体系が足りず、それはカバラの秘密からなる真の魔術であった。デュピュイは預言者エゼキエルが骨が撒かれた平原を通ったように古代の聖域を通り抜けたが、ただ死についてを知るのみであった。彼は四つの風の性質を集めて全ての広大な納骨堂の生ける人々を作り出す言葉を望んだ。「起き上がれ! 新しい体を取り、歩け!」と古代の象徴へ叫ぶ事によって。だが今こそ、未だかつて誰もあえて行わなかった試みをする勇気を持つ時である。ユリアヌス帝のように、我々は神殿を再建するが、我々が崇拝する知恵を裏切らねばならぬと信じたりはしない。この知恵こそが、ユリアヌス帝自身も崇拝し、彼の時代の毒々しくも狂信的な博士らが彼に理解するのを許したのだ。我々にとって、この神殿は二つの柱がある。その一つはキリスト教がその名を刻んだ。それゆえ、私はキリスト教を攻撃する何の望みも持たぬ。それどころか、私はそれを説明され達成するのを望むのだ。知性と意志はこの世界ではその力を違った形で実践される。宗教と哲学はお互いになおも戦争状態にあるが、彼らはこの同意のもとに終わらせねばならない。キリスト教の仮の目的は服従と信仰により構築し、超自然、宗教的な平等を人々の間に作り、信仰により知性を動かないようにし、徳のための支点を提供する。それにより、この学の貴族階級を破壊する、あるいは、その既に破壊された貴族階級に成り代わるのである。一方で哲学は、自由と思索により人々を自然な不平等の状態へと戻し、工業社会で広める事により徳と既知を取り換えようと務める。その両者の働きはどちらも完全とも充分とも証明されておらず、いずれも人を完成させたり至福へもたらしたりはしない。ほとんど希望すらもたなくなった夢は、この長きにわたって対立している二つの力を調和させる事である。それを望むには良い土壌が今ではあり、これらの二つの人間の魂の偉大な力は、もはや男と女の関係以上に対立すべきでは無いと思える。疑いなくこれらは違っているが、これらの違いは再び出会い統一するためにあるのだ。


「全ての問題の普遍的解決以外に、提案は無いのか?」
 その答えはあるである。疑いなく、哲学者の石、永久運動、大いなる作業の秘密、普遍的医薬についての説明と関連しているからである。私は気が狂っていると、神なるパラケルススのように告発されよう。あるいは私は詐欺師だと、偉大にして不幸なアグリッパのように告発されよう。ウルバイン グランディエル*19の火葬の薪が尽きたとしても、非国民と蔑む沈黙と敵意はなおも残ろう。私は公然と反抗はせず、彼らに忍従するだろう。私は本書の出版を私自身の意志でなしたのではなく、時が証人を産むとしたら、それは私か他の者からであろうと信じる。私はそれゆえ静かに、待たねばならぬ。


 本書は二つの部分に分かれている。第一部では全体にカバラと魔術の教義を確立させている。第二部では儀式の体系、すなわち、儀式魔術に捧げられている。一つは古代の賢者が鍵と名付けたものであり、もう一つは田舎の者どもはなおもグリモアと呼ぶであろう。両者とも章の数と主題は恣意的に決められたものではなく、全ては大いなる普遍的な鍵を示しているのである。それは私が世界で初めて完全にして流暢に説明する。本書は語るに任せるとして、それがどこへ向かおうとするのか、神の摂理が決めるであろう。そこで終わるとしても、私は信じるに、これは永遠に続く。なぜなら、これは強く、合理的で意識的なもの全てに似ているからである。


 エリファス



高等魔術の教理と祭儀 1-1
↑ 高等魔術の教理と祭儀


*1 ギリシア神話のイアーソーンによる金羊毛を求める冒険譚。
*2 テーバイ圏に属する古代ギリシアの叙事詩。
*3 ギリシア神話でスフィンクスの謎々を解いた英雄。知らずに実の父を殺し、母と結婚する。真実を知り絶望して破滅する。エディプスコンプレックスの語源ともなった。
*4 ギリシア悲劇のオイディプース王の娘で、父に背いて死罪となった。
*5 錬金術での賢者の石、あるいは万能薬。
*6 ウェイト注。後にエリファス レヴィはこの文をもっとはっきりと説明すべきだと考えた。なぜなら、彼はアゾティック ガスと呼ばれる化学原理を崇拝していると告発されたからである。そのため彼は、AZOTHは博識な秘儀参入者バジル バレンタインが用いた言葉で、普遍的動者またの名をアストラル光を意味すると説明した。これはヘブライ文字、ギリシア文字、ラテン文字の最初と最後の文字で構成されており、そのため始めと終わり、三界の中の絶対者を象徴する。学においては神、カバラ哲学では絶対者、オカルト物理学では普遍的動者である。そのためAZOTHの言葉は3つのものを表現する。(1)神の前提、(2)哲学の総合、(3)物理の総合――言い方を変えると、信念、考え、力である。だが、レヴィがこの不条理さから解放されていたら、彼は別のものを仮定していただろう。彼はアストラル光を神と見做していたと告発されるだろうからである。
*7 ウェイト注。「このスフィンクスの謎の大いなる言葉は、人と自然の中の神である。」(大いなる奥義 230ページ)
*8 イエス キリストのこと。
*9 ボヘミアンとはロマ人、ジプシーの事で、この頃は彼らはエジプト出身と信じられていた。
*10 アプレイウスのイシス女神の密儀を扱った小説。
*11 5世紀の古代ローマの女数学者、天文学者、新プラトン主義哲学者。妄信でなく自分で考えなさいという彼女の教えを憎悪したキリスト教徒らに殺された。殺人を指示した司教キュリロスは教会から教会博士、聖人の称号を得た。
*12 ウェイト注。レヴィはゾーハルの散乱した断片と非常に不完全な説明のみを得る事ができた。カバラで上記の文以上に言語道断で的外れな意見はあり得ないであろう。そして、ゾーハル以後の形態で、この情報源から導かれたものとしては、クロル フォン ローゼンロートのラテン訳書と、イツハク ルリア、コルドバのモーセスの小冊子を参照するしかないであろう。それらの哲学的単純さと明快な理論からその正当性を判断して、いずれも同じ編書から来ている。
*13 いずれもルネッサンス時代の神学者、カバラ研究者。ピコはキリスト教カバラの提案で有名。ただ、保守的なユダヤ教のカバラ学者の大半はレヴィの意見には反対するだろう。
*14 おそらくマサースの英訳の原本の1677年ラテン語版。
*15 ウェイト注。タルムード自体は、エリファス レヴィの考えの中にレビ記以上に訴えるものが無かったようである。彼がこの書の何らかの現実の知識を持っていたとは思えない。その内容への彼の説明の幾つもの間違いは実に酷い。彼はミシュナーをエルサレムのタルムードと呼び、バビロニアのタルムードを二つのゲマーラーと同一視している。さらに、タルムード全体を彼の意見では「聖なるカバラの大いなる不変の真理」に置いているが、まったくそんな物では無い。イスラエルの秘密教義カバラはタルムード文献の時代よりも遥かに後世のものだからである。タルムードを編纂した者らはレヴィによって以下の三つの恣意的な区分けがされた。(1)秘儀参入者。(2)彼らの大衆の弟子ら。(3)文書の盲目の保存者で、その絶対的価値を知らない。レヴィがこれらでどう考えていたかかは予測できよう。「タルムードを元の意味で保存されなかったら」つまり秘儀参入者の作業でなければ「ユダヤの大いなるカバラの鍵、その存在とその伝統的な崇拝は、理解不能となっていたであろう。」さらに加えて、「さらにこのオカルト哲学の書は、カバラの調和と全ての真剣な秘儀参入者らが見做したものであると私は知る。」だが、タルムード哲学――オカルトだろうが何だろうが――と名付けた著者は、確実にタルムードを読んでおらず、彼が引用する「真剣な秘儀参入者ら」には何の名前も挙げていないが、誰も引用する相手がいないからである。レヴィの前では誰も、さらに彼以降も誰も、タルムードをカバラと調和すると見做して夢を見る事が無かったのである。(略)
*16 旧約聖書の創世記でヤコブの十二人の子供のうちの一人。
*17 錬金術のウロボロスの象徴。永遠を意味する。
*18 ヴォルネー伯爵は、おそらく1757年 - 1820年のフランスの哲学者、東洋学者、政治家。デュピュイは不明。
*19 1590年 - 1634年。カトリック僧で魔女として火刑にされた。