ユダヤの魔術と迷信 11-2

ページ名:ユダヤの魔術と迷信 11-2

誕生、結婚、死


 誕生、結婚、病、死――これらは、人に降りてくる重要な時である――は、直接含まれる本人だけではなく、その周囲全てにも関わっており、人の宿敵(悪魔)に対しての反悪魔の武器全体が訓練されてきた時であった。そしてこれらの時には、魔術、呪い、邪眼を反射し、病を癒し、悪霊の襲撃を砕く力があると太古から認められてきた全ての迷信的な道具が使われているのを我々は見い出せる。


 ユダヤ人の生活のこれらの重要な時に関連していた、先に述べた反悪魔の手段の単独や組み合わせを示す習慣を簡潔に列挙すると、それらの中にはユダヤ儀礼の中でも尊敬されている部分があるのに、多くのユダヤ人は驚くだろう。消しようの無い原始的な使用を再解釈し、それに宗教的な価値を与えるユダヤ教の傾向は、それらの真の意味合いを隠すのに、少なくとも西洋世界では成功した。だが東欧とオリエントでは、より原始的な態度が大衆の中では主流であり、ユダヤ教のラビたちの純粋主義が述べてきた理性化の教義を受け入れていたにも関わらず、そのような風習の真の重要性への認識はなおも存在している。そしてこれは中世でも同様であった――ほとんどの教師らは、実際の実践と関連していない迷信的な考えを根絶するのに勇敢に苦闘していたが、多くの注釈ではその効果が無かったのを示している。以下で述べるこれらの実践の全てがまとめて実践されていたわけでもなく、同等に用いられてもいない。選択は場所や時代によって様々であり、個人的な好みに拠る事が多かった。また聖書の詩句、魔除けなどが伴う事も多かった。


誕生


 1. 出産をする女性は緊密に守られていた。人々は家に集まり、彼女とその子供のために祈り、霊に対して効果があると信じられていた様々な詩篇が唱えられていた。そして人々は「彼女がこれまで行ってきた罪への噂話をする」事を警告されていた。子供が生まれた後には、その割礼が終わるまで彼女は家で1人でいるのは許されなかった。


 2. トーラーの巻物と聖句箱が、彼女のベッドに置かれるか、少なくともその部屋のドアに置かれた。


 3. 彼女のために(神への懇願の)ロウソクが灯された。


 4. 出産の数日前から、彼女が1人でいる時にはナイフを持つようにされた。また後の時代の記録では、これはより前の時代を反映しているだろうが、シナゴーグのドアの鍵も、出産中に彼女の手に握られていた。シナゴーグが無い孤立した地方や村では、(キリスト教の)教会の鍵を、このために借りていた。


 5. 彼女が寝るベッドの周囲に円が描かれ、部屋の壁かドアにはチョークで魔術の呪文(「サンヴィ、サンサンヴィ、セマンゲラフ、アダムとイヴ、リリスを除きたまえ」と読める)が描かれた。


 6. この時に霊への供犠をする風習はドイツ人とオリエントのユダヤ人の間にもあったが、ドイツ ユダヤ人の記録を私は知らない。だが、家禽の姿が描かれた原始的な魔除けはあり、おそらくは初期の時代の供犠を洗練させたものであろう。


 7. 出産の苦しみを軽減させるために、その夫のダブレット、ズボン、ベルトといった衣服と同種のものを身に付けるよう勧められていた。


割礼


 1. 儀式そのものも、悪の諸力に対してある程度は守護すると考えられていた。割礼前の8日間までにあった母子への危険は、以後は即座に低下すると考えられたのは重要である。割礼は子供をイスラエルの共同体へと入れ、同時に善の諸力の守護を呼ぶと考えられていた。特定の付随的な使用は、割礼に関連づけられていた力を示している。ゲオーニーム時代のある文書では、この実践に対しての権威者の発言を引用している。血のついた包皮は水とスパイスの入った鉢に入れられ、割礼の儀式の参加者全体が(この儀式が行われていた)シナゴーグを去る際には、それによって手と顔を洗っていた。後の時代の書では「驚異的な御守」として、先に割礼をした子供の包皮を、これから行う赤子の口の中に入れておくのを勧めていた。13世紀のある文書では、こう記している。「なぜ(割礼を執行した者が、血のついた手や口を拭く)布を、(割礼の間とその後に)シナゴーグのドアに吊るしておくよう定められているのか? 私の叔父のボンのエフライムが述べるには、賢者たちはこう説明している。イスラエル人がエジプトから贖われたのは、2つの血の利益、過ぎ越しの子羊の血と、割礼の血によってである。そしてイスラエル人は(出エジプト記 第12章7節の)『その血を取り、小羊を食する家の入口の2つの柱と、かもいにそれを塗らなければならない』のは、破壊者(の天使)がそれらの家に及ぼす力が無く、傷つけないからである。」


 2. 子供はこれらの割礼前の8日間の重要な時期には、非常に慎重に守られていた。


 3. 「守護の本質は、割礼が行われるまで、夜に起きてトーラーを学ぶ事である。」と述べた著者は、神秘的な祈りと詩篇も加えるであろう。これらは、この寝ずの番に含まれていたからだ。これらは「特に割礼の前夜に行うべきである。なぜなら、霊はその時に最も立腹しているからだ。」あるいは、他の著者がいう様に、「なぜなら、サタンは子供が傷つけられ、割礼の儀式を経験するのを防ぐよう努めるからだ。ゲーヒンノーム(地獄)から救われる利益のある律法を保つユダヤ人にサタンは大いに怒っているからである。」これは、ワフナハトと呼ばれ、この間に子供を絶え間なく見守り、祈りとトーラーの学習を続けていた。割礼が起きたら、その前夜か当日に祝われていた。中世では、この祝祭は2日行われたり、夜に始めてから翌日まで続けられた。これから、ワフナハトの特別な習慣が発展していったが、どれだけ古くから起きたかは、述べる事は出来ない。この引用は16世紀より前には無く、この名前そのものも、後まで用いられずにいた。16世紀のある著者は、アルサス地方ではこの名前は、Gitot Nachtと呼ばれ、ドイツの他の地方とメッツでは、Wazinachtと呼ばれていたと記録しているが、これらの音訳はあまり役に立たない。Wachnachtのドイツ、フランス訳として、GottesnachtとWeizennachtや、Güets NachtとWaizen-Nachtなど、様々に解釈されていた。これらのいずれの訳が正しいにせよ、ラビ グーデマンの、この言葉はspuknachtを意味するという示唆は、この夜の観察に本質的に忠実であるとして受け入れられよう。


 4. 一部の地方では、「子供の星のため(あるいは、幸運をもたらすため)、割礼の前夜に様々な食物を置いたテーブルを準備する」習慣があった。だがラビたちは、これは霊への供犠以外の何物でも無いと指し示していた。


 5. 割礼の間、預言者エリヤのために椅子を1つ用意する習慣は古代にまで遡れ、神は預言者が熱心にこの儀礼を守る事に報酬を与え、あらゆる割礼でその場にいるだろうと約束したという言い伝えと関連していた。元はこの風習は霊たちの悪霊には賄賂を、善霊にはもてなすためにパンを供犠するもので、ローマ人の間にも似たような習慣があった。これは単に象徴的なジェスチャーではなく、エリヤがその椅子に実際に座っていると信じられる事もあった。中世の間、集められた客人たちは儀式の前に立ちあがり、この不可視の訪問者に「祝福は来たあなたにありますように」と挨拶する習慣があった。


 6. またある記録では、割礼の前の日々で「家に灯りを満たす事もまた、守護する手段でもあった。」とある。そして特に割礼が行われている間は、ロウソクは大量に灯されていた。この目的は、光を得る事にはなかった。儀式は昼間に行われていたからである。これへの様々な説明は、この真の理由の不確実さ、あるいはそれを隠したい望みを示している。この実践の聖書の基盤として「律法はランプで、トーラーは光」(箴言 第6章23節)がよく引用されていた。あるいは、これは「喜びと恐れの表現」として説明されたり、元は割礼はローマ法の保護外とされ、結果として秘密に行われなくてはならなかった事から、通行人に儀式が行われているのを知らせるためともされた。より近代に近づくと、13本のロウソクを灯す習慣となり、それは聖書の割礼について述べている章(創世記 第17章)で「契約」(ベリト)の言葉が13回繰り返されている事や、イスラエルの13部族(エフライムとマナセの半部族も含める)や、12部族に子供を加えたものとして表向きは解釈されていた。そして13本目のロウソクは、自ら燃え尽きるようにされた。


 7. 先の章で述べたHollekreischは、子供を名付ける儀式の間に、叫んで赤子を空中に持ち上げる事によって悪霊を追い払う手段だった。


結婚


 1. 花嫁と花婿の両方(一部の地方では、花婿のみ)は、結婚式の日には断食をした。この習慣には様々なこじつけめいた説明が与えられていたが、その中でも馬鹿馬鹿しさの頂点に達していたものは、花婿は結婚式の間に酔っぱらうと疑われないためだった!


 2. 花婿はその家からシナゴーグまで参列者たちによってエスコートされた。「王が衛兵たちに取り囲まれるように、花婿は参列者たちに取り囲まれる」のは、重要な比較であった。時には会衆全員が花婿に伴っていた。そして結婚式の前と後しばらくは、花婿は1人で外へ出るのを禁じられていた。


 3. 結婚式の行列は真昼間に行われていたが、ロウソクや松明を灯した若者たちが先導しており、これらは時には空中へと投げられていた。また騒がしく、しばしば不調和な音楽がこの行列の特徴だった。


 4. 結婚式でグラスを割る習慣は、一部の者らによると、タルムード時代にまで遡れるが、中世の儀礼では一般的であった。花婿はガラスを踏みつけたり、地面へと投げつけたり、北の壁へ向けて砕いたりした。この実践への一般的な説明は、全ての喜びに潜む悲しみの徴であり、14世紀以後からはエルサレムの破壊への哀悼の徴とより見做されるようになっていた。だが、説明をしていたラビたちの一部は、これらのこじつけぶりに気づいていた。これは「告発者(サタン)にその負債を与える」のを意図するという注釈がある事から、この習慣の真の理由は、忘れられていなかったのを示している。悪魔は北から来ると信じられていたので、ガラスを北の壁に投げる内容は、その繋がりの特別な意味がある。この習慣は騒音で悪魔を怯えさせるのと、直接攻撃の試みを組み合せていた。


 5.結婚式には、霊への贈物の幾つかの例を含んでおり、結婚の祝福が唱えられた幾らかのワインを地面へと注いでいた。ある情報源で記されていた、この実践の特徴では、ワインを家中へと散らすものであり、おそらくは「祝福のワイン」は、悪魔らを追い払うという信念によるものであろう。タルムード時代には、新郎新婦の前で、ワイン、オイル、乾燥させたコーン、ナッツ、魚、肉といった食物をばら蒔く習慣があった。中世の間では、この実践は新郎新婦の上と周囲に麦を散らすのに、現代では米で行うように限定されていた。一部の地方では金貨を麦に混ぜたり、他の地方では塩が使われる事もあった。タルムード時代の新郎新婦の前に雄鶏と雌鶏を運ぶ習慣は、中世になると彼らの頭に家禽のつがいを投げる習慣へと変わっていた。これらの実践の一般的な説明は、これらの鳥が多産と豊穣の象徴だからというものだった。だが世界中の似たような実践を研究していたサムター氏が示すように、そのような豊穣の象徴は実際には霊の恩寵を得るための供物であった。そこに金貨があるのは、悪魔への賄賂か、塩と同様に金属の反悪魔の使用と見る事ができ、悪魔を払うのを意図しているのは確実であり、これらの習慣の一般的な性質を強調している。


 6. 結婚式で表向きはエルサレムの破壊について嘆く努力もなされた。花嫁と花婿は白い靴を履き、灰が両者や花婿のみの頭に注がれたり、黒い布紐が頭に結ばれた。また、両者とも葬儀の上衣を身に付け、「ラインラント地方の葬儀の参列者がするように」花嫁はサルガネスと呼ばれる白衣を着て、花婿はフードの付いた外套、ミトロンを身に付けていた。結婚式で嘆いたり泣いたりする習慣は、特に東欧とオリエントのユダヤ人の間では、今日まで続いている。これら全ての真の目的は疑いなく、悪魔に今は嘆きの時であって喜びの時ではないと誤解させ、よって彼らの妬みと憎しみを回避するためであった。


 7. 結婚式の間、花婿のミトロン、祈りのショールが、花嫁の頭にかぶせられ、結婚式が終わったらすぐに、花婿は花嫁に自らのダブレット、ベルト、帽子を被せていた。これらは他の民族でもよくあった、2人の間で衣服を交換する古代の習慣の痕跡である。中世の間全体で流行っていた、花嫁の顔をヴェールで覆う習慣は、もとは彼女を霊から隠すのを意図していた。


 8. 一部の地方では、花婿は結婚式の間、ポケットに鉄片を入れていた。また中世の終わりには、花嫁は友人らの間を3回まわる風習ができ、これは明らかに魔術の円の一つであった。そして最後に、結婚式が終わる時に、「会衆は喜びの表現として、花嫁の前で花婿を式場からすっ飛ばした。」確かに、奇妙な「喜びの表現」である! この駆け立たせるのは、式場にいる悪魔が、(グラスを割る事で)服従していた状態から回復する前に花婿を救出し、新しく得た結婚の喜びを防ぐためだった。



 これらと同じモチーフが、死と関連する習慣でも繰り返されていた。死にそうな人間は単独では置いておかれず、その前で神秘的な祈りが読まれるようにされていた。特にアナ・ベコアフの祈りが好まれたが、これには42文字の強力な神名の頭文字が含まれていた。またかなり率直に「悪魔を払うため」、そのベッドにはロウソクが灯された。また病人の「四肢を強めるため」、言い方を変えると、最後の時を容易にするため、その傍にパンのひと切れを置くように勧められていた。鶏の羽根は、この家禽と悪魔との間の繋がりからであるのは疑いないが、死の苦しみを長引かせると信じられ、そのため死にそうな人のベッドの中に含まれている、そのような羽根は取り除かれた。そのような実践は、死にそうな人の体を苦しめている悪魔を追い払うのを意図していた。だが死神そのものは霊の諸力であり、悪魔を払って死を容易にする手段は、死の天使にも同じ効果があるとされ、魂が肉体から出るのをゆっくりと準備させ、そのため死ぬのを遅らせるとされた。これは疑いなく、これらの手段を行っていた多くの人々の心の中にあった。


 だが死は生の延長であり、神から定められていると信じていたラビたちは、それが来るのを遅らせるこのような努力に対して、強く反対していた。そのため、ノイズは魂が肉体から去るのを防ぐと考えられていたので、死にそうな人の傍で叫んだり、木を叩くなどでノイズを起こしたりするのを、ラビたちは禁じていた。似たように塩も死を遅らせるので、死にそうな人の舌にそのために塩を置くのも禁じられた。だが舌を固めるので塩を取り除くのは許可されていた。また権威者たちからは禁じられていたものの、シナゴーグの鍵を死にそうな人の頭の下に置く習慣もあった。


 死体――葬儀のために死体を準備する規則は、タルムード以後の時代の初期に作られ、目を閉じる、死体に金属か塩を置く、その頭の近くにロウソクを灯すなどといった実践で構成され、元は明らかに生者たちが恐れていた霊と死霊の両方を混乱させるのを意図していた。トーラーの巻物を棺桶に置くのは、何度も行われていたようであるので禁じられていたが、死体の傍に置くのは許されていた。タルムードでは死体を監視するのは、ネズミや他の生き物から守るためという疑わしい説明をしていたが、後の時代の著者たちは、それは霊界からの攻撃に対して守るためと告白していた。この監視のためのトーラーの学習や祈りの儀式は、中世の間に発展していった。ポーランドのカバリスト、ラビ イシャヤー ホロウィッツは、こう記している。「死んだときから大地に埋められるまで、『外側』(悪魔に対してよく用いられていた言葉)の息が近づかないようにと死体の周囲で密接に監視する伝統を私は受け取っていた。彼らは止める事無く1000回すらも、常に祈りを繰り返していた。」この祈りとは、42文字の神名の折句であった。


 別の中世後期の習慣は、死体を7回まわりながら、「霊を追い払い、死体に憑りつかない聖書の特定の詩句」を唱え続けるというものだった。また拳を固めて「fig」の形にするのは悪魔への呪いとなるという信念は、死体の指をそのように曲げる実践へと導き、それによって墓に入ってからすらも、悪魔の襲撃に備える事ができた。ラビたちはこの「異教的な」習慣を非難し、葬儀の前に指を曲げないようにと主張していたが、この実践は続いた。後にはこれは修正されて、指はシャダイ(שדי)の御名の形をとるように曲げられて、ラビたちを再び不快にした。最後に、葬儀のために死体を準備した者たちは、塩と水で洗うように教えられ、死体が置かれた板をひっくり返す事すらも、死者を怒らせ、「誰かが3日以内に死ぬ」と注意されていた。


 葬儀――葬式は、超自然的な存在への常にある恐怖、その中でも一時的に高められた、生者を不快に感じている悪魔と死霊への何十もの恐怖を反映していた。死体が入った棺桶を、他のものの上に置いたり、開いたまま一夜墓に置かないようにと、何度も警告されていた。「さもなければ、他の者が数日以内に確実に死ぬであろう。」また、ある情報源では「9日以内に」とある。この数は不安の原因を示している。霊はそのような事で怒りやすく、速やかに報復するからだ。情報源からはこの説明は無いが、この迷信的な行動への根強い大衆の気遣いを示すものとして、最近のロシアのユダヤ人の間にあった事だが、墓穴が掘られても適切に用いられなかった時、そこには一夜で雄鶏が埋められたという!


 1. 死者が出た家の中や周囲に水を撒く習慣は、13世紀より前のユダヤの情報源には出て来ず、そのため明らかに中世の発明品である。それより前にドイツとフランスのキリスト教徒はこれらを行っており、そこから受け取った事は疑いない。だがユダヤ人の実践では、ホームシックになった霊を近づかせないために、死体が取り除かれた後に家の敷居に水を撒くだけの、より一般的でシンプルな進行には従わなかった事は、様々な説明が可能である。同じ習慣が存在したフランスのキリスト教徒によって、15世紀には3つの説明があった。その第1は、全ての器が空でないならば、死者の魂は溺れるであろうというもので、第2は、水は人間の目では見れない魂と悪魔との闘争を反映しているというもので、第3は、魂は他の世界へ去る前に3回水浴するので、その水はもう他の目的では用いないためとされた。


 だが同時代のユダヤ人は別の説明をしていた。水を撒くのは、周囲に対して死者が出たのを静かに告知するためで、声を出すのは危険だったからである。またタルムードの言い伝えでは、毒の剣を持つ死の天使は自らのミッションを満たした後、剣を洗うために致死性の毒を水へと零すので、飲むのは危険だからという説もあった。事実、家の中と周囲の全ての水を撒く事からして、第1の説明を明らかな合理化された言い訳としていたが、中世のスタンダートからして第2の説明の方がより「現実的」に思える。現代の東欧のユダヤ人は、死にそうな人のベッドの傍に水の入ったグラスとタオルを置いておき、死の天使がその剣を拭うのに用いるようにさせていた。だがこの習慣は、非ユダヤ人の間にも広まっており、それらの説明では、死者の魂が長い旅に出る前に水に沐浴してタオルで乾かすからとされた。これは後の習慣だけではなく、より早い時期も同様に思える。これや似たような実践の多くの例が明白に現れており、学者たちは世界中から集めている。死者の魂が入る事で生者のための水を汚染する事への恐怖は、危険を確実に避けるために「全て」を撒く習慣への理由となった。その水で準備した食物すら疑われた。興味深い事に、16世紀の異端審問的な「信仰の法令」では、「誰かが死んだら、瓶や水差しで水を撒き、そのような者の魂が来て、水で沐浴すると信じる」のをマラーノ主義(キリスト教徒に改宗したと表向きは宣言しつつ、裏ではユダヤ教をなおも信じているユダヤ人)の誤解しようのない徴の1つとしていた。


 だが、そのような習慣は、その動機と意味合いがシンプルなのは稀であり、時代が過ぎるとともに民間伝承の込み入った迷路を表すと認識する必要がある。これらの使用は考えられた全てや一部の理由――あるいは行わなければ何か恐ろしい事が起きるという不安以外は全く無かった。この水を撒くのは霊や魂を解放する意図もあった可能性もある。「水を飲んでいて、既に祝福を述べていて、町で誰かが死んだと聞いたら、少し水を零すべきである」と言われていたからである。もっともこの規定は、その意味も理解しないまま、特別な状況、つまり水を飲むのを求められる祝福で、この習慣を保ちたいという望みの結果にすぎないかもしれない。これらの行動の背後の動機はかくも複雑であり、確信を持ってその一つを選ぶのはほとんど不可能である。この水を撒く幅広い習慣への、ある英語の話し言葉の表現を思い出すのは興味深いであろう――人が死んだら、我らは彼は「バケツを蹴った」という!


 2. 棺桶を家から出す際に、葬儀の参列者が前を進むか後に続くかには、タルムードと中世の文献の意見には考慮に値する違いがあった。「誰も先に出てはならない」という観点では、「この生者に天が定めたかを学ぶために霊は世界を彷徨い」、棺桶とその中身に注意を向ける前にこの非難される罪びとを見たら、憑依するだろうという信念を述べていた。より単純に言うと、死体が出てくるのを待っている悪魔が、生者が最初に現れたならば、生ける犠牲者に憑依するだろうと考えられていた。さらに行列では女性たちは男性たちから離れて歩くようにと一般的に同意されていた。なぜなら、霊が特に目立つ女性たちを見たら、「死の天使とサタンは彼女らの前でダンスする」、あるいは「不浄の霊らは、彼女らに密着する」と説明されていたからである。この注意は、葬儀から帰る時には特に行われていた。そして「ウォルムスの町では、家に帰る女たちが傍を歩く時には、人々は壁へと顔を向けていた。」


 3. 少なくとも中世の後期には、葬儀へ行く途中と死体を埋葬した後に、「悪魔を払うために」何度か「反悪魔の詩篇」を唱える習慣があった。イシャヤー ホロウィッツは息子シャベタイへの遺言として、「我が遺体を墓の下に降ろす間、7人の敬虔で学識ある者たちに7回詩篇 第91篇を唱えさせよ」と述べていた。


 4. 葬式が終わってから、幾つかのグラスと土を背中に向かって投げて割る習慣は、11世紀まで遡れる。12世紀のエリエゼル ベン ナタンは、この習慣の起源を知らないか、知らないフリをしていた。その説明として、「私にはそう思えるが」詩篇 第103篇14節、72篇16節、ヨブ記 第2章12節にある3つの聖書の詩句で、悲しみの徴として大地、グラス、頭に塵を撒くのを述べているのを根拠としていた。後の時代の著者たちは、この説明を引用しつつ、この行動を死者の復活への信仰の表現と記していた。だが13世紀の著者サムソン ベン ザドクは、その真の目的は完全に忘れ去られていないのを示していた。サムソンはこう記している。「グラスを前では無く後ろへと投げる理由は、ミドラーシュで私が読んだ内容では、墓に入れられた死体の魂は、会衆からの許可が無い限りは死体を去る事が出来ないからであり、この土とグラスを背後に投げるのは許可が与えられた徴であり、実質的に『平和と共に去れ』を意味する。」だがこれは疑いなく、他から真似た習慣である。中世ドイツとフランスでは背後に物を投げるのは、背後から近づいて来る悪魔を払うとされ、葬儀の後に霊たちや家へとついて来ようとする死者の魂自身を払うために特別に使われる場合もあった。この使用の迷信的な意図は、13世紀のある文書がこの行動が3回繰り返されていると記している事によって強化されていた。この習慣は、12世紀にパリのユダヤ人が魔術の使用で告発された理由だった。幸運な事にラビ モーシェ ベン イェヒエルは、これは「異教徒を殺すために魔術をかける」のを意図したものではなく、ユダヤ人の復活への信念を意味すると、フランス王を納得させ、異教徒の迷信的な行為によるユダヤ人の破滅的な結果を避けるのに成功した。


 5. タルムードとゲオーニーム時代に、葬儀から家へ帰る行列の途中で立ち止まり、7回座る習慣があった。幾らかの中世の権威者たちは、この実践は廃止されたと記しているが、一部の場所では7回や3回座るのは行われ続けていた。中世の終わりには、これらの立ち止まる時には、詩篇91篇11節を唱える習慣が伴うようになった。この節は7つの言葉で構成されていて、立ち止まるたびに1つの言葉が述べられた。これは「家について来ようとする悪霊らを混乱させ震えさせるため」と率直に認められていた。葬儀が終わったら、主要な参列者たちは2列になった人々の間を歩いて、彼らにエスコートされながら家へと向かっていた。


 6. 葬式の後に手を洗う習慣は、幅広く行われていた。これはタルムード時代の後にユダヤ人に伝えられたように思え、中世の間には一般に行われていた。家に帰る前に、墓場を訪れた全ての人々はその手を洗い、一部は目と顔も洗っていた。ある神秘的なサークルでは、この浄化は3回行われていた。この行動の聖書の先例を探す努力がなされたが、敬虔な者たちの間で、これは家について来ようとする「不浄な霊を祓うため」と一般に認められていた。


 7. 埋葬されてから7日間は最も危険とされた。肉体から無理矢理に離された死者の魂は激しい怒りを持ち、墓と以前の家との間を彷徨うと信じられたからである。(古代での3日と7日の葬儀の段階との違いは、中世では実質的な表現を見い出せない。)続いての1ヶ月と1年の間は、肉体から魂が徐々に離れていくのを表わされており、それと比例した儀式が行われていた。この第1の時期に行われていた習慣の多くは、喪に服している人を死者の魂から守る望みと、喪に服する人自身が霊界と接して汚染された疑いを示している。そのため、この7日間で人々は、喪に服する人が用いたグラスで飲んだり、何かを借りたりするのを避けていた。また喪に服する人は家を出るのを、安息日と祝日以外は禁止された。一部の共同体ではこれらの日に、彼らは会衆のメンバーによってエスコートされていた。だが、最も重要な祝日すら、シナゴーグの集会に喪に服する人が参加するのを禁止する例も幾つかあり、1年間は喪に服する人が祈りを司るのを禁止する場合もあった。また葬儀から1週間は、死者のいた部屋でロウソクを燃やし続ける習慣もあった。他にも死ぬ際に頭があった場所に、1週間の各夜に、小さなロウソク、塩、水の杯を置くのも記録されている。ヨセフ ベン モーゼスが師に対して、「私がラビ イスラエル イッセレインに、この習慣について話すと、彼は肩をすくめたが、これを除外するようには言わなかった。」と記している。また葬儀の布で「頭を覆う」実践は、おそらく元は喪に服する人を変装させるのを意図したものだろう。だがそうだとしたら、その意味合いは中世では失われており、一部の場所では実践全体が「異教徒が我々を笑うので」止められていた。一方ラインラント地方では、これは喪のための頭巾ミトロンとなっていた。また似たような理由から、髪と髭を伸ばし続けるようにしたり、シナゴーグの席を変えたりするなどの習慣があった。


ユダヤの魔術と迷信 12
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