ユダヤの魔術と迷信 10-2

ページ名:ユダヤの魔術と迷信 10-2

魔除けの作成


 ユダヤ教は病を癒したり防いだり、守護のために魔除けを用いる事を公的に支持していた。これらの中にある神秘的な御名や聖書からの引用は、これらの「聖なる」性質の困難な問題を引き起こしていた。これらは皮のポーチで包まない限りは、私的に身に付けないほどには「聖なる」ものと見做されていたが、安息日の禁止から救われるのを保証するほどには「聖なる」ものとは見做されなかった。さらに、これらは運ぶカテゴリーに含まれる全てが法的には禁止されている安息日に運んでよいのか、また重い病を除いて、この治療を行うのが禁じられているのは何時頃なのかという問題もあった。


 大衆のこの種の魔術への耽溺は強すぎたので、安息日に魔除けを用いるのを全て禁止するのは無駄であり、代わりに安息日に身に付けても効果的で、「承認された」(文字通りには、「熟達した、経験のある」)ものと、法的に不承認に含まれるものとを分ける規則が作られた。これらの規則によれば、特別な目的で準備された魔除けで、3人の違った人物が用いて成功していたならば、他の全ての人々も同等に効果的なものとして「承認」され、3人の人物により試されている3つの違った魔除けを書いた熟達者自身も「承認」され、この人物の作品は全ての人間の使用が許可されていた。そのような魔除けは安息日に身に付けても問題なかったが、他はそうではなかった。これらの原則はタルムードで確立され、中世の文献でもよく引用されていた。だが中世の権威者たちは、高名な医師が書いた場合にはこれらを試すのを除外するのを望んでおり、「正しい博士」が書いた魔除けは、これらの規定から自動的に「承認」されていた。その理由はこのように説明されていた。これらの魔除けあるいはその作者の効果性は、その治癒が魔除けそのものではなく、患者や医師の「星」に帰する、単独のケースによる試しで充分だからであると。


 にも関わらず、これらの規則はラビたちによって常に繰り返されて唱えられたが、大衆の遵守は曖昧であった。権威者たちは、安息日以外の平日に「不承認の」魔除けを身に付ける事は禁じておらず、これは法的には微細な意図があったが、ラビたちの法的な返答書を読むと、大衆はこれらを安息日にも同様に自由に身に付けていたのを示している。奇跡への望みは、宗教的な躊躇いよりも強く、魔除けに対するラビの規則は、守られたり守られなかったりしていた。


 これらの公的な規則の他にも、書かれた魔除けに関する特定の一般的に受け入れられた規則も生まれていった。これらには、様々な種類の皮紙、金属、粘土などの様々な魔除けの材質について述べられているが、最も一般的で、好まれて用いられていたのは鹿による皮紙だった。儀式の規定や魔除けの作成者の肉体の浄化の必要は、他のユダヤ魔術と同様であり、この術式は用いる皮紙をコシェル、すなわち儀式的に受け入れられたものに指定している事が多かった。また魔除けの宗教的な性質の強調によって、以下のような祝福を書く前に唱えるのが定められていた。「主、我らが神、世界の王が称えられんことを。その偉大にして崇められた御名が聖とされ、敬虔な者達に崇められた方よ、御名と御言葉とその口からの御言葉により、口承と書かれたものにより、その力を(この魔除けに)引き起こしたまえ。賛美は主、王、聖なる方に。その御名は世々限りなく称えられん。」


 だが書かれた魔除けは、完全に宗教的な行動だと誤解しないようにしてほしい。加えて行われていたある要素は、これが本質的には迷信的な性質であるのを明かしている。成功を望むならば、全ての時間がその働きに適しているとは限らなかった。セフェル ラジエルでは、実行のために最も適している日と時間の図表を与えており、他の情報源からも、これが一般的に受け入れられていたのを示している。それらは日曜日の第7の時間(前日の日没の第6の時間から1日は始まる)、月曜日の第5の時間、火曜日の第1の時間、水曜日の第2の時間、木曜日の第4の時間、金曜日の第5と第10の時間である。月の中の日については、用いる機会がある者たちに全ての情報を与えている。魔除けは、1、4、10、12、22、25、28日のどの時間に書いても良く、17日は夜のみで、2、5、7、8、11、14、16、21、24、27、30日は朝のみであり、残りの日は一切用いなかった。これらの時は、作業で用いる占星術、天使の諸力によって、特に吉日だったり逆だったりするので選ばれていた。


「テフィリン」と「メズーゾト」


 2つの曖昧な性質のある宗教物、聖句箱(テフィリン)とメズーザーは、宗教と同様に迷信的な使用でも役割を演じていた。聖句箱は疑いなく、一部の魔除けや御守から発展してきたものであり、それらの宗教的な性質は堅固にあったものの、これらは悪魔を祓うと大衆が信じていたというタルムードの幾つかの文は、その魔術的な使用の痕跡をなおも残している。ある高名なラビは、同輩の不快を恐れずに、ある悪魔憑きとなった者にこれらを身に付けるように勧めていた。そしてタルムード時代同様に中世でも、悪魔に眠りを妨げられていた赤子の傍にこれらは置かれた。だが宗教の教えと習慣が大衆に広まった結果、またおそらくは、13世紀になるまで聖句箱の儀式と構成はスタンダート化から程遠かった事からして、これらは全て神学的討論の問題であり、この場合は最終的に宗教が迷信に勝った。そのため中世の期間、これらが反悪魔の道具と見做されていた徴はほとんどない(泣いている赤子を静めるために用いられた事は、疑いなくタルムードの実践の反映であったが)。確かに文献では、テフィリンがサタンの招かれざる僕たちを追い払ったという内容を時折は読める――だがそれらは、儀礼を些細な部分まで満たしている敬虔な人物は悪の諸力を恐れる必要はないという、比喩的な意味合いである。


 だが反対にメズーザーは、これを完全に宗教的な象徴にしようとするラビたちの努力にも関わらず、悪魔を家に入れないためにドアの側柱に貼り付ける元の魔除けとしての意味合いを保っていた。原始的な御守から発したが、指導者のラビたちは、聖書の申命記 第6章4-19節と11章13-20節の句を書いた皮紙を入れる形で、これに文字通りに宗教的な内容を加えた。それにより、メズーザーが唯一神の原理を常に思い起こすものに発展するのを望んでの事だった――無駄な禁止にこだわるよりも、これを再解釈させる賢明な試みであった。だがこの誤魔化しの漆喰は、この道具に隠された真の性質ほど厚いものでは無かった。


 中世では、人々にはこの反悪魔の性質は、その宗教的価値よりも高いかどうかの疑問があった。そしてローテンブルグのメイルのような権威者すら、うっかりとこのような危険な告白をしていた。「ユダヤ人がこのメズーザーがいかに役に立つかを知っていたら、軽々しく見くびる事は無かったろう。メズーザーが適切に貼られている家には、いかなる悪魔も入る力が無いと確証できよう。私の家については、24ほどのメズーゾトを貼っていると信じている。」ソロモン ルーリアの報告では、ラビ メイルが研究のためにメズーザーをドアに貼り付けた後、「以前には悪霊はラビが昼寝している時に痛めつけていたが、今やメズーザーが貼られてからは、それらはもはや起きる事は無かった」と説明していた。このように大きく支持されていたら、大衆がラビ メイルの考えに従った事も驚くことではない。そしてイザイア ホロウィッツは、この内容を神自身から発したとした事でさらに威厳を与えていた。神はこう宣言したという。「我が聖域(ユダヤ人の家)のドアの外側に、私は守護者を置いた。我が天地の僕たちのために布告を発するためである。ドアにこれがあるならば、あらゆる破壊者や悪魔は逃げようとするであろう。」


 メズーザーにこれだけ力があるので、大衆の想像力の中で、その力は生死の運命すらも含むまでに拡張された。聖書の約束を解釈するあるタルムードの文では、「これにより、あなたの日々は増やされ、」メズーザーの法を慎重に行わなかった家には、早死にが訪れるだろうとされた。中世ではある学識者はこのタルムードの文を文字通りに解釈し、ゾーハルの中でメズーゾトを2つの言葉、ザズ マヴェト(死は去っていく)に分けた駄洒落を入れていた。そして権威者たちは、あらゆる部屋をメズーザーで守護すべきだと考えていた。


 より最近の時代では、疫病に襲われたユダヤ人共同体では、その指導者たちは各家のドアの柱のメズーゾトに不適切に書かれていて、それによって疫病が訪れる事になったものがないかと調べていた。メズーザーはドアの側柱の外ですら使われるようになった。(第一次)世界大戦の時には、多くのユダヤ人兵士たちは、敵の弾丸が逸れるようにと、そのポケットに小さなメズーゾトを入れていた。今日でも、ユダヤ人の間では腕時計に付ける御守として人気となっている。私が個人的に聞いた話でも、ある修道女が財布を落とした時、その他の中身とともに地面に散らばったものは――メズーザーだった!


 そして非ユダヤ人がメズーザーの魔力を認めていたのは、近代の現象では無かった。ラシによれば、遥か過去の多神教の君主たちは、ドアに小さなカプセルを貼り付けているユダヤ人を、自分たちに対して魔術をかけているのではないかと疑っていたという。そして先に述べたように、中世のキリスト教のある高位聖職者も、自分の城にささやかなメズーザーの守護を置くのを望んでいた。


 次にメズーザー自身、その準備の規則、その内容に注意を向けるならば、これが中世では純粋な魔除けとなったという幅広い明白な証拠と向き合う事になる。メズーザーを書く前には、高度な清潔さと儀式的浄化が求められ、これは聖書の引用文の聖なる性質と関連していたが、にも関わらず、魔除けに属する同じ性質でもあった。そして鹿の皮紙に記すのを好まれ、その準備の成功のための最適な時間は、セフェル ラジエルにある魔除けの図、その占星術、天使の影響力のある時間と対応していた。10世紀のガオン シェリラが述べたとされ、よく引用されていた文では、「月曜日の太陽と天使ラファエルが司る第10の時間か、木曜日の金星と天使アナエルが司る第4の時間のみに、これは書くべきである」とされた。メズーゾト、テフィリン、その他の魔除けに対しての、この文や多くの似たような文は、これらの3つは本質的には同じ性質を持つと一般的に見做されていたのを示している。


 ラシはメズーゾトと魔除けの両方とも、これらに特有の種類の「大いなる文字」を含んでいると述べていた。後の時代のある注釈者は、これらは古代のヘブライ文書にあったと示唆していた。もっとも私はそのような文字を含んでいる魔除けやメズーザーの文を見た事が無い。ラシのいう意味は、おそらくはメズーザーの一部の重要な部分は他よりも大きな文字で書かれているという事かもしれず、その場合は多くの魔除けの魔術的な御名の中で見い出せ、あるいは魔除けとメズーザーの両方で好まれていた神秘的な図形の事かもしれない。さらに私はメズーザーの詩句の中に、神の守護の発言、神や天使の御名(通常は大きな文字で書かれている)、先に述べた様々な種類の魔術的な図形が含まれているのも見つけた。簡潔に言うならば、メズーザーは中世になると、これらの魔除けに見い出せる特徴が埋め込まれる事で、実際に魔除けへと変わっていた。


 この徐々に進行したプロセスについて、ここで見てみるとしよう。ユダヤ法により、元のメズーザーは定められた聖書の詩句のみを含んでいた。それが付け加えや削除であろうとも、たとえ1文字といえども変えたとしたら、全体が無効とされた。そしてゲオーニーム時代の終わりに、メズーザーに魔除けの要素を含ませる最初の動きがあった。メズーザーの前面は浸食されなかったが、代わりに禁止がされていなかった場所である皮紙の背後に発明が入ってきた。シャダイの御名がそこに記されるようになり、外部のケースのその部分に小さな窓が開けられて、この御名が外からも見えるようにされた。この御名は、悪魔を祓うのに特に強力なものと考えられており、ノタリコンの技法を用いる事で、「イスラエルの住人の守護者」として読む事もできた。この風習はユダヤ世界全体に速やかに広まり、あらゆる場所で用いられ、権威者たちからの咎めは何も無く、偉大なるマイモニデスすらも、それにより損失は無いと述べていた。この御名は皮紙の裏側に書かれていたからである。


 同じ時期に、あるいはそのすぐ後に、別の御名がメズーザーの今回も裏側に加えられた。それは14文字の神の御名、コズ ベモフサズ コズで、メズーザーの文の最初にあったシェマーの中の、YHVH エロヘヌ YHVHの言葉の代用であった。この実践を最初に引用しているのは、14世紀の文書、セフェル アスフォトでガオン シェリラが述べたとされている。この御名が最初に現れたのは12世紀半ばのカライテ、イェフダー ハダッシのエシュコル ハ=コフェルの中だった。同時代人のマイモニデスは、メズーザーの他の特徴については詳しく述べているものの、これについては述べていなかった。マイモニデスはこの実践を知らなかったか、少なくとも南欧のユダヤ人は従わなかったようである。高名なドイツの学者で、その後半生をスペインで過ごしたアシェル ベン イェヒエル(1250年 - 1327年)は、この実践はフランスとドイツでは行われていたが、スペインでは行われなかったと述べているからである。


 これらから判断して、オリエントで2つの伝統が育っていき、その1つはシャダイのみを追加する規定で、南欧へも伝わっていき用いられた。もう1つは両方の御名を加えるもので、北方でのみ用いられた(北方の規定全てで、両方の御名が述べられている)ようである。これはあり得なくもない。なぜなら、カロニモス家がラインラントにオリエント起源の神秘学院を建てた際に、これらも伝えていき、継続されていったからである。やがては北方の実践は南方にも伝わっていった。この14文字の御名も、高度な守護の性質を持っていた。旅に出る前に、旅人はその手をメズーザーへと当てて、「あなたの御名により、私は行きます」と述べ、その守護を呼び起こす風習があった。それはアラム語でのこの言葉は、コズの御名と同じ数値の合計となったからである。


 そして次のステップでは、明白な発展を示した。メズーザーの文の前面を変える事への厳格な禁止があり、ほとんどの権威者たちからの活発で正当な反対があったにも関わらず、御名、詩句、図形が加えられていった。元の変更はゲオーニーム時代にあったようだが、この変化への最初の引用は、今回もイェフダー ハダッシの書の中でだった。その後の2世紀で、この魔除け化したメズーザーは幅広い人気を獲得し、その幾つかの例はアプトヴィツァー氏により出版されている。そして何人かの権威者たちは、典型的な反対から離れていった。メッツのラビ エリエゼル ベン サムエルは(1150年の後に)心のこもっていない不承認のみを述べていた。マフゾル ヴィトリーは、これらの発明を、個人的な使用や(法的に必要とされた形から離れた)習慣としてではなく、メズーザーの統合された部分として認めていた。さらにセフェル ハ=パルデスでは、この追加を重要な義務とし、ハラーハー(ユダヤ法)の規定とすらしていた。だがほとんどのラビの著者たちは、聖書の言葉へのそのような変更に対して、マイモニデスの厳格で断固とした非難に従っていた。そして15世紀に入ると、この態度は勝利し、第1級の神秘家やカバリストたちすらも、魔術的なメズーザーへの全ての引用を省いたり、意識的に拒否した。この時代から、この魔術的メズーザーについて聞く事はもはや無くなった。


 アプトヴィツァー氏は、メズーザーの魔除けの3つの主な種類、パレスティナ産、ドイツ産、フランス産の区分をしている。ドイツとフランスのものはほとんど変わらないので、これらを本質的には同じと見做してもよいだろうが、パレスティナのものは明白な違いがあった。また、このようなメズーゾトは南欧や北アフリカでも知られていたにも関わらず、これらの地域からの現存する例が無いのは興味深い。これらのメズーゾトの詳細について述べる代わりに、ここではアプトヴィツァー氏も知らず、その出版物とも違っている、セフェル ゲマトリアオトからの2つの文を紹介するとしよう。これらは、この御守の特色を明白に示している。


1つ目


 このメズーザーの背後、3行目のוהיה の後ろの部分に、שדי (シャダイ)の御名が書かれている。


2つ目



 第1の「パレスティナの」メズーザーには、14と22文字の御名が含まれている(前者は通常の皮紙の背後ではなく前面に書かれている)。さらに、6つの他の神の御名(エル、エロヒム、YHVH、シャダイ、ヤー、エヘイエー)と、7つの天使の御名(ミカエル、ガブリエル、アズリエル、ザドキエル、サルフィエル、ラファエル、アナエル)と、祭司の祝福の文も含まれている。第2の「ドイツの」種類のメズーザーには、天使の同じ7つの御名と、さらに3つの御名(ウリエル、ヨフィエル、ハスディエル)が終わりに付け加えられている。そして、ヤーの御名が2回、詩篇 第121篇5節の言葉、ペンタグラムや他の神秘的な図形があり、シャダイとコズの14文字の御名と、他の図形は背後にある。


 これらの版とアプトヴィツァー氏の書である版との小さな違いについて述べるのは、煩雑になりすぎるだろう。これらはお互いに同様に幅広い。これらの幅広さは特有のものであり、天使や神の御名の選択や場所、特有の魔術の図形の使用、ペンタグラムかヘクサグラムの選択などを含んでいる。全体的なアウトラインは固定されているものの、詳細は作成者の気まぐれや審美的な好みに明らかに委ねられていた。これらの2つのメズーゾトは、幾つかの他の種類より洗練されていないが、それらとの明白な違いがある。すなわち、文の中に円やøが入れられている。他のものは、少なくとも聖書の引用を崩さないように慎重であり、その意味ではメズーザーの文を改変する事への禁止に対してより密接に従っていた。


 またセフェル ゲマトリアオトは、このメズーザーへの様々な非認定の特徴への詳細で神秘的な弁明を記している。それによると、22行あるのは、ヘブライ文字の22文字と対応し、10のペンタグラムは十戒であり、これらの50の点は50の「理解の門」であると同時に、過ぎ越しの祭りとペンテコステ(モーセがシナイ山で律法を授かった日)の祭りの間の50日間であり、7つの天使の御名は、7つの惑星と1週間の7日であり、10の円は血、肉、骨などの人体の10の要素であり、5つの円は魂の5つの名前であり、終わりの3つの円は視覚、聴覚、発言の3つの機能や、天、地、大気の3つなどである。だがこの長々とした説明は、この発明の真の意味合いについて隠す事は出来なかった。


 これらの特徴は、中世の間にメズーザーは正当な魔除けの全ての装飾を得て、評判においても実質においても魔除けそのものとなった事の充分な証拠となっている。ユダヤ人がメズーザーにこのような敬意を持っていたのも驚く事ではなく、非ユダヤ人がその保有を羨んだ事にも驚く事ではない。


ユダヤの魔術と迷信 11
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