ユダヤの魔術と迷信 8

ページ名:ユダヤの魔術と迷信 8

第8章 魔術での聖書の使用


神の御言葉


 魔術と宗教とを分かつ線は極めて希薄であり、魔術師は自らの目的のために、純粋に宗教的なものと信念へと踏み入るのを躊躇ったりはしなかった。あるいは逆向きに解釈すべきかもしれない。特定の宗教の要素は、迷信的な人々の目からは魔術的な性質のある聖性と力のオーラをやがては纏うようになり、そのため自然と妖術師も用いるようになった。実践上は、このプロセスは魔術師の側の盗用ではなかった。魔術師自身が宗教集団の一員であり、単にそこにある道具を用いたにすぎなかった。迷信的な信念は、それらを魔術的な使用として使う前に、既に人々の心に存在した。これまで、どのように霊や神すらも魔術師が使うようになったかを述べてきた。だが、このプロセスを示す最良の例は、聖書が魔術界で演じた役割にある。


 今日では我々は聖書を深遠な宗教的、倫理的真理を明かす書として扱っている。だが歴史的には、これらの徳は主にその神的な起源にあった。聖書はそれが教える知恵によって聖なるものとされただけではなく、それ以上に啓示の神との密接な関連性のためであった。聖書は神の声を語り、そのため通常の読書以上のものであった。聖書には神の人格性と属性を含んでいた。そのため、聖書の言葉の隠された深い意味合いを発見したと称する神秘学派と秘教的解釈が育っていった。そして、聖書はその見た目以上のものだった。聖書は主の御言葉だけではなく、主そのものであり、その存在から流出したもの、その本質の粒子であった。神は自らを人に明かし、それにより人の理想の像として、さらに力として身を落とすようにした。多くの人々は聖書に永遠の真理のヴィジョンを熱心に献身的に求めていたが、それ以上に多くの人々が聖書を世俗の目的に利用する事を望んでいた。祭司と魔術師、さらに彼らが印象づけた軽信的な大衆は、個人的な利益と力のために神の御言葉を用いる同等の罪があった。


 ヒンドゥー教徒がヴェーダを、ゾロアスター教徒がアヴェスターを、道教教徒が老子道徳経を、ギリシア人がホメーロスの詩を、キリスト教徒が新・旧約聖書を、ムスリムがアル クルアーンを、一部の者は知恵の宝庫として読んでいた――だが大衆にとっては、過去何世紀もそれらの文は直接には読めずに、これらの聖典を迷信的に崇め、宗教だけではなく魔術的な目的でも同様に用いていた。そして無学で反啓蒙的な聖職者も、これらの聖典を個人的な持ち物にしようとしたため、儀式におけるこれらの書の立場は半魔術的なものになる事が多く、神秘のオーラに包まれ、なによりも大衆の迷信的な軽信ぶりを投げかけられた。これらの要素全てが、このような聖典を祭司だけではなく魔術師も用いる道具とした。聖書は他の聖典がそれらの信者に及ぼしたものよりも、聖書時代から後のユダヤ人には、より知られていたであろうが、魔術的な使用のために似たように印象付けられていた。ユダヤ人の聖書への激しい研究と、ユダヤ教での直接的啓示の教えの重要性は、この書を他の聖典の運命と同様にするのを促進した。魔術の活動の中心をなす謎めいた御名を創り出すために、聖書は頻繁に用いられていた。その全体だけではなく一部の書や章や節も含めて、聖書は魔術の学で直接的に用いられていた。


 セフェル トーラー、トーラーの巻物は聖なるものとして尊崇と共に扱われ、この聖書を扱う規則も発展していった。聖書の上にもたれてはならず、何も上に置いてはならず、不浄な手で触れてはならず、妻や子に接吻してから、すぐに接吻してはならず、その前で性交をしてはならなかった――これらの禁則はおそらくは、聖書への敬意を持たない者への復讐と懲罰の力への恐れ、古代のタブーの痕跡の度合いも示しているのだろう。だが赤子が病になっていて眠らなかったり、女性が陣痛で震えていたりしたら、この巻物がもたらされ、痛みを和らげるためにその上に置かれていた。無論、ラビたちはそれらは不純であると非難していた。一部はそのような実践は命が危険にある時にのみ許可していた。他は出産する女性がいる部屋の入り口にのみ巻物を持ってくるのを許可し、「トーラーの有徳は彼女を守るであろう」が、それは魔術的な治癒の道具としてではないとして、大衆の迷信に譲歩していた。一部のラビはこれら全てを禁止していた。「これらの実践をする者たちを、妖術師や魔法使いとして非難するのは充分ではない。魂の治癒のみを意図しているトーラーを、肉体の治癒のためにも用いる事で、トーラーの本質的な原理を歪めているのだ。」だがそのような声は、大衆の耳には届かなかった。ある奇妙な子宮へ勧めの呪文は、大衆の聖書へ向けた姿勢を示している。「バエルムテル(子宮)を横たえさせよ! 9巻のトーラー、9巻の純粋なるセフェル トーラーの、これらの言葉とともに私は厳命する!」


 レビ記が揺り籠の中の赤子の頭の下に置かれたという古代の記録は、上記のトーラーの使用や、3世紀のあるラテン医師による四日熱の患者の頭の下にホメーロスのイーリアスの第4の書を置いたという処方を思い起こさせる。このレビ記が使われた理由は、子供の教育でこの書が一般に使われていたからに過ぎない。またカバリストはトーラーの特定の箇所を使う事が多く、それらに深い神秘的な意味合いを与えていた。例えば、(出エジプト記 第16章の)マナについての章を日々読む者は、食べ物には不足しなくなるだろう。(出エジプト記 第30章34-38節の)香の成分について記した節を、その秘教的な意味合い――「人々がこれらの節の重要性を理解していたら、あたかも頭の上にかぶる金の王冠のように、各文字を愛していたであろう。」――に適切に集中しつつ日々読む者は、魔術、悪霊、疫病から身を守り、死の天使の攻撃を避ける事により、死すらも遅れるだろう。だがこの面で何よりも効果があるのは、トーラーの中で生贄について記した箇所であった。これらの神秘的な意味合いを日々学ぶ者は、実際の生贄の効果的な代替手段となり、素晴らしい報酬を受けとるとされた。


 聖書の言葉も悪の諸力に対しての最も力ある御守とされた。葬儀の前日、割礼の前夜、出生してから8日までの全ての夜といった重要な時期、霊の攻撃が恐れられていた時や、贖罪の日やホシャナ ラバといった人の運命にとって重要とされた祝日の前夜には、聖書や他の聖典の学習は一般的な予防策であった。「人がトーラーの御言葉について考えるのを止めたら、サタンは攻撃するのを許される」というのは一般原理であった。


 特別な魔術的目的のために「トーラーの御言葉」を用いる実践は、古代にまで遡る。申命記 第6章9節の「またあなたの家の入口の柱と、あなたの門とに書きしるさなければならない。」の命令は、元の文字通りの意味合いか否かに関わらず、古代から現代までメズーザーとして用いられ、悪魔に対して家を守るものとされた。タルムード時代になっても、聖書の句をまじないとして用いる実践は珍しくはなかった。もし川の夢を見たならば、目を覚ましてすぐにイザヤ書 第66章12節の「見よ、私は川のように彼女に平和を与え」を唱えるのが勧められた。さもなければ、イザヤ書 第59章19節の「せき止めた川を、そのいぶきで押し流すように」がその者にまず来るだろうとされた。また悪霊が特に活動している夜に水を飲む者は、詩篇 第29篇3-10節にある「神の御声」に関する7つの部分を唱えるのを勧められていた。


 また犬や女が2人の男の間を通るのは不吉なので、民数記 第23章22-23節の「エル(神)」から始まって「エル」に終わる部分を唱えると、それらを無力化させるとされた。そして16世紀の権威、ラビ ハイム ベン ベザレルは、大衆のそのような聖書の使用法を打ち消そうと努めていた。「タルムードが我らに勧める、『エル』から始まって『エル』に終わる部分を唱えると、妖術や魔術に苦しめられる事はないというのは、神を最初、最後、自らの傍まで完全に信じる者には、他の神(悪魔)がそのように苦しめたりはしないという意味である。」だがこの敬虔な著者と世俗の間には違いがあり、大衆は単に唱えるだけで効果があると考えていた。


 タルムード時代には傷や病を癒すのにも、ラビたちの反対にも関わらず、聖書の詩句はよく用いられていた。さらに禁じられていたのは、まじないとして唾を吐いてから唱える実践だった。唾を吐くのは普遍的な魔術的行動と見做されており、権威者たちは少なくともその最も攻撃的な要素を取り除こうとしていた。彼らはこれは価値無きユダヤ人の不敬な行動だと説明し、真の理由について説明するのを避けた。後の時代には、この禁止を避けるための実践も考えだされた。それらが神の御名についての詩句のみに限定し、「これは唾を吐いてから後に唱える詩句のみが禁じられている。そのような行動で神の御名は汚されるからである。またこのまじないはヘブライ語でのみ当てはまり、他の言語で神の御名が唱えられたら、この禁止は全く当てはまらない。」安息日にそのような実践をするのを防ぐ努力も成功しなかった。人々はこの法を無視する必要があり、重病人への実践に対してはラビたちは見てみぬフリをするしかなかった。このような問題では、法は大衆の鉄の意志の壁に対して無力であった。公的なユダヤ教は、大衆の迷信に従う羽目となり、本心は喜んで滅んでほしい実践を受け入れるしかなかった。これらの譲歩は、人々の思考と行動に深く永続的に根付いた迷信への貢物であった。


 タルムードの中で、あるラビは聖書のこのような治療の使用全てについて禁止していた。「トーラーの御言葉は、守護のために用いるのは許されているが、治癒に用いるのは禁じられている。」だがこれまで見ての通り、そのような禁止は無視されてきた。また守護への許可は、何世紀にも及ぶこの迷信の不可避の状態を認めていた。全ての種類の危険、それが想像上のものだろうと現実であろうとも、悪魔や蛇からの危険だろうとも、盗賊や「神の働き」からのものだろうとも、聖書の詩句は唱えられていた。安息日でも平日でも、聖書はその啓示を受けた著者たちが想定していなかった使用がされていた。


 聖書の詩句の別の使用の目的は占術であり、これもまた他の民族の聖典と同様であった。私はこれについては、後の占術についての章で詳しく述べるとしよう。


御言葉の使用


 魔術での聖書の句の使用には2つの種類がある。1つは、神の御名が含まれていたり、その力や働きが述べられた箇所で、それ自身の力があると見做されていた。もう1つは、それらが用いられたら、すぐに結果を生み出す(神秘的な解釈も含めて)と思われる箇所であった。これら両方の例はタルムードの上記の引用から容易に見れよう。古代では、これらの句は直接的にシンプルに用いられていた。それ自身に望んだ結果をもたらすオカルトの力があると考えられていたからである。だが中世になると、伝統的な使用法から離れて、今や聖書の句の中に隠された御名が、魔力の根源とされるようになった。ここでもまた、魔術の言葉と御名との間の融合について先に述べた精巧化の効果を見る事ができる。これらの御名は文から取り出されて、独立して用いられていた。文もまた用いられていたが、「その御名と共に、この文を唱えよ」という指示無しで使われるのは稀であった。また、「この言葉からくる御名は…」という注記と共にあり、この御名のため以外で句を唱えるのは何の効果も無いと暗に述べていた。


 シンムシュ テヒリーム、「詩篇の(魔術的な)使用」は、この主題で最も有名な本で、その最初に「トーラー全体は、神の御名によって構成されており、結果として人を救い、守る特性がある」と述べている。この小著――ポケットサイズで覆刻され、様々なヨーロッパの言語に翻訳される事が多かった――はカトリック教会の禁書目録の常連となっていた。詩篇そのものも、その美しく宗教的な味わいと共に、力があるとも見做されていた。テヒリーム(詩篇)は集団や個人の人生の重要な時期に読まれていた。そして詩篇全体も、祈りの儀式の部分として毎週通して読まれていた。実際、ある後の本では、この毎週詩篇を唱えるのは、共同体が不幸に対しての最も効果的な守護となるとされた。この本ではまた、ある町が危険にあれば、頭文字がその町の名前となる詩篇全てを唱えると救われるだろうという言い伝えを記している。


 シンムシュ テヒリームは、これらの個々の篇や節を効果的に用いるために中世に編纂された本である。この本は物理的、精神的な望みと必要を満たすのを約束する雑録であり、また同時に中世のユダヤ人の生活や晒されていた危険を知る興味深い側面光を投げかけている。グルンヴァルトはユダヤ百科事典でこれらの「詩篇の使用」のリストを載せており(第3巻 203-4ページ)、私はここでその幾つかを引用するとしよう。それらは、全ての種類の病を防いだり治癒する。危険、特に悪霊、山賊、野獣の襲撃から守る。権力者の恩寵を得る。捕囚にならないようにする。(キリスト教改宗の)強制洗礼を受けないようにする。また夜警の逮捕から逃れるというものすらあった!


 聖書の他の部分も似たような目的で多く利用されていた。魔術書ではそのような引用で満ちている。グルンヴァルトはドイツ ユダヤ人の民間雑誌に、それらの文書から選んだ記事を書いており、その幾つかは先に記したユダヤ百科事典でも転載している。この種の内容について描くために、私はここで14世紀の文書、セフェル ゲマトリアオトにある処方のリストを載せるとしよう。このゲマトリアの名前でも分かるように、この本は聖書の文の数学的な思弁と並び替えで構成されているが、同時に聖書の句の魔術的な使用のリストと、それらの単独や複数の句にある御名に特有の性質があるという主張は、シンムシュ テヒリームに類似している。


  • 新たに割礼した赤子には、創世記 第48章20節
  • 夜に身を守るには、創世記 第49章18節
  • 悪魔や悪霊を追い払う(休むすぐ前や、赤子の揺り籠に対して唱える必要がある)には、民数記 第6章24-27節、申命記 第32章10-12節
  • 魔術に対抗するには、出エジプト記 第22章19節、イザヤ書 第41章24節、レビ記 第1章1節、民数記 第23章21-23節。また始めと終わりにヌン(נ)の字がある10の節を以下の順で唱える。レビ記 第13章9節、民数記 第32章32節、申命記 第1章15節、雅歌 第4章11節、箴言 第7章17節、箴言 第20章27節、列王記上 第12章2節、エレミヤ書 第50章8節、詩篇 第78篇12節、詩篇 第77篇21節
  • 恩寵を得るには、創世記 第46章17節、民数記 第26章46節、雅歌 第6章4-9節
  • 「良い名」を得るには、雅歌 第1章15-16節
  • 論争で信用を得るには、申命記 第32章1-2節
  • 祈りに(神から)応えられるには、出エジプト記 第34章6-7節、出エジプト記 第15章2節
  • 甘い声(を得る)には、出エジプト記 第15章1節、雅歌 第1章1節
  • 声を強めるには、創世記 第44章18節
  • 祈りの指導者のためには、雅歌 第6章10 - 第7章11節
  • 愛を起こすには、雅歌 第1章3節
  • 結婚式では、雅歌 第4章1節 - 第5章2節
  • 新しく結婚したカップルには、創世記 第27章28節、民数記 第24章5-7節、雅歌 第3章9-11節
  • 夫と妻の間で平和を保つには、雅歌 第8章5節
  • 不妊を癒すには、申命記 第7章12節
  • メンスの流れを止めるには、レビ記 第15章28節
  • 熱に対しては、民数記 第12章13節、申命記 第7章15節
  • 肺炎に対しては、レビ記 第5章19節
  • 成功のためには、創世記 第39章2節、出エジプト記 第15章11節
  • 交易の利益には、創世記 第31章42節、第44章12節
  • 家畜を肥えさせるには、申命記 第22章6節、イザヤ書 第10章14節
  • (家畜の)群れを増やすには、創世記 第32章15節、箴言 第27章26-27節
  • 仕事を始める時には、出エジプト記 第36章8節
  • 新居に入る時には、創世記 第37章1節、47章27節、出エジプト記 第40章2節
  • 旅の安全のためには、出エジプト記 第15章13節、民数記 第10章35-36節、雅歌 第7章12節
  • 妨害する危険から救われるには、出エジプト記 第6章6-7節
  • トラブルの時には、雅歌 第2章14節、5章2節
  • 敵に対しては、出エジプト記 第15章5、6、9、19節、申命記 第22章6節、イザヤ書 第10章14節、箴言 第1章17節
  • 敵を死なせるには、民数記 第14章37節
  • 不可視となるには、創世記 第19章11節
  • 敵が溺れるようにするには、出エジプト記 第15章70節
  • 戦争で勝つには、出エジプト記 第15章3節、申命記 第21章10節
  • 敵軍の力を削ぐには、申命記 第4章24節
  • 追撃する者に対しては、出エジプト記 第15章4節
  • 野獣に対しては、申命記 第18章13節
  • 山賊に対しては、出エジプト記 第15章14節
  • 強盗に対しては、出エジプト記 第15章15節、申命記 第11章25節、雅歌 第2章15節、創世記 第32章2-3節
  • 中傷に対しては、出エジプト記 第15章7節
  • 偽りを広める者が1年以内に死ぬには、出エジプト記 第15章12節
  • 暴れる川を静めるには、出エジプト記 第15章8節
  • 幻覚を追い散らすには、出エジプト記 第15章16節
  • 知力のためには、申命記 第33章3-4節
  • 断食後の健康のためには、レビ記 第26章42節
  • 呪いが効果を得るには、レビ記 第27章29節
  • 夢占いのためには、申命記 第29章28節、雅歌 第1章7節
  • 邪眼に対しては、民数記 第21章17-20節

 これらの引用のうちの幾つかを良く調べて、その特定の目的のために用いられた理由を知るのは教育的であろう。最初の「新たに割礼した赤子には」に、創世記 第48章20節の「こうして彼はこの日、彼らを祝福して言った」を、2番目の「夜に身を守るには」に、創世記 第49章18節の「主よ、私はあなたの救いを待ち望む」が選ばれたのは、それらの敬虔な表現と相応しさからなのは明らかである。「魔術に対して」で、出エジプト記 第22章19節の「魔女は、これを生かしておいてはならない」は、それ自身が強い反魔術を示唆している。この著者が述べるように、この節にある3つのヘブライ単語を6つの可能な組み合わせで唱えて、イザヤ書 第41章24節の「見よ、あなたがたは無きものである。あなたがたのわざはむなしい。あなたがたを選ぶ者は憎むべき者である」の言葉を加えると、妖術に対しての強力な予防となる。反魔術への次の節のレビ記 第1章1節の「主はモーセを呼び、会見の幕屋からこれに告げて言われた、」は、それ自体は関係が無いように見える。だが、これはレビ記の始まりであり、この書は儀式的な浄化と生贄の規則に捧げられており、反魔術の性質を有しているのである。加えて、通常の順番に読み、次には各言葉を逆向きに読み、最後には節全体を逆向きに読む実践もなされており、これら最後の2つには神秘的な御名を形成している。


 その次の例の「危険に際して」唱える出エジプト記 第6章6-7節には、4つの「御名」が含まれており、これらのヘブライ語を訳すると「私はあなたを連れ出す」「私はあなたを贖う」「私はあなたを運ぶ」「私はあなたを私の下に連れてくる」となる。危険において、これより良い選択はあろうか? ここにあるほとんどの句は、似たような可能な使用の示唆である。「海での歌」(出エジプト記 第15章)や、「雅歌」は特に上記のリストでよく用いられており、それは読者が望むならば容易に確認できるからである。「YHVHは戦人、YHVHはその御名」(出エジプト記 第15章3節)は、戦争の勝利のために用いられ、これ自体はその結果を約束していないが、主の御名とその戦いを好む性質を描いており、神はこれを唱える者の側にあるのを表している。


 だが全ての句がこれほど明白に解釈できるとは限らなかった。断食後に唱えるレビ記 第26章42節は、それらに60の文字が含まれたので選んだとある――だが、断食と何の関係があるかは文書では述べていない(おそらく、雅歌 第3章7節の60人の勇士と関連しているかもしれない)。また、ヌンの字が始めと終わりにある句(これ自体の内容は反魔術とは何の関係も無い)が、なぜ反魔術の効果があるかも不明である。肺炎のためにレビ記 第5章19節が選ばれたのも、文章とその使用との間の直接的な関係からではなく、そこから導かれる曖昧な御名のためである。不妊のために申命記 第7章12節が選ばれたのも、その内容ではなく、そこから導かれる御名「豊穣の天使アクリエル」からである。もっとも、この句の中にある言葉ベリトは、性器としてよく解釈されている。他も同様である。


 これらの句を用いる方法も様々であった。ほとんどの場合では、聖書にあるように唱えて、加えて神秘的な御名も唱える。時には先に述べたように、逆向きに唱えたり、言葉を置き換えたり、特定の回数繰り返したりする事もある。また水の杯に対して「囁いたり」、紙に書いて中に入れて溶かしたりしてから、その水を飲む事もあった。また紙に書いて、護符として身に付けたり、リンゴの表面に彫ってから、そのリンゴを食べる事もあった。言い方を変えると、特定の効果をもたらすとされた魔術の手段全てが、聖書の句にあるオカルトの諸力をもたらすために用いられていた。


 聖書でこのために用いられた最も人気のある部分は、いわゆるシル シェル ペガイム、一般に「反悪魔の詩篇」として解釈される箇所であった。これらが最初に用いられたタルムードでは、このために効果があるとされた詩篇 第3篇と91篇のどちらに重きを置くかについて、様々な意見の記録がある。だが伝統では後者の方に重きが置かれるようになり、中世になると詩篇 第91篇は、あらゆる機会や特定の定められた時に、常にある悪霊の危険を防ぐために用いられるようになった。おそらくはラシの、シル シェル ペガイムは、詩篇 第90篇の最後の節の最初の幾つかの言葉を表しており、詩篇 第91篇は、古い聖書でそうだったように同じ文が始めに使われていたせいか、これら2つは続けて読まれていたせいであるという発言の結果かもしれない。この箇所はユダヤ教の権威たちからも、「悪魔から守り、この使用は魔術の治癒での禁じられたカテゴリーには含まれない」最上の御守として公的に受け入れられていた。そしてこの目的のために祈りの儀式に含まれる事もあった。


 この句の効果についての伝統的な説明は2つあった。1つは、この句には神の幾つかの神秘的な御名が含まれているためであり、もう1つは、この句は130の言葉で構成され(最後の節はこの合計を作るために繰り返される)、それはアダムがイヴと別れてから女悪魔らと関係していた130年間と照応している。だがそこまでの説明は必要ではなく、この詩篇を単純に読むだけでも、用いられた理由は明白に示している。この詩篇は夜に休む前に、悪魔に邪魔されないように唱えられていた。またローテンブルクのメイルやヴァイルのヤコブといった有名なラビの権威者たちは、昼寝する前にも唱えるように指示していた。これは悪魔を祓い、呪いに対抗する魔術の術式でもよく用いられていて、霊たちが通常は活動的な葬儀や、他のそのような重要な時期でも唱えられていた。


 この詩篇はこの目的以外にも用いられていた。なぜなら、この詩篇の中にザインの字(ז)は無いので、全ての武器(これもヘブライ語ではザインである――駄洒落は魔術の世界ではよく用いられている)に反すると信じられていたからである。また、これ自身も必要な時に武器の場所に用いられていた。他にも、ある魔術のレシピでは捕囚から解放されるために、他の聖書の箇所と共に毎日72回唱えるという記述もある。また橋を渡る時にも、これらの句を繰り返すのは、何らかのアクシデント(サタンは常にそのような機会を待っているからである)を避けるために良いとされた。かつてフランクフルトの町で、ローシュ ハッシャーナー(ユダヤ暦の新年祭)の間にショファー(角笛)が上手く吹けなかった。そのため、シル シェル ペガイムの言葉がこの角笛の口に向かって3回唱えられて、そのかすれた音が回復したという。これはサタン自身がこの角笛の中で陣取っていて、このまじないによって取り除かれるまで、吹くのを防いでいたからだと考えられていた!


ユダヤの魔術と迷信 9
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