ユダヤの魔術と迷信 1

ページ名:ユダヤの魔術と迷信 1

第1章 ユダヤ妖術の伝説


 現代世界でのユダヤ人の異常な立場は、異国で敵意のある民族の間を彷徨う羽目となって以来の、厳しい足取りを辿った運命の近代版にすぎない。だが中世ヨーロッパ時代よりも、その状態――と苦境――が明白に特別だった時代は無い。この特殊性の本質は、キリスト教社会との曖昧な関係にある。この社会の中にある事でユダヤ人は不安定な存在とならざるを得ず、一方ではその客観的な諸力全てによりユダヤ人は影響を受けて、その環境を形作り、もう一方では打ち勝てない疑惑と敵意の壁によって、その環境から切り離されてきた。この時代の不寛容なキリスト教文明から、自らの宗教的、文化的な「違い」に固執する態度、キリスト教会が育ててきたドグマ的な憎しみ、マイノリティーの状態でありつつ、隣人の非ユダヤ人社会との間の効率的な経済的競争相手、これら全てが合わさって、非ユダヤ人社会の妬みと憎しみの態度を作り出していた。


 だがこれらのみでは、事態の全体を語ってはいない。我々はキリスト教徒がユダヤ人へと向けられる態度を決めた、心理的コンプレックスのさらなる要素を認めざるを得ない――その要素は今日の反ユダヤ主義の要素としては力を失いつつも、中世では巨大に立ちはだかっていた。それは、人々の恐怖の感情を養っていた。たとえそれが迷信的な恐怖であったとしてもである。中世とは迷信が大衆のみならず、その多くの指導者らも同様に支配的な信念だった時代である。


 この時代、妖術は真にリアルで恐ろしい現象であり、中世の多くのキリスト教徒はユダヤ人を「群を抜いた」魔術師として見ていた。ユダヤ人に帰されていたサタンへの忠誠、その真の包含をほとんど消し去るまでの主張は、ただの悪口やレトリックでは無かった。サタンは魔術の究極の源であり、その悪魔的な意志と共謀によってのみ働くものとされた。キリスト教徒の著者らは、このユダヤ人とサタンとの繋がりを明白に述べてきており、聖俗界の権威者らは、この点でユダヤ人に対して何度となく弾圧をし、異端審問官らはユダヤ人を正当な狩りの対象から除外する教会法をかいくぐる口実として、時にはこれを用いていた。


 大衆もまた、この告発が与えた機会を速やかに利用してユダヤ人への攻撃を行い、その後には新たな告発が起きる事が多かった。ここでは一つの例のみを挙げるとしよう。1189年9月3日にイングランドのロンドンでリチャード1世が戴冠したのを発端として暴徒らがユダヤ人を襲い、イングランドのあらゆる主要なユダヤ人共同体を潰して、悲劇的な数の殉教者らを生み出した。事の発端は、新王の即位に対してのユダヤ人代表からの贈物と忠誠の誓いの巻物が王宮から取り去られて、それらにより新王に対して呪いをかけたと公的な告発を受けたからである。そして群衆はたちまち激怒し、暴力が速やかにロンドンの町全体、やがてイングランドの国全体へと広がり、半年以上の間、自らで拡大していき、恐ろしい虐殺が繰り広げられた。だがこれは、告発されたら概ねどこでも付属して起きていた出来事だった。


 キリスト教徒のユダヤ妖術への不安の最大の特色は、それが怪しげな行動で自ら引き起こしていた特定のユダヤ人にのみならず、民族全体に向けられていた事である。結果として、あらゆる無害なユダヤ人の行動は、その奇妙さから疑いを招き、キリスト教徒に対しての魔術の働きの悪魔的な企みと見做された。葬儀で土の塊を背後に投げるユダヤの風習は、13世紀初期のパリで妖術として告発された。それはラビ モシェ ベン イェヒエルが無害な性格のフランス王を説得できなかった直接的な原因であったろう。また墓地から帰ったら手を洗う風習も、同じような妖術の疑いと、流血の惨事を引き起こしていた。


 これらの何度となく行われた告発の厄介さから、中世のラビたちは――ユダヤ社会の世論から強制されたのは疑いない――これらの風習の一部を止めるのは不可欠であると考えた。土を投げる風習については、「異教徒(キリスト教徒)が妖術として告発してくる事への恐怖から、多くの人々がこれを行わないようにせざるを得なかった」が、この風習は恐怖に対して耐え抜き、現在まで残っている。だが他の例では恐怖が勝った。忌中に「頭を布で縛る」儀礼や、「ベッドを裏返しにする」風習は、この理由から中世の時代に消え去った。


 タルムード時代にも同じような告発の恐怖から、ユダヤ教の指導者らは、非ユダヤ人が一般に住んでいた場所で、過ぎ越しの祭りの前夜に「パン種を探す」儀式から家主を免除させていた。そして中世の時代にもこの儀式全体を止めようという強力だが成功しなかった主張もあり、屋内ですら止めようという動きもあった。「なぜなら、我々は異教徒のメイドを家で雇っているから」で、このメイドらが異教徒の間に警戒を広めるだろうからだ。そしてプロヴァンス地方では、パン種を焼くためのオーブンを清める儀式は「異教徒からの妖術の疑いにより」停止していた。万が一、ユダヤ人の家から火事が起きたら、その家主は群衆からの慈悲をほとんど期待できなかった。それがキリスト教世界を滅ぼそうとする妖術師である証拠とされ、その懲罰は一般にその犯罪に応じたものとされたからである。そのためこの時代のラビたちは、土曜の安息日と贖罪の日に火を消すのを禁ずる法に違反した者に、普段よりも寛容であった。僅かな危険があっても、この禁忌を脇に置いていた。「なぜなら、これは生死の問題であり、彼らは我々を告発し、弾圧するからである。」また儀式に従って子羊を殺してバラバラにし、各部を秘密のうちに埋めるようにして、「それによって、この事は知られず、人々から『それは魔術の目的によって行われた』と言われないようにする。」そのような事が知られたら、ユダヤ人は隣人らの疑いから起きる恐怖から追放されていた。


 ユダヤ人はこのように妖術師として石を投げられていた。だが、キリスト教徒自身が魔術の熟達者を必要とする時には、この悪徳は美徳となると信じるのに、人間の本質の知識をそれほど必要としない。もしユダヤ人が魔術師で、そのあらゆる行動がまじないとなるならば、彼らの魔術の企みは傷つけるだけではなく助けにもなるだろうという訳である。13世紀ウィーンのラビ イツハク ベン モシェは、安息日にレーゲンスブルクの町にいた時の事としてこう述べている。「この町の有力者の異教徒が重い病に罹っており、あるユダヤ人にワインを持ってくるように命じて、拒否したら死刑にすると告げた。私はこのユダヤ人に(今は安息日ではあったが)トラブルを避けるためにワインを送る許可を与えた。もっとも一部のラビらはそれに反対していた。」明らかに、ユダヤ人のワインにはオカルトのヒーリングパワーがあると信じられていた。おそらく、この異教徒の心の中では、ワインはユダヤ人により祝福されていたと考えていたのだろう。この治癒が実際に成功したかどうかは興味深いが、ラビ イツハクはそれ以上はこの話を続けていない。


 メズーザー(トーラーの句を書いた羊皮紙の入った箱でドアに括り付ける)もまた、疑いの元であると同時に望まれていた。これもキリスト教徒からは魔術の道具と見做されており、15世紀のある著者が読者に、非ユダヤ人が持つ家に対してすら、家主が妖術で告発される危険があっても、そのドアにメズーザーを付ける事を勧めていた。もっともラインラントのユダヤ人は、自らのメズーザーに覆いをかける必要があった。13世紀のある著者が「キリスト教徒が、我々への悪意と怒りから、ナイフでメズーザーを開いて、中の羊皮紙を切っていた」と不平を述べている。それが悪意からであるのは疑いない――だが、メズーザーの魔力の評判が、人々の執念を動かす特別な力でもあった。もっとも同時に、キリスト教徒の高位にある者すらも、この魔術の道具を自らに用いるのを拒否していなかった。14世紀末のザルツブルグの司教は、あるユダヤ人に自らの城の門にメズーザーを付けるようにと尋ねている。だがラビらはこのユダヤ人に、この特別な宗教的シンボルの悪用への激しい怒りと共に、拒否するように伝えた。


メズーザー


 医療の分野は特に、「奇跡をなす」ユダヤ人の魔術の技量への評判があった。大衆の観点からは、悪魔と魔術は病の原因とよく見做されており、そのため医療は妖術師の正当な範囲とされた。ユダヤ人医師らは、一般的な迷信的な態度から完全に自由であった訳ではないが、ドイツ地方での科学的医療の最先端の代表者らであった。彼らの言語への幅広い知識、ヘブライ語訳されたアラブやギリシアの医学書を読める立場、その海外への旅と留学の傾向、聖人の奇跡的治癒や聖遺物といったようなキリスト教会が育てた迷信から自由であった事、それらはユダヤ人医師らを、非ユダヤ人の同業者らよりも優秀な実践者にしていた。皮肉にも、彼らの科学的な訓練が、大衆の観点からは彼らを優れた魔術師にしており、医学のあらゆる勝利が、ユダヤ人の妖術の評判を強めていった。


 これらはユダヤ人医師が、教皇や教会会議(ウィーン1267年、バーゼル1434年など)による繰り返しの教会の厳重な禁止、聖職者らのユダヤ人は患者に魔術をかけるという警告にも関わらず、中世全体の間、北欧で人気を保ってきたのを説明している。実際、より強力なユダヤ人医師・魔術師が呼べるのに、神学的教義のために、誰が自らの命のリスクを劣等なキリスト教医師の手に委ねるだろうか? 1657年に、あるユダヤ人医師がスワビアのシティーホールで診療を許可された際に、ある聖職者は中世の聖職者の立場の典型で、こう述べている。「悪魔と共にあるユダヤ人医師の手で生きるよりも、キリストと共に死ぬほうがマシだ!」だがこの敬虔な好みは、サタンの世話を受ける事が拒否されていない間は、無視されていた。


 興味のある者のために、中世の北欧で活躍していたユダヤ人医師のリストがある。彼らの殆んどは、その名前がキリスト教徒の文書に保たれていたので知られている。キリスト教徒の君主や上級聖職者に仕え、彼らの特典を得たり失ったりした記録や、時には彼らの努力に対する悲劇的な報復もあった。ユダヤ人医師を呼ぶ事で、患者は自らの命にリスクがあったように、ユダヤ人医師の方にも診療をする際にリスクがあったからである。その診療が成功していたら、医師は魔術師と見做され、恐れと尊敬の両方、さらに積極的な憎しみを受けると予期できた。だが診療が失敗したら、医師は魔術師と見做され、その犯罪を即座に払う羽目になると予期できた。西洋で知られている最初のユダヤ人医師はゼデキアという者で、9世紀のカロリング朝の禿頭帝シャルル2世の宮廷医師で、医師と見做され、同時に――あるいはそれ故に?――無論、魔術師とも見做された。このゼデキアは典型的な最期を遂げた。877年に皇帝に対する毒殺の疑いで告発され、それによる刑罰を受けた事は疑いが無い。


 別の種類の妖術の告発もあった。中世の期間全体でユダヤ人に対して繰り返された、敵への毒殺の告発である。医師のみがその患者に対しての毒を告発されたのではなく、ユダヤ人全般がこの術に特に秀でていると見做されていた。1090年のラインラント地方では、ユダヤ人が様々な薬や膏薬を扱っており、中世の薬の外来の成分は東方から輸入されていたので、この時代にそのような品物はユダヤ人商人の交易のストックの定期的な部分であったと推測できる。さらにドイツ各地でユダヤ人はよく薬の交易をしていたという話もある。だが中世人の心の中では薬と毒はほとんど同義語であった――さらにこれらに妖術も加える事もできる。「毒は長い間、妖術や魔術と関連づけられていた。不可解な死はこれらのいずれかに帰せられており、これらのいずれも自然のオカルトで感覚的な諸力を用いるとされていた。毒と妖術、薬と惚れ薬と魔術の薬はギリシア語とラテン語では同じ言葉が用いられていた。ある人が実際には毒殺されても、妖術で殺されたと見做されており、この考え自身が毒が遠い距離でも効果があったり、長い間かかってから効果があるという極端な軽信ぶりを刺激していた。大衆の信じやすさは、大量の毒殺の可能性についても強かった。」(S.クラウス「ユダヤの旅人たち」(1930年)より)


 1550年にポーランド王、リトアニア大公のジグムント2世アウグストは、イヴァン4世(ロシア帝国初代ツァーリ、雷帝)に、先に両国で結ばれた通商条約に基づいて、リトアニアのユダヤ人を商業のためにロシアに入国させるように要請し、それに対してイヴァン帝はこう答えている。「ユダヤ人をその商品と共にロシアに入れるのは望ましくない。それにより多くの不幸が起きるだろうからだ。彼らは毒のハーブを我が帝国へと入れるだろうからだ。」さらに、こうも書いている。「彼ら(ユダヤ人)が我々全てを殺せるならば、喜んで行うだろう。確かに、よく行っているのだ。特に医師の仕事をもつ者は。彼らはドイツで医薬として知られるもの全てを知り、人を1時間や10年や20年で死ぬ毒を与える事ができる。彼らはこれらの術を完全に理解している。」これらの言葉の裏に高い称賛があるとしたら、それは全く意図したものではないだろう。1267年のヴロツワフとウィーンの公会議では、キリスト教徒がユダヤ人から食物を買うのを、その中に毒がある可能性が高いので禁止している。――これはこの毒の信念による禁令の一例にすぎない。14世紀半ばでは、(黒死病の原因として)数千のユダヤ人(とライ病患者)が井戸に毒を投げ込んで大量殺人を企んだ告発により虐殺された。そのような告発と大量虐殺は、実際には黒死病に先立ってあり、フランスでは1320年頃にまで遡る。


 これらの告発はその一般的な性質として、ユダヤ人が妖術師であるという観点を基にしている。ユダヤ人は他の告発も受けていて、それは中世の妖術のより特有の技能で認められていたのを示している。原始キリスト教時代に教会は聖変化の教義*1で賛否両論にあったが、大衆はこの教義の微細さを空中へと投げ飛ばし、直接的に要点へと飛んで、この教義を文字通りに受け入れていた。キリストの肉であるパンは、中世全体で魔術と迷信の中心的な役割を演じており、既に4世紀の頃にはその証拠がある。そしてユダヤ人、魔術師でキリスト教の敵が、聖体のウェファーを自らの悪魔的な企みのために用いているという告発以上に自然なものはあろうか? ユダヤ人がこの最も非ユダヤ教的なものを受け入れて用いる馬鹿馬鹿しさについて、告発者らが思いつく事はなかったようである。ユダヤ人が聖体を切断したという内容――勿論、それに伴う奇跡や迫害の記録は無数にある。だがイエスの体への直接的攻撃は、巧みなユダヤ人が行うにしてはシンプルで粗雑すぎるように思え、キリスト教徒とその主に対して彼らの毒を加える、より巧みな方法で行うとされた。これらの記録を信じるとしたら、毎年ユダヤ人はキリスト教の開祖の蝋の像を造って、彼らの魔術によって、この像を通じてキリストとその信者らに苦痛と拷問を送っていたという。


 この最後の例は、人類全体に普遍的に知られ用いられていた像の魔術である。敵を表す像にピンを刺したり、燃やしたり、切り刻んだりすると、敵自身の体もそのように経験する事になると信じられていた。キリスト教徒は、ユダヤ人の隣人がこの技法をよく用いて、先に述べたように、キリストの体(聖体パン)だけではなく、キリスト教徒の同時代人も呪っていると考えるのを躊躇したりはしなかった。例えば1066年にトレヴェスの町のユダヤ人は、司教エベルハルドの蝋人形を作り、賄賂で雇った司祭によりそれに洗礼を授けてから、安息日(!)に燃やしたと告発された。この司教はすぐに病で亡くなったのを付け加える必要があろうか?


 ユダヤ人に対する全ての告発の中でも、最も粘り強く残り、最も悪名高く、そして悲惨な結果を生み出してきたものは、儀式殺人の告発である。その最も有名なヴァージョンは、ユダヤ人の過越しの儀式でキリスト教徒の生贄の血を加えるというものである。この主題については、多くの研究がなされて、無数に論争されており、その馬鹿馬鹿しさについては、既に決定的に確立している。だがこの告発の真の性質については、充分に明白ではなかった。我々が今知るこの伝説は、実際には何度か改訂されている。そしてその素朴な形は、古代の迷信と――ユダヤ人が妖術師であるという考えの産物である。


 古代で最も浸透していた信念の1つは、人体の要素の医学的、魔術的な目的での使用である。中世の魔術書には人間の脂肪、血、爪、手、指のオカルト的使用のレシピに満ちている。中世の医学においても、人間の血、特に取ったばかりのものやメンスの血を、主な薬の1つとして用いていた。儀式殺人の告発は、これらの信念の結果である。


 少なくとも1つの告発では、13世紀にあるユダヤ人がメイドの娘を襲って、その肉を医術か魔術的使用のために、バラバラにしたと言われる。これは多くの儀式殺人の動機と信じられていた。この告発の中世での最初の引用の1つは、この13世紀の初頭にトマス ド カンタンプレが書いたもので、ユダヤ人の出血の苦しみのためにキリスト教徒の血が必要というものだった(後には、出血の薬のため、と告発は変化している)。この出血の病はキリスト教徒の血を用いる事によってのみ癒されるとされていた。フルダ地方(ヘッセン・ナッサウ)で1235年にあるユダヤ人が、5人の子供の殺人の罪で告発され、治療のためにこれらの血を得る必要があって行ったと告白したとされる。1255年に同時代人であった修道士マシュー パリスの記述によると、ユダヤ人らによるリンカーンの少年ヒューが殺されたのは、この少年の腸を占いに使うためだったとされた。


 それから1世紀半ほど経って、1401年5月、ブライスガウ地方のフライブルグの市参事会はレオポルト公に嘆願書を書いて、町からユダヤ人を完全に追放するように求めた。その最大の理由は、ユダヤ人がキリスト教徒の子供を定期的に殺しているからで、「全てのユダヤ人は、寿命を延ばすためにキリスト教徒の血を必要とするからである。」1494年のテュルナウでのユダヤ人に対しての儀式殺人の告発での唯一のキリスト教徒側の主張では、何度も血を必要とする理由についてこう説明している。「まず第1に、彼ら(ユダヤ人)は、割礼の傷を緩和するために、キリスト教徒の血は良い薬だと祖先の判断により確信しているからだ。第2に、彼らはこの血を食物に混ぜたら、相思相愛を引き起こすのに非常に効き目があるという意見を持っていたからだ。第3に、彼らは男も女もメンスによって同様に苦しみ、キリスト教徒の血を飲むと、それに特に効く薬だと発見していたからだ。第4に、彼らは太古の秘密の服従をなして、神への誉れのために日々生贄としてキリスト教徒の血を流す誓いの下にあるからだ。」後の18世紀初頭には、ポーランドとドイツの街路で歌われるこんな歌もあった。「なんとユダヤ人は子供を殺して、彼らの女が子供を産むために、その血をお互いに送っていた」と。


 これらの例では、幼児殺人の告発の背後に魔術の疑いがあったのは明らかである。聖書には過越しの祭りで血を種無しパンに入れてこねる事や、過越しの晩餐で血を飲む事などは一切書いておらず、それら全ては後に作られたものである。初期の告発の記録は、迷信的な中世のバックグラウンドを無視しない限り無意味である。キリスト教の魔術と魔女術の慎重な研究書を出している、現代のある著者は、己が研究していたこの時代の軽信と迷信に満ちた考えを自ら信じ込み、この中世の観点をそのまま表現している。ユダヤ人が迫害されていたのは「よく言われるように、ヘブライの儀式を行っていたからではなく、ヘブライ魔術の闇と隠れた伝統を実践していたからである。その古代の妖術と密接に関連していたのは、これらの儀式殺人である。(略)多くの場合、犠牲者の肉体、特にその血は、魔術的目的で用いられていた証拠は明白かつ決定的である。」これらを書いたモンタギュー サマーズ*2は、この「証拠」を暗に信じていた! 今日のあるカトリック信者が、ユダヤ人がキリスト教徒の血を魔術的目的で用いているという告発を、こうも盲目的に真実として受け入れるならば、その中世の先輩たちがどれだけこの「証拠」を信じ込んでいただろうか!


 ユダヤ人に対する告発のほとんどは、これらのカテゴリーのいずれかに入る。驚くべき事は、ユダヤ人が告発されたのが、こうも妖術の特別な犯罪に限られていた事である。もっとも、これらの告発がユダヤ人の行動の観察から導いたものではなく、「妖術師」のイメージからであり、それにより教会が妖術に十字軍を仕掛け、後には魔女カルトがかくも豊かにそのイメージを膨らませていた事を考えると、これらは驚くべき事ではないかもしれない。異端審問が始まる以前には、妖術をなすのは単純に犯罪行為として世俗権力により罰せられていた。だが教会が妖術を潰す事を決意すると、その実践者らは悪魔崇拝の反キリスト主義者と決めつけられた。


 異端審問官の前にもたらされた妖術師と魔女らは、サタンの崇拝者として告発され、(拷問の末に)告白した。聖体パンや他の聖物への神聖冒涜。赤子の生贄。人肉食。人体の部分、特に血と脂肪を軟膏や薬として用いる。敵の蝋人形をその名で洗礼してから用いる事で呪殺する。毒殺。これら全てはこの犯罪の典型であった。これらの魔女裁判で常に子供の生贄の告発があるのと、魔女の儀式での人間の血の重要性については気付かざるを得ない。これらは教会の撲滅キャンペーンにより一般的な観点となっていた、妖術師と魔女の行いの中でも最も明白な要素であったように思える。これらを見ていると、私はジャンヌダルクを支えていたジル ド レイ将軍の1440年の有名な裁判を思わずにはいられない。この時に将軍は血と肉の魔術的使用のために、何百人もの子供の殺人を告発され有罪となった。そしてこれらの告発が、ユダヤ人に対しての妖術のプロパガンダの性質を決めたのである。


 中世は古代からのユダヤ妖術の言い伝えを継承していた。幾つもの有名な魔術書が、ソロモン王や他の有名なユダヤ教の師らの名前で書かれていた。古代の詩人ユウェナリスが述べるには、アッピア街道にはユダヤ人の占い師らがいて、「あなたにあらゆる種類の夢を売りつけていた」とあり、この種の情報は後の世まで印象付けて、数えきれない子孫を生み出していた。また中世のキリスト教徒は近くに住むユダヤ人らの言語、宗教、風習を僅かにしか知らなかった事も考えなくてはならない。そしてユダヤ人の隣人が持っていたこれらの情報は、不完全なだけではなく誤解へと導く事も多く、結果としてユダヤ人は未知で神秘的な民に留まり続けた。これらの異邦人の性質で最も強いのは疑いの要素であり、当時の容易に信じ込み、愚鈍な迷信に満ちた民衆には、ユダヤ人についての最も奇妙な伝説も容易に広がっていった。中世キリスト教徒全体のバックグラウンドでユダヤ人に対して抱いていた不信用と敵意は、彼らの奇怪さを減らす事も無かった。


 そのため驚くことでは無いが、この嫌われた反キリストの民族(13世紀の異端に対しての十字軍では、一部の異端セクトも悪魔崇拝の儀式を行っているとされ、それが大衆の観点にも影響も与えていたであろう)、既に魔術の言い伝えに満ちているユダヤ人は、教会によって妖術の疑いない徴として公布されたゴエティア(黒魔術)の実践のリスト全体に帰していた。この時代の告発者らは、これらの無限の繰り返しのパターンに属していた。


 だが、より多様な告発が記録に無いならば、それらは人々の心の中にのみ存在していたのは確実であろう。明らかに、もしユダヤ人がそのような優れた魔術師であり、その術に限界が無いならば、普通の妖術師が持っていたような、より有用な道具も持っていたはずである。だが乏しいにせよ一応そのような証拠もある――この問題のユダヤ人側を僅かながら明らかにする証拠である。ルターはある逸話を引用しており、そこではあるユダヤ人がザクセンのアルブレヒト伯に御守を提供し、それによって伯は全ての武器の攻撃からも不死身となると主張していた。アルブレヒト伯はこのユダヤ人を自らの診療所へと連れて行き、御守の効果を試すために、そこにいた患者の1人の首に吊るさせてから、自らの剣で切りつけた!


 この物語に似た悲劇的な使用の話もあり、妖術ではありがちだが、そのような使用では悲劇が伴う。1648年から49年のフメリニツキー*3のポグロム(ユダヤ人虐殺)事件の時に、ネムィーリウの町のあるユダヤ人の少女がコサックに連れ去られた。自らが運命を決めるために、少女はこのコサックに似たような御守を渡した。「そして『もし私を信じないならば、私を撃って試してください。あなたは私を傷つけられないでしょう』と言い、このコサックは躊躇う事なく少女を撃って、彼女は即死した。それは、聖なる御名を称えるためと、自らの純潔を守るためだった。神よ、彼女の魂に慈悲を賜んことを!」と、このユダヤ史の最も血に満ちたページを書いた信心深い年代記作者は、こう結論している。


ユダヤの魔術と迷信 2
↑ ユダヤの魔術と迷信


*1 ミサの中でパン(実際にはウェファー)がキリストの肉と、ワインがキリストの血と「文字通りに」変化するという教義。プロテスタントではこれらはキリストの受難の象徴として見ており、この教義を受け入れていない。
*2 1880年 - 1948年。自称カトリック司祭(正式な認可ではないようである)、オカルト研究家、著者。熱心なカトリック信者で、研究していた中世の悪魔主義と魔女を自ら信じこみ、20世紀現代でも魔女狩りを行うように主張していた。相当な変人だったようである。他に吸血鬼や狼男についての大著もある(そして、これらも信じていた)。ちなみにアレイスター クロウリーの友人でもあった。
*3 ボフダン フメリニツキー(1595年 - 1657年)。ウクライナのコサック貴族でポーランド・リトアニア共和国に反乱し、コサック国家を建設した。そのためキエフ公国以降のウクライナ最大の英雄とされるが、1648年のユダヤ人虐殺によって、ユダヤの歴史ではヒトラーに次ぐ悪人とされている。