アストラル体投射 15-2

ページ名:アストラル体投射 15-2

多くの遠隔透視の夢がアストラル体投射と誤解されている


 あらゆる夢で夢の体が離脱するという信念に欺かれてはならない。決してそうではない! 多くの人々が夢では常にアストラル体が離脱して、夢を演じると信じている。一部の夢ではアストラル体が反応する事すら無く、動くことなく休んでいる。アストラル体が肉体と合一し、何の行動もしないうちに夢を見る事もある。またアストラル体が肉体と合一している間に夢を見て、体も結果として行動する――別の言葉でいえば肉体の夢遊病を起こす事もある。


 一方で、霊体が静けさの領域に動かずに横たわっている間に夢を見る事もある。あるいは夢を見つつも、アストラル体が離脱し、その夢の真の「場所」で行動する事もある。また同じ夢を見つつも、アストラル体は肉体のそばで夢を演じる事もある――この時には心がそこで環境、あるいは場所を正確なリアリティーであるかのように作り出す。そして遠隔透視者が離脱しなくても、遠い場所で起きた事を見るように、離脱せずに遠くの場所で起きた出来事の夢を見る事もある。


 疑い無く、アストラル体投射の例とされる記録の多くは、実際にはアストラル体投射でも何でもない。以下に述べるのは、S.P.R.により記録された、このタイプの興味深い例である。これは協会のある研究者と関連している。


「12月18日の朝、彼*1は以下の様な夢、あるいは彼が啓示と呼ぶのを好むものを見た。彼は突然に、自宅から何マイルも離れているN.M.少佐の住む通りの門にいるのに気づいた。彼の側には人々の集団がいて、そのうちの1人はバスケットを片手に持った婦人であった。残りは男性で、そのうちの4人は彼自身の借地人であり、残りは未知の者らであった。


 そして異邦人らの一部が、彼の借地人の1人であるH.W.を襲っているように思え、彼はそれを止めようとした。私*2は激しく左側にいる男を殴りつけ、それから右側にいる男の顔面にさらに強く殴りつけた。だが驚いた事に私はいずれも倒す事が出来ず、我が哀れな友人の殺人者の前で何度となく熱狂的に暴力を行った。驚いた事に、私は自らの腕を見たが、それは我が目には見えるものの、何の形質も無く、私が殴りつけた男らは、あたかも影の腕で叩いているように通過していた。


 私の打撃は、これまで私が行った事のないほどの激しいものだったが、自らの無能力さを渋々と受け入れるようになった。私がこの無形質の感触を得た後に何が起きたかについては覚えてはいない。次の朝、A.は激しい暴力の実践による体の凝りと痛みを感じていた。そして彼の妻から、夜の間に彼は寝ながらもボクサーのように腕で殴りつける仕草をしていて、とても怖かったと伝えられた。


 彼は妻に自らの夢について伝えて、彼が知っていた夢の出演者らの名前を覚えているようにと頼んだ。翌日(水曜日)の朝、A.は夢での場所の近くに住んでいたエージェントからの手紙を受け取り、そこには彼の借地人の1人がN.M.少佐の門のそばで頭蓋骨骨折により瀕死の重体であるのが発見され、その下手人らは不明だと書かれていた。


 その夜、A.は現場へと向かい、木曜日の朝に到着した。そして判事らと会合する中で、その地方の主任判事と出会い、夢の中でH.W.の他にいた3人の男らを逮捕するよう命令するように求めた。これはすぐに行われ、それぞれが単独で尋問された。


 そして3人は同じ内容の出来事を述べて、全員が一緒にいた女性の名前を告げた。それからすぐに彼女も逮捕され、正確に同じ内容を証言した。彼らは月曜日の夜の11時から12時の間に一緒に帰りの道を歩いていると、3人の異邦人らに襲い掛かられて、そのうちの2人はH.W.を乱暴に襲い、残りの1人は彼の友人らが介入するのを防いでいた。H.W.はからくも命を取り留めたが、もはや同じ人物ではなくなり、後に外国へと移住していった。」


 この内容はアストラル体投射の良い例のように思われるだろうが、実際には全く違う。事実、この証言者のアストラル体は肉体から離脱すらしていないのは、翌朝に肉体の凝りと痛みを感じていて、妻から彼の肉体が何度も腕で殴る仕草をしていたと伝えられた事からも明らかである。


 これは肉体の夢遊病のケースであり、ここで証言者は遠い場所で起きている夢を見ていたのに過ぎない。アストラル体はそこには離脱しておらず、肉体と合一していて、肉体はなおも活動していた。ここで再び述べるが、全ての夢で夢の体は肉体の外で演じるだろうとか、離脱しなくては外の出来事を見ることは出来ないという信念に欺かれてはならない。


 夢の中で実際に離脱しているかどうかを確認するには2つの方法のみがある。霊視家が夢を見ている者のアストラル体を見るか、離脱した夢を見ている者がその場所で意識を取り戻すかである。夢を見ている者が、遠い場所にいると「信じる」夢は、単にそれがとてもリアルに「思える」だけでは、アストラル体投射の夢の記録に入れるべきではない。肉体の夢遊病の多くのケースで、夢遊病者は遠い場所での情景について述べる事ができ、そこで何が起きたかを正確に語っている。だが肉体の夢遊病とアストラル体投射は同じ人物の中で同時に起きる事は無い。


 この遠い場所の幻視に似た内容は、すぐ近くの環境の幻視と呼べるであろうものである。ここでは夢見る者はそのすぐ近くの環境、自らの寝室ですら、実際に何が起きたかを見る事ができる。そのような夢は通常は昼寝している時に起き、夢を見ている者が起きる直前に起きる事も珍しくは無い。例えば、ある人物がドアのそばにいると夢を見て、すぐに起きてからその人物が実際にドアにいるのに気づくなどである。


夢の意識は真の意識ではない


 そのため、夢の意識は真の意識ではないのを我々は見る。「アストラル体投射の体験」の多くの本は、著者が夢の意識にある記録である。そして多くの人々――体外離脱体験のある人々すら――これは離脱した時の唯一の意識だと信じている。そしてこれが、真の意識ある離脱者は概ね幻視家の性質があるとされる理由である。


 この点はよく理解する必要がある。夢の意識では、夢見る者は「真の」意識であるかのように正確に見るが、そこには多かれ少なかれファンタジーの要素が含まれる。私はこの種の内容で1冊の本を書けるであろう――だが、どのように私はこれらがアストラル体の離脱であると確信できようか?


 多くの遠隔透視の夢を見ている者は、地球のどこかの情景や起きている出来事を見て、その場所に実際に離脱していると信じる。多くの研究者はそれが事実であると知る。私もそれが事実であると知る。また夢の中で高次の諸界で起きる出来事や情景を見て、これらの霊界へと離脱したと信じるが、実際にはそうではない事もある。


 事実、このような方法によって高次の霊界に行ったと主張する者らによって、「霊の生活」の多くの情報を我々は得ている。だが彼らは実際にはそれらの諸界へと離脱しておらず、単にそう信じている――遠隔透視の夢の、一見してそう感じる事からである。それは多くの人々が地球のある場所へと離脱したと信じるが、実際には遠隔透視の夢でその場所を見ているのに過ぎないのと同じである。


 寝ている間に地球の遠い場所の情景や出来事を、離脱せずとも見て――実際に離脱したと「考える」事や、霊界の情景や出来事を見て、自らが離脱したと「考える」事も多いと覚えておくのは重要である。だがこれはリアルの意識のあるアストラル体投射「ではない」。アストラル体の意識と肉体の意識が同じだと考えるほどの過ちは無い。これらは比較にならず、片方は夢の意識、もう片方は真の意識の状態である。


 真の意識のある離脱をした者ならば、遠隔透視の夢を意識のある離脱だと信じる事は無い。さらに真の意識のある離脱をした事のある者ならば、真の意識を夢の意識と混同する事も無い。肉体の外にあっても「内」にあるのと同じように、完全に活力と意識があると述べるので充分であろう。


死は永遠の離脱にすぎない


 これまで学んできたアストラル投射から、読者も今では死の時に「亡くなる」事への正確な知識を得ているだろう。つまるところ、死とは永遠の離脱――離脱者が肉体の部分を動かすために戻らないアストラル体投射にすぎない。


 ほとんどの死者は疑いなく無意識の状態にある。ベイリー博士はこう述べている。「臨床の全ての観察から、我々がこの世界から去る時には、来る時*3と同様に無意識にあるよう自然は意図していると信じるに至った。」さらに加えて、「全ての私の体験から、それに反する一つの例も見い出せない。」


 だが、意識を最後の瞬間まで保っているように思える例外的なケースもある。ベンジャミン ブローディ卿などはそのようなケースについて記録している。ハイスロップ教授はS.P.R.ジャーナル(1898年6月号)で「死ぬときの意識」の題の価値ある記事を書いている。この記事の中で教授は疑いない事実の観点から、患者は自らの意識を保っているように見え、不可能の様に思えるものの、理論的には意識はそれ自身の消滅まであり続ける事も可能であり、一見しての消滅する意識の状態は単に「退いている」のであり、「消滅した」のではないと述べている。


 死ぬときに眠っていて、暴力を通じてもたらされたのではないならば、自らが幸運と見做すだろう。暴力的な死は意識に大きなショックであり、潜在意識の心にこのショックの「ストレス」を植え付け、多くの場合では被害者は――本書で幾つかのケースを述べてきたように――地球の圏で半分狂気の状態で留まる事になる。潜在意識に植え付けられた暴力的な死のストレスは、アストラル体の被害者を何度となくその死を再演する――自ら強迫観念に囚われ、時には他者に憑依する――事になるのも珍しくは無い。


 だが永遠の離脱(死)と一時的な離脱は非常に似た性質があり、2人の人物が「亡くなる」時に正確に同じ体験をする事は無いのも確かである。ある者は意識を持ったまま離脱し、別の者は部分的に意識がある状態であり、大半の人々は疑いなく完全に無意識のうちにその肉体から離脱する。現世に戻ってきた霊の中には、「亡くなる」時に概ね明白な意識を保っていたように思える者もいる。これと関連して、霊媒のチューダー=ポール氏を介してのダウディング一等兵という兵士の自らの死についての説明を引用させていただきたい。


「あなたも見ての通り、私はこれらの「重要な」出来事を簡潔に述べてきた――かつては私には重要であったが、今では現実との関連はない。我々は地上での事柄の重要性をどれだけ過大評価していることか! 私は生きている時には殺される事を恐れており、それが消滅を意味すると確信していた。今でもそれを信じている者らは多数いる。だが私があなたに話したいのは、この消滅は私には来なかった事である。


 肉体の死は何の意味も無い。そこには何も恐れるものは無い。私の友人らは私が西(第一次世界大戦の西部戦線?)へと向かう際に、彼らは私が死ぬだろうと考えて嘆いた。そして、実際にそれは起きた。私はこの出来事全体の完全に明白な記憶がある。その時に私は塹壕の端で防衛のために待機していた。それは綺麗な夕方だった。それまで特別な危険を示すものは何も無かったが、やがて砲弾が飛んでくる音が聞こえた。それから私の背後で爆発が起きて、本能的に伏せようとしたが遅すぎた。


 私の首に何かが激しく、激しく、激しく打ち付けた。この激しい記憶をどのように忘れられようか? それは私が覚えている限り唯一の不快な出来事であった。私の肉体は倒れるとともに、無意識に陥る事も無く、そのまま自らが肉体の外にいるのに気づいた! 見ての通り、私は自らの物語を単純に語っており、あなたも容易に理解できるだろう。あなたも死ぬとは小さな出来事であるのを知るだろう。


 この事を考えよ! 少し前までは私は生きていて、現世の感覚があり、塹壕の手すり壁を見渡して、何の危険も感じずに通常の状態にあった。その5秒後には、私は自らの肉体の外に立っていて、私の2人の戦友が私の肉体を迷路のような塹壕の中を救護施設へと運んでいくのを見ていた。(略)私は夢を見ているようだった。私はかつて誰かが自らを倒す夢を見た事があったが、今では私は肉体の外にいる夢を見ていた。私はこう考えた。「すぐに私は起きて、塹壕で待機している自分に気づくだろう」*4


 後にダウディング一等兵はこうも記している。「私が肉体で生きていた頃、このような事は考えたりもしなかった。私は生理学については僅かしか知らなかった。今では自らが別の状態下で生きており、自らについて述べる事にそれほど関心も無い。


 だが、私はなおも明らかに別の種類の体にいるのを意味するが、それについては、あなたにごく僅かしか語れない。私にはそれに関心が無い。この体は快適であり、疲れを知らない。これは私の古い体と似た形をしている。もっとも僅かに違いがあるが、私はそれらを分析できない。(略)我々一人一人は、自らの煉獄の状態を作り出す。もし私に再び生きる事が出来るならば、どれだけ違った生を歩んだことか! (略)私は友人らとともに充分に生きておらず、彼らの問題にも充分に興味が無かった。」


 このダウディング一等兵の物語と、一時的なアストラル体投射のこれまで学んできた事の間に多くの一致があるのに気づくだろう。また、キャロライン D. ラルセン夫人が「霊界への我が旅」で述べるには、ある時に夫人は実際に(死につつある人の)肉体からアストラル体が分離しようと何度か行き来して、最終的に離脱するのを見たという。ラルセン夫人はこの出来事について以下の様に述べている。


「G氏は私と夫の両方には友人という程ではないものの、よく知っており、気ままに酒を飲み、自らを失う事の多かった人物である。そしてここで述べる必要もないある出来事から、氏は自らの理性を完全に失い、酔っ払いの生活を始めて、最終的には麻薬にも溺れた。


 ある夜に氏は亡くなり、その時に私は自らの霊体で離脱をしていて、氏の家の近くを通ってから、中へと入った。ベッドの中でG氏は大量の酒と麻薬による恐ろしい痙攣に襲われていた。このベッドの横では私も知っている2人の人物が、氏を救おうと努めていた(後に我が夫の尽力によって、これらは実際にあったと確証されている)。


 突然にG氏はアストラル体で起き上がり、肉体の部分から完全に離脱するのを私は見た。すぐに氏は怒りはじめて、ベッドの周囲でウィスキーの半分入ったボトルと隠しておいた麻薬の小さなボトルを探し回った。氏はそれらを見つけると、口へと運ぼうとした。だが手が通り抜けてしまって失敗すると、氏の顔には悔しさの表情が浮かび、再び肉体へと戻っていって繋がった。


 少ししてから、氏は再び肉体から離脱して、同じ事を行った。これを氏は何度か繰り返した。氏が肉体から離脱するたびに肉体は死に、戻るたびに恐ろしい顔でもがくのは奇妙な情景であった。


 最終的に氏は完全に離脱して、ボトルを探し始めた時に私がそこにいるのに気づいた。氏は驚きの表情で私を直視し、それから振り返ると、よろよろと家から出ていった。氏の心は完全に混乱していて、もはや肉体を背後に残して、二度と再び戻れない事にも気付いていなかった。


 また氏が肉体から離脱するたびに、そのオーラが即座に氏を包み込んで、常に着ていた背広服に似た形になるのは驚くべき光景だった。だがそれは完全な霊性開発の欠如を示す茶色であった。」


 アンドニュー ジャクソン デイヴィスも死の床を自らのアストラル視を通じて一度ならず見ており、物理的にもアストラル界においても同じ死は無かったと述べている。著書「調和的な哲学」の中で、自らが観察したあるケースについて述べている。


「その人はベッドに横たわり、無論実際に死につつあった。それは速やかな死であった。肉体は冷たく否定的になり、それと反比例して霊体のエレメンツは温かく肯定的となった。足はまず最初に冷たくなった。霊視者はその頭に磁気的な天使の輪と呼べるであろうものを見た。それはエーテルの放出であり、黄金色に見えて、意識と同調して鼓動していた。


 今では肉体は膝と肘まで冷たくなり、やがて足は尻まで、腕は肩まで冷たくなっていった。エーテルの放出はさらに強くなったが、部屋よりも高く起き上がる事は無かった。死の冷たさは胸と胴体の両面にまで広がった。放出はほとんど天井にまで達した。この人物は息をするのを止めたが、鼓動はなおもあった。


 そして放出は引き伸ばされて、人の姿となった。それは肉体の脳と繋がっていて、この人物の頭の内側で鼓動していた――ゆっくりと深い鼓動であり、危険なものではなく海の鼓動に似ている。この人物のほとんどの部分は死んでいたが、思考能力は理性的であった。黄金の放出は非常に細い生命の糸によって肉体の脳と繋がっていた。


 この放出する体に、白く輝く人の頭のようなものが現れた。次には、微かな神の顔のような形を取った。そして美しい首と肩が現れて、それから速やかに新しい体の残りの部分が足まで現れた――それは輝くイメージであり、肉体のものと似ていたが、その全ての詳細で完全な原型であった*5


 この細い生命の糸は古い体の脳にまで繋がっていた。次に起きたのは、エーテル原理の撤退であり、この糸が切れると、霊体は自由となった。(略)」


 だが死の疑問は多数の人間の心には僅かしか無く、私がここで述べてきたのは、アストラル体の離脱と関連した部分のみである。平均的な人間は、自分がいつか死ぬ事について考えたりもしないようである。(自らが死ぬことが)思い浮かぶと、何か恐ろしいものであるかのように、それを心から追い出す。全ての生き物の中にある自己保存の本能がいかに強いかについて考えると、これは無論、奇妙なパラドックスである。


 この疑問について僅かな哲学者のみが真剣な注意を向けている。キャリントン氏はこの主題への最良の著者のように思え、死の性質についての幾らかの本を書いている。フルニエ ダルベ教授が著書「不死への新たな光」で以下のように述べているようにである。


「この20世紀は死とその後に何が起きるかについて考えるには、忙しすぎる時代である。この世界の人々は自らの意志をなし、その生に保険をかけ、自らの死については最も大雑把に無視する。かつては死後の魂の究極的な運命に最も興味があったキリスト教会も、今ではそのエネルギーの大半を倫理道徳と社会の改善の教育に捧げている。死は死者の破滅の運命であり、論争の的でしかない。


 この20億の人類がそれが何であるかについても決定的に知らないまま、この運命へと急いでいるのは驚くべき光景である。さらに、来るべき生は幸福で楽しいものだろうと考えるのは、奇妙でありほとんど説明出来ない。この光景は、ある恐怖政治体制の牢獄の中で、次に誰が絞首台の上に呼ばれるかを知らないまま、囚人らが楽しく暮らしているのに似ている。


 毎年、4,000万人の死体が埋められている。人間の血肉と骨の100万トンが、もはや人類に仕える事の無いものとして処分され、徐々に別の物質へと、おそらくは別の命へと変容している。一方で人類はその無数の形で生き、繁栄している。(略)」


 またオクスフォード大学のF.C.S. シラー教授は以下の様に述べている。「死は哲学者らに驚くほど考えられてきた主題であった。死についてほど賢者が考えてきたものは無いと見做していたスピノザは正しい。だが、それは大きな哀れみでもある。なぜなら、この賢者は確実に間違っているだろうからだ。死ほどに、理想主義者であり、自らの意見を述べる勇気があるならば、この主題について考え、述べなくては「ならない」主題は無い。(略)」


 一方の極端な説は、死は存在の完全な消滅であると主張する物質主義者である。もう片方の極端な説は、死はより偉大な生の始まりに過ぎないとする心霊主義者である。これら2つの学派の間には、多くのカルト、宗教、信条があり、そのほとんどは死を人類に与えられた「呪い」と見做している。


 だが呪いは死ではなく、命である! その痛み、苦しみ、困難ある「命」は、人類に与えられた呪いである。その苦しみに値するだけの幸福な状態は無い。生の痛みや苦しみに匹敵するものは無い*6。来世の世界での幸福のために今生ではストア派哲学者として生きて、同時に他者がこの世界で苦しんでいるのを知る者には、私自身の考えでは、幸福を受ける資格は無い*7。霊が「共感」の神の性質を失う事はあろうか?


 「死よ、その棘は何処にある? 墓よ、その勝利は何処にある?」とストア派哲学では述べる。だが死の棘は「ある」。赤子を掴んだまま死ぬ母親、家族のいる家の扉に狼を残したまま死ぬ父親、愛した人の冷たくなった死体で泣く恋人――死よ、その棘は「ここ」にある! 墓よ、その勝利は「ここ」にある!


 私自身の考えでは、「生」を呪いとして見る。私はこの生が存在する事を悲嘆する。生きている人間で、この生について僅かといえども擁護できる者はいない。私は物質主義者が誤解している事を悲嘆する。死が終わり「ではない」事を悲嘆する。私は死が長い夢なき眠りであったらと願う。だが悲しいかな、私の体験が結論として証明している事は、「塵から生まれた汝は塵に帰る*8」は魂には書かれて「いない」のだ。


アストラル体投射 16
↑ アストラル体投射


*1 マルドゥーン注。この出来事は三人称で書かれている。
*2 ここから次の節の途中まで「彼」から「私」に人称が変わっている。
*3 マルドゥーン注。誕生の時に意識があったと主張している人々がいると知るのは興味深い。そして本書の著者もその1人である。最近この内容について、ウォリントン ドーソン氏が「健康と命」誌である記事を書いている。
*4 マルドゥーン注。明らかにダウディング一等兵は、「真の夢」、つまり実際に行動が行われている夢を見ている。一等兵は自らが夢を見ていると考え、すぐに起きるだろうと信じていた。これは一時的な離脱の間の真の夢と非常に似ている。
*5 マルドゥーン注。この説明から、死の時のアストラル体の「創造」のプロセスをデイヴィスは見たという印象を受けるかもしれない。だがこの霊視者が実際に見たのは、それを取り巻くオーラを通じて、より視覚化されるようになったエーテル体の事である。
*6 キャリントン注。なんと純粋な仏教! 純粋な中世キリスト教であるか!
*7 マルドゥーンはストア派哲学を誤解しているように思える。
*8 創世記 第3章19節など。