アストラル体投射 14-3

ページ名:アストラル体投射 14-3

煉獄*1


 アストラル界は素晴らしく見えると同時に、別の意味では「混乱」した状態にある。これは同じ体験を二度としない理由である。ある時、ある心の状態では事実である事も、別の時、違った心の状態では完全に違ったように見えよう。心が自らの環境を「造る」ように思える――だがその環境は「リアル」なのだ! この状態は永続する事はなく、この世界はある種の煉獄であって、離脱者は正しく考えるのを学ばねばならない。


 あなたはこの状態から出るのを金によって「買える」と考えるほど間違って考える事はできまい。あなたのこの間違った考えが、それ自身の環境を創り出すからだ。私が述べてきたこの「場所」(私はアストラル界とこれまで大雑把に呼んできた)は、この地上の、地球の環境の中にある。あなたは一般に「煉獄(purgatory)」と呼ばれるものには何の意味も無いと考えているかもしれないが、この言葉はこの低位のアストラル界の状態を表すのに非常に適しているように思える。


 また高位のアストラル界の環境については、私は何も知らない。幾らかの霊媒らは、アストラル界の様々な界や副次的な界に離脱したと主張し、それらの諸界の特別な情報を与えている。だが私は意識的な離脱をした際にはこの地上から離れた事は無い――私が肉体にあるのと同じ世界であるが、全ての地上の物には触れる事は出来ない。ある人々は私がまだ充分に「開発」されていないからだと述べている。私が離脱した際に、そのような条件には無いと言わんばかりである。これらの霊媒の話を聞いていると、この人たちは死後に即座に第20界で意識を取り戻すほどに完全であると考えるだろう! 残念ながら、彼らの多くが悲しいほどに誤解している!


 アストラル界を理解できる者は誰もいない! 誰も真に理解できないだろう。この世界は複雑すぎるからだ。ある時には真実であるものが、別の時にはそうではなくなる。これまでアストラル界は推察や議論の対象であり、様々なカルトによって多くの違った説が造られてきた。


 一般的な信念では、アストラル界は7つの界と7つの副次的な界で構成される。私は1つのアストラル界が7つの諸界に分かれているという説が、事実かどうか知らないのを認めるもやぶさかでは無い。多くの離脱者らが、「霊のガイド」が彼らの前に現れて、これら全てを説明したと主張している。だがこれらのガイドは私を好まないようだ――私は彼らの1人といえども会ったことが無いからだ!


 私が意識のある体外離脱体験をした際には常に、これまで常に見た地上のものしか見た事が無い。私はアストラル界の霊らも地上のものと共に見た事はあるが、それらには言われているようなガイドに似たものは何も無かった! 私は地球の圏を離脱するには、「高次の開発」が必要だと語られた事がある。おそらくそれが、私が離脱した際に他の者らが語るような素晴らしいものを見た事が無い理由であろう。


 いずれにせよ、私は常に地球の圏の中に離脱しており、事実上誰もがアストラル界の地球の圏、私が「煉獄」と呼ぶ世界で意識を取り戻すと信じている。この煉獄を超える場所に何があるかは私は知らない。だが市場には高次の諸界を見たと主張する離脱者らが書いた幾つもの本がある。また興味のある読者が購入できる死後の生を扱った数えきれないほどの本もある。


 だが私が確実に「知る」一つの事がある。地球の圏――死者にとっては煉獄――には、地上を彷徨うアストラルの存在がいる。すなわち、地上の世界で生きていた多くの死者の霊らがいるが、彼らは物質の物に触れる事はできない。


 現代の心霊主義では霊はアストラル界には一時的に逗留しているにすぎず、より高次な諸界へと継続して進歩していくという考えを持っている。また別の学派では、アストラル界は存在するが、これらの死者の霊らは(アストラル界で)次の生まれ変わりの時――再び肉体として存在するまで待っているのに過ぎないという考えを持っている。


 カトリックの教えでは何世紀にもわたり、「煉獄」の教義を持っている。そしてカトリック教会はこの面では他の宗教のものよりも、心霊主義の教えに近い。「煉獄」はいずれにせよ、一時的な中間状態であり、「死者の霊」はより永遠の生へ向けて準備している。充分に興味深い事に、カトリック信者と心霊主義者の両方とも、死者の魂は生ける者の祈りによって、この煉獄の存在から救われると教えている。


 煉獄では死者の霊の心は生きていた時の状態、その習慣や欲望を保ち続ける。そして人の思考が自らを動かせるようにするためには、霊は正しく考えるように学ぶ必要がある。


思考がアストラル体を保つ


 アストラル体を保つのは思考である! アストラルの霊体が家の床を歩くのは、床が霊体を保つとあなたは考えるだろうか? 否! 決してそうではない! 霊は床から独立している。霊は床とは全く接していない。だが霊は床の上を歩いている! なぜか? それは単に自らの思考が保っているからである。


 離脱者は肉体では常に床の上を歩き、その肉体にある時に学んだ――潜在意識に根付いた――習慣の力によって、霊体は保っている。床を歩くこの習慣は霊体にアストラル界でも同様に行うようにさせ――床の上に保つようにする。そのため、2階の床を歩くという欲望が、霊体を保ち、そのように行わせる。潜在意思の意志がアストラル体の重量を規則化させ、起きたり沈めたり、どの高さでも保つようにさせる。また表層意識の意志でも、同様な事をさせられる。


 これら全て、思考がどのようにアストラル界の「リアリティ」を造るかは、生ける者により説明された事はない。想像してみよ、あなたが家の2階の床の上を歩きつつも、床とは触れていない事を! あなたは自然と、これは奇妙な感覚だと考えるだろう。だがそうではない。事実、霊体はそれに気づく事は無いが、その事を考え始めると――私が何度も体験しているように――床の中へと沈み始める。何故か? それは単に、離脱者が床が自らと「接して」いないと考えると、保てなくなるからだ!


 このようにして無意識に歩き続ける事もあるが、それは潜在意識の意志が、習慣を通じて、実際に霊体をこの姿勢で保ち続けるからだ。あなたは肉体にある時にも歩くことについて考えたりしないだろうが、アストラル体でも同様である。それは習慣であり、言い方を変えると潜在意識の表現である。同様にあなたがアストラル体で階段を登ったり降りたりする時も、実際には段に触れていないのに気付かないだろう。だがその事を考えると、あなたは沈んでいくだろう!


 これら全ては聖書のキリストが水上を歩く物語と類似している。この話ではキリストは考えによって水上で自らを支えていたが、聖ペトロが行った時に考えるのを止めたら沈んでいった! キリストがこれを行えた事に僅かの疑いも無い。キリストは空中浮揚の力によって肉体で行えたのだ。そしてアストラル体でも自然と、それが出来ると考えるだけで行えただろう。その考えがキリストの体を支えたように、我々も肉体の軛から解放された時には支えるだろう。


 アストラル界で心がどのように気まぐれに働くかの別の例も述べよう。我々が生きている間、一般的に道を通る時には、自動車を避ける――少なくとも避けようとする。そして道を通る前に周囲を見て、車が近づいてきたら待つ習慣がある。


 そして私が思い出すには、ある時に私がアストラル体で離脱して道を歩いていた。私は道を渡ろうとしたが、その前に止まって車が来るか確認していた! この時には私は車は私の体を通り過ぎて傷つけないだろうと知っていたのにだ。なんという習慣の力よ! それでいて別の時には、私が道を通る際に、車が来るかどうか止まって確認したりしないのだ。


 似たように、歩いていて他人の体を避けたりするだろう。アストラル体で道を歩いている時に肉体の他人と出会っても、無意識に避けようとする。反対に肉体の人々をそのまま通り過ぎる事もある――彼らとぶつかるとは全く考えない。これら全ては、(アストラル界では)ある時に起きる事は、別の時には起きないのを示している。これらは全ては心――表層意識や潜在意識――での主な考えに拠っている。


 肉体の存在を通り過ぎる事について述べると、これは最初に行った時には勿論、スリルがあった! この通過が起きると、肉体の方には寒気があると言われる。私はこれが事実かどうかは知らないが、いささか疑いがある。そのような時にアストラル体の方は何も感じない。だが肉体の存在を通り過ぎる時には真のスリルがある!


 離脱者がこの死者の煉獄で完全に意識を取り戻した時に、どのように「驚異的」に感じるかを言葉では言い表せない。ここでは地縛霊らを見て、空中を飛び、自らを思考により支えて、物質の存在や物を通り抜け(そこでは空気と同じほどの抵抗しか無い)、離脱者がいないと思っている肉体の者らの「会話」を聞くのだ。


 そしてこの「会話」も奇妙である。この状態ではこれら全ては奇跡的に見えつつも、日々の世俗の取るに足りない会話を聞くのだ! 死者の霊らが、生きている者らの会話を聞くのをすぐに忘れるのも不思議ではない!


 そしてアストラル界のこれら全ての驚異がありつつも、肉体に戻って物に「触れる」のを望むのだ。触れたい! この煉獄で離脱者が感じるものがあるとしたら、真面目に述べると、それは「地獄」である! 「触れる」事への欲望や習慣の激しいストレス下にある地縛霊が発狂しない事を私は不思議に思う。この状況への治癒法は一つしかなく、それは地上のものから去り、地上のものと触れたいという習慣や欲望のストレスを乗り越える事である。


地縛霊はそう多くはいない


 地縛霊は考えられているほどには多くはいない。可能な限り最大の誤信は、離脱した時に周囲には数千の霊らが取り囲んでいるのを見るというものである。このような事はなく、幾らかは見るかもしれないが、無数にはいない。通常、離脱をしている間に霊を見たりはせず、自らしかいない――未知であると同時に見知った国の異邦人である。だが大都市の街路には血肉の存在とともに数百のアストラルの霊らが混ざっていると言われる。


 アストラル体で離脱して意識がある時には、広い視野があるという人々もいるが、他の全てと同様に、常にそうとは限らない。事実、アストラル界についてはどの質問にも、「時にはそれは事実で、時にはそれは事実でない」以上の事はほとんど言えない。


 ある人が離脱しアストラル界のある状態に出会い、再び肉体へと戻ってから、アストラル界の全てについて知ったと考えることもあるが、自らが体験した特定の状態について知ったにすぎない。これらの無数の状態から、アストラル界についての多くの物語はお互いに矛盾している。一人の霊媒が見聞きして我々に語る話は、別の霊媒が自らが見た別の状態によって否定する。これは霊についても事実である。ある霊の心は、別の霊のものとは大きく違っている。


 地縛霊については、私がかつて体験した事を引用させていただきたい(私は別の本を書けるほどの多くの体験があるが、この現象の違った様相を示せるもののみを与えるよう努める)。私はこれに以下の題名を与えられよう。


アストラルの悪鬼との遭遇


 1923年に、私の町である男が胃癌によって亡くなった。この男の妻は私の母と親しい仲にあり、葬儀の数日後に彼女と話す機会があった。彼女(死んだ男の妻)は私の母を信頼して、その夫F.D.の真の性格について語った。その話では、この夫は「全てにおいて」人でなしで、この死者について述べられた内容の中には私を憎ませるものすらあった。この夫人と私の母との会話についてや、それがこの死者に対しての私の怒りをいかに「沸騰させた」かを今でもはっきりと覚えている。


 この会話は午後7時30分ごろにされて、9時には私はこの事を忘れた。そしてこの夜に眠っている内に意識のある離脱を体験した。私は事前の段階を完全に行い、コードの活動範囲のすぐ外へと降り、自由となった。そして数歩進み、自らの肉体について見る(ほとんど誰もがするだろう!)ために立ち止まって振り返った。


 だがそこで私の目は不気味なものを見た。そこではF.D.が立っていて、私を狂ったような目で睨んでいた。私は生きている限り、この男の顔に浮かんだその残忍な表情を忘れる事はないだろう。私はこの男が復讐を望んでいるのを直観的に悟り、正直震え上がった。私は何をすべきかを知らず、そして何かしようとする前にこの男は私に飛び掛かってきた! 我々はしばらく戦っていた――やがてこの男が上位に立ち、私を呪い、その全ての力で叩いた。


 この時にはこの男の力は私よりも遥かにあるように思えたが、突然に私は自らを支配している力が私を肉体へと「引き戻す」のに気づいた。この力が私を救うために来た時、F.D.の力は小人のようになった。この男は引っ張ろうとするものの、私は堅固に肉体へと戻っていったからだ。そしてコードの活動範囲内に戻ると、この力はさらに強くなり、圧倒するように感じた。


 この悪鬼の引っ張ろうとする全ての努力にも関わらず、私は肉体の直上の空中で水平となり、「降下」した――この降下は私が体験した中でも最も激しいものだった――そして私は再び肉体で生きるようになった。この全ての期間で私の意識は、あなたがこの内容を読んでいるように、はっきりしていた。懐疑家はこれは悪夢にすぎないと言うかもしれないが、私は自らに意識があったのを知っており、私は意識がある時に何がリアルであるかを知っている。それは悪夢では無く、リアルだった! 血肉のある悪魔と取っ組み合いをしたかのようにリアルであった。


 かつてルターは悪魔と取っ組み合いをしたと主張していなかっただろうか? 誰が事実を知ろう? だが、おそらくルターは行っただろう! また私自身は読んでいないものの、心霊主義の本の中にはこれに似たような話も書かれていると聞いている。


アストラル体投射 15
↑ アストラル体投射


*1 カトリック教会の教義にある世界で、死後に地獄へ落ちる程の悪人ではないものの、天国へ行けるほどの聖性の無い魂が、ここで生前の罪の浄化を受けてから天国へと新たに行く「準備期間」の世界とされる。