アストラル体投射 序文 2

ページ名:アストラル体投射 序文 2

「証明」の困難さ


 勿論、読者の中にはこう答える者もいよう。「あなたのアストラル体のリアリティーが確立されているのが証明されるなら、それは真実でしょうな! ラクダを飲み込んだ後には、小さな紐を引っ張るのは無用ですからな!*1」 だが、意識的、自発的な「離脱」の場合とは大きく違って、アストラル体やエーテル体といった存在の証拠は、常に蓄積されてきている。心霊現象研究協会(Society for Psychical Research。S.P.R.)の研究者らが出会った最初の困難は、多くの霊の出現が、その霊が表す人物の死と同時に起きており、そのため「生ける者の幻影」の題名で出版された最初の調査報告書と、その次にS.P.R.報告書の第10巻として出版されたより詳しいものでは、そのような現象は偶然以上の確率であり、これらの霊の出現と、その「分身」が現れた人物の死との間には、何らかの因果関係があるという信念を確証している。その結果、極めて論理的に、これらの体験の大半は「テレパシー的な幻覚」として解釈しようとする試みがなされた。だがこれらの現象全てが、そのように解釈できるものではなく、最初の報告書の内容ですら、研究者のマイアーズ氏はこの解釈の妥当性について、気の咎めを感じており、それは「示唆されたモードのサイキック作用への注記」の中で明白に示している。ある霊の出現の客観性の証拠はあまりに強かったので、アンドニュー ラング氏は著書「馬鹿げた事と常識」の206ページで、「一部の霊の現れは「ゴースト」であり、真の客観的な存在で、空間を満たしていた」と書かざるを得なかった。また、これらの証拠は、「物質化現象」や似たような出現を別にしても、時代が過ぎるごとに大いに増大していったと言えよう。だがこれらの証拠については、残念ながら今語るには時間が無い。


 そのため、かなりの確信によって、ある種の「アストラル体」の存在の証拠は、我々の心霊現象研究の結果として常に蓄積されてきており、今やその証拠は非常に強くなっていると確証できよう。これがひとたび決定的に受け入れられたら、幽霊屋敷、複数の人物により同時に見られる霊出現、念写、遠隔透視など、さらに(そのような体は時には、物質を動かしたり影響したりすると仮定すると)ラップ音、テレキネシス、「ポルターガイスト現象」、その他の物理的な現象といった、他の一般に信じられずにいる現象の多くも、強く受け入れられるようになるだろうと指し示す必要はほとんどあるまい。事実、ひとたびアストラル体の客観的な証拠が自明とされるならば、物理的、精神的なサイキックの発現の多くに光が投げかけられるであろう。


 次に、そのような蓄積された証拠とは別に、世の中には常に、肉体を自由に離脱し、ある種の「アストラル体」によって、長かったり短かかったりする時間で旅をし、その間意識は保ち続けていると主張する人物らがいた。だが、そのような主張の「証拠」を与えるのは、常に困難があった。無論、そのような体験は主観的なものに違いないという人々の観点の中では、行うのは最も困難な事である。そして、本書においてすら、そのような証拠はあるか否かは未解決の問題である。だが、それらの試みはなされており、また読者が自らで「離脱」できる特別な技法も与えている――それによって、読者も本書の主張の正確性を確認する最良の手段を用いれるであろう。何人もの(その他には分別のある!)人物らが来て、彼らもアストラル体の自発的な離脱に成功していると主張するならば、この問題は非常に違った「状態」となるであろう。


 本書でマルドゥーン氏は、落ちる夢や飛ぶ夢を述べ、それらの多くは実際にはアストラル体の動きによるものだという巧みな理論へと進んでいる。勿論、マルドゥーン氏はそのような夢の多くは、通常の心理的なもの――時には肉体のもの――が原因であるとまず認めるだろう。そのような純粋に心理的なメカニズムにより生み出される「浮遊の幻覚」の幾つもの例について、異常心理学ジャーナル(1918年4月、1918年6月、1919年8月)でのリディアード H. ホートン氏の興味深い諸記事以上に要約する事を私は行えない。氏はこれらの記事で、そのような幻覚はたとえ目を覚ましていても起こせる事を証明しようとしている! また、何人もの被験者を、ベッドやソファーに横たわって「完全に」リラックスさせる事で誘引してもいる。この実験の成功率はリラックスの度合いに拠っていた。被験者が眠りに落ちる事無く筋肉の系を完全にリラックスさせられたら、しばしば「浮遊の幻覚」を経験したという。「被験者のうち30人が完全にリラックスし、20人が完全にリラックスした後も意識を保っており、そのうちの8人は浮遊の幻覚を報告している。」


 以下は、これらの性質の典型的な体験である。
「上昇する動きの知覚があまりに現実的だったので、椅子から飛び起きて、実験を続けるのを恐れた被験者もいた。
 別の被験者は女性だったが、彼女は沈むと信じて、椅子を掴んだ。他の2人は、波に「さらわれる」と感じたと報告している。だがこの時に、彼らの理性が自信を取り戻させた。
 別の被験者はこの感覚を楽しんでいて、当然のことと受け取り、また自らの「治療」の一部だと考えていた。他の被験者はもし自らの頭が肉体ほどに軽いならば、確実に飛んでいたであろうと述べている。報告では「まさに飛ぼうとしていて」、この感覚は圧倒的にリアルであった」


 ホートン氏はこれら全ての体験について以下のように要約している。
「空を飛ぶ夢と浮遊の幻覚の下にあるメカニズムは、副腎の交感神経系の働きに主に起因する。(略)浮遊の幻覚の始まりは、触覚の減退からは来ず、圧迫する感覚(私は感覚力を意味する)の完全な抑圧からか、実際の筋肉の圧迫の減少が問題となる。私は後者がより大きな要素になると考えているが、感覚の抑圧も重要に思える。(略)血管運動のリラックスが起きるまでは、これら自身が浮遊の幻覚に必要、充分な基盤となるのではない。これらの組み合わせにより、肉体の(この場合は否定的な)「刺激」が起き、それは浮遊の幻覚の基盤となるのである(略)」


 氏のこの説明の試みは、ホレース G. ハッチンソン(著書「夢とその意味合い」にて)と、ハブロック エリス(著書「夢の世界」にて)での解釈とは本質的に違っている。これらの本では「空を飛ぶ夢」は、呼吸の知覚と皮膚の感覚脱失との組み合わせによるとされている。このような説明は最終的には真相が見つかり、多くの通常の空を飛ぶ夢を説明できるようになるであろう。だが、そのような夢は「離脱」の明白な例とは大きく違い、そのような諸原理により離脱を説明しようとするのは絶対的に不当である――パイパー夫人のトランス状態で示された超自然的な知識を、何らかの生理的な原因による仮定で「説明」しようとするのが不当であるように――事も強調する必要がある。本質的な問題はなおも闇のままにあろう。アストラル体投射の全ての場合で、離脱者は自己の明白な意識を保っている事は強調する必要がある。肉体から離脱している間も、背後に振り向いて自らの眠っている肉体を見る事もでき、現在の周囲の環境も見る事もでき、人々を観察する事もでき、また今まで見たり知る可能性の無い、遠い場所の出来事や状況を見に行く事もでき、後に肉体に戻った後にそれが正しかったと確認へと行く事もできる。これは明白な超自然的な要素であって、この主題全体の要点であり、どの純粋な心理的な説明も充分ではない。ホートン博士の実験では浮遊の幻覚を誘引する事のみが成功しており、それは空を飛ぶ夢ですらないのだ。そして空を飛ぶ夢は、マルドゥーン氏によれば、意識的な離脱とも完全に違っているのである!


アストラル体投射の歴史


 古代エジプト人はカー、――これは「アストラル体」の我々の概念と対応すると言える――を暗に信じていた事を、読者に思い起こさせるのはほとんど不要であろう。このカーは人の魂ではなく、今日、アストラル体は精神と魂の乗り物と考えられているように、その乗り物であると理解する必要がある。カーは自らのミイラ化された肉体を時々に訪れると考えられ、死者の鳥のような姿の分身で通常は描かれていた。古代エジプトの多くの壁画でこれらが描かれている。そして冥府での死者の放浪や裁きについて、「エジプトの死者の書」やその他の古代の書で多く記されている。


アストラル体あるいはカーが、自らのミイラを訪問している


 さらに我々の観点からは驚くべき重要な書は、最近英語にも翻訳された「チベットの死者の書」であり、W.Y. エヴァンズ=ウェンツの編集でオクスフォード大学出版から出版されている(1927年)。この書――バルド ツォドル――は、8世紀頃に最初に書かれたと思われるが、その教えの内容はもっと古くからある。現在の翻訳された文書は、専門家らからは150年から200年ほど前のものと判断されている。読者は既に推測しているだろうが、この書は古代エジプトの書と同じ主題を扱っているが、現代の観点からは遥かに「理性的」で、その教えの多くは、現代のオカルト、サイキック学のものと驚くほどに照応している。この書での我々の主題を概ね扱っている部分の要約は、疑い無く興味を惹くであろう。


 チベットではある人が死のうとする時、ラマ(チベット僧)が呼ばれる。このラマの役割は、死する人の傍にいて、来世へと適切に転生できるように導く事にある。この死する人の首の側面の動脈が押されるが、これは死する人の意識を保つために行われ、意識が正しく導かれるようにする。死んだときの意識状態が、ある意識状態から別の状態へと常に変容している「魂のコンプレックス」の次の状態を決めるからである。また動脈を押すのは、生命の流れ(プラーナ)の通る道を規則化させ、この適切な道は脳のモンロー孔へと通じている。「もし人が死のうとするならば、その体を右向きに横たわらせよ。これは「獅子が横たわる姿勢」と呼ばれる。それから、(喉の左右の側面の)鼓動する動脈を押せ。また死のうとする人が眠りに陥ったり、眠りが深くなっていたら、起こすようにし、動脈は優しく堅固に押すようにする。これによって、生命のエネルギーは正中神経から戻る事なく、ブラフマーの穴(頭頂)から通り抜けるであろう。今や真に面と面に向き合う時であり、バルド、リアリティーの透明光を見るのを、全ての敏感な者は経験するだろう。」


 死のうとする人の前で、ラマは常に意識を平穏で落ち着かせるように説き続ける。それによって、死者は自らの心以外には客観的には存在しない「思念形」の幻影に惑わされる事無く、リアリティーの透明光を見て、入れる。ラマは肉体の死からアストラル体が離脱するプロセス全体を指導する。「この(分離する)プロセス全体は、フフォボ(意識の原理の抽出者)と呼ばれる僧によって助けられない限りは、3日半から4日かかると一般に考えられている。そして、僧が抽出に成功したとしても、通常の死者は肉体から分離した後も先に述べた期間が過ぎるまでは起きる事は無い。」


 死者の精神が透明光に適切に集中できなかったとしたら、あらゆる種類の悪魔、鬼神を見るとされる! だがこれらの悪魔は実際の客観的な存在ではなく、見た者の精神以外には実在しない幻覚、「思念形」にすぎないと、この書では何度も強調している。これら全ては純粋に象徴である。精神は毎夜の夢のように、これらを創り出せる。死者は無の中にある透明光へと自らの道を開く必要がある。早くそうするほど、自らの「解放」を早く達成できる。


 この書でのアストラル体についての教えは、非常に明白で具体的である。「あなたが(死の)気絶から回復したら、あなたを知る者がその原初の状態から起き上がり、先の肉体と似た輝ける体が分離するであろう。(略)これは欲望の体とも呼ばれる。(略)バルド体は全ての感覚器官を授けられていると言われる。(略)物質に妨げられずに移動できるのは、あなたの現在の体が粗雑な物質の肉体ではなく欲望の体であるのを示唆する。(略)あなたは実際に奇跡の動きをする力を授けられている。(略)あなたは絶え間なく意図せずに彷徨うであろう。そして、あなたは周囲で泣き叫ぶ遺族らを見て、(あなたはこう言うだろう)「ここに私はいるぞ、泣かないでくれ!」だが、遺族らは聞こえずに、あなたは「私は死んだのだ」と考える。ここでもまた、あなたは惨めに感じる。だが、前のような惨めさではない。(略)昼も夜も常に、灰色の黄昏のような光を見るだろう。(略)あなたが再び肉体を求めたとしても、それは苦しみ以外の何物も得ないだろう。肉体への執着を捨てて、あなたの心を諦めの境地に置いて、そのように行動せよ。(略)これらはメンタル体のシドパ バルドの放浪の徴である。この時の幸福も不幸も、その者のカルマに拠っているであろう。」


この主題を扱う文献


 過去にはアストラル体についての多くの書が書かれている――そのほとんどは、「魔術」や「オカルティズム」に関する書である。私はそれらの書の大半を慎重に読んでいると信じており、この主題への何らかの実践的な情報を得ようと試みたが、僅かな結果しか得られずにいる。アストラル体については数えきれないほど引用がある。例えば、エリファス レヴィの「高等魔術の教理と祭儀」や、「密儀の鍵」(春秋分点誌 第10巻で掲載)、A.E. ウェイトの「魔術の神秘」や「オカルト学」、フランツ ハルトマン博士の「白魔術、黒魔術」、パラケルススの様々な書などにである。勿論、妖術や魔女術の古い本にも、アストラル体投射への暗喩がしばしばある。神智学協会の文献にも、この主題で満ちている。だが、それらにすらも、私は正確な情報――アストラル体の投射を「どのように」行うかの具体的な教授――を見つけられずにいる。これはリードビーターの「アストラル界」や、アニー ベサントの「人とその諸体」といった古い本だけではなく、アーサー E. パウエル少佐の「エーテル分身」、「アストラル体」、「メンタル体」といった比較的新しく、より大部の本でもそうである。これらの本の全てでは、理論的な情報(勿論、厳密な神智学の観点からの)は与えられているが、実践的な助言はごく僅かである。


 ダシエの「死後の生、霊体の研究」にも同じ批判は当てはまる。M. ギフォード シャインの「不可視への小さな旅 ある女性の四次元の実際の経験」、ジョハン ヴァン マネンの「オカルト体験」、キャロライン D. ラルセンの「霊界への我が旅」、その他のこの種の本には、幾らかの興味深い不随意の体験が述べられている。「ニジダ」の「アストラル光」には、この一般的な性質についての奇妙な逸話が幾らか含まれる。この主題の興味深い歴史研究は、G.R.S. ミードの「西洋秘教伝統での微細体の教義」で与えられており、ここで著者は古代のキリスト教教父らの観点から後の時代の概念に至るまでを要約している。チャールズ ハロックの「輝く諸体、今生と来世にて」には、僅かにこの主題が述べられている。マイアーズ氏の(「人間の人格性」にて)「自己投射」と呼ばれ、たまに引用されるものが、S.P.R.のジャーナルと会議録に散りばめられている。また、ウィルツ博士の非常に驚くべき報告(会議録 第8巻、180 - 194ページ)は勿論、古典である。L.J. バートランド牧師の報告(194 - 200ページ)もまた、興味深いものがある。I.K.フンク博士の「サイキックの謎」179 - 185ページの記録も同じ事が言えよう。A. キャンプベル ホームズ氏は「サイキック学と哲学の事実」で幾らかの「分身体」についての注記をしている。さらに私自身も、「現代のサイキック現象」と「高次のサイキック開発」でこの主題について幾つかの章を充てている。数年前に、プレスコット ホール氏はA.S.P.R.のジャーナルで、盲目の霊媒を通じて与えられた「霊との対話」の中での、アストラル体についての幾らかの興味深い内容を出版している。勿論これらの価値は、これらの情報源の権威に全て拠っている。


 これらが実質的に、私がアストラル体とその投射について関連すると見出した全ての出版物である。その他にあるのは、後に本書でも引用するつもりのオリヴァー フォックス氏の「オカルト レヴュー」誌の記事と、フランス語での2冊の本、H. デュルヴィル氏の「Le Fantome des Vivants(生ける霊)」と、シャルル ランセリン氏の「Methode de Deboublement Personnel(人格の分身の技法)」である。これらについても、後の章でより詳しく引用するつもりである。だが先に述べたように、これらの例外を除いて、私はこの主題についての文献全体で価値あるものを何も見い出せずにいる。そしてこれは全ての中でも最も重要で中心的なテーマ、すなわち試みの中でアストラル体をどのように投射し、その中で意識を保ち続けるかについて、特に真実である。この重要なテーマについて、我らが権威者らは特に沈黙しているのである!


 ここではマルドゥーン氏は最も明解である。どのようにアストラル体を離脱させるかについて最大限の詳細で説明しており、離脱の最中に離脱者の精神と肉体に何が起きるのかを正確に記し、このプロセスと繋がるさらに多くの詳細も与えている。マルドゥーン氏が主張するような実際の経験無しには、これらの情報を得るのは不可能であるという我が結論に、偏見の無い読者は同意するであろう。氏がこの主題について読んだ本はほとんど無く、これらの情報の僅かな部分といえども持つ人物と出会うのも、氏がアメリカ中西部の小さな村に住んでいた事を考えると、ほとんど不可能である。氏の知識は、自らの体験から、実際の実験の結果として得たものであるのは全く明らかである。氏が実際にはこれらの体験をしていなかったとして、このような情報をどれだけ得られたかは、私は読者の判断に委ねるとしよう。


アストラル体投射 序文 3
↑ アストラル体投射


*1 「小事に拘泥して大事を怠る」の西洋版のことわざ。