人間の尊厳についての演説 3

ページ名:人間の尊厳についての演説 3

 アポローンの聖なる諸名は、それらの意味合いと隠された密儀を知る者には、この神は予言者であると同時に哲学者であると明らかに示している。アンモニオス*1がこの主題について詳細に扱っているので、私が加える事は何も無いが、教父らよ、我々はこれら3つのデルポイ神託の勧告は、この世界に入り全ての魂を啓明する*2、偽りではない真のアポローンの、最も聖にして尊厳なる神殿へと入ろうとする者には不可欠であると思い起こさざるを得ない。あなた方はこれらは、我々の全ての諸力を、私が今述べているこの3つの哲学と結びつけようとする以外の何物でもないと見るであろう。実際問題、倫理哲学がその「意味合い」の概念を扱う、全ての徳のための計測と規則を正しく定めるのに、かの格言、μηδεν αγαν、すなわち「多すぎる事は無い」。同様に別の格言、γνωθι οεαντον、すなわち「汝自身を知れ」は、我々に自然全体の学習へと招き勧めており、人はその繋げるリンクであり、「混ざった薬」である。ゾロアスターがまず述べ、プラトンが続いて「アルキビアデス」で記すように、自らを知る者はその内にある万物を知るからである。最終的に、この知識により啓明され、自然哲学の助けにより、既に神の近くにあり、神学的な礼、ει、すなわち「あなたはある」を用いる事で、真のアポローンに至福とともに親しく挨拶するのである。


 次にはピュタゴラスの意見についても見てみよう。ピュタゴラスは最も賢い人で、正確に賢者として知られていたが、それは自らがその名に値しないと常に考えていたからである。ピュタゴラスが我々にまず勧める事は、「ブッシェル枡に座るなかれ」であろう。すなわち、怠惰さにより我々の理性の力、万物に精神が審査、判断、計測する能力を失うからである。そうではなく、規律により絶え間なく、弁証法の実践をし、自らの理性を導き、機敏に保つのだ。次にピュタゴラスは2つの事を何としても避けるように警告している。それらは、神々に生贄を捧げている最中に、水を太陽に向けない事と、自らの爪を切らない事である。倫理哲学によってのみ、我々の意志を弱める(水で象徴される)過剰な快楽への欲望を退ける。そして爪を切るように、我々の魂の怒りの鋭い頂点を切り、我々はようやく聖なる儀礼、すなわち私が先に述べたバッコスの密儀に参入でき、父にして導き手と正当に呼べる太陽への黙想に自らを捧げられるのである。最後にピュタゴラスは「雄鶏を養う」、すなわち魂の中の神的な部分を、微細な食物と天のアンブロシアとしての神的な事柄の知識により養うようにと我々に命じるであろう。この雄鶏は獅子、すなわち全ての地上的な力の顔を恐怖と畏敬に保たさせるからである*3。さらにヨブ記で読むように、この雄鶏が鳴く事で、堕落した人はその感覚を取り戻し、理解が与えられるのである。またこの雄鶏は毎日の夜明けの朝に、天へのテデウム(賛美の歌)を鳴く。またこの雄鶏はソクラテスが死の床にあった時に望んだものである。ソクラテスは自らの霊の神性を、高き世界の神へと加わろうとしており、既に肉体の病は危険を超えており、アスクレーピオス、魂の癒し手に借りがあると述べていたのだ。


 またカルデア人の記録についても見てみよう。(これらが信用できるならば)我々、死すべき定めの者が同じ術を通じての幸福への道を見い出せるであろう。カルデア文書の解説者らは、ゾロアスターは魂は翼ある生き物だと述べたと書いている。その翼が魂から抜け落ちたら、魂は肉体へと沈むが、翼が再び生えたならば、魂は上位の領域へと飛び戻るという。そして弟子らがゾロアスターに、魂をいかにしたら良く羽根を生やし、素早く飛べるのかと尋ねたら、ゾロアスターは「命の水をよく撒くのだ」と答えた。そして弟子らは、どこでその命の水を得るのかと尋ねると、ゾロアスターは(いつものように)例え話で答えた。「神の楽園は4つの川により浸され、水が与えられている。この同じ水源から、あなた方は水を引き出し、それはあなた方を助けるであろう。北から流れる川の名前はピスホンで、これは「義」を意味する。西から流れる川の名前はギホンで、「高められる」のを意味する。東から流れる川の名前はヒデケルで、「光」を意味する。最後に南から流れる川の名前はペラトで、「憐れみ」として理解されよう」


 おお、教父らよ、ゾロアスターが述べたこれらの意味について、慎重に考慮し、よく注意を向けよ。これらが明らかに意味するのは、我々が倫理の学によって、西の川の流れとして自らの目の不浄さを清め、弁証法によって、北の星を読むように、我々の凝視は義と結びつく。それから自然への黙想により、夜明けの陽光のように、我々はまだ微かながらも真理の光を生み出し、最終的に我々は神学による敬虔と、神への最も聖なる崇拝により、天の鷲らのように、真昼の太陽の光輝を生み出す事が出来るようになる。これらはダヴィデ王がまず称え*4、聖アウグスティヌスが後に説明した、「朝、昼、夕の考え」であろう。これは昼の光であり、セラフィムを燃やし、ケルビムを同様に照らすものである。これは父祖アブラハムが常に求めた約束の地である。これはカバリストとムーア人の教えにある、不浄の霊が存在しない地である。そして、たとえ謎かけの形にせよ、この深遠な神秘について語るのは許されないだろう。アダムの天からの没落以来、その精神は眩暈がするような渦巻の中にあり、エレミヤによれば*5、我々の心と腸に悪を宿すべく、これらの窓を通じて死が来たのである。そのため、我々は天使ラファエル、天の医師を呼び、倫理哲学と弁証法により、いわば医薬として、ラファエルは我らを解放するであろう。そして、我々が健康を取り戻したならば、天使ガブリエル、神の力は、我らの内に留まり、自然の驚異を通じて導き、神の力と善意を指し示し、最終的に高祭司ミカエルへと導くだろう。ミカエルはさらに、哲学に完全に仕えるのに成功した者に、宝石の王冠として神学の祭司職で飾るであろう。


 最も尊敬される教父らよ、この哲学(自然哲学、魔術)を学ぶように私を導くだけではなく、強いてすらいる理由がある。私はそれらについてここで詳しく述べるつもりは無いが、例外として主に高位の階級であるが、中位の階級の間にもある、この哲学の学習を非難する者らに対しての返答が必要であろう。この哲学の全体の学習(それらは我々の時代の不幸な状態である)は、名誉や栄光ではなく、嘲りと侮辱を受けるからである。この哲学を全ての者か、少なくとも多くの者らは学ぶべきではないという、致死的で怪物的な迫害が、事実上全ての者らの心を冒している。最大限の注意を払って研究する物、物事の諸原因、世界の計画、神の助言、天地の神秘も、それらの知識が何らかの利益や恩恵を自らにもたらさないならば、我々の目の前や爪先には僅かな価値しかないものに見える。よって、我々は苦しいながらも認めざるを得ない点に到達する。現在では、知恵の追求を利益をもたらす事へと矮小化させる者のみが、賢者と呼ばれるようになり、神々の寛大さによってのみ人々の間に住んでいた乙女パラス*6は、拒絶され、罵られ、嘲りを浴び、娼婦となる事で、恋人にその処女を犯す事への値を払う事ができるようになるまで、誰も彼女を愛したり友とはならなかったのである。


 私はこれら批判者全てに対して、我々の時代の君主らだけではなく、哲学は金の価値や報酬があるまでは追求すべきでないと信じ主張する哲学者ら、この徴により、自らが哲学者としての資格を失っているのにも無頓着な者らにも、大きな失望と憤りとともに問いたい。彼らの生涯全体が、利益の追求と野心に向けられているので、真理の知識をそれ自体の価値として受け入れたりはしない。私自身について大いに述べると――この点では、私は自らを称えるのを恥じたりはしない――私は哲学のため以外には哲学をせず、自らの学習と研究を精神と真理――私が時間が経つにつれて高く評価するようになったもの――の知識を耕す事以外には、利益を望んだりもしなかった。また私はこの知識を渇望し、惹きつけられたので、全ての私的、公的な問題を横に置いて、自らを完全に黙想へと捧げた。そしてどの嫉妬深い者らの中傷も、知恵の敵らの非難も、私をこの研究から引き離す事は出来ずにいた。哲学は他者の判断ではなく、自らに拠り頼むべきであり、私が何をなすべきか、これは悪であると言ったりする他者よりも、自らが良く考えたものに拠るべきだと私に教えてきた。


 最も尊敬される教父らよ、現在の私を巡る論争は、良き諸術全てに恩恵を与え、恵みを与える、あなた方に受け入れられ喜ばしく思われつつも、その他の多くの者らが苛立ち不快に思うであろう事に、私は気づいていない訳では無い。また我が試みをこれまで非難し、これからもしばし続ける者らが欠けないであろう事にも私は気づいている。だが良く意図し誠実に徳を求める諸書は、疑わしい動機と悪魔的な目的のためのものと同等に常に非難されてきたのである。一部の者らはこの論争の一般においても非難し、学習の事柄についても公にこの技法を非難している。彼らは学習を増大させるよりも、才能を示し、意見を述べる事のみを主張しているのだ。他の者らは、この実践の類を非難はしないが、弱冠24歳という我が年齢で、キリスト神学の最も微細な諸神秘、哲学の最も論争される諸点、学問の不慣れな諸部門についての議論をあえて提案し、私がこの最も高名なる都(ローマ)、使徒座の御前にて、学者らを大いに集めた前にて行った事に憤っている。さらに他の者らは、この議論への我が権利については渋々と認めつつも、900の議案については認めず、そのような計画は疑わしく、野心的すぎて、我が力を超えていると考えている。私は自ら公言するこの哲学が忠告するならば、これらの批判を望んで即座に同意していたであろう。また我々の間で行われているこの論争が、単に口論や訴えの目的のために行われていると信じるならば、我が哲学が行うように勧めるように、彼らに対応もしないであろう。そのため全ての中傷や憤激の意図を我々の心から取り除き、それらの悪意を、プラトンが記すように、天使の合唱団の間には置かないようにしよう。そして我が論争の中で何を進めるか、多くの疑問のうちに私がどれに応えるのが許されるかは、平和的に決めるようにしよう。


人間の尊厳についての演説 4
↑ ピコ デッラ ミランドラ


*1 アンモニオス サッカス。3世紀のアレクサンドリアの神秘主義哲学者。弟子の中には、新プラトン学派の祖プロティノス、キリスト教神学者のオリゲネスらがいた。
*2 ヨハネによる福音書 第1章9節「世にきた、まことの光 」を連想させる。
*3 アグリッパのオカルト哲学にもあるように、この時代には鶏は獅子を恐れさせると考えられていた。
*4 詩篇 第55篇17節。
*5 エレミヤ書 第9章21節。
*6 知恵の象徴である。