人間の尊厳についての演説 2

ページ名:人間の尊厳についての演説 2

 この大志を遂げるには、どのように我々は進み、何をなすべきであろうか? これら(セラフィムら)が何をなすか、どのような種類の命が、これらへと導かれるかを観察しよう。我々がこの種類の命に導かれるならば(そして、我々にはできる)、我々もこれらと同じ状態へと至れるであろうからだ。セラフィムは、愛の火により燃えている。ケルビムからは、智の輝きが放たれている。スローンズは、義の堅固さにより固く立っている。結果として、我々が生涯の活動の追求で、内なる要素を義の条件によって統御するならば、我々はスローンズの堅固な場所を確立するであろう。我々が外的なものへの配慮から自らを逃れ、創造主の働き、創造主の中の働きについての黙想、瞑想に自らの時間を捧げるならば、我々はケルビムの光で輝くであろう。我々が創造主への愛にのみ燃えるならば、神の焼き尽くす火が速やかに我々へと伝わってきて、セラフィムのような炎となるであろう。スローンの上には、すなわち義の裁きの上には神が座し、世々限りなく裁かれる。ケルブの上には、すなわち黙想する霊の上には、神はその翼を広げ、いわば広げられた暖かみのように、この霊を養う。水の面を漂う主の霊と創世記にはあるが、この水は天の上にあり、ヨブによれば夜明け前の讃美歌により主を称えているからである*1。セラフは神への愛であり、神はその内にいる。さらに神とこの天使は一つとすら言われる。スローンズの力は偉大であり、我々は正しい裁きにより得られる。全ての中でもいと高きはセラフィムの荘厳であり、我々は愛する事により得られる。


 だが人が知らないならば、裁きや愛をどうなせようか? モーセは神を愛し、神を見て、(シナイ)山での黙想により先に見たものにより、イスラエルの民の裁き主として統治した。そのため、ケルブは仲介するものであり、その光によりセラフィムの火とスローンズの裁きとを我々に備えさせるのである。これはいと高き精神らと合一するための絆であり、黙想哲学を司るパラディオ式の序列なのである。そのため、これは全てに勝って我々が模倣し、受け入れ、理解すべき絆である。これにより、我々は愛の高みへと高められたり、実践的な生の任へと下降し、よく教授され準備されるのである。我々が自らの生をケルビムの生のモデルへと固めて、その自然や質、その適切な任や働きを自らの目に親しくするならば、確実にその努力には価値があるであろう。だが我々、肉のものには、その知識は地上の事柄のみなので、そのような知識を我々自身の努力で得るのは許されておらず、そのため古の教父らに拠り頼むべきである。彼らは我々にこれらの事柄への完全にして最も頼りとなる証言を与えるであろう。なぜなら、彼らはこれらについて、ほとんど内的で生得の知識を有していたからである。


 選ばれた器である使徒パウロに、第3天へと高められた際に見たケルビムの大軍の働きについて尋ねるべきである。使徒パウロは(偽)ディオニュシオスの解釈によれば、最初には純粋なものとして、それから啓明され、最後には完全なものとなったと見たと答えるであろう。そのため、我々はこの地上でケルビムの生を真似て、倫理の学を通じて我々の情熱の衝動を断ち、弁証法を通じて理性にある闇を消し、よっていわば無知と悪徳の汚れを流れ落すようにしよう。また、我々の魂を浄化し、情熱が暴走する事の無いようにし、理性も抑制がなく、その自然の限界を超えて進まないようにせよ。それにより、我々は自らの浄化された魂を自然哲学の光により覆い、その後に神的な事柄への知識により最終的な完成へともたらされよう。


 我々自身の信仰と伝統の助言のみに満足するようにし、父祖ヤコブにも寄り頼むべきである。ヤコブの似姿は栄光の御座に刻まれ、我々の前で輝いている*2。この父祖らの中でも最も賢い者は、低位の世界(地上)で寝ているうちにも、その目は上の世界へと向けられ、我らを諭すであろう。だがヤコブの諭しは、この時代の人々への姿(象徴)により現れている。地上から、その頂点に主が座している天へと向けられた多くの格(こ)のある梯子で、それぞれの格には黙想する天使らが上昇したり下降したりしているというものだ。これが天使の生を真似ようと望む我々がなすべき事ならば、その泥のついた足や土で汚れた手を、主の梯子へと向けようとあえてする者がいようか? それは神秘が教えるように、不純な者が純粋なものを触れるのは禁じられているからだ。


 だが、ここで述べている手や足とは何(の象徴)であろうか? 足とは確実に魂の事であり、その最も低位の部分によって、足が大地を歩くように魂は地上に保たれるからである。すなわち、その滋養をする働きによって、愛欲の発酵と官能的な柔らかさは育てられるのである。そして、私が「手」を魂の怒りの力と呼ばないのは何故か? 戦士らの望む働きであり、この手により戦い、(農夫らは)この手により土と太陽の間で耕し、(盗賊らは)この手により影に眠る全てのものを掴み、得るのではないのか? 倫理哲学の流水でその手、すなわち言われるように、その首筋から魂を保つ、肉体の愛欲が座する感覚の部分全体を洗うようにせよ。そして世俗で汚れた侵入者としては、この梯子から離れるようにせよ。だが、これらでも、我々がまず最初にこの梯子に正しく一歩一歩と昇れるように教えられ、行えるようになり、どこでも横に逸れたりせずに、上昇や下降が完全になせるまでは、ヤコブの梯子を旅する天使らの仲間となるには充分ではないだろう。我々が論説や理性の術により準備されたならば、ケルビムの霊により啓明され、梯子――すなわち自然――の全ての格を通じて哲学を行うならば、我々はその中心から表面へと、表面から中心へと貫けるようになろう。我々が下降したら、「多数」の「統一」された巨大な力を、オシリス神の部分のように分断しよう。また別の時に我々が上昇したら、これらの部分を、フォイボス*3の力により、再び集めて元の統一へともたらすであろう。最後には梯子の頂点に君臨する父なる神の胸の中で、我々は神学的知識の至福の中で完全と平和を見い出すであろう。


 また義人ヨブについても考えてみよう。ヨブは生まれる前にすら、神との命の契約を結んでいる。何よりもいと高き神は、ヨブを取り囲む数万の人々(の平和)を望んでいた。神はヨブ記に記されているように、疑いなく平和をもたらし、神は天の高みより平和を確立しよう*4。そして、この中間の位階の存在は高き命令を低き位階へと媒介するので、ヨブ記にある言葉は、哲学者エンペドクレス*5により大いに解釈されよう。エンペドクレスは我々の魂の中には2つの性質があると教える。片方は天の領域へと我々を向け、もう片方は冥府の領域へと我々を引きずり込む。友情と不和、戦争と平和を通じてであり、この哲学者の嘆きの言葉、闘争と不和により引き裂かれ、狂人の様に神々から逃れようとして、海の底へと飛び込んだ事で証される。これは特有のものであり、おお教父らよ、我々の中には多くの諸力が争っており、重く激しい戦いであり、国々の内戦よりも酷いものである。同様に明らかなのは、我らがこの戦いに勝つならば、この平和に到達するならば、最終的に神の高みにて確立されよう。そして哲学のみが、この闘争を鎮められるのである。


 人がこの敵らとの平和のみを望むならば、倫理哲学は我々の内にある多彩な獣らの非合理的な衝動、情熱的な暴力、獅子の怒りを制約するであろう。より賢明な助言と共に活動し、壊れない平和を確立するのを我々が求めたとしても、倫理哲学はなおも我々の望みを豊富に満たし、生贄の種のように、これらの獣らを殺して、肉と霊の間に侵されざる平和を確立しよう。弁証法は、多くの言葉とあら捜しをする思索の只中の、不安と不確実の理性の不調和を鎮めよう。自然哲学は、動揺した精神の中をあらゆる面で混乱させ引き裂く、諸意見の間の闘争、終わりなき論争を鎮めるであろう。だが闘争をこのように鎮める方法は、我々にこの性質はヘラクレイトス*6が書くように、戦争により引き起こされ、そのためホメーロスから「闘争」と呼ばれるのを思い起こさせる。そのため自然哲学は、真に揺るがない平和を我々に保証できない。そのような平和を授けるのは、諸学の女王、最も聖なる神学の特権と働きなのである。自然哲学は最良でも神学への道を指し示し、この道を同行するものだが、神学は遠くから急いで近づこうとする我々を見ると、こう呼びかけるであろう。「すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。私は世と自然が与えられない平和を与えるであろう*7


 そのような慰める声音で呼ばれ、そのような優しさで招かれると、我々はこの最も祝福された母の抱擁へと、地上で活動するメルクリウスのように翼のついた足で飛んで向かい、我々が待ち望んだ平和を楽しむであろう。かの最も聖なる平和、かの不分割の一致、かの全ての魂を通じて途切れない友情は、あらゆる精神を超えた一つの精神での一致のみならず、その表現を超えた方法により、存在の最も深遠な深みにて、真に一つとなるのである。これはピュタゴラス学派が全ての哲学の目的と呼んだ友情である。これは神が天のいと高き場所で確立した平和である。また天使らは地へと降りて善人らに告げ、それにより人は天のこの平和を通じて上昇し、天使となるであろう。これは我らの友のために、我らの時代のために、我々が入る全ての家のために、我々自身の魂のために望んだ平和である。そしてこの平和を通じて、神と共に住むようになろう。そして、魂は倫理哲学と弁証法の手段により、自らの不浄さを浄化し、哲学の多くの規律で君主の宮廷での衣服のように自らを飾り、神学の花輪を魂の扉のペディメント(三角形の切妻壁)の上に置くならば、栄光の王(キリスト)は父(なる神)と共に降りてきて、魂を自らの住居へと連れて行くだろう。そして魂がこの大いなる客人として価値あるのを示したならば、彼女は神の果て無き仁慈により、婚礼の衣服として多くの学問の黄金の衣服で纏い、ただの客人としてではなく、神の配偶者としての立場を与えられよう。そして神と別れるよりも、自らの民、自らの父の家を離れるのを好もう。彼女自身も忘れ、神の配偶者として生きるために自らの死も望もう。その目には、神の聖人としての死は無限に貴重なのである。私がいう意味は、この死――この命の大いなる充実を死と呼べるとしたら――これらの黙想で、賢者らは常にかの哲学*8の特別な学習を保っていたのである。


 次にモーセについても言及しよう。モーセはいと高き生ける泉から僅かしか離れておらず、天使らが楽しむこの神酒により、神聖な理解を得ていた。肉体という孤独な荒野に住む我々へのモーセの律法の言葉、尊き裁きの言葉を聞こうではないか。「倫理哲学を必要とし、なおも不浄な者は、テッサリアの神官らのように自らを清めるまでは、幕屋の外側の民と共に大空の下で住め。それらを既に自らにもたらした者らは、幕屋の中に住む事ができるが、なおも聖なる器に触れることは許されない。そのためには、まず信仰深いレビ人のように、弁証法、哲学の聖なる権能の御使いに仕えるべきである。そして自らがこれらの権能に熟達したならば、哲学の祭司として、いと高き神の無数の色の御座、すなわち星々が吊るされる諸天の宮殿、天の7枝の燭台の7つの炎、その幕屋の毛皮である諸要素*9を黙想するのだ。そして最後に、深遠な神学によって神殿の最奥の部屋への入室を許可され、どの像のヴェールも間にはなく、我々は神の栄光を楽しむであろう。」これらは疑い無くモーセが我々に自らを備えるように命じ、諭し、駆り立て、強く勧める事である。その間に我々は哲学の手段によって、天の栄光のさらなる道を進めよう。


 事実、私がこれから述べようとする自由諸学の威厳とそれらの価値は、モーセとキリストの神秘によってのみならず、最も古き時代の神学者らによっても証明されている。ギリシアの諸密儀で秘儀参入者らが経過しなくてはならなかった諸段階を何と理解すべきか? これらの秘儀参入者らは、我々の時代では贖罪、倫理哲学、弁証法と呼ぶであろう術により自らを浄化した後に、密儀へと参入するのが許された。これらは哲学の手段によるオカルトの性質の解釈以外の何物であろうか? この道に準備がされてからのみ、彼らは「エポプテイア*10」、すなわち神学の光による神的な事柄の即座の幻視を受け取った。そのような密儀への参入を熱望しない者がいようか? 全ての人間の些細な事柄を背後に置いて、この黙想にて幸運の物事を握り、肉体の物事を僅かにしか顧みず、なおも地上に住みつつも、神々の饗宴の客人となり、不死の神酒を飲み、死すべき定めの者でありつつも、不死の賜物を受け取るのを望まない者がいようか? プラトンが「パイドロス」で詠った、ソクラテスの熱狂により啓明される、すなわち足と翼により速やかにこの悪に満ちた世界から逃れ、最速で天のエルサレムへと到達しないのを望まない者がいようか?


 おお、教父らよ。我らはこれらのソクラテスの熱狂により、エクスタシーへと入り、我らの知性と我ら自身を神と一致させようではないか。そして先に述べた事柄の全てを行っていたら、それらによりこの道へと動かされるであろう。倫理哲学により、我々の情熱の力は適切に制御され、調和的な一致に至るであろう。そして弁証法により、我々の理性は秩序立って進むであろう。それからムーサイの情熱に打たれる事で、我々は霊の内なる耳により天のハーモニーを聞くであろう。それからムーサイの長、バッコスはその密儀を通じて、我々に哲学の頂点、すなわち自然の可視の徴、神の不可視の事柄*11を明かすであろう。そして、神の家で豊富に我らが飲むようにし、そこでモーセのように自らの信仰を完全に示すならば、最も聖なる神学は我らを強められたエクスタシーにより啓明するであろう。神学の最も高みへと引き上げられると、我々は不分割の永遠の杖により、過去、現在の万物を測る事ができ、万物の根源的な美を掴み、ポイボスの予言者らのように、我々は神学の翼持つ恋人となれよう。そして最終的には、この神聖な愛に打たれ、この一刺しによりセラフィムのように自らの外側へと生まれ、神性で満たされ、もはや我々は自らのものではなく、我々の創造主と一つとなるのである。


人間の尊厳についての演説 3
↑ ピコ デッラ ミランドラ


*1 ヨブ記 第38章7節。
*2 創世記 第28章12節の、ヤコブが寝ているうちに天への梯子の夢を見た話から。
*3 ギリシア神話での太陽神アポローンの別名。
*4 ヨブ記 第25章2節。
*5 紀元前490年頃 - 430年頃の、ギリシアの自然哲学者、医師、詩人、政治家。弁論術の祖。
*6 紀元前540年頃 - 480年頃。古代ギリシアの自然哲学者。主著は「自然について」。
*7 マタイによる福音書 第11章28節と、ヨハネによる福音書 第14章27節を合わせたもの。
*8 プラトンの「パイドン」での、ソクラテスの死に挑む態度のこと。
*9 出エジプト記 第26章14節、36章19節、39章34節から。
*10 エレウシス密儀での最終的な秘儀伝授。
*11 ローマ人への手紙 第1章20節の内容を思わせる。