古今の秘密の教え 魚 虫 動物 爬虫類 鳥

ページ名:古今の秘密の教え 魚 虫 動物 爬虫類 鳥

魚、虫、動物、爬虫類、鳥

パート 1


 地水火風に住む生き物らは、古代の全ての民族から崇められてきた。見える体は不可視の諸力の象徴であると悟っていた古代人は、神力を自然の低位の界を通じて崇拝していた。なぜなら、人ほどには進化しておらず、より単純に構成された生き物は、神々の創造の振動に、より反応すると考えられたからである。古代の賢者らは生き物について学ぶ事で、神については、その至高の働き――動物や非動物の自然――の知識を通じて、最も完全に理解できると悟るに至った。


 あらゆる存在する生き物には、永遠なる神の知性や力の相が発現しているが、それらは神の幾らかの知覚不能な部分を学習し認めない限りは知る事は出来ない。そのため、人間精神には抽象的な概念を象徴するよう生き物が選ばれていた。なぜなら、その性質の見える活動で不可視の原理を示していたからである。魚、虫、動物、爬虫類、鳥は、ほぼ全ての国々の宗教象徴に見い出せるが、これらの生き物の形、習性や、それらが存在する媒体が、自然の様々な創造的、発芽的な諸力と密接に関連し、それらの諸力は神の普遍性の明白な証明と見做されていたからである。


 古代の哲学者や学者らは、全ての生命は水が起源であると気付いていたので、魚を命の萌芽の象徴として選んだ。魚が多産である事は、この直喩をより適切に感じさせただろう。古代の神官らは、精子を分析するために必要な道具を持っていなかったが、推論によってそれが魚に似ていると結論付けた。


 魚はギリシア人とローマ人からは、アプロディーテー(ウェヌス)女神崇拝との繋がりから、聖なる生き物とされた。古代多神教儀礼の現在までの興味深い生き残りは、金曜日に魚を食べる(キリスト教の)風習の中に見い出せる。この金曜日(Friday)の名前は、北欧神話でのウェヌスに相当するフレイヤ(Freya)女神から来ており、この日は多くの国々で美と豊穣の女神に捧げられている。この類似はさらに魚と生殖の神秘との繋がりを作っている。また金曜日は、預言者ムハンマドの信者(ムスリム)も聖なる日としている。


 nunという言葉は、魚と成長の両方の意味があり、それについてインマンはこう述べている。「ユダヤ人は魚の子、別名をヨシュアとイエス(救い主)により、勝利に導かれた。このnunはキリスト教では修道女の名前として現在でもなおも用いられている」。原始キリスト教では、3匹の魚が三位一体の象徴として用いられており、また魚は仏教でも仏陀の8つの聖なる象徴の1つであった。またイルカはアポローン(太陽の救い主)とネプトゥーヌスの両方に捧げられていた。この魚は遭難に遭った船員を背中に載せて天国に運ぶと信じられていたからである。イルカは原始キリスト教でもキリストの象徴として受け入れられていた。多神教徒らは、この美しい生き物を人類の友にして恩恵を施す者と見ていたからである。フランス王国の王位継承者がDauphinと呼ばれるのは、神の保つ力の古代多神教の象徴から来ているのであろう。キリスト教の初期の信者らは、改宗者を魚に例え、洗礼の時には「キリストの海へと再び還る」と述べていた。


 古代人は海と大地には奇妙な生き物らが住んでいると信じており、動物学の初期の書には複合された獣、爬虫類、魚の奇妙な描画が含まれていたが、中世の著者らがこれらの膨大な諸書を編纂している時にはそれらは存在しなかった。ペルシア、ギリシア、エジプトの古代密儀の参入儀礼で、神官らは複合の生き物に扮装し、それにより人間意識の違った相を象徴していた。彼らは鳥や爬虫類を、様々な神々の象徴として用いており、しばしばグロテスクな姿をなして、想像上の属性、習慣、住む場所に割り当てていたが、これらの全ては実際には、世俗の者から隠された霊的、超越的な真理の象徴であった。フェニックスは炎の中で自らの巣を造り、ユニコーンは馬の体、象の足、猪の尻尾を持っていた。ケンタウロスの体の上半身は人間で、下半身は馬であった。ヘルメース主義者はペリカンを、自らの胸を切って仔を養うと見做しており、この鳥は他にも様々な神秘的な属性が割り当てられていたが、それらは寓意的な意味でのみの真実であった。


 中世の著者らの多くからは実際に存在すると見做されていたが、これらは――ペリカンを除いて――密儀の象徴主義の外には存在しなかった。またこれらは、僅かしか知られていない動物の噂が起源ともなったのだろう。マンティコアはある程度はハイエナと共通しており、ユニコーンは一つ角のサイであったのだろう。だが古代の神殿では、これらはリアリティとなった。そこではこれらは人の自然の様々な性質を意味していたからである。秘密の知恵の学徒にとって、これら複合した獣、鳥は、不可視の諸世界で働く諸力を単純に表していた。これは、ほとんど全ての中世の怪物について記していた著者らが見落としていた点であった(ウリッセ アルドロヴァンディの1642年の「Monstrorum Historia(怪物の歴史)」と、P. ガスパー ショットの1662年の「Physica curiosa(奇妙な自然哲学)」を参照)。


 また今の人類が誕生する遥か以前に存在し、神々によって滅ぼされた複合の生き物の種族についての伝説もあった。古代神殿では自らの歴史記録と、前歴史の世界についての情報を保管しており、それらは秘儀参入を受けていない者には明かされる事は無かった。これらの記録によると、人類は両生類の性質を幾らか持つ生き物から進化したという。この時代、原始の人は魚のえらを持ち、部分的に鱗に覆われていたからである。ある程度は、人類の胚はそのような状態の可能性について示している。人の起源が水にある説の結果、魚は人類の先祖と見做されていた。そのため、カルデア人、フェニキア人、インド人は魚を崇拝するようになった。アメリカ インディアンも、湖、川、海の中には、「水のインディアン」と呼ばれる神秘的な民が住んでいると信じていた。


 魚は破滅の象徴としても用いられてきたが、中国人は満足と幸運の典型としており、それらの貨幣の多くに魚が刻まれている。エジプトの悪神テューポーン、あるいはセトが、オシリス神の体を40の部分に分けた際に、その1つをナイル川へと投げた。プルタルコスによれば、それは3匹の魚――レピドトゥス(おそらくは肺魚)、パグルス、オクシリンコス(カワカマスの姿をした魚)に食べられたという。この理由から、エジプト人はこれら3種の魚を食べたりはせず、そうしたならば、彼らの神の体を食べてしまうと信じていた。悪の象徴として用いられる際には、魚は大地(人の低位の性質)と墓(密儀の岩墓)を表していた。よって、キリストが墓の中に3日間いたように、ヨナは3日間「大魚」の腹の中にいたのである。


 幾らかの初期の教父らは、ヨナを飲み込んだ「クジラ」を、父なる神の象徴だと信じていた。この不幸な預言者が船外へと投げ出された際に、安全な場所に到達するまで、自らの中にヨナを受け入れたからである。このヨナの物語は真に密儀への秘儀参入の伝説であり、「大魚」は無知の闇を表しており、人が船から海(生)へと投げ出される(生まれる)際に飲み込む。だが古代では一般的だった、魚や鳥の形に船を建てる習慣は、この物語に別の説明を与えており、実際にはヨナは別の船に拾われて港まで運ばれ、この船の形が後に「大魚」と呼ばれるようになったのだろう(Veritatis simplex oratio est!(真理の言葉は単純だ!)*1)。さらに可能性のある説明は、ヨナの「クジラ」は、実際には海馬、部分的にイルカの姿をした、多神教の神話的な生き物を基にしているというものである。初期のキリスト教のこれらの彫像や彫刻では、クジラではなくて複合生物であるのを示しているからである。


 マヤやトルテカ神話に出てくる、神々をメキシコへともたらした神秘的なウミヘビは、実際には複合の海獣や竜の形に建てられたヴァイキングかカルデアの船であったと考えるのは理に適っている。H.P. ブラヴァツキー夫人はcetus、大魚という言葉は、keto、魚の神ダゴンから導かれたものであり、ヨナは実際にはフェニキア人の船乗りに捕まってからは、ダゴンの巨大な像のくり抜かれた内部へと入れられて、それらの町の1つへと運ばれたと主張していた。cetusの巨大な姿には大いなる神秘があるのは疑いなく、現在でもそれは天の星座の1つとして保たれている。


 古代密儀の現存する多くの断片によれば、人の低位の性質は、レビヤタンと呼ばれる大海獣、竜に似た姿の巨大な恐ろしい生き物で象徴されていた。蛇の形や動きのある全ての象徴は、太陽のエネルギーの多くの形態の1つを表していた。そのため、この大海獣は、水の中に閉じ込められた太陽の生命力、あるいは人体の中に流れる神のエネルギーを表しており、それらが変容するまでは、暴れ回る怪物――人の欲望、情熱、愛欲として自らを発現する。人の救い主としてのキリストの象徴の1つは、低位のイエスの人格性の中に隠された、その神の性質の神秘と関連する数である。


 グノーシス派は、キリスト教の贖い主の性質を2つの部分に分けていた。1つはイエス、死すべき定めの単なる人間であり、もう1つはクリストス、ヌース、宇宙精神の原理の化身である。ヌース、大いなる者は、死すべき定めの人間(イエス)の肉の衣を(そのヨルダン川の洗礼から十字架に架けられるまでの)3年間用いてきた。この概念を示し、さらに無知な者から隠すために、多くの奇妙で、しばしば気味の悪い生き物が、その粗雑な外見が素晴らしい生体を隠すものとして、用いられてきた。「エノクの書」の注釈で、ケニーリーはこのように観察している。「毛虫がメシアの象徴である理由は明らかである。この低俗で、気味の悪く、完全に地上的な相の中に、この生き物は美しい蝶の姿を隠しており、その広げられた翼には、虹の様々な色、蛇、サケ、スカラベ、孔雀、死するイルカを模しているからである。(略)」


ヴィシュヌ神の第1の転生者、マツヤ アヴァターラ

ピカートの「宗教儀礼」より


 魚は、世界の救い主、ヒンドゥー教の贖罪者、ヴィシュヌ神とよく関連づけられている。このヴィシュヌ神は世界の贖罪のために自らを10の姿へと変えており、その最初の転生では魚の口から吐きだされている。またエジプトのイシス女神も、赤子の頃のホルス神を養う際には、その頭飾りに魚を付けた姿で描かれていた。カルデアの救い主オアンネス(インドからその概念を借りたものである)も、その頭と体が魚として描かれ、そこからこの神の人間の姿が様々な点から突き出ている。イエスもよく魚として象徴されていた。イエスは弟子らに「人を捕る漁師であれ」と教えていた。魚の印は原始キリスト教での最初のモノグラム(組み合わせ文字)でもあった。イエスの神秘的なギリシア語の名前、ΙΧΘΥΣは「魚」を意味する。魚はキリストの象徴として、何人もの列聖された初期の教父らによって受け入れられていた。聖アウグスティヌスはキリストと焼かれた魚を関連づけ、またこの魚の肉は義人と聖人の食物であると述べていた。



 1609年、ハインリヒ クンナートの「Amphitheatrum Sapientiae Aeternae(永遠の知恵の劇場)」が出版された。エリファス レヴィはこの書の諸ページの中には、魔術哲学の大いなる秘密の全てが隠されていると宣言している。この書のある絵の中では、17世紀の頑迷で無知な学者らによって、ヘルメース学が迫害されているのを示している。中傷者らへの完全な軽蔑を記すために、クンナートはそれぞれを複合の獣として描き、ある者には猿の耳を、別の者には偽りの尻尾を加えている。この絵の上位の部分では、特定の中傷者らに相応しい姿を与えるために取っておいてある。空中には奇妙な生き物が満ちており、大きなトンボ、翼のあるカエル、人間の頭のある鳥、その他の説明出来ないような奇妙な姿もあった。これらは賢者の秘密の奥義に対しての、毒舌、うわさ、悪意、中傷、その他の迫害の形が積み重ねられていた。さらにこの絵は、これらの攻撃は無効であるのを示している。毒虫は、しばしば人間の発言の致死的な力を象徴するために用いられていた。


 またあらゆる種類の虫は、自然霊やダイモンの象徴とも考えられていた。両者とも空中に住むと信じられていたからである。中世の魔術師がしばしば他の世界の神秘的な諸力を示す霊を呼ぶ絵では、召喚者が実行をすると、霊は部分的な虫の姿で描かれていた。古代の哲学者らが持っていた意見では、共同体を一掃する伝染病が起きると、それらは実際には生き物であるが、微小のウィルスの集まりではなく、疫病全体が1つの個体として見ており、その破壊性に応じた恐ろしい姿を与えていた。疫病が空中から来る事は、虫や鳥がこれらの象徴として使われる結果となった。


 美しい対称性のある姿は、全ての自然の慈悲深い状態や諸力を表すものとして用いられていたが、非自然的や悪意のある諸力は、歪んでいたりアブノーマルな姿が与えられていた。悪しき存在は、恐ろしく醜い姿か、自然界の嫌われている動物が使われていた。中世での人気のある迷信では、悪魔は雄鶏の足を持つというのがあったが、古代エジプト人はテューポーン(悪魔)に、豚の体を与えていた。


 虫の習性についても慎重に研究されており、その結果、蟻は冬に備えて食物を蓄えたり、自らの何倍もの重量のものを動かす力があるので、労働や予見の象徴とし見做された。イナゴは雲のように広がり、アフリカやアジアの一部では太陽をも覆い、あらゆる草木を食べ尽すので、情熱、病、憎しみ、争いの適切な象徴と考えられていた。これらの感情は人の魂の中にある全ての良きものを破壊し、荒野のみを残すからである。様々な国の民話では、特定の虫が特別な意味合いを与えられていたが、世界に共通しての崇敬と考慮を与えられていたものは、虫の世界の王であるスカラベ(オオタマオシコガネ)、大いなる裏切り者である蠍、変容の象徴である蝶、労働の象徴である蜂であった。


 エジプトのスカラベは、人の心が考えだせる中でも最も非凡な象徴の1つである。神官らの学識により、単純な虫から、その特定の習性と見た目により、肉体の力、魂の復活、永遠にして不可知の創造主の太陽の主としての相の適切な象徴となった。E.A.ウォーリス バッジは、事実上のエジプト人のスカラベ崇拝について、以下の様に述べている。


「古代での別の観点として、空は巨大な草地として見られ、その上を巨大な虫が這っていて、太陽の円盤を押していたというのがある。この虫は空の神であり、甲虫(スカラベウス サケル)の例から導かれたもので、この虫がそこに卵があると信じられていた球を押しているのを観察した結果である。エジプト人は空の神の球には卵が含まれ、太陽はこの虫から生まれると考えた。だが、卓越した昆虫学者のJ.H.ファーブル氏の研究によって、我々は今ではスカラベウス サケルの運んでいる球には卵が含まれておらず、その卵のための食物として用いられ、慎重に準備された場所に置かれるのを知っている。」


 エジプト密儀の秘儀参入者らは、時にはスカラべを獅子や豹とも呼んでいた。スカラベは太陽からの使者であり、光、真理、再生の象徴であった。心臓のスカラベと呼ばれた3インチほどの長さのスカラベ石は、死者がミイラ化され、防腐処理のために心臓以外の臓器が取り除かれる際に、心臓の空洞に置かれていた。時には、永遠の保存のために死体を準備する際に、このスカラベ石は単に巻いた布で覆われていた。以下の文は、偉大なエジプトの秘儀参入の書「死者の書」に含まれる一文である。「そして見よ、汝は緑石でスカラベを造り、(死者の)人の胸の中に置かなくてはならない。それにより、彼が「口を開く」(再び生き返る)ために働くであろう」。多くの国々の葬儀礼は、それらの密儀の秘儀参入儀礼と酷似していた。


 太陽の神ラーは、3つの重要な相がある。世界の創造者としてはスカラベの頭により象徴され、ケペラと呼ばれ、死すべき時での魂の復活と新たな命を意味した。エジプトのミイラを入れた棺には、ほとんど常にスカラベの彫刻で飾られていた。通常は、これらの甲虫の1つが翼を広げた姿で、ミイラの棺の死者の胸の位置の直上に描かれていた。これらの膨大な甲虫石の発見が示すのは、エジプト人は装飾として好んでいた事である。その太陽との関連から、スカラベは人の性質の中の神的な部分の象徴だった。また古代エジプト軍の兵士らはスカラベを特別な象徴として与えられていたが、それは古代人はこれらの生き物は全て雄であり、結果として生命力、力、勇気の適切な象徴だと信じていたからであった。


 プルタルコスは、スカラベがその特有の糞の球を後ろへと押していて、一方で虫そのものは反対の方向へと向いているのを記述している。これは太陽のための象徴として特に適していた。(エジプトの天文学では)太陽は西から東へと回転しており、一方で明らかに反対の方向へと動いていたからである。エジプトの寓意では、太陽が昇るのはスカラベがその翼を広げるからで、その体――太陽の球――の全ての面で栄光の色を輝かせ、日没の際にその翼を闇の殻の中に仕舞うと、夜が来るとされた。ラーのスカラベの頭の相、ケペラは、空を表す海の上を太陽の艀と呼ばれる豪華な船に乗った姿でよく描かれている。


マンティコア

レッドグローブの「失われた信念」より


 寓意の生き物の中でも最も注目に値するのはマンティコアである。クニドスのクテシアスは この生き物を炎の色をした体、獅子のような姿、3つの列を持つ歯、人間の頭と耳、青い目、蠍のような棘の末端のある尾、トランペットが鳴るような声と記述している。この複合的な四足獣は、中世の自然史の書の上で歩いていたが、真剣に考慮すると、決して見られた事は無かった。なぜなら、この生き物は人が到達不能な場所に住んでおり、結果として見るのが困難だったからである。


エジプト王のスカラベ

大英博物館、エジプトのスカラベ等のホールのカタログより


 これらのスカラベ石の平面な底には、通常はこれらが造られた時の王朝の名が記されている。これらのスカラベ石は時には王の印としても用いられていた。一部のスカラベは通常の石や宝石から彫られており、他のものは粘土から造られ、焼かれてから釉を塗られている。時にはスカラベ石も塗られていた。小さなスカラベ石の大半は、元は数珠として使う為に穴が開けられていた。一部のスカラベ石はガラスを切る事が出来るほどに硬かった。上記の絵では、Aではスカラベの上面図と側面図が、Bでは底面図が示され、その中心のカルトゥーシュで取り囲んだ部分にはメン・カ・ラーの名前が描かれている。


 蠍は知恵と自滅の両方の象徴として用いられていた。蠍はエジプト人からは呪われた生き物と呼ばれていた。1年のうちに太陽が天蝎宮に入る時は、テューポーンの支配の始まりと見做されていた。黄道12宮がキリスト教の12使徒を表すものとして用いられる際には(実際には逆が真実であったが)、天蝎宮はイスカリオテのユダ――裏切り者を表すものとされた。


 蠍はその尻尾によって刺すので、この理由から陰で謗る者、偽りと欺く者と呼ばれてきた。カルメーは「聖書辞典」で、蠍を悪しき者、迫害の象徴として適していると述べている。エジプトの乾燥した風はテューポーンが創っており、砂に地獄の業火の熱と蠍の棘とを混ぜると言われていた。この虫はまた脊柱の火の象徴でもあり、エジプト密儀によれば、その脊柱の底(蠍の尾)に集まるのを許されたならば、人を滅ぼすとされた。さそり座の背後に赤く輝く星アンタレスは、天で最悪の光と見做された。このカルブ アル アクラブ(蠍の心臓)は、古代人からはマールスの副官、代理と呼ばれていた(プトレマイオスの「テトラビブロス」の脚注を参照)。またアンタレスは目を損なう星と見做され、子供が産まれた時に地平線で昇っていたならば、盲目にすると信じられていた。ここでも、不用心な旅人を盲目にする事のできる砂嵐を表していたのであろう。


 だが蠍はまた、知恵の象徴でもあった。この蠍で表された火は滅ぼすだけではなく、適切に制御するならば、人を啓明する事も出来たからである。古代多神教での大密儀への秘儀参入は、天蝎宮の時期にのみ行われたと言われる。アニのパピルス(死者の書)では、死者は自らの魂を蠍に例えて、「私は飲み込む者、私はかの蠍、ラーの娘なり!」と述べる。エリザベス ゴールドスミスは「性の象徴主義」の論文の中で、蠍を「エジプトの著述の女神セルクの象徴であり、バビロニア人とアッシリア人からは太陽の諸門の守護者として崇められていた。またイシス女神が悪神セト(テューポーン)によって散りばめられたオシリス神の遺体を探した際には、7匹の蠍が伴ったとされた」と述べている。


 「カルデアの創世記」で、ジョージ スミスは、円柱に刻まれたくさび形文字を複写し、英雄イズバル(ギルガメシュ)の放浪についての記述の中で、太陽を守護する蠍神についての幾らかの知見を与えている。この著者が翻訳した石板は完全なものでは無かったが、その意味合いは明らかである。「(略)日々、昇る朝日を守護する者であり、その頭頂は天の格子にあり、地下にその足は置かれる(脊柱を表す)。この蠍人は門を守護し、酷く燃え、その見た目は死神のようであり、その力は森を恐れさせる。日が昇る時と沈む時に、これらは太陽を守護する。イズバルはこれらを見て、恐れ、その顔に恐怖が浮かんだ。」古代のラテン諸国には、蠍と呼ばれる兵器があった。これは矢を放つために使われていて、おそらくその名はその際に動く、蠍の尾に似た長い梁から来ている。この兵器から放たれた矢もまた蠍と呼ばれていた。


 蝶(ギリシア神話での乳白光の翼を持つ美しい乙女の姿をしたプシュケーの名前から来ている)は人間の魂を象徴した。なぜなら、飛ぶ力を得るために段階があるからである。蝶が飛ぶために3段階を通過するのは、密儀の学院での3位階と似ており、これらは象徴的な翼を与える事で大空を舞い、人の拡張を完成させると見做されていた。再生されておらず、無知で救いのない人間は、卵と幼虫の間の段階で象徴される。真理を求め、瞑想に励む弟子は、第2の段階、幼虫から蛹までであり、蛹の時に虫はその硬い殻(密儀の墓)へと入る。第3の段階で蛹から成虫、完全な蝶となり、それは秘儀参入者の、基底の性質の墓から起き上がった、拡張し啓明された魂を表す。


 また蛾は秘密の知恵を表していた。なぜなら、これらは発見するのが難しく、闇(無知)により隠されているからである。一部の蛾は死の象徴でもあった。例えばアチェロンティア アトロポス、死の頭のスズメガは、人間の頭蓋骨に似たような体をしている。シバンムシも、特定の羽音によって死が近いのを警告すると信じられ、人間の問題と関連する虫の別の例となっている。


 蜘蛛についての意見は分裂している。その姿は人体の神経叢や神経節の適切な象徴となっている。一部のヨーロッパ人は、蜘蛛を殺すと極めて悪運となると考えている。おそらく蜘蛛を、誰も不快にさせたくない悪しき存在の使者と見ているからだろう。全ての毒のある生き物、特に虫について神秘がある。パラケルススは、蜘蛛は強力だが悪しき力の媒介であり、黒魔術師らはその悪意ある呪いのために用いると教えていた。


 一部の植物、鉱物、動物は世界の全ての国々で聖なるものとされていたが、それはアストラルの火への特有の感受性があるからであった。この火は自然の神秘的な動者であり、科学界はこれらを電気や磁気という形で接している。鉱物の天然磁石やラジウム、様々な寄生的な植物は、この宇宙の電気的な火、宇宙の生命力に奇妙に影響される。中世の魔術師らは、蝙蝠、蜘蛛、猫、蛇、猿などを飼っていたが、それはこれらの生き物は生命力に反応しやすく、それらを得る目的で魔術師は用いていたからである。古代の知恵の学院の一部では、全ての毒のある虫、爬虫類は人の悪しき性質から生まれたもので、知的な人間存在が自らの魂に憎しみを養わなくなったならば、これらの獰猛な動物、忌わしい病、毒のある植物や虫はもはや存在しなくなると教えていた。


 アメリカ インディアンの間では、天の諸世界と大地とを蜘蛛の巣で結ぶ「蜘蛛男」の伝説がある。またインドの秘密の諸学院では、光の諸世界と闇の諸世界とを結び付けるよう働いている神々について、蜘蛛の巣の象徴を用いていた。そのため、不可視の諸力の糸によって未発達の世界を保っていた宇宙の建設者らは、時には蜘蛛の神々として述べられ、それらの王は大いなる蜘蛛として表現されていた。


 メイソンリーでは蜂の巣を、共通善と真の幸福と豊かさのために働くことを思い起こさせるために用いられていた。蜂は知恵の象徴であった。この小さな虫が花から蜜を集めるように、人は日々の生活の経験から知恵を集めるためであった。蜂は女神ウェヌスに捧げられており、神秘家らによると、数百万年前に金星から地球に到来してきた生命の形態の1つだという。小麦やバナナも似たような起源があると言われる。これは、これら3つの生命の形態の起源が、現代科学でも掴めないでいる理由である。蜂が女王によって支配されている事は、この虫が聖なる女性原理の象徴である理由の1つである。


 インドではプラーナ神――宇宙の生命力の擬人化――は、蜂の円によって取り囲まれた姿で描かれる事もあった。花の蜜を集めるその重要性から、蜂は生成の力の象徴としても受け入れられていた。また、かつては蜂はフランス王の記章でもあった。フランスの王らは蜂が刺繍された衣を纏い、その玉座の覆いには、これらの虫が巨大な姿で飾られていた。


 蠅は動物らを不快にさせる習性から、悩ますものを象徴していた。カルデアの神バアル(Baal)は、バアル・ゼブル(Baal-Zebul)、宮殿に住む神ともよく呼ばれていた。そして、zebub、あるいはzababという言葉は蠅を意味するので、バアル・ゼブルはバアル・ゼブブ、あるいはベルゼブブとも呼ばれるようになり、これは大まかに翻訳すると、蠅の主を意味する*2。この蠅は神力の1つの形態と見做されていた。なぜなら、腐った物質を破壊し、よって健康を促進させる能力からである。おそらく、この蠅がゼブブと呼ばれる別の理由は、その特有のブンブンという音からであろう。インマンは、バアル・ゼブブ、これはユダヤ人が蠅の主として嘲ったが、その真の意味はブンブン言う、あるいは囁く主であろうと信じていた。


 インマンのこの内容は、エジプトの荒野で詠うメムノーンを思いおこさせる。これはイオリア琴を頭に乗せた巨大な像で、強い風が吹くとこの巨像は溜息を洩らしたりブンブンと唸ったりしたという。ユダヤ人はバアル・ゼブブをベルゼブブと名前を変えて、ダイモンを「デーモン」と解釈する事によって、悪魔らの君主とした。ナウデウスはウェルギリウスを妖術の告発から弁護する中で、ウェルギリウスが行ったとされる膨大な奇跡を完全に否定し、この詩人を全てにおいて無罪とするだけの充分な証拠を生み出した。そして、これらの奇妙な告発の中には、ウェルギリウスが青銅で蠅を造り、特別で神秘的な儀式をしてから、ナポリの町の門の1つに置いたら、それから8年以上も蠅が町に入らなくなったというのがあった。


フルール・ド・リス

サン ドニ大聖堂の床より


 蜂は不滅のシャルルマーニュ大帝により王権の象徴として用いられており、フルール・ド・リス、フランス王の百合の紋章は、実際には花ではなく、単に因習的な蜂である可能性が高い。古代ギリシアの伝説の中には、9柱の詩の女神ムーサイは、時には蜂の姿を取るというものもあった。


蠍のタリズマン

パラケルススの「魔術の主要な教え」より


 中世では蠍は護符のタリズマンやチャームの意匠としてよく用いられていた。このヒエログリフのクモ綱は、病を癒す力があると見做されていたからである。上記の蠍のタリズマンは、幾つかの金属によって、特定の惑星の配置の時期に造るよう指示されていた。またパラケルススは、性器に問題のある者は、これを身に着けるようにと助言している。


爬虫類


 蛇は爬虫類の王として選ばれていた。何らかの形での蛇崇拝は、地球のほとんど全ての場所に浸透していた。アメリカ インディアンには蛇塚があり、中南米には蛇の彫られた石があり、インドではコブラが、ギリシアではパイソンが、ドルイドらは聖なる蛇を崇め、北欧ではミッドガルドの蛇がおり、ビルマ、シャム、カンボジアにはナーガらが崇められ、ユダヤ人は青銅の蛇を崇め、オルペウスの神秘的な蛇、デルポイの神託の蛇は巫女ピューティアが座る三脚台の周りを這いまわり、この三脚台そのものも這う蛇の形をしていた。エジプトの諸神殿では聖なる蛇が置かれ、ファラオや神官らの額には蛇形記章ウラエウスが飾られていた――これら全ては、蛇への普遍的な崇拝の証である。古代密儀では蛇が絡みつく杖は医師の象徴であった。ヘルメースの蛇が絡む杖は、現在でも医療機関の記章として残っている。古代世界のほぼ全ての民は、蛇を知恵や救済の象徴として受け入れていた。キリスト教が蛇に対して持つ反感は、エデンの園の寓話についての乏しい理解が基になっている。


 蛇は知恵の原理であるのは事実である。なぜなら、蛇は人に自らを知れと誘うからである。それによる自己への知識が、デミウルゴス(偽りの創造主)、イェホヴァへの人の不服従の結果となった。神が天地創造の6日目に全ての生き物は良いと宣言したのに、どのようにエデンの園の蛇が悪しきものとなったのかについて、聖書の解説者の間から満足いく答えが出された事が無い。エデンの園の中央に育つ木は、霊的な火である。この霊的な火を用いる知識は、大いなる蛇の贈物であった。一般に考えられているのとは反対に、蛇は普遍的な救い主、自己への知識を与え、善悪を悟らせる事で、世界を贖う者の象徴、典型でもあった。これが事実でないとしたら、なぜモーセは毒蛇の牙から民を救うために、十字架(旗竿)の上に青銅の蛇を掲げたのか? この青銅の蛇は来るべき十字架に架けられる者への預言だったのではないか? 蛇が悪のみの存在であるならば、なぜキリストは弟子らに蛇のように賢くあれと教えたのか?


 蛇が悪であると世間に受け入れられている説には裏付けが無い。蛇は長い間、不死の象徴であった。また、転生、変容の象徴でもあった。なぜなら、蛇は定期的に皮を脱いで、いわば新しい体で再出現するからである。蛇は暴力によってでしか決して死なず、傷付けられないならば永遠に生きるという古代の迷信もあった。また蛇は自らを飲み込むという信念もあり、その結果、創造した宇宙を定期的に自らに飲み込む至高の創造主の象徴とも見做された。


 H.P.ブラヴァツキー夫人は「ヴェールを剥がれたイシス」の中で、蛇崇拝の起源についての以下の重要な文を記している。「我々の地球が卵型や球型となる前には、宇宙の塵あるいは火の霧による長い軌跡であり、蛇のように動き、のたうっていた。これは神の霊が混沌の中を動く(という聖書の文)を説明する。やがてその息が宇宙的な形質を宿し、それは自らの尾を口に飲む蛇の環状を取るようになった――この蛇は霊的と我々の物理的な世界での不死の象徴となったのである。」


 7つの頭のある蛇は、自らのエロヒム、あるいは7つの霊らを通じて発現し、これらの助けによって世界を確立した至高の神を表していた。巻かれた蛇は多神教徒からは、天体の諸惑星の動きや軌跡の象徴として使われてきた。また多くの古代密儀の学院では一般的であった、卵に巻き付く蛇の象徴は、一見しての太陽が地上の周りを回る動きと、地球の周囲を常に動くアストラル光、大いなる魔術の動者の帯の両方を表していた。


 電気は、その動きにより一般的に蛇で象徴されている。2つの柱の火花間隙での電気の流れは、蛇状の動きをしている。また大気圏を通じて放出される力は、大蛇と呼ばれる。普遍的な力の象徴である蛇は、善と悪の両方の記章でもあった。力は素早い創造にも破壊にも使えるからである。自らの尾を口に含む蛇は永遠性の象徴である。この姿勢では、蛇の体には始まりも終わりも無いからである。そしてこの蛇の頭と尾は、宇宙的な生命サーキットの肯定と否定の極を表していた。密儀の秘儀参入者はよく蛇に例えられ、その知恵は蛇の神的に啓明された力の類似と見做されていた。「翼ある蛇」(セラフィム?)は、天地創造時に大地で働いた霊の階層の1つに与えられた称号であるのには疑いが無い。


 また、世界の始まりにて、翼ある蛇らが地上を支配していた伝説がある。これらは世界の歴史文明の以前に存在した半神らである可能性が高い。蛇と太陽との象徴的な関係は、蛇はたとえ幾らかに切断したとしても、太陽が沈むまでは命が留まったという観察から見い出せる。ホピ族インディアンは、蛇は大地の霊と密接に対話していると見做していた。そのため、部族の定期的な蛇の踊りの儀式では、まず最初に多くの蛇を聖別し、それから部族の祈りとともに大地へと帰す事で、大地の霊への祈りを捧げていた。


 トカゲの素早い動きは、その翼あるサンダルにより無限の距離をほとんど瞬時に旅していた、神々の使者メルクリウスと関連づけられる事となった。この爬虫類と象徴主義との繋がりで、ある見過ごすべきではない点が、有名な学者、H.E.サンティー博士の「脳と脊柱の解剖学」の中で明白に示されている。「この爬虫類には前と後に2つの松果腺がある。後者は未発達のままであるが、前者は原始的な一つ目を形成している。ニュージーランドのムカシトカゲは、これは頭頂の孔を通じて突出し、不完全な目のレンズと網膜と、その長い軸の中で神経線維も形成している。」


 クロコダイルは古代エジプト人からはテューポーンと至高の神の両方の象徴と見做されていた。後者の理由は、クロコダイルは――プルタルコスが述べるのには――その目は薄い膜で覆われていて、水の下にいる間も見る事が出来るからである。古代エジプト人は、クロコダイルがその卵を置いた場所の近くまでナイル川は氾濫し、この爬虫類はナイル川が氾濫する数か月前から予知する神秘的な感覚を授けられていると述べている。クロコダイルには2種類あり、より巨大で獰猛な方は、破壊の悪魔テューポーンの性質と結び付けられていたので、エジプト人からは嫌われていた。テューポーンは天地の間にある裁きの間での、死者の裁きで有罪となった者が転落してくるのを飲み込もうと待ち構えているとされた。だが、より小さくおとなしいクロコダイルは、エジプト人からは善の化身として受け入れられ、良く扱われていた。この事について、アンソニー トッド トムソンはこう記している。「エジプト人はこれらの動物を日々養い、たまには温めたワインをその喉へと注いでいた。この動物の耳には金や宝石の輪で、その前足にはブレスレットで飾られていた。」


 中国人は亀を長寿の象徴としていた。シンガポールのある道観(道教寺院)では何体もの聖なる亀を保っており、それらの年齢は甲に彫る事で記録していた。アメリカ インディアンは亀の背中の甲の模様を、生と死の間の大いなる分割の象徴として用いていた。亀は知恵の象徴ともされたが、それは自らの手足を中に引っ込めて、防御するからである。また男根の象徴ともされたが、それはこの生き物の長寿との関連性からであろう。インド人は世界は4体の象に支えられていて、さらにこの象らも巨大な亀の上にあり、この亀は混沌の中を常に這い上っていると考えていた。


 エジプト人のスフィンクス、ギリシア人のケンタウロス、アッシリア人の人面牛には、多くの共通項がある。これら全ては人間と動物の部分の複合生物であり、密儀ではこれらは全て人の複合的な性質を意味し、さらに人の運命を変える天の諸惑星の階層を微細に表していた。この階層は現在では星座として知られる12の聖なる動物であり、この星の集団は、非人格的な霊的な波動の象徴である。人の子らを教えていたケンタウロスの賢者ケイロンは、人馬宮の星座の知性として象徴され、(天動説的に)太陽が双児宮を通過している間の、秘密の教義の管理人でもあった。5つ足があり、鷲の翼、人の頭を持つアッシリアの人面牛は、人の不可視の性質には、神の翼、人の頭、獣の体を持つ事を思いおこさせるためにある。同じ概念はスフィンクスによっても表されている。この密儀の力ある守護者は、神殿の門にてうずくまり、世俗の者が入るのを拒否する。よって、人とその神的な可能性の間に置かれたスフィンクスは、秘密の教義そのものを表すものともされた。子供のおとぎ話には、多くの象徴的な怪物の説明に満ちているが、それらのほとんど全ては、古代の神秘的な寓話を基にしたものである。


ウラエウス(蛇形記章)

キルヒャーの「エジプトのオイディプース」より


 脊柱は蛇によって象徴されており、エジプトの秘儀参入者の額の上に飾られた巻き付いた蛇は、生命の樹を蛇のように這い上っていった神的な火を表していた。 


宇宙卵を巡って戦う善と悪

モーリスの「古代インド史」より


 ペルシア神話の贖罪の神ミスラも、エジプトの大地の神セラピスも、その体の周囲を蛇が取り巻いている姿で象徴されていた。この注目すべき絵では、ペルシアの善と悪の諸原理――アフラマズダとアフリマン――が、大地の卵を巡って相手の牙から取ろうと争っている様を示している。


古今の秘密の教え 魚 虫 動物 爬虫類 鳥2
↑ 古今の秘密の教え


*1 セネカの「倫理書簡集」に出てくる言葉。
*2 原書ではJupiter`s flyとあるが、木星やユーピテル神と関連する言葉ではなく、ホールの勘違いだろう。