古今の秘密の教え 象徴主義における人体

ページ名:古今の秘密の教え 象徴主義における人体

象徴主義における人体


 全ての象徴のうち、最も古く、深遠で、普遍的なものは、人体である。古代のギリシア人、ペルシア人、エジプト人、インド人は、人の3つの性質の分析が、倫理、宗教的な修業の不可欠な部分と見做していた。あらゆる国の密儀では、宇宙の諸法、エレメンツ、諸力は人体の構造の中に要約されており、人の外に存在する万物は、人の中にもその類似を持つと教えていた。宇宙の測りがたい広大さと、理解不能の深遠さは、死すべき定めの人の推測を超えている。神々ですら、その源である到達不能の栄光の部分のみを知るであろう。神的な熱狂に一時的に浸される事により、人はわずかな時間だけ、その自らの人格性の限界を超え、全ての被造物が浴びている天の光輝を垣間見るであろう。だが、この最大限の啓明の瞬間ですら、人は天の活動の多形の表現の完全な像を、自らの理性魂の形質へと植え付ける事は出来ないのである。


 理性による理解を超えたものに対して、知的に対抗しようとする無益さを悟る事で、古の哲学者らは、理解不能な神から人自身へと注意を向け、その限られた知識においても、彼らは外的な諸圏の全ての神秘が人体内にもあるのを見い出した。その実践の自然な結果、神を大いなる人と見做し、結果として人は小さな神であるという秘密の神学体系が編み出された。この類似を続けると、宇宙は人であり、結果として人はミニチュアの宇宙と見做された。大きな方の宇宙はマクロコスム――大世界あるいは体と呼ばれ、その機能を動かしている神の命あるいは霊的な存在は、マクロプロソプスと呼ばれた。人体、個の人間宇宙は、ミクロコスムと呼ばれ、その機能を動かしている神の命あるいは霊的存在は、ミクロプロソプスと呼ばれた。多神教の密儀では新参者ニオファイトに、マクロコスムとミクロコスム、言い方を変えれば、神と人との間に存在する真の関係を主に教育していた。小宇宙の人の器官と機能と、大宇宙の人のものとの類似の鍵は、古の秘儀参入者らの最も価値のある知識であった。


 「ヴェールを剥がれたイシス」の中で、H.P.ブラヴァツキー夫人は、多神教での人の概念について、以下の様に要約している。「人は小宇宙――大宇宙の中にあるミクロコスムである。胎児のように、人はその全ての3つの霊により、大宇宙のマトリックスの中で支えられている。その地上の肉体は、母なる大地に常に共感するものの、そのアストラルの魂は天のアニマ ムンディ(世界魂)と共振して生きる。人はこの中にあり、これは人の中にある。世界に浸透するこのエレメンツは全ての空間を満たし、空間そのものも限界無く無限であり、その第3の霊、神性として、それは至高原因――世界の霊の光からの直接的な微細な光線、数えきれない放出以外の何物でも無いからである。これは、有機、無機の自然――霊と物質の三位一体であり、プロクロスはこれについて「第1のモナドは永遠の神であり、第2は永遠であり、第3は宇宙のパラダイム、あるいはパターンである」と述べている。この3つは理解可能な3つ組を形成する。」


 偶像崇拝が宗教に入り込む遥か前から、古の神官らは人の像を神殿の聖所へと置いていた。人の姿は神力の全ての複雑な発現を象徴していた。よって古の神官らは、人はその手引書であり、人の学習を通じて、それらが部分である天の構造のより偉大で深遠な神秘を理解できると見做していた。古の祭壇の前に置かれていたこの神秘的な像が、人体模型の性質で造られ、一部の神秘の学院にあった象徴的な手のように、ヒエログリフを彫られたり描かれていたと想像するのも有り得ない事では無い。この像は中を開くことができ、内部の臓器、骨、筋肉、神経、その他の部分の相対的な場所を示していた。何世紀にもわたる研究の結果、この人体模型は難解なヒエログリフ、象徴的な図形に満ちるようになった。その全ての部分には、秘密の意味合いがあった。その寸法は、基本的なスタンダートを造り、それによって宇宙の全ての部分を計測するのも可能となった。それは、賢者や高祭司らが持つ全ての知識の、栄光ある複合的な象徴であった。


 だが、偶像崇拝の時代に入ると、この神秘はそれにより腐敗していった。諸秘密は失われ、祭壇の前に立つ、この神秘的な人体像の意味合いについて、誰も知らなくなった。これは宇宙の力の聖なる栄光ある象徴であるとのみ覚えられ、最終的には、これを神――人をその像として造った存在として見られるようになった。この人体模型が造られた元の意図の知識が失われる事で、神官らはこの彫像を崇拝するようになった。やがてはそれらの霊的な理解の欠如は、神殿を廃墟にし、彫像はその意味合いを忘れた文明とともに崩れていった。


 古の神学者が人は実際には神の像として形作られたという想定から進んで、古代の秘儀参入者らは、人体という基盤の上に、神学の膨大な構造を建てた。今日の宗教界は、生物学がそれらの教義の根源である事に、ほとんど完全に無知である。多くの宗教家が神からの直接的な啓示であると信じている戒律や律法の多くが、実際には複雑な人の構造の絶え間ない探究と、そこから明かされた無限の驚異から導かれたものである。


 世界のほとんど全ての聖典には、解剖学の類似を見い出せるが、これは創造神話において最も明らかである。発生学と産科学に熟達した者は、アダムとイヴとエデンの園、エレウシス密儀の9段階、インド神話のヴィシュヌ神の転生者らの寓話の基盤を認識するのは困難ではないだろう。宇宙卵の物語、北欧神話のギンヌンガガプ(天地創造時に、世界の種が植えられた闇の裂け目)、魚を父性の創造力の象徴として用いる事全ては、これらの神学的な推察の真の起源を示している。古代の哲学者らは、人自身が生命の謎の鍵である事に気づいていた。人は神の計画の生ける像だからである。そして未来の世代は、古代の格言「人類の適切な学習は人自身である」の荘厳な意味について、より完全に理解するであろう。


 神と人の両方とも、不可視の上位の部分と可視の下位の部分の2つの構造から成っている。また両者の中には、可視と不可視の性質が出会う中間の圏がある。神の霊的な性質が、その客観的な宇宙の形態――実際には結晶化したイデア――を制御しているように、人の霊的な性質も、その可視の肉体の性質の不可視の原因にして制御する力である。よって、神がその客観的な宇宙を産むように、人の霊がその肉体に対して同じ関係を産むのも明らかである。密儀は、霊あるいは命はその形に先立つものであるのを教える。霊が形に先立つので、形は霊の領域に含まれる。また、人の霊はその体の中にあるというのも人気のある説、信念である。だが、哲学と神学の様々な結論によれば、この信念は間違っている。霊は最初にその空間を取り巻き、それからその内側に発現があるからである。哲学的に述べるならば、形、霊の部分である存在は、霊の内側にある。だが、霊は形の総合以上のものである。人の物理的な性質は、霊の総合の内側にあるように、恒星系全体を含めた普遍的な自然も、神の全てに浸透するエッセンス――普遍的な霊の内側にある。


人間の心臓にあるテトラグラマトン

ヤコブ ベーメのLibri Apologetici(擁護の書)より


 神の4文字の御名テトラグラマトンは、ここでは逆向きの人間の心臓の中にテトラクティス(1、 2、 3、 4)の形で配置されている。その下では、יהוה (イェホヴァ)の御名は、中央にש(シン)の文字を加える事で、יהשוה(イェホシュア)へと変容したのを示される。この絵は、全体として人の心の中にある、神の御座とその階層を表している。「擁護の書」の中でヤコブ ベーメは、この象徴についてこのように述べている。「我々人の中には、神へ向けられた共通の1冊の書を持っている。各自の中には、神の畏れ多い御名を持つ。それらの文字は神の愛の炎であり、その心から放たれ、イエスの畏れ多い御名が我らに明かしたものである。あなたの心と霊の中のこれらの文字を読むならば、あなたには充分な書を持つことになろう。神の子らの書いた全ての書は、この1冊の書へとあなたを向ける。この中に、全ての知恵の宝があるからである。この書はあなたの中のキリストである。」


 古代の知恵の別の概念によれば、全ての体――霊的な体にせよ、肉体にせよ――には3つのセンター(チャクラ)があり、古代ギリシア人はそれらを上位のセンター、中位のセンター、下位のセンターと呼んでいた。一見しての曖昧さはここで見い出せよう。これらの充分に抽象的な真理を図説したり象徴したりするのは不可能である。一つの様相を図説したものは、他の様相と矛盾するだろうからだ。上にあるものは、一般的に威厳と力で上位であると考えられているが、実際には中央のものが上や下の両者よりも上位で先立つものである。そのため、第1のもの――これは上にあるものと考えられている――は、実際には中央であり、その両側(上と下にあると言われるもの)は、実際には下にあると言わなくてはなるまい。この点はさらに、読者が「上」とは、源からの近接の度合いであり、「下」とは源から離れた度合いで、源は実際には「中央」に位置し、そこから円周へと向けての様々な点の総体的な距離であると見做すならば、より単純化できる。哲学と神学では、「上がる」とは中央へと向かう事で、「下がる」とは円周へと向かう事である。中央は霊であり、円周は物質である。それゆえ、「上がる」とは霊性の上昇に伴っての霊へと向かう事であり、「下がる」とは物質化の上昇に伴っての物質へと向かう事である。この概念は、円錐で例えられる。この頂点は真上から見たら、円錐の底により形成された円周の正確な中心の点と見做される。


 これらの3つの普遍的なセンター――上にあるもの、下にあるもの、これらを統合させるリンク――は、3つの太陽、あるいは1つの太陽の中の3つの様相――光輝の諸センターを表している。また、これらは人体の中の3つの主要なセンターでもあり、それは物理宇宙にあるものと似て、デミウルゴスの創り出したものである。トーマス テイラーは、「これらの(太陽の)第1のものは、太陽の泉の中で存在する時に見た光である。第2のものは、太陽からすぐに発された光である。第3のものは、この光により他の自然と交流する光輝である」と述べている。


 上位の(あるいは霊的な)センターは、他の2つの中心にあるものなので、その人体での類似は心臓――人体の中で最も霊的、神秘的な器官――である。第2のセンター(あるいは上位と低位の諸世界を繋ぐリンク)は、肉体の中での最も威厳ある位置に高められた――脳である。第3の(あるいは低位の)センターは、肉体の中でも最低の威厳の場所と見做されつつも、肉体的には最も重要なもの――生殖系である。よって、心臓は生命の象徴的な源であり、脳は理性的な知性を通じてのそのリンクであり、生命と形は統合され、生殖系――あるいは低位のセンター――は、物理的なオーガニズムが生成される力の源である。個の理想や大志は、これら3つの主要な力のセンターに、その表現の範囲と活動が大いに拠っている。物質主義者には低位のセンターが最も強く、知的な者には高位のセンターが、そして秘儀参入者には中央のセンターが――2つの両側へと霊的な輝きの流れを浴びせる事で――心と肉体の両方全てを制御する。


 光が命の証を生み出すように――これは、その源である――、精神は霊の証を生み出し、その低位の界での働きでは、知性の証を生み出す。よって、精神は心臓の証を生み出し、さらに生殖系は精神の証を生み出す。結果として、霊的な性質は最も一般的には心臓により象徴され、知的な力は開かれた目であり、これは松果体やサイクロプスの目で象徴され、さらに多神教密儀での2つの顔を持つヤーヌス神でも表される。そして生殖系は、花や杖、杯、手のひらにより象徴される。


 全ての密儀は、心臓を霊的意識のセンターとして認めていたが、彼らはしばしば意図的にこの概念を無視して、心臓をその権教的な意味合いで、感情の性質の象徴として用いていた。この場合、生殖のセンターは肉体の、心臓のセンターは感情体の、脳のセンターはメンタル体として表していた。そして脳は至高の圏を表されていたが、秘儀参入者は弟子らに対して、実際には脳は心臓の最奥にある霊的な炎の代理であると教えていた。秘教主義の学徒は、古代人はこれらの密儀の真の解釈を隠すために、様々な目くらましを用いていた事を、遥か以前から発見していた。心臓を脳で置き換えるのは、これらの目くらましの1つであった。


 古代密儀の3段階は、幾らかの例外を除いて、人体と宇宙の体の3つの主要なセンターを表していた部屋で行われていた。可能ならば、神殿自身も人体の形で建てられていた。志望者は足の間から入り、脳に関連する場所で至高の段階を明かされた。よって第1の段階は物質の密儀であり、その象徴は生殖系であった。それにより、様々な具体的な思考を通じて志望者は上昇する。第2の段階は、心臓に関連する部屋で与えられたが、これはメンタルのリンクとなる中間の力を表していた。ここでは志望者は抽象的な思考の密儀を伝授され、精神が到達可能な高みへと引き上げられた。それから志望者は脳と関連する第3の部屋へと入り、ここは神殿でも至高の場所であったが、実際には至高の威厳のある心臓の類似であった。この脳の部屋で心臓の密儀が与えられた。ここで志望者は、「人はその心で考えるゆえに人である」の真の意味合いを初めて理解した。脳の中に7つの心臓があるように、心臓の中にも7つの脳がある。だが、これは超物理学の内容であり、現在ではごく僅かしか述べられない。


 プロクロスは、この主題について「プラトン神学について」の第1の書でこう述べている。「確かに『アルキビアデス』の書の中で、自らの中に入った魂は全ての他のものと神自身を見ると、ソクラテスは正しく観察していた。この魂自身の結合で、さらに全ての命の中心で、多くのものの他にも、魂が含む無数の諸力全てがあり、その中で魂は至高の監視塔を上昇する。そして密儀で最も聖なると言われる場所で、神秘家の参入者はまず最初に、多くの形を持つ類と出会う。これらは神々の前で飛び跳ねているが、神殿の中に入ると不動であり、神秘の儀礼を守護している。ここで参入者はその胸(心臓)に神の啓明を正当に受け取り、その衣を脱ぐが、これは神の性質に自ら加わるのを意味すると言われる。ここでは、全体の思弁も得るように私には思える。魂が自らの後にあるものを見る時には、存在の像、影を見るが、魂が自らを変えるなら、自らのエッセンス、理性を進歩させる。そして最初は無論、参入者は自らのみを見るが、より深く自らの知識を追求するならば、自らの中に知性と存在の序列の両方を見い出す。だがさらに深く内側へと、魂の内陣へと進むならば、自らの目を閉じても(低位の精神の助けを借りずとも)神々の類、諸存在の結合を知覚するであろう。万物は我々の内に物理的に存在し、それにより我々は自らが含む全体の諸力と像を刺激する事で、それら万物を自然と知る能力があるからである。」


イエス キリスト、聖母マリア、12使徒らの像で飾られた手

古印刷書より。カール オスカー ボーグ氏の寄贈による


 この4本の指のそれぞれの指骨には、自らの適切な象徴を持つ使徒らが描かれているように見える。殉教をした使徒らは、自らの死の原因となった道具の象徴も持っている。よって、聖アンドレは十字架の象徴を持ち、聖トマスは投げ槍あるいは建築家の直角定規を、聖ヤコブはレス、棍棒を、聖フィリポは十字架を、聖バルトロマイは大きなナイフか曲刀を、聖マタイは剣か槍(時には袋)を、熱心党の聖シモンは棍棒かノコギリを、聖マティアスは斧を、聖ユダはハルバートを持つ。殉教の象徴を持たない使徒らもおり、聖ペトロは金と銀の2つの交差する鍵を持ち、ゼベタイの子の聖ヤコブは巡礼者の杖とホタテ貝の殻を持ち、聖ヨハネは毒蛇から取った猛毒を入れた杯を持つ(「キリスト教象徴主義の手引書」を参照)。イエス キリストの姿は親指の第2指骨にあり、創造の三位一体の第1のペルソナに割り当てられる多神教の象徴体系には従っていない。この場合には、父なる神は第2指骨に、子なる神は第1指骨に、聖霊なる神は親指の根元に置かれていただろう。また、この哲学的配置によれば、乙女マリアもまた月に捧げられた親指の根元に置かれるであろう。


 古代の秘儀参入者らは弟子らに、神像は現実ではなく、単に主観的な概念の客観化にすぎないと警告をしていた。この神々の像は、崇拝の対象としてではなく、不可視の諸力、諸原理の象徴あるいは注意喚起にすぎなかった。同じように、人体は自らではなく、神殿が神の家であるように、自らの家とのみ見做すべきである。人体の粗雑で悪用した状態は、神の原理の墓あるいは牢獄である。開かれ再生した状態では、創造的な諸力により形作られる神の聖なる家である。「個人性は存在の性質から糸により吊るされている」と、ある秘密の書で宣言している。人は本質的には永遠にして不滅の原理であり、その体のみが生と死のサイクルを繰り返している。不死が現実であり、死すべき存在は非現実である。地上の生の各期間で、現実は非現実の中に留まる。そこからは死によって一時的に、啓明によって永久に解放される。


 一般的に多神教と見做されているが、古代のペイガンはその評判を1体以上の神を崇拝している事で得たのではなく、この神の属性を人格化した事によってである。それによって、全体として発現した1体の神の部分として個々に発現した神々のパンテオンを創り出した。そのため、古代宗教の様々なパンテオンは実際には1体の神の様々な属性を区分化し人格化したものである。この面で、これらはヘブライのカバラの生命の樹の階層と関連づけられる。結果として古代の全ての神々と女神らは、人体にそれらの類似を持った。また、エレメンツ、惑星、星座も、これらの天の適切な乗り物として割り当てられた。体の4つのセンターは、4大エレメンツと関連づけられ、7つの器官は7大惑星と、12の主要な部分は黄道12宮と、人の神性の不可視の部分は、様々な超越的な神々と、一方で隠された神は骨の中の髄を通じて発現するとされた。


 多くの人間には、これらが実際の宇宙であるのに気付くのは難しい。人の肉体は見える自然であり、その構造を通じて、数えきれない命の進化の波が、その隠れた潜在性を広げている。また、人の肉体は進化する鉱物、植物、動物界だけではなく、不可視の霊的な命の未知の部分もある。細胞が人の構造の中の極微の単位であるように、人は宇宙の構造の中の極微の単位である。これらの関連の知識と評価を基にした神学は、その深遠な真実と同様に公正である。


 人の肉体には2本の足、2本の腕、頭の、5つの違った重要な先端がある。それらのうち、最後のものが残りの4つを支配する――そのため、5の数は人の象徴と見做されてきた。ピラミッドの底辺の4隅は、それぞれ2本の腕と足を象徴し、その頂点は頭であり、4つの非理性の隅を制御する理性の力を示している。これら腕と足は、4大エレメンツを表すのにも用いられてきた。2本の足は地と水を、2本の腕は火と風をである。そして脳は、他の4つのエレメントを制御し統一する、聖なる第5エレメント――エーテル――の象徴であった。両足を共に置いて、両腕を広げたならば、人は頭や上肢に理性の知を持つ十字を象徴した。


 手や足の指にも、特別な意味合いがあった。足の指は物理的な法の十戒を、手の指は霊的な法の十戒を表している。それぞれの手の4本の指は4大エレメンツを表し、各指の3つの指骨はそのエレメントの3分割を表している。そのため、それぞれの手には12の指の部分を持つが、これは黄道12宮と類似しており、また親指の2つの指骨と基底の部分は3つの神性を意味していた。第1の指骨は創造の相を、第2は維持の相を、基底は生成と破壊の相をである。そして両手を共に合わせたならば、その結果は(ヨハネの黙示録に出てくる)24人の長老らと、天地創造の6日間となった。


 象徴主義では、人体は垂直に半分に分けられ、その右側は光と、左側は闇と見做されていた。光と闇の真の意味合いについて精通していない者によって、光の半身は霊的と、闇の半身は物質的と名付けられた。光は客観性の、闇は主観性の象徴である。光は命の発現であり、それゆえ命の後にあるものである。そして光に先立つものは闇であり、光は一時的に存在するが、闇は永遠に存在する。命が光に先立つように、その唯一の象徴は闇であり、闇は抽象的、未分化な存在の真の性質を永遠に隠すヴェールと見做されていた。


 古代には人は右腕(で持つ武器)で戦い、左腕で持つ盾で人体の大切な中央の部分を守っていた。そのため、人体の右半身は攻撃的、左半身は防御的とも見做された。またこの理由から、人体の右側は男性的、左側は女性的とも見做された。何人かの権威者らの意見では、現在右利きが多いのは、防御のために左腕を保持する風習の副産物であるという。さらに、存在の源は光に先立つ原初の闇の中にあったように、人の霊的な性質も、心臓が左側にあるように、自らの存在の闇の部分にある。


 また闇を悪と同一視する間違った行いから、幾らかの奇妙な誤解が起こったが、その中の1つは、古代の幾らかの国々では、右手を建設的な働きで用いて、左手を不浄で神々の目からは適していない目的にのみ用いていた。この同じ理由から、黒魔術はしばしば左手の道と呼ばれ、天は右に、地獄は左にあると言われた。さらに何人かの哲学者らは、書法にも2つあると宣言した。1つは左から右へと書くもので、権教的な方法と見做され、もう1つは右から左と書くもので、秘教的な方法と見做された。この権教的な方法では、(左の)心臓から離れるように書き、一方で秘教的な方法では――古代ヘブライ語のように――心臓へと向かって書くためである。


 秘密の教義では、人体の全ての部分は脳の典型であり、その脳の全ては心臓の典型であると宣言する。この象徴主義では、人の頭は知性と自己認識を表すものとしてよく用いられる。また人体の全体は、地球の進化での知られている最も完全な生産物であるので、神々――至高の明白な状態を表すのに用いられてきた。芸術家らは、神を描くために、不可知の雲から出てくる手のみを示していた。この雲は、人間の限界により人から隠された不可知の神性を意味する。そして手は、低位の感覚によって認識可能な神の唯一の部分を表している。


 顔は自然な3つ組で構成されている。目は理解の霊力を、鼻は保持し活性化する力を、口と耳は低位の世界のデミウルゴスの物質的な力を表している。第1の圏は永遠に存在して創造的であり、第2の圏は創造の息に加わっており、第3の圏は創造の世界である。神の御言葉により、物理世界は創られ、7つの創造の諸力、あるいは母音――御言葉が語る事で、これらは存在するようになった――は、7柱のエロヒム、神々となり、それらの力と統治により、低位の世界は形作られた。時には神は目、耳、鼻、口によって象徴される。第1の目により神の目覚めが、第2の耳により神の興味が、第3の鼻により神の生命力が、第4の口により神の命令が表された。


内なる人の3つの命

ギヒテルの「Theosophie Practica(実践的神智学)」より


 ヨハン ゲオルグ ギヒテルは、深遠な哲学者にして神秘家、ヤコブ ベーメの最も優れた弟子で、上記の図は献身的な友人や弟子らの小さなサークルの中で秘密裏に伝えられていた。ギヒテルは師ベーメの書を再出版し、それらに幾多もの興味深い図を加えていた。ギヒテルによると、上記の図は神の(あるいは内なる)人の解剖学を表し、その人間としての状態、内なる状態、神的な状態を描いている。ウィリアム ロウ版のベーメの書にある図は、明らかにギヒテルの図を基にしており、その全ての本質的な部分で従っている。ギヒテルは自らの図への詳細な説明を与えておらず、原書のドイツ語からここで翻訳したこれらの文字は、図の解釈への唯一の手がかりとなっている。


 上記の両端の図は、同じ図の前面と背面を表しており、第3の図と名付けられている。これらには「人全体、その魂、霊、肉体の3つの本質的な部分が再生された状態を示すために記された」と書かれている。左から3番目の図は、第2の図と呼ばれ、「人の老いて、堕落し、腐敗し、その再生への何ら敬意も考慮も無い状態」と書かれている。だが、この3番目の図は、ウィリアム ロウの第1の図と関連していない。この第1の図は、アダムの没落の前の人類の状態を表しているようであるが、ギヒテルの図では、それを第3の図、人類の再生された状態の図に置いている。ウィリアム ロウはこれらの図とその象徴の目的について、このように記している。「これらの3つの図は、人の3つの違った状態を表すために書かれている。第1のものは、その没落の前の、純粋で権威と栄光のあった状態である。第2は没落後の腐敗と破滅の状態である。第3は没落から起き上がる、あるいは再生の道にあり、聖別され、その最後の完成への傾向がある。」東洋哲学の学徒は、この図にある象徴が、インドのチャクラ、霊的な力の諸センター、行者の内なる神性の状態を明かす、様々な動きと様相である事に即座に気づくであろう。


 古代人は霊性が人を義にも理性的にもせずに、逆に義と理性が人を霊的にすると信じていた。密儀は霊的な啓明は、人の低位の性質の清浄さと効率性を特定の状態にまで引き上げる事によってのみ得られると教えていた。そのため密儀では、人の性質を特定の規則に従って高める目的のために立てられており、この規則に忠実に従うならば、人の意識は自らの存在と、その真の目的を認識できる点まで高められる。人の様々な構成を、最も速やかで完全に霊的な啓明の点にまで再生させる方法の知識は、古代の秘密、秘教の教義の中心を形成していた。一見しての肉体的な特定の器官や諸センターは、実際には霊的な諸センターのヴェールであった。これらが何であるか、どのようにこれらを広げられるかは、再生されていない者には決して明かされなかった。哲学者らは、この体系の完全な働きをひとたび理解したならば、人は自らが生み出した結果を操作し制御する資格も無いままに、目的を達成しようとするだろうと気づいていたからである。この理由から、長い前行が課せられて、それによってこの神々となる方法の知識は、価値ある者のみが保有するようになったのである。


 だが、やがてはこの知識は失われ、神話と伝承の中へと隠された。それらは俗人には意味が無かったが、この哲学の基盤である個人の再生の理論に熟達した者には自明であった。キリスト教そのものが、この例として挙げられよう。新約聖書全体は、実際には人間の再生の秘密のプロセスを巧みに隠したものである。これまで長く歴史的人物と見做されてきた聖書の人物らは、実際には人が無知と死の束縛から意識的に解放しようとする時に人体に起きる特定のプロセスの擬人化であった。


 また神々が身に纏っている衣服や装飾品も鍵であった。密儀では、衣服は形と同義語と見做されていたからである。オーガニズムの霊性、物質性の段階は、身に纏う衣服の質、美、価値により表されていた。人の肉体は、その霊的な性質が纏う衣と見做された。結果として、その超越的な力を開発するほど、その見た目は栄光あるものとなった。勿論、衣服は元は防御よりも装飾のために身に纏っており、そのような実践は今でも未開の部族の間で行われている。密儀では、人の唯一の不変の装飾品は、その美徳と価値ある性質であると教える。人は自らの達成を身に纏い、その達成物で装飾される。よって、白い衣は純粋の、赤い衣は自己犠牲と愛を、青い衣は利他主義と統合性を現していた。肉体は霊の衣と言われているので、精神や倫理の醜さは、肉体の醜さとして描かれていた。


 人体は世界を測る規則と見做されていたので、哲学者らは万物は人体の構造――その形のみならず――と類似すると宣言した。例えば古代ギリシア人は、デルポイが大地の臍であると宣言した。物理的な地球は、巨大な人が丸まった姿と見做したからである。キリスト教での大地は動かない存在であるという信念と対照的に、古代の多神教徒らは地球だけではなく、他の全ての天の諸惑星も、知性を持つ生き物と見做していた。それだけではなく、自然の様々な界も、個の存在と見ていた。例えば動物界は、この界にある全ての生き物を複合した存在として見られた。この原型の動物は、全ての動物の性質が植えられたモザイクであり、人の種の全てが原型のアダムの構造の中に存在するように、動物界全てがその性質の中に存在した。


 同様に、様々な種族、民族、部族、宗教、国家、共同体、都市も、多くの個々で構成された、複合した存在として見られた。あらゆる共同体は、そこに住む個々の属性の総合である個人性を持っていた。またあらゆる宗教も、膨大な個々の崇拝者の集団、位階により全体の体が造られた個であった。あらゆる宗教組織はその肉体を表し、その個々のメンバーはその生体を造る細胞であった。そのため、宗教、種族、共同体は――その個の人に似て――シェイクスピアが述べる「7つの段階」を通過すると見做された。人の命は基盤であり、それによって、万物の永続性は測られたからである。


 秘密の教義によれば、人は自らの乗り物である肉体を徐々に洗練させ、感性を増大させる事により、徐々にその物質の限界を乗り越え、その死すべき定めの鎖から解き放たれるとされた。人類がその物理的な進化を完成させた時、その物質性の殻は取り残され、他の命の波により、それらの自らの解放の手段として用いられるであろう。人の進化の成長の傾向は、自らの本質的な自己へと常に向かっている。そのため、現在のような最も物質的な時代では、人は自己から最も遠い距離にある。密儀の教えによれば、人の全ての霊的な性質は、物質に受肉してはいない。人の霊は下向きの正三角形で幾何学的に示される。この低位の点は、霊的な性質の3分の1を占めるが、他の2つの点と比較するとその威厳は3分の1よりも遥かに低く、短い間、物質的存在の幻影に落ちているからである。だが物質の覆いを決して纏わないものは、ヘルメースのアントロポス――超人――であり、ギリシア人がサイクロプスや守護神ダイモンと、ヤコブ ベーメが天使と、エマーソンがオーバーソウル、「この統合、このオーバーソウルの中で、あらゆる人間の特定の存在は含まれ、他の全てと共に一つとなる」と見做したものである。


 誕生の時に、人の神的な性質の3分の1のみが、一時的にその不死性から分離され、物理的な誕生と存在の夢の中を漂い、物理的なエレメンツで構成された乗り物(肉体)を、その天の情熱とともに動かし、物質の圏に加わり、縛られる。そして死において、この受肉した部分は物理的存在の夢から覚めて、再びその永遠の状態へと再統合される。この霊の物質への定期的な降下は、「生と死の輪」と呼ばれ、これらに含まれた諸原理は、哲学者らによって輪廻説の主題の下で扱われる。密儀の秘儀参入や、作業神学として知られる特定のプロセスにより、この誕生と死の法則を超越し、物理的な存在の間に眠った状態にある霊の部分は、死――不可避の秘儀伝授者――の介入無しにも目覚め、アントロポス、自らを隠す形質と再統合する。これにより即座に、密儀の主な目的、達成に至る。人は死という肉体の崩壊を経験する事なく、自らの神の源に目覚め、意識的に再統合されるのである。


人の中の神の樹(背面)

ロウ版のヤコブ ベーメの図より


 (次に述べる)再生された状態の中の、その神の諸原理を描いた、人の前面からの図のように、この同じ人物の背面図では低位の状態、あるいは太陽の「夜」の状態を描いている。アストラルの精神の圏から、垂直線が昇り、理性の圏を通って、感覚の圏へと入っている。アストラルの精神の圏と感覚の圏は星々で満たされており、これらの性質の夜の状態を意味している。中央の理性の圏により、上下の圏は和解されており、死すべき定めの人の理性が、霊的な人の啓明された理解と関連しているのを示している。


人の中の神の樹(前面)

ロウ版のヤコブ ベーメの図より


 神性の鏡である心臓から生える樹が、理解の圏を通って、その葉が感覚の圏で広がっている。この樹の根と幹は、人の神の性質を表しており、その霊性とも呼べよう。樹の枝は神の構造から分離された部分で、個人性と関連づけられよう。そして葉は――その短命な性質から――人格性と関連づけられ、その神的な源の永続性とは何ら関わっていない。


古今の秘密の教え ヒラム伝説
↑ 古今の秘密の教え