バヒールの書 4-2

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161. では、(出エジプト記 第15章27節の)「こうして彼らはエリムに着いた。そこには水の泉12と、なつめやしの木70本があった。その所で彼らは水のほとりに宿営した」の節の意味合いは何か?
 この70本のなつめやしの木の何が特別なのか? 小さな場所でこれらは千は増えられよう。
 だが、彼ら(イスラエル人)はこれらと対照の価値あるものである。彼らはこのナツメヤシと繋がっている。
 また(出エジプト記 第15章23節には)「彼らはメラに着いたが、メラの水は苦くて(マラー)飲むことができなかった。それで、その所の名はメラと呼ばれた」と書かれている。これは北風が彼らを混乱させたのを教える。よって、(出エジプト記 第15章25節に)「モーセは主に叫んだ。主は彼に一本の木を示されたので、それを水に投げ入れると、水は甘くなった」と書かれている。
 神は即座にその手をサタンに対して置き、消し去った。よって(続く文で)「その所で主は民のために定めと掟を立てられ」と書かれている。
 これは、この時にサタンは民と繋がっており、この世界から滅ぼそうとしていたのを教える。よって(出エジプト記 第15章24節に)「ときに、民はモーセにつぶやいて言った、「わたしたちは何を飲むのですか」」と書かれている。サタンはなおもモーセを非難し、やがてはモーセは神に叫び、神は応えられた。
 では、「主は彼に一本の木を示されたので」とは何を意味するのか? これは、生命の樹が水の傍にあったのを教える。サタンはイスラエルを滅ぼし、天の父に対しての罪を起こすべく、ここへ来て取り除こうとしたのだ。
 サタンは民に「お前らは荒野へと向かうのか? 今ですら、苦い水しかないのに。もっともこれは何らかのために使える利益はある。だが、お前らが荒野へと向かうと、その顔と手を洗いたいと望む水すらも見つけられないだろう」と言った。
 そこで民はモーセのもとへと向かい、これらの言葉を繰り返したが、モーセはそれを留めた。そしてサタンは民を負かす事が出来ないのを見ると、イスラエルとモーセを負かすべく自らを強めた。
 民はモーセを非難し、「ここですら、水が足りないのに、荒野で何を飲めようか?」と言った。
 サタンは人々に罪を犯させるべく、この状況を拵えていた。そしてモーセがサタンを見るとすぐに、「モーセは主に叫んだ。主は彼に一本の木を示された」。これはサタンが取り除いていた生命の樹である。それから主は「それを水に投げ入れると、水は甘くなった」。
 祝福された聖なる御方はサタンに「定めと掟を立てられ」、ここでイスラエルの民に「示された」。祝福された聖なる御方はイスラエルに(出エジプト記 第15章26節で)「あなたが、もしあなたの神、主の声に良く聞き従い、その目に正しいと見られることを行い、その戒めに耳を傾け、すべての定めを守るならば、私はかつてエジプトびとに下した病を一つもあなたに下さないであろう。私は主であって、あなたを癒す者である」と述べた。


162. これは何に似ているか? ある王が美しい娘を持っており、他の者らは彼女を望んだ。王はそれを知ったが、娘を悪の道へともたらす者らと戦えなかった。そのため、王は自らの家へと向かい、娘に警告した。「我が娘よ、これらの敵らの言葉に耳を貸すな。そうすれば、こいつらはお前を打ち負かせないだろう。この家から去らずに、家でお前の全ての働きをなすのだ。僅かといえども怠惰に座ったりはするな。そうすれば、これらはお前を見て、傷つけたりは出来ないだろう」
 これらは、民をあらゆる良き道から逸らせ、あらゆる悪しき道を選ぶようにする属性を持つ。これらが、良き道を進む者を見たら、それを憎む。
 この属性とは何か? それはサタンである。
 これは、祝福された聖なる御方は、悪と呼ばれる属性を持つのを教える。それは(エレミヤ書 第1章14節で)「災が北から起って、この地に住むすべての者の上に臨む」と書かれているように、祝福された聖なる御方の北の面である。この地に住むすべての者の上に臨むあらゆる悪は北から起こるのである。


163. この属性とは何か?
 それは手の形である。
 それには多くの御使いを持ち、それら全ての名前は悪の中の悪である。その一部は大いなるもので、一部は小さなものであるが、それら全てはこの世界に罪をもたらす。
 これは混沌は北へ向いているからである。混沌(トフ)は、悪以外の何物でも無い。それは世界を惑わし(トハ)、民に罪を犯させる。
 人の中にあるあらゆる悪の衝動(イェゼル ハ=ラ)はここから来ている。
 では、何故にこれは左(北)に置かれているのか? なぜなら、これは北以外には、この世界のどこにも、何の権威も無いからである。
 これは北を除いては、いずれにもなじまず、北以外には望まない。これが南に留まり、南の道を学ぶまでは、他者をどのように道を逸らせられようか? これが道を学ぶまで数日南に留まったとしたら、人々に罪を犯させられないだろう。そのため、常にこれは北に、左にいるのである。
 これが(創世記 第8章21節の)「人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである」の節の意味合いである。これは幼い時からの悪であり、左以外の方角へと向かおうとはしない。常にそこへと向かう習性があるからである。
 これらについて、祝福された聖なる御方はイスラエルに(出エジプト記 第15章26節で)「あなたが、もしあなたの神、主の声に良く聞き従い、その目に正しいと見られることを行い、その戒めに耳を傾け――そして、悪の衝動の戒めを聞かずに――、すべての定めを守るならば――悪の衝動の定めを守らないならば――、私はかつてエジプトびとに下した病を一つもあなたに下さないであろう。私は主であって、あなたを癒すものである」と述べている。


164. 何により、この悪の衝動を得るのか?
 これは何に似ているか? ある王が自らの王国の地を管理するための役人らを定めた。あらゆるものを管理する役人がいた。食物の保管庫を管理する役人もいた。また、石の保管庫を管理する者もいた。そして、この石の管理者は、誰もが食物の保管庫の者へと行き、買っているのを見た。
 この者は何をしたか? 手下の者らを脆い家々と送り崩す事で、人々が再建のために石を必要とするようにした。だが、強い家には彼らはそうはしなかった。石の管理者は「強い家を壊す時間で、10の弱い家は壊せるだろう。それにより人々は皆ここに来て、私から石を買い、私は食物の管理者には負けなくなるだろう」と言った。
 よって、(エレミヤ書 第1章14節で)「災が北から起って、この地に住むすべての者の上に臨む」と書かれている。続く節では「見よ、私は北の国々のすべての民を呼ぶ。彼らは来て、エルサレムの門の入口と、周囲のすべての城壁、およびユダのすべての町々に向かって、おのおのその座を設ける」とある。悪は常に働き、悪の衝動も常にあるだろう。
 サタンという言葉は「道を逸らせる」の意味を持つ。なぜなら、サタンは世界全ての天秤を罪へと逸らせるからである。
 これはどのように示されているのか? (創世記 第38章16節に)「ユダは彼女に向かって」と書かれている事によってである。タルグムでは、これはヴェ=サタ(サターはサタンの語源)と記している。同様に、(箴言 第4章15節にも)「それを離れて(サテー)進め」と書かれている。


165. この70本のナツメヤシの木の意味合いは何か?
 これらは、(出エジプト記 第15章26節に)「あなたが、もしあなたの神、主の声に良く聞き従い」と、そのすぐ後に「こうして彼らはエリム(エリマー)に着いた。そこには水の泉12と、なつめやしの木70本があった」と書かれているように、律法を受け入れたものである。
 このエリマーの意味合いは何か? これは、エリ マー(私であるもの)である。
 「そこには水の泉12」があった。神は最初は人々に泉を与え、後には石を与えた。よって(ヨシュア記 第4章9節に)「(ヨシュアはまたヨルダンの中で)、12の石を立てた」と書かれている。
 この理由は何か? なぜならトーラーは元はこの世界の水と関連していたからだ。
 後になってからのみ、永劫の場所へと置かれた。だが水はある時にはここにあり、別の時には別の場所にあった。


166. では、この70本のナツメヤシの木は何か?
 これは、祝福された聖なる御方は70の構造を持つのを教える。
 これらは12の単純なものから導かれたものである。水が単純なものであるように、これらも単純である。
 このナツメヤシが構造であると、どう知るのか? それは、(雅歌 第7章8節に)「あなたはナツメヤシの木のように構造があり」と書かれている事によってである。
 その他にも、70種類のナツメヤシの木がある。そのため、ここには70本のナツメヤシの木があると書かれている。1つの種類は他とは似ておらず、その働きは全て違っており、その味わいは他とは違う。


167. (弟子らが尋ねた)あなたは70本のナツメヤシの木が70の構造を表すと言った。ですが、あなたは72種類あると先に述べてなかったか?
 (ラビは答えた)実際には71である。イスラエルがそれを72とするが、これは含まれていない。
 (弟子らが尋ねた)ですが、あなたは70あると言わなかったか?
 1つはサタンである。
 これは何に似ているか? ある王が息子らを持ち、そのために奴隷らを買った。それから王は息子らに、「余はお前らに彼らを同等に与えよう」と言った。
 だが息子らの1人が「私は父上と共にいるつもりはありません。なぜなら私はあなたから取る事のできる力を持つからです」と答えた。
 すると王は「そのため、お前は他の者ら全てと共にある場所は持たないだろう」と言った。反抗的な息子は行える事をなした。奴隷らの場所へと行き、多くの金、宝石、軍勢を見せて、「我に従え」と言った。
 では王は何をしたか? 王は息子ら全ての軍勢を招集し、奴隷らにそれを見せてから「あの息子により、その軍勢が我が軍勢よりも勝ると騙されてはならない。あの息子の軍勢を見よ。あやつは騙す者であり、お前らを欺こうとしている。そのため聞いてはならない。最初はあの息子はお前らを罠にはめるために、言葉巧みに述べるだろうが、最後にはお前らを笑い飛ばすだろう。お前らは我が奴隷であり、あの息子から離れ、聞き入れないならば、望む何事をも私はなすであろう」と言った。
 この者は混沌の君主である。よって、(サムエル記上 第12章21節に)「混沌に迷って行ってはならない。それは、あなたがたを助けることも救うことも出来ないむなしいものだからである」と書かれている。これは助ける事も救う事も出来ないが、痛めつける事は出来るのだ。
 私が与える助言は、(出エジプト記 第15章26節の)「あなたの神、主の声に良く聞き従い、その目に正しいと見られることを行い、その戒めに耳を傾け、すべての定めを守る」をなす事である。
 あなたがすべての定めを守るならば、「私はかつてエジプトびとに下した病を一つもあなたに下さないであろう」。
 何故に神はこれら全てを述べたのか? 全ての扉を閉める事により、サタンがあなたを見い出す事が無いようにである。
 あなたが神の定めの全てを保つならば、「私はかつてエジプトびとに下した病を」、我が手を通じては「一つもあなたに下さないであろう」。
 その次の文の「私は主であって、あなたを癒す者である」の意味合いは何か? これはサタンがたとえ来てあなたを打ったとしても、私はあなたを癒す神であるという意味である。


168. 何故に、あなたはこれを第8のものと呼ぶのか?
 なぜなら、これにより第8のものは始まり、8の数は完成するからである。だが働きとしては、これは7つ目のものである。
 では、始まった第8のものとは何か? これは生後8日目になった赤子が割礼を施される事から来ている。
 これらが8なのか? だが、これは7以外の何物でも無い。では何故に、祝福された聖なる御方はこれを8と呼んだのか? なぜなら、人の中には8つの部分があるからである。
 それらは何か? それらは以下のものである。
 右と左の手。
 右と左の足。
 頭、胴体、これらを媒介するものとしての性器。
 さらに自らの伴侶たる妻である。
 よって、(創世記 第2章24節に)「それで人は妻と結び合い、一体となるのである」と書かれている。
 これらが8つのものであり、割礼の第8日目と関連している。では、これらが8つのものなのか?
 これらは7つ以外の何物でも無い。肉体と性器は同じものだからである。そのため、これは第8のものである*1


169. 第9のものは何か?
 ラビは彼らに述べた。第9と第10のものは共にあり、お互いに対立している。
 片方はもう片方より500年高い場所にある。
 これらは2つの輪(オファニム)に似ている。片方は北へと向かいたがり、もう片方は西へと向かいたがる。これらは地の最底辺へと到達している。
 この地の最底辺とは何か? これは地下にある第7の底辺である。
 この祝福された聖なる御方の神の臨在の末端は、その足の下にある。よって(イザヤ書 第66章1節に)「天はわが御座、地はわが足台である」と書かれている。
 この世界の勝利(ニツァホン)はここにある。よって(イザヤ書 第24章10節に)「勝利の中の勝利(ネツァフ ネツァヒム)」と書かれている*2


170. この「勝利の中の勝利」の意味合いは何か?
 これは単独の勝利(ネツァフ)である。それは(2つの輪のうちの)いずれか? 西へと向かう傾向のあるものである。
 では第2のものは何か? これは北へと向かう傾向のあるものである。
 では第3のものは? これは下にあるものである。
 第3のもの? だが、あなたはこのチャリオットには2つの輪があると述べたが。
 だが、神の臨在の末端もまた、勝利と呼ばれると言わなくてはならない。
 これが「勝利の中の勝利」の意味合いである。この言葉の後の「勝利」は1つであり、初めの「勝利(複数形)の中の」は2つあり、そのため合計で3つとなるのである。


171. 弟子らはラビに述べた。上からは下は知るが、下からは上は知れないという。
 ラビは答えた。下から上も、上から下も、これらは全て同じではないのか?
 弟子らは答えた。我が師よ、上昇するのは下降するのと同じではありません。ある者は降りている坂を走れても、上昇する坂では走れない事もあります。
 ラビは答えた。では、それについて語ろう。
 ラビは座ると彼らに説明をした。
 上にあるように下にも神の臨在はある。
 この神の臨在とは何か? 私はこれについて、最初の光、知恵から導かれた光だと先に述べた。またこれは、(イザヤ書 第6章3節に)「その栄光は全地に満つ」と書かれているように、万物を取り巻いてもいる。
 その働きは何か?
 これは何に似ているか? ある王が7人の息子らを持ち、それぞれに場所を定めた。それから王は彼らに「お互いに上下に座るようにせよ」と言った。 
 一番低い座にある息子は「私は底で座りたくありません。私は父上から離れたくありません」と言った。
 すると王は「私は常に、お前を取り巻いていて、見ているだろう」と答えた。
 これが「その栄光は全地に満つ」の節の意味合いである。
 何故に神は常に万物と共にあるのか? それによって、神はこれらを支え、養えるからである。


172. では、息子らとは何か?
 私は先に祝福された聖なる御方は7つの聖なる形を持つと述べた。
 (創世記 第9章6節に)「神が自分のかたちに人を造られたゆえに」と、また(創世記 第1章27節にも)「神のかたちに創造し、男と女とに創造された」と書かれているように、これら全ては人の中に対応する部分がある。
 それらは、以下のものである。
 右と左の足。
 右と左の手。
 胴体、性器、頭である。
 だが、これらは6つしか無く、あなたは7つあると言った。
 第7のものはその妻である。よって、(創世記 第2章24節に)「それで人は妻と結び合い、一体となるのである」と書かれている。
 だが、(創世記 第2章22節で)「主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り」と書かれているように、彼女は人のあばら骨から取られたのではないのか?
 ラビは答えた。然り、そのあばら骨からである。
 なのに、人にはまだあばら骨を持つのか?
 然り。(出エジプト記 第26章20節には)「また幕屋の他のあばら骨」と書かれている。タルグムではこれを「幕屋の側」と記している。
 では人の側とは何か?
 これは何に似ているか? ある王が庭園で10本の雄の木を植える考えを持っていた。これら全てはナツメヤシの木であった。王は「これらは全て同じ性なので、持続するのは不可能である」と言った。
 では王は何をしたのか? 王は、それらの間にエトログの木も植えた。これらの一部は雄のものにした。
 では、何故にエトログの木は雌なのか? なぜなら、(レビ記 第23章40節に)「美しい木の実と、なつめやしの枝と、茂った木の枝と、小川のはこやなぎの枝を取って」と書かれているからである。
 この美しい(ハダル)木の実とは何か?
 タルグムではこの節を「エトログとルラヴ(ナツメヤシ)の木の実」と記している。


173. この「美しい」の意味合いは何か?
 これは万物の美である。また、雅歌での美でもある。これについて、(雅歌 第6章10節では)「このしののめのように見え、月のように美しく、太陽のように輝き、恐るべき事、旗を立てた軍勢のような者はだれか」と書かれている。
 これは女と関連している。
 なぜなら、女はアダム(人)から取られたからである。 これは低位の世界は女無しには保たれないからである。
 では、何故に女はネカヴァーと呼ばれるのか? なぜなら、彼女の穴(ネケヴ)は広いからである。また彼女は男より多くの穴を持つからである。これらは何か? それらは胸、子宮、性器の穴である。


174. では、あなたが雅歌が美であると述べた理由は何か?
 然り。これは聖書全ての中で最も美しいものである。
 よって、ラビ ヨハナンは述べた。聖書全ては聖なるものであり、トーラー全ては聖なるものであるが、雅歌は聖なる中の聖なるものである。
 この聖なる中の聖なるものの意味合いは何か? これは聖なる者らのために聖なるものであるのを意味する。
 では、聖なる者らとは何か? これは人の中にある6つの部分である。
 これらに聖なるものは、万物に聖なるものである。


175. 聖なるものとは何か? それはエトログの木であり、これら全ての美(ハダル)である。
 何故に、これは美(ハダル)と呼ばれるのか? これはハダル(hadar)とは読まずに、ハ=ダル(HaDar。住んでいるもの)と読むのだ。
 これはルラヴと結びついていないエトログの木を指している。これ無しには、ルラヴの定めは満たされない。
 これはまた、全てを結び付けるものである。それによりお互いに結び付き、全てが統合される。


176. このルラヴと関連するものは何か?
 これは脊柱と関連している。よって(レビ記 第23章40節に)「茂った木の枝と、小川のはこやなぎの枝を取って」と書かれている。
 この茂った木の枝は、束全体を覆うもので無くてはならず、そうでないならば適切では無い。
 何故か?
 これは何に似ているか? ある男が両腕で自らの頭を守っていた。男は2つの腕を持ち、その頭も足したら3つとなる。
 それゆえ、「葉の茂った木の枝」と呼ばれる。「枝」は左であり、「葉」は右である。そして「木」は中央である。
 何故にこれは「木」と呼ばれるのか? なぜなら、これは(生命の)樹の基盤だからだ。


177. では「小川のはこやなぎの枝」とは何か?
 ルラヴには2本のはこやなぎの枝があり、それらは人の2本の足と関連している。
 何故、小川のはこやなぎの枝はアルヴェイ ナハルと呼ばれるのか? なぜなら、この2つのうちの大きな方は、西へと(マ=アレヴ)向かう傾向があり、そこから力を引き出すからである。
 北へと向かう傾向のあるものは、500年の旅ほど小さい。これは北西の面を通じて働く。
 これにはお互いに混ざり合う(アラヴ)ので、この名が付けられている。


178. べつの説明もある。
 はこやなぎの枝がアルヴェイ ナハルと呼ばれる理由は、その働きが時にはお互いに混ざり合う(マ=アレヴ)からである。
 何故にこれらは、小川のはこやなぎと呼ばれるのか? なぜなら、小川と呼ばれる場所でこれらは育つからだ。よって、(伝道の書 第1章7節で)「川はみな、海に流れ入る、しかし海は満ちることがない」と書かれている。
 この海とは何か? 私はこれはエトログであると述べる。
 これら7つの属性のそれぞれが、小川(ナハル)と呼ばれるのをどう知るのか? それは、(民数記 第21章19節に)「マッタナからナハリエルに」と書かれている事によってである。これをナハリエルとは読まずに、ナハレイ エル、神の小川と読むのだ。
 そして、これら6つの全ては、海への小路を進む。
 この小路とは何か? これは、これらの間を仲裁するものである。よって、(ハバクク書 第3章5節に)「疫病はその前に行き、熱病はその後に従う」と書かれている。
 これら全ては、この管へと向かい、そこから海へと向かう。
 これが「マッタナからナハリエル(神の小川)に」の節の意味合いである。マッタナは、与えられた場所、つまり脳である。そこから、これらは神の小川へと向かう。
 (次の文の)「このナハリエル(神の小川)からバモテに」とある。バモテとは何か? これはタルグムではラムタ(高地)と訳しており、ザルカに続くセゴルである。
 (次の節の)「バモテからモアブの野にある谷に行き、荒野を見おろすピスガの頂に着いた」とある。これは準備されたものである。
 このモアブの野にあるものとは何か?
 だが、ここではモアブと読まずに、マイ=アバ(父から)と読むべきである。これは(創世記 第26章5節で)「アブラハムが私の言葉に従って、私の諭しと戒めと定めと掟とを守ったからである」と書かれている父の事である。
 この野とは何か? これは「荒野(イェシモン)を見おろすピスガの頂」がある場所である。このイェシモンとは天と解釈できる。
 この管については、(雅歌 第4章15節に)「あなたは園の泉、生ける水の井、またレバノンから流れ出る川である」と書かれている。
 このレバノンとは何か? 私はこれを知恵であると言う。
 では、「小川(ナハル)のやなぎ」とは何か? これはイスラエルへ与えられた遺産(ナハラー)であると言おう。これはチャリオットの2つの輪を表している。


179. 私が学んだ事によると、10の圏と10の発言があり、それぞれの圏にはその発言がある。この圏は取り囲まれているものではなく、取り囲むものである。
 この(物理)世界は、この輪の内側にあるカラシ種*3のようなものである。
 何故か? なぜなら、霊(息)がこの世界に吹きかけられ、それを保っているからだ。この霊が少しといえども留められたならば、この世界は消滅するであろう。


180. この世界には3つの圏がある。
 どのようにか? この世界は北と南へと向かう傾向がある。
 どのようにか? 北、西、南へ向かう事によってである。北西は、我々を取り巻く諸圏の第1のものである。
 では、私は北西へ向かうと言ったか? だが、その力は北にあると言う。これは左足(と関連している)。
 その上には、第3の圏があり、その力は南西にある。
 (弟子らが尋ねた)あなたが第2と言ったものの元の力は何か? 
 (ラビは答えた)私はそれは右足であると言う。
 では、南西の力は何か? これは世界の基盤である。
 これについては(箴言 第10章25節に)「義は世界の基盤である」と書かれている。
 第2の力は、チャリオットの背後に立ち、第1の力はその前である。
 そして「義、世界の基盤」はその中央である。これは世界の南から流出し、他の2つを司る。
 その手には、全ての生き物の魂を含む。これは諸世界の命である。
 「創造(ベリアー)」という言葉が使われるたびに、これにより行われる。それについては、(出エジプト記 第31章16節に)「休み、かつ憩われた」と書かれている。
  これは安息日の属性である。これについては、(出エジプト記 第20章8節に)「安息日を覚えて、これを聖とせよ」と書かれている。これは第7日目の属性について述べている。そして、この第7の属性については、(レビ記 第19章30節に)「あなたがたは私の安息日を守り、私の聖所を敬わなければならない」と書かれている。
 この第7の属性とは何か? これは祝福された聖なる御方の善の属性である。


181. 何故に「私の安息日(複数形)を守り」と単数形ではなく書かれているのか?
 これは何に似ているか? ある王が美しい花嫁を持ち、彼女は毎週ある日に王と共にいた。王はまた美しい愛する子らを持っていた。王は彼らに「この状況から、お前らも我が喜びの日に共に喜ぶべきだ。お前らのために私が努めたからであり、お前らも私を貴ぶべきである」と言った。


182. トーラーが(安息日について、ある個所では)「覚えて」とあり、(別の箇所では)「守り」と述べているのは何の理由からか?
 「覚えて(ザホル)」は、男(ザハル)を表しており、「守り(シャモル)」は花嫁を表している。
 何故に、そこから「私の聖所を敬わなければならない」と続くのか? なぜならば、私の聖所は聖なるものだからである。何故か? なぜならば、「私はあなた達を――あらゆる面で――聖なるものとする神である」からである。


183. 何故に、我々は(食物の祝福で)「彼(神)が創造した全てに、世界の命に祝福あれ」と述べるのか? 何故に「あなたが創造した」とは言わないのか?
 だが我らは、その知恵を「世界の命」に授け、それにより万物が保たれる、聖なる御方を祝福する。


184. では、我々が(神への祝福で)「我らを彼の律法と定めにより聖なるものとする」と(三人称で)言い、「あなたの律法と定めにより」と(二人称では)言わないのか?
 これは、全ての律法は、諸世界の命に含まれているのを教える。
 祝福された御方の我らへの愛により、我らが聖なる者、価値ある者となるための律法を与えた。
 何故か? なぜなら、我らがこの世界にいる時に、(この律法により)偉大なる来るべき世界で価値ある者となれるからである。
 その手には、魂らの宝がある。イスラエルが良き(精神の)状態にある時、これらの魂は来るべき世界での価値ある者となる。だが、イスラエルが良くない状態にある時には、これらの魂は引き上げられない。
 それゆえ、「ダヴィデ王の子(メシア)は、この体の中の全ての魂が完成されるまでは来ないだろう」と言われる。
 この「この体の中に全ての魂」の意味合いは何か? 私は人の体の中の全ての魂を表すと言う。(これらが完成した時)新しき者らは、引き上げられる価値ある者となろう。
 それからダヴィデ王の子(メシア)は来るであろう。その魂が他の新たな魂らと共に引き上げられと、この子は生まれられるようになる。
 これは何に似ているか? ある王が軍隊を持っており、彼らを食べさせるための多くのパンのある場所へと向かわせた。だが彼らは怠惰であり、すぐに食べようとはしなかった。そのため、パンは腐ってしまい、台無しになってしまった。
 王は彼らが食べたかを調べに行った。だが、パンは腐ってしまっていて、彼らが新しいパンを求めるのを恥じているのを見つけた。「我々は陛下が送ったものを大切にしませんでした。でも、今はそれ以上のものをください」と如何に言えようか?
 王もまた怒った。王は腐ったパンを手に取り、これらを可能な限りに乾かして食べられるようにするよう命じた。それから彼らに、「私は、お前らがこの全ての腐ったパンを食べるまでは、これ以上のパンを与えないだろう」と宣告した。それから、彼らにパンを返した。
 彼らは何をしたか? 彼らはこれらを全員で分けて、自らの分を食べた。喜ばしい者は、自らの場所へと赴き、このパンを空中に置き、慎重に扱い、食べるための良き状態にした。他の者はパンを手に取り、がつがつと食べた。食べられる部分を食べて、残りは諦めたので捨てたままにした。パンはさらに腐ってしまい、全く食べられなくなった。そのため、この者は餓死した。
 それから、この者はその体の罪について非難された。何故、自殺行為をなしたのか? 最初にパンを腐らせたのでは充分では無かったのか? だが、私(王)はそれを返したのに、お前はそれを再び腐らせた。お前はパンを扱うのにあまりに怠惰であったので、自らの場所を破滅させ、それだけではなく、自らも殺す事になった。
 この者は「我が主よ、私が何をすべきだったのか?」と答えた。
 王は「お前はパンを慎重に扱うべきだった。そして、お前がそれが出来ないというならば、パンを共にする友人や隣人らを観察すべきだった。お前は彼らの行いをよく見て、そのように自らも行うべきだったのだ」と答えた。
 彼らはまた、この者を尋問した。何故にお前は自らを殺したのか? パンを台無しにするだけでは充分では無かったのか? だがお前はさらに自らの体も殺した。お前は自らの寿命を短くし、少なくともその原因となした。お前には良き子供が持てた可能性もあったのに。その子はお前を助けられ、お前や他の者がなした損害を回復させられただろうに。そのため、お前の苦しみは全ての面で増大するだろう。
 この者は混乱して「私は何のパンも持っていなかったのに、何ができたでしょう? 何により、私は生き永らえたでしょう?」と答えた。
 彼らは答えた。もしお前がトーラー(にある戒め)に努め、働いたならば、お前はこのようには愚かしくも恥ずべき結果とはならなかっただろう。お前のその返答から、お前がトーラーに努めたり働いたりしていなかったのは明らかである。よって、(申命記 第8章3節に)「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出る全ての言葉によって生きる」と書かれている。お前は「何により人は生きるべきか?」を探し、探り、尋ねるべきであった。
 この「主の口から出る」ものとは何か?
 ここから、「無知な者は敬虔にはなれない」と言われる。
 自らに対して慈悲深い(ヘセド)行いをしない者は、敬虔な者(ハシド)とは呼べないからである。


185. どのように主に対して慈悲深くなせるのか?
 トーラーを学ぶ事によってである。全てのトーラーの学習は、主に対する慈悲深い行いである。よって、(申命記 第33章26節で)「あなたを助けるために天に乗り、威光をもって空を通られる」と書かれている。
 この後半では「威光をもって空(シェハキム)を通られる」とあるが、このシェハキムとは何か?
 私はこれを最奥の部屋と呼ぼう。タルグムでは、この箇所を「その御言葉は天の中の天にある」と訳している。
 そのため、「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出る全ての言葉によって生きる」のである。
 だが「愚者は厚かましくも答える」。
 この厚かましさを捨て、主に対して応答しないようにせよ!
 よって、そのような者は懲罰される。その懲罰とは何か? それについては私は既に述べている。


186. (ヨブ記 第15章2節の)「知者は霊の知識をもって答えるであろうか?」の節の意味合いは何か? この「霊の知識」とは何か?
 これは霊に近いものの知識である。それについては、(イザヤ書 第11章2節に)「その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である」と書かれている。
 (まず最初に)知恵が来て、それから悟りが来る。そしてこの悟りは「深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊」である。
 (弟子らは尋ねた。)だがあなたは「深慮」は慈悲の行いであり、悟りは義の属性だと述べたが。
 (ラビは答えた。)片方はもう片方よりも上にある。
 知識は真理であり、それゆえ真理を認める者と共にある。
 そして私が述べたように、片方はもう片方よりも上にある。
 よってラビ アキバは述べた。神が何を創造された時にも、それに対照するものも創造された。よって、(伝道の書 第7章14節に)「彼とこれとを等しく造られた」と書かれている。
 トーラーの宝とは何か? これについては、(イザヤ書 第33章6節に)「主を恐れることはその宝である」と書かれている。人はまず神への恐れを持つ必要があり、それからトーラーを学ぶ事ができる。
 これは、ある人がナツメヤシのシロップを買おうと市場へ行くものの、それを運ぶ壺を持っていなかったようなものである。この者は「私は自らの胸(の上着)で運ぶとしよう」と言い、胸で運ぼうと努めるものの、これは非常に重く、服も駄目にするのではないかと恐れた。そのためこの者は、道の途中で捨ててしまった。
 この者は2度罰されている。まず第1に良き食物を台無しにし、第2に自らの金を無駄にしたからである。


187. 神への恐れは2つのうちの高い方である。
 それは神の手のひらにあり、その力でもある。
 この手のひら(カフ)は、利益のパン(カフ ゼフト)とも呼ばれる。なぜなら、利益のパンへと世界を向けるからである。
 よって(イザヤ書 第11章3節に)「彼は主を恐れることを楽しみとし、その目の見るところによって裁きをなさず、その耳の聞くところによって、定めをなさず」と書かれている。彼は世界の全てを利益のパンへと向けさせる。これらの助言が、これらの癒しが世界へと向けられる。
 また(創世記 第49章24節にも)「イスラエルの岩なる牧者の名により」と書かれている。これらが来る場所については、(ハバクク書 第3章4節に)「その輝きは光のようであり、その光は彼の手からほとばしる。かしこにその力を隠す」と書かれている。


188. これらの事が来たならば、それを鋭くせよ。この鋭くするとは何か? 「その光(光線)は彼の手からほとばしる」の意味合いは何か?
 何故に最初に「光線」について述べ、それから「彼の手」とあるのか? 彼の両手(複数形)で言うべきではないのか?
 ここには矛盾はない。これは(出エジプト記 第32章19節で)「モーセが宿営に近づくと、子牛と踊りとを見たので、彼は怒りに燃え、手からかの板を投げうち、これを山のふもとで砕いた」と書かれているのと同じである。ここでは、「手から」は単数形としても読める。
 同様に、(出エジプト記 第17章12節で)「モーセの手は日没まで(信仰深く)さがらなかった」とも書かれている。この節ではエムナー(信仰深くの単数形)と書かれており、エムノト(複数形)ではない。
 弟子らは答えた。師よ、我らは返答を受け取るべく矛盾を示しても、あなたは我らの目を覆っている。師よ、まず先のものを先に説明し、後のものを後に説明すべきではないのか?
 (ラビは答えた。)では、何を尋ねているのか? 「その光は彼の手からほとばしる」の意味合いについては、神の助けにより、私はまさに我が言葉により説明したではないか。
 弟子らは恥じ入った。
 ラビが弟子らが恥じ入っているのを見ると述べた。最初に水があり、そこから火が流出し、それゆえ水は火を含んでいるのは事実ではないのか? 
 (弟子らは尋ねた)では師よ、この「光線」の意味合いは何か?
 ラビは答えた。5つの光線があり、それらは人の右手の5本の指である。


189. では師よ、ラビ ヨハナンの名において、あなたは世界の引く腕のみしかないと述べていなかったか?
 ラビは然りと答えた。だが、ここでの「光線」とは、それらの下にある2つの光線を暗喩している。
 では、これらは何か?
 ラビは答えた。あなたの頭の怒りと共にあるものだ。
 では、その上にあるものとは何か?
 ラビは答えた。神への恐れである。


190. では、神への恐れとは何か?
 これは原初の光である。
 よってラビ メイルは述べた。何故に(創世記 第1章3節で)「神は「光あれ」と言われた。すると光があった」と書かれているのか? これが「よって光ができた」などとは書かれていないのか?
 だがこれは、この原初の光はとても激しく、どの生き物もそれを見る事が出来ずにいたのを教える。そのため神はこれを最終的な未来の義人らのために取っておく事にした。
 これは世界の全ての商取引(セコラー)の秤である。また、ソヘレトとダルと呼ばれる宝石の力でもある。
 では、このダルの属性は何か?
 これは、神がこの千の光線を取り、それにより美しい宝石を造ったのを教える。その中に神は全ての律法を含めた。
 そしてアブラハムが生まれ、力を求めていた。まず神はアブラハムにこの宝石を与えようとしたが、アブラハムはそれを望まなかった。アブラハムは価値ある者であり、(ミカ書 第7章20節に)「慈しみをアブラハムに示される」とあるように、自らの属性として慈悲深さを得た。
 次にイサクが生まれ、力を求めていたが、神は再び宝石を与えようとしたが、イサクはそれを望まなかった。イサクは価値ある者であり、恐怖と呼ばれる力の属性を得た。よって(創世記 第31章53節に)「ヤコブは父イサクのかしこむ者によって誓った」と書かれている。
 そしてヤコブが生まれ、力を求めていたが、ヤコブには与えられなかった。よって、「アブラハムはヤコブの上に、イサクは下にあるので、あなたが中央にいたら、3人全てを得るだろう」と言われる。
 この中央とは何か?
 これは(ミカ書 第7章20節で)「真実をヤコブに示し」と書かれているように平和である。(エステル記 第9章30節に)「平和と真実の言葉をもって書を送り」と、また(列王記下 第20章19節に)「せめて自分が世にあるあいだ、平和と真実があれば良い」と書かれているように、真実は平和と同じである。
 これは(イザヤ書 第58章14節の)「あなたの先祖ヤコブの嗣業をもって、あなたを養う」の節の意味合いである。これは慈悲、恐怖、真理と平和で構成される、完全な嗣業(ナハラー)である。
 よって、(詩篇 第118篇22節に)「家造りらの捨てた石は隅の親石となった」と書かれている。これはアブラハムとイサク、世界の家造りらが見下した石であり、後に親石となったのである。


191. では、何故に2人はこれを見下したのか? (創世記 第26章5節に)「アブラハムが私の言葉に従って、私の諭しと、戒めと、定めと、トーラーとを守ったからである」と書かれていなかったか?
 では、「私の諭し」の意味合いは何か?
 これは先に述べた慈悲の属性を指している。アブラハムが世にある限り、私(神)は我が行いをなす必要が無かった。アブラハムは我が場所に立ち、「私の諭し」を守った。世界に利益をもたらすのは我が役割であり、たとえ人々が罪ある時代にも、私は彼らに利益をもたらした。また私は彼らを戻し、その心を天の父の意志をなすように向けさせた。
 (創世記 第21章33節に)「アブラハムはベエルシバに一本のぎょりゅうの木を植え、その所で永遠の神、主の名を呼んだ」と書かれているように、これら全てをアブラハムはなした。アブラハムは自らのパンと水を世界の全ての民と共にし、彼らに利益をもたらせたであろう。そして人々を説得させるために、アブラハムは「あなたが仕えているのは誰か? 主、天地の神に仕えよ」と、彼らが悔悛するまで説得するだろう。
 では、アブラハムが罪ある者にも利益をもたらすとはどのように知ろうか?
 それは(創世記 第18章17-18節に)「私のしようとする事をアブラハムに隠してよいであろうか。アブラハムは必ず大きな強い国民となって、地のすべての民がみな、彼によって祝福を受けるのではないか」と書かれている事によってである。
 神は「私はアブラハムに利益を与えよう。彼は人々に慈悲を与え、価値ある者となると私は知るだろう」と述べた。
 よって、祝福された聖なる御方は、彼らが仕えるかを知らなかったと言えるのか?
 だが神はアブラハムに、利益をもたらすと述べている。ここから、「自らを浄化するなら、これらは助けるだろう。自らを汚すならば、これらは開かれるだろう」と言われる。この「これらは開かれる」の意味合いは何か? これは常に開かれた場所(地獄の口)を指している。


192. (創世記 第26章5節の)「私の諭しと、戒めと、定めと、トーラー」をアブラハムは保ったと書かれている。そして神は「アブラハムは(宝石を)望まないので、そこに含まれている全ての律法を私は保つとしよう」と述べている。
 この「我がトーラー」の意味合いは何か? これは、アブラハムがいと高き場所での決断(ホーラー)と議論すらも知り、保っていたのを教える。


193. では、(創世記 第49章24節の)「イスラエルの岩なる牧者の名により」の節の意味合いは何か?
 イスラエルの岩が養われる場所である。
 その場所とは何か? 私はこれはいと高き義(ツァディク)であると言う。
 これは何か?
 これはソヘレトと呼ばれる宝石である。また、その下にあるダルと呼ばれる石である。
 では、(ハバクク書 第3章4節の)「その光は彼の手からほとばしる」の節で記されている光線とは何か?
 これらは右手の5本の指である。


バヒールの書 5
↑ バヒールの書


*1 この節の説明は非常に混乱していると言わざるを得ない。
*2 イザヤ書には、このような文は見当たらない。
*3 聖書で用いられてる、ごく微細なものの例え。