バヒールの書 4

ページ名:バヒールの書 4

第4章 10のセフィロト


123. ラビ アモライは述べた。
 (レビ記 第9章22節の)「アロンは民にむかって手をあげて、彼らを祝福し、(罪祭、燃祭、酬恩祭を捧げてから)降りた」の節の意味合いは何か?
 アロンは既に降りていなかったのか? だが、アロンはここで「罪祭、燃祭、酬恩祭を捧げてから」降りて、それから民にむかって手をあげて、彼らを祝福したのである。
 この「手をあげる」とは何を意味するのか?
 私が先に述べたように、アロンは天の父へと捧げものを与えたからである。捧げものを与えた者は、彼らをも高め、彼らと共にある者は、彼らと一致する必要がある。
 では、彼らとは誰か? 人々である。「民に向かって」と書いてるように、これは人々のためを意味する。


124. 何故に民を祝福する時にアロンは手をあげたのか?
 なぜなら、両手には10本の指があり、それにより天と地が封じられた10のセフィロトを暗喩しているからだ。
 これらは十戒とも関連している。
 これらの10には、613の律法も含まれている。あなたが十戒についての文の文字を数えたら、それらは613文字からなるのを見い出すだろう。
 これらにはט(テット)の文字を除いた全ての22文字が含まれている。
 この理由は何故か? これはテットは臍であり、セフィロトには含まれないのを教える。


125. 何故にこれらはセフィロトと呼ばれるのか?
 なぜなら、(詩篇 第19篇2節に)「諸々の天は神の栄光を述べ(メ=セフィリム)」と書かれているからだ。


126. では、これらは何か?
 これらは3つある。これらの間には3つの軍団、3つの領域がある。
 第1の領域は、光である。光は命の水である。
 第2の領域は、ハイオト ハ=カデシュ(聖なる生き物)、オファニム、チャリオットの輪ら、祝福された聖なる御方の全ての軍団を含んでいる。祝福、高み、栄光、賛美、聖別が、カデシュと力ある王にあるように。偉大なるカデシュの神秘を並べるは、恐るべき王である。そして、これらは王に3つの「聖なるかな」の叫びとともに王冠を与える*1


127. 何故に、これらは3回「聖なるかな」を叫び、4回ではないのか?
 なぜなら、いと高き聖なる御方は、3の3倍だからだ。よって、「神は王である。神は王であった。神は世々限りなく王であろう」と書かれている。
 また、(民数記 第6章24-26節にも)「願わくは主があなたを祝福し、願わくは主が御顔をもってあなたを照し、願わくは主が御顔をあなたに向け」と3回書かれている。
 さらに、(出エジプト記 第34章6節にも)「主(יהוה)、主(יהוה)」と書かれている。そして3つ目は、神の残りの属性についてである。
 それらは何か? (次の文の)「あわれみあり、恵みあり」であり、慈悲の13の属性である。


128. このカデシュは、(イザヤ書 第6章3節の)「(セラフィムらは言った。)聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」から来ている。
 この「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」の意味合いは何か? また、何故に次には「万軍の主、その栄光は全地に満つ」と続くのか?
 第1の「聖なるかな」は、いと高き王冠に対してである。
 第2の「聖なるかな」は、樹の根源に対してである。
 第3の「聖なるかな」は、これら全ての結び付け、統合するものに対してである。
 これに続くのか、「万軍の主、その栄光は全地に満つ」である。


129. この結び付け統合させる「聖なるかな」とは何か?
 これは何に似ているか? ある王と息子らがいて、この息子らにも息子らがいた。そして孫らが王の言いつけをよく守る時には、王は彼らを混ぜ、守り、満足させた。王は息子らに良きもの全てを与え、息子らは孫らにも満足させられるようにした。だが、孫らが王の言いつけを守らない時には、王はその父らが必要な分のみを与えた。


130. 「その栄光は全地に満つ」の意味合いは何か?
 これは第1日目に創造された地の事である。それは高くあり、神の栄光に満たされ、イスラエルの地と関連している。
 では、その栄光とは何か? これは(箴言 第3章35節で)「知恵ある者は、誉を得る」と書かれているように、知恵である。


131. 「神の栄光」とは何か?
 これは何に似ているか? ある王が自らの部屋に家政婦長の夫人を持ち、王の全ての軍勢は彼女を喜ばせた。彼女には息子らがいて、日々王に謁見にきて祝福していた。
 彼らは王に「どこに我々の母はいるのですか?」尋ねた。王は「汝らは今は見る事は出来ない」と答えた。彼らは「では、彼女がいる場所に祝福させてください」と言った。


132. 「神の場所より」の意味合いは何か? これは、誰も神の場所を知らないのを示す。
 これは遠い場所から来た王女に似ている。人々は王女がどこから来たのかを知らないが、勇気、美、洗練さに満ちているのを見る。人々は「王女は確実に光の面から来たのだろう。彼女の行いを通じて、世界は光に照らされるからだ」と述べた。
 人々は王女に「どこからあなたは来たのですか?」と尋ねた。王女は「我が場所からです」と答えた。人々は「ならば、あなたのいた場所の人々は偉大なのでしょう。あなたと、その場所に祝福がありますように」と言った。


133. この「神の栄光」はその天使の軍団の1つではないのか? 低位者ではないのか? では何故に、彼らはそれを祝福するのか?
 では、これは何に似ているか? ある男が美しい庭園を持っていた。その外だが近い場所に、良い野も持ち、そこで男は美しい花を植えた。
 まず最初に男は自らの庭園に水を配り、それから庭園全体にも水を配った。だが、花を植えた野にまでは水は届かなかった。その野は近いとはいえ、庭園と接していなかったからだ。そのため男は野への扉を開いて、個別に水を配る必要があった。


134. ラビ ラフマイは述べた。
 栄光(カヴォド)と心(レヴ)の両方とも同じである(同じ32の値を持つ)。
 これらは両方とも一つであるが、栄光は高い場所での、心は低い場所での働きを指している。
 そのため、「神の栄光」と「天の心」は同じものである。


135. ラビ ヨハナンは述べた。
 (出エジプト記 第17章11節の)「モーセが手を上げているとイスラエルは勝ち、手を下げるとアマレクが勝った」の節の意味合いは何か?
 これは、世界全体は手を上げる事で保たれると教える。
 何故か?
 なぜなら、ヤコブに与えられた力の名前はイスラエルだからだ。
 アブラハム、イサク、ヤコブはそれぞれに、特有の力を与えられた。それぞれの行いに応じたものが与えられている。
 アブラハムは慈悲深い行いをなしていた。自らの領地に来る全ての旅人のために食物を用意し、(創世記 第18章2節で)「天幕の入口から走って行って彼らを迎え」と、さらに(次の文で)「地に身をかがめて」すら、寛大に行っていた。これは、完全な慈悲深い行いである。
 そのため神はアブラハムに、同じものを許し、慈悲深さ(ヘセド)の属性を与えた。よって(ミカ書 第7章20節で)「昔から我々の先祖たちに誓われたように、真実をヤコブに示し、慈しみをアブラハムに示される」と書かれている。
 アブラハムが慈悲深い属性に価値があったように、イサクは恐れの属性の価値ある者となった。よって(創世記 第31章53節に)「ヤコブは父イサクのかしこむ者によって誓った」と書かれている。
 その父の恐れを述べる事で誓う者はいようか? だがこの時までヤコブは何の力も与えられておらず、そのため父に与えられた力によって誓っている。その理由から「ヤコブは父イサクのかしこむ者によって誓った」と書かれている。
 これは何か?
 これは混沌である。それは悪から流出し、人々を驚かせる。
 ではこの力は何か? それについては、(列王記上 第18章38節に)「そのとき主の火が下って生贄と、たきぎと、石と、ちりとを焼きつくし、また溝の水をなめつくした」と書かれている。また、(申命記 第4章24節にも)「あなたの神、主は焼きつくす火、ねたむ神である」と書かれている。


136. この慈悲深さとは何か?
 これは(イザヤ書 第55章1節に)「さあ、渇いている者はみな水にきたれ。銀のない者もきたれ。来て買い求めて食べよ。あなたがたは来て、銀を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ」と書かれているように、トーラーの事である。
 そのため、慈悲深さとは銀の事である。そのため「来て買い求めて食べよ。あなたがたは来て、銀を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ」と書かれている。神はあなたをトーラーで養い、教える。あなたは既に、アブラハムの慈悲深い行いの利益を通じて、その権利を得ているからである。
 銀があろうとも無かろうとも、アブラハムは値を求める事無く他者を養い、ぶどう酒と乳を与えていよう。


137. 何故にぶどう酒と乳なのか? 他については何をなすべきか?
 だがこれは、ぶどう酒は恐怖を、乳は慈悲を表すと教える。
 何故にぶどう酒が最初に述べられているのか? なぜなら、それは我々により近いからだ。
 では、これは実際のぶどう酒と乳を表すと考えるのか? 私はこれはある種のぶどう酒と乳の形であると言わなくてはならない。
 慈悲深い属性の価値ある者であるアブラハムの利益を通じて、イサクもまた恐怖の属性の価値ある者であった。そしてイサクは恐怖の属性の価値ある者だったので、ヤコブは平和の属性でもある真理の属性の価値ある者であった。
 神はその行いに応じてヤコブに授けた。よって(創世記 第25章27節に)「ヤコブは全き人で、天幕に住んでいた」と書かれている。この「全き」という言葉の意味は、平和以外の何物でも無い。よって、(申命記 第18章13節に)「あなたの神、主の前にあなたは全き者でなければならない」と書かれており、タルグムではこれを「あなたは平和な者(シャリム)でなければならない」と訳している。
 この「全き」という言葉は、トーラー以外の何物でも無いのを表している。よって、(マラキ書 第2章6節で)「彼の口には、まことのトーラーがあり」と書かれている。その次には何が書かれているか? それは、「彼は平安と公義とをもって、わたしと共に歩み」とある。「平安」とは、(詩篇 第25篇21節で)「平和と平安とが、わたしを守ってくれるように」と書かれているように、平和以外の何物でも無い。
 それゆえ、(出エジプト記 第17章11節で)「モーセが手を上げているとイスラエルは勝ち」と書かれている。これは、イスラエルと呼ばれる者(ヤコブ)への属性に「真理のトーラー」があるのを教える。


138. この「真理のトーラー」の意味合いは何か?
 これは全ての諸世界の真理を教え、神の行いについてもである。
 神は10の発言により世界を支え、これはその1つである。
 人においては、神は10本の指を創造したが、これは10の発言と関連している。
 モーセはその両手を上げて、イスラエルと呼ばれる、真理のトーラーを含んだ属性へと集中した。
 その10本の指により、モーセはこの10の発言を上げると暗喩した。神がイスラエルを助けないならば、この10の発言は日々を支えなかっただろうからだ。この理由から「イスラエルは勝ち」となるのである。
 (この節の次の文の)「そして、手を下げるとアマレクが勝った」とある。モーセはアマレク人が勝つように何をしたのだろうか? だが人が3時間以上も自らの手を天へと向け続けるのは禁じられていると教える。


139. 弟子らが尋ねた。この手を上げたのは何に対してか?
 ラビは答えた。天の高みへ向けてである。これをどう知るか? (ハバクク書 第3章10節に)「淵は声を出して、その手を高くあげた」と書かれているからだ。これは、両手を上げるのは、天の高みに対してのみであるのを教える。
 イスラエル人が賢明で、栄光の御名の神秘を知っていた時代には、両手を上げたならばすぐに返答された。
 よって、(イザヤ書 第58章9節に)「また(アズ)、あなたが呼ぶとき、主は答えられ」と書かれている。あなたが「また」神を呼ぶならば、神はすぐに答えられるだろう。


140. この「また」(אז、アズ、アレフ、ザインの綴り)の意味合いは何か?
 これは、アレフを呼ぶだけでは許されないのを教える。この(天の)王国にまず座する2つの文字を呼ぶ事によってのみ可能となる。
 アレフと共にして、これらは3つある。10の発言のうちの7つはまだ残っており、それはザインの文字により表わされる(ザインの値は7である)。
 そのため、(出エジプト記 第15章1節にも)「そこで(アズ)モーセとイスラエルの人々は、この歌を主にむかって歌った」と書かれている。


141. この10の発言とは何か?*2
 その第1は至高の王冠である。その御名と民に祝福と称賛があらん事を。
 その民とは誰か?
 彼らはイスラエル人である。よって、(詩篇 第100篇3節に)「主こそ神であることを知れ。我らを造られたものは主であって、我ら、その民ではない(ロー)」と書かれている(ローは לא(ラメド、アレフ)と綴り、「アレフへ」とも読める)。そのため、この節は「アレフへ向けて、我らは」とも読める。
 全てのその御名を統一する者、統一の中の統一を認識し知るのは我らが任である。


142. 第2のものは知恵である。
 よって、(箴言 第8章22節に)「主が昔そのわざをなし始められるとき、そのわざの初めとして、わたしを造られた」と書かれている。この「初め」とは、(詩篇 第111篇10節に)「主を恐れることは知恵のはじめである」と書かれているように、知恵以外の何物でも無い。


143. 第3のものはトーラーの源泉、知恵の宝、「神の霊」の源泉である。
 これは、神はトーラーの全ての文字を、霊により彫り、それにより万物の形を造ったのを教える。これが(サムエル記上 第2章2節の)「我々の神のような岩(ツゥル)はない」の節の意味合いである。我々の神のような形(ツァイル)はない。


144. これらが3つである。では第4のものは何か?
 第4のものは、(申命記 第33章21節の)「神の慈善」である。これは世界全てへの神の利益と慈悲(ヘセド)を意味する。
 これは祝福された聖なる御方の右側である。


145. 第5のものは何か?
 第5のものは、祝福された聖なる御方の大いなる火であり、これについては(申命記 第18章16節で)「またこの大いなる火を二度と見させないでください」と書かれている。
 これは祝福された聖なる御方の左側である。
 これらは何か? これらはハイオト ハ=カデシュ、聖なるセラフィムであり、右と左にある。これらは「喜ばしいもの」と呼ばれ、(伝道の書 第5章7節で)「さらに高い者があって」と書かれているように、高く高く上昇する。
 また、(エゼキエル書 第1章18節にも)「四つの輪には輪縁と斡とがあり、その輪縁の周囲は目をもって満たされていた」とも書かれている。この周囲にあるのは天使らである。また、これらの周囲にある者らは跪き、「主こそが神、主こそが神」と宣言している。


146. 第6のものは栄光の御座、王冠をかぶり、含まれ、称えられ、叫ばれる。
 これは来るべき世界の家であり、その場所は知恵にある。よって(創世記 第1章3節に)「神は「光あれ」と言われた。すると光があった」と書かれている。


147. そしてラビ ヨハナンは述べた。
 この光には2つの種類がある。それら両方について(創世記 第1章4節に)「神はその光を見て、良しとされた」と書かれている。
 祝福された聖なる御方は、(この光の種類の)1つを取り、来るべき世界の義人らのために保った。これについては(詩篇 第31篇20節に)「あなたを恐れる者のために蓄え、あなたに寄り頼む者のために人の子らの前に施されたあなたの恵みはいかに大いなるものでしょう」と書かれている。
 私が学んだ事によると、いかなる生き物も、この第1の光を見る事はできない。よって、(創世記 第1章4節で)「神はその光を見て、良しとされた」と書かれている。神はこれら創造された全てを見て、輝く良きものであると見た。
 神はこの良きものを取り、そこに知恵の32の小路を含ませ、この世界へと与えた。これが(箴言 第4章2節の)「私は良い教訓、我がトーラーを、あなたがたにさずける。わたしの教を捨ててはならない。」の意味合いである。私はこれは口承のトーラーの宝であると言おう。
 祝福された聖なる御方は「この属性は、この世界に含まれるべきだと考え、それは口承のトーラーである。あなたがこの世界でこの属性を留めるならば、義人のために保たれている来るべき世界でも価値ある者となろう」と述べた。
 これは祝福された聖なる御方の力である。よって(ハバクク書 第3章4節に)「その輝きは光のようであり、その光は彼の手からほとばしる。かしこにその力を隠す」と書かれている。この輝きは、第1の光から取られたものであり、神の子らが「その教えるために神が書いたトーラーと律法」を保つならば、我々の見える光のようになろう。よって、(箴言 第1章8節で)「我が子よ、あなたは父の教訓を聞き、母の教(トーラー)を捨ててはならない」と書かれている。


148. そして、(ハバクク書 第3章4節に)「その光は神の手からほとばしる。かしこにその力を隠す」と書かれている。
 この「隠す力」とは何か?
 これは、(詩篇 第31篇19節で)「あなた(神)を恐れる者のためにたくわえ、あなたに寄り頼む者のために人の子らの前に施されたあなたの恵みはいかに大いなるものでしょう」と書かれているように、保たれ隠された光である。
 この「あなたに寄り頼む者のために人の子らの前に施された」ものとは何か? この世界であなたの影に拠り頼むのを見い出し、あなたのトーラーと律法を守り、あなたの御名を聖なるものとした者が、秘密にも公的にも結び付くものである。よって、この節は「人の子らの前に」と結論付ける。


149. ラビ ラフマイは述べた。
 これはイスラエルに光があったのを教える。トーラーは(箴言 第6章23節に)「律法はともしびである、トーラーは光である、教訓の懲らしめは命の道である」と書かれているように、光である。ここにあるように、ともしびは律法であり、啓明する(オラフ)ものは口承のトーラーであり、光(オル)は書かれたトーラーである。では、口承のトーラーが光(オル)とどのように言えようか?
 なぜなら、この光は既に保たされており、光と呼ばれるからだ。
 これは何に似ているか? ある部屋が家の奥に隠されていた。昼間で世界には輝く光があっても、灯を持ってないと誰もこの部屋を見る事は出来なかった。同じ事は口承のトーラーでもいえる。これが光であったとしても、その疑問に答え、その神秘を説明する書かれたトーラーを必要とする。


150. ラビ ラフマイは述べた。
 (箴言 第6章23節の)「教訓の懲らしめは命の道である」の節の意味合いは何か?
 これは人が創造の神秘、チャリオットの神秘を学ぶならば、困難に陥らないのは不可能であるのを教える。よって、(イザヤ書 第3章6節に)「この荒れ跡をあなたの手で治めてください」と書かれている。これは、これらが困難に陥らせるまでは人が理解できない事を表している。
 トーラーはこれを「教訓の懲らしめ」と呼ぶが、実際には「命の道」への価値ある者とする。そのため、「命の道」への価値ある者となりたいならば、「教訓の懲らしめ」に耐えなくてはならない。


151. 別の説明もある。
 この「命」とは、(申命記 第30章19節に)「あなたは命を選ばなければならない」と書かれているように、トーラーである。
 この価値ある者となりたいならば、物の快楽を拒否し、律法のくびきを受け入れなくてはならない。困難に苦しめられているならば、それを愛しつつ受け入れなくてはならない。「私は日々我が創造主の意志を満たし、トーラーを学んでいるというのに、なぜ私はこうも苦しめられるのか?」と尋ねてはならない。むしろ、この苦しみを愛しつつ受け入れなくてはならない。
 それにより、この者は「命の道」に完全に価値ある者となろう。
 誰が祝福された聖なる御方の道を知ろうか? これら全てについて、「義はあなた、神であり、あなたの裁きは正しい。天からなされた全ての事は善のためにある」と言わねばならない。


152. (弟子らは尋ねた。)あなたは、第6のものは栄光の御座と述べた。(ラビは答えた。)これは祝福された聖なる御方の王冠と言わなかったか? 私は「イスラエルは3つの王冠をかぶっていた。祭司の王冠と、王の王冠と、それら全てに勝るトーラーの王冠である」と述べた。
 これは何に似ているか? ある王が喜ばしくも美しい器を持っており、とても愛していた。時には王は自らの手を置き、これは頭に結ぶテフィリムの事である。また別の時には、王は自らの腕で運んだ。これは腕に巻くテフィリムの結び目である。時には王は息子に渡して、留まるようにした。
 時にはこれは王の玉座と呼ばれる。なぜなら、王はこれを護符として自らの手で玉座のように運ぶからだ。


153. 第7のものは何か? これはアラヴォトと呼ばれる天である。
 そして、何故にこれは天(シャマイム)と呼ばれるのか? なぜなら、これは頭のように丸いからだ。
 私が学んだ事によると、これは中央にあり、その右には水が、その左には火がある。これは火と水を支えて(サ マイム)、これらの間に平和をもたらす。
 火は右側へと来て、その属性を見い出す。水も左側へと来て、その属性を見い出す。よって、(ヨブ記 第25章2節に)「神は高き所で平和を施される」と書かれている。


154. では、これが第7なのか? これは第6のものと変わらない。
 だが、これは聖なる王宮がここにあり、これはそれら全てを支えているのを教える。よって、これは2つと数える。そのため、第7のものなのである。
 では、これは何か?
 これは終わりや境界無き思考である。同様に、この場所は終わりや境界が無い。


155. 第7のものは世界の東である。そこからイスラエルの種(アブラハム)が来たものである。
 これは脊柱であり、人の脳から、種がある性器へと降りていく。そのため、(イザヤ書 第43章5節に)「私はあなたの子孫を東から来させ、西からあなたを集める」と書かれている。
 イスラエルが良き状態にある時、ここからあなたの種をもたらし、新たな種があなたに許されよう。だがイスラエルが悪しき時には、既に世界にある種をもたらすであろう。よって、(伝道の書 第1章4節に)「世は去り、世はきたる」と書かれている。これは、この種が既に来ているのを教える。


156. では(イザヤ書 第43章5節の後半の)「西からあなたを集める」の意味合いは何か?
 これは、常に西にある属性より、あなたを集めるのを意味する。
 何故に西はマアレヴ(MaAReV)と呼ばれるのか? なぜなら、全ての種が共に混ぜられている(MitAReV)場所だからだ。
 これは何に似ているか? ある王の息子は、美しい花嫁を持ち、自らの部屋に隠していた。息子は王の家から財宝を取ると、定期的に彼女へともたらしていた。そして彼女はそれら全てを取ると、常に共に混ぜ合わせていた。最後には息子は集めたものを見ようと求めた。
 それゆえ、「西からあなたを集める」と書かれている。
 では、父の家とは何か?
 それについては、「私はあなたの子孫を東から来させ」と書かれている。これは種が東からもたらされ、西に植えられるのを教える。それから息子は植えたものを集める。


157. 第8のものは何か?
 祝福された聖なる御方は、自らの世界に単独の義(ツァディク)を持ち、それは世界全てを支えているので愛されている。これは基盤(イェソド)である。
 これは世界を支え、育て、観察するものである。そして、上からも下からも愛され、上からも下からも恐れられ、上からも下からも整えられ、受け入れられている。
 これは全ての魂らの基盤である。
 (弟子らは尋ねた)あなたはこれを第8のもので、全ての魂らの基盤であると述べたが、(出エジプト記 第31章17節に)「主は七日目に休み、憩われた」と書かれていなかったか?
 然り。これは第7のものである。なぜなら、これはそれらを定めるからである。6つのものがあり、上には3つ、下には3つあり、これはそれらの間を定める。


158. では、何故にこれは第7と呼ばれるのか? では、これは第7のものなのか?
 そうではない。だが、祝福された聖なる御方はこの安息日(第7の土曜日)に、この属性とともに休まれた。そのため、(出エジプト記 第31章17節には)「主が六日のあいだに天地を造り、七日目に休み憩われたからである」と書かれている。これは、各日がこれが支配者であると述べているのを教える。 
 だが、この日にこの基盤が創造されたからではなく、定められた役割を働くからである。それぞれが、その役割を働き、その活動を保っている。
 そのためこの第7の日に、この基盤は来たりてその役割を果たし、万物を喜ばせる。それだけではなく、「七日目に休み憩われた」と書かれているように、その全ての魂らを育てる。


159. この「休み」とは何か? それは働きの無い日であり、安息日シャバト(休みを意味する)と呼ばれる。
 これは何に似ているか? ある王が7つの庭園を持っており、その中心には泉があり、生命の源から湧き出ていた。その庭園のうちの3つは右側にあり、3つは左側にあった。この泉が働き、水が溢れる時には、これら全ては喜び、「我らのために溢れた」と述べた。この泉はこれらを育て、これらは休み憩われる。
 これは7つの庭園に水を与えると言わなかったか? だが、(イザヤ書 第43章5節には)「私はあなたの子孫を東から来させ」と書かれている。これは、この7つのものの1つが、それに水を与えているのを示している。
 それゆえ、これは心に水を配り、それから心は万物に水を配ると言わなくてはならない。


160. ラビ ベラヒアーは座ると述べた。
 日々、我々は来るべき世界について述べる。だが、我々は述べている事を理解しているのか?
 アラム語では、「来るべき世界」は「来た世界」と訳されている。
 では、「来た世界」の意味合いは何か?
 私が学んだ事によると、この世界が創造される前には、それを照らすための激しい光の創造があった。神は万物がそれに勝る権威を持たない激しい光を創られた。
 だが祝福された聖なる御方は、世界はこの光に耐えられないだろうと見た。そのため、その7分の1を取り、この世界のために置いた。残りは最終的な未来の義人らのために、それを取っておく事にした。
 神は「彼らがこの第7の保ったものの価値があるならば、最後の世界で休息させるとしよう」と述べた。
 それゆえ、これは「来た世界」と呼ばれる。なぜなら、創造の6日目に既に(存在としては)来ているからだ。それについては(詩篇 第31篇20節に)「あなたを恐れる者のために蓄える、あなたの恵みはいかに大いなるものでしょう」と書かれている。


バヒールの書 4-2
↑ バヒールの書


*1 しかし、第3の領域については述べていないようである。紛失したのかもしれない。
*2 ここから、10のセフィロトの説明が続く。