バヒールの書 3-2

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68. 弟子らはラビ ラフマイに尋ねた。(ハバクク書 第3章1節の)「シギヨノテの調べによる、預言者ハバククの(過ちに対しての)祈り」の節の意味合いは何か? 祈り? これは賛美と呼ぶべきである。この書は神の偉大さについて述べているからである。
 だが、自らの心を世俗の事柄から離して、チャリオットの作業*1に捧げた者は、日々祈る者として神の御前に受け入れられる。それゆえ、「祈り」と呼ばれている。
 この「過ち」とは何を意味するのか? (箴言 第5章19節に)「(遊女への)愛により、あなたは常に過つ」の知恵について書かれている事である。
 これは何について述べているのか? それは(ハバクク書 第3章2節に)「主よ、私はあなたのことを聞きました。主よ、私はあなたの御業を見て恐れます」と書かれているように、チャリオットの作業についてである。


69. この「主よ、私はあなたのことを聞きました。主よ、私はあなたの御業を見て恐れます。(この年のうちにこれを新たにし、この年のうちにこれを知らせてください)」とは何を意味するのか?
 何故に、この節は「あなたのことを聞きました」の後に「恐れます」とあり、「この年のうちに」の後では無いのか?
 だが、この節では「あなたのことを聞きました」の後に「恐れます」となっている。
 この「あなたのことを聞きました」とは何か? それは知らせを聞く場所の事である。
 何故に、この節は「聞きました」であり、「理解しました」では無いのか? この「聞きました」には「理解しました」の意味も含まれており、それは(申命記 第28章49節の)「これはあなたがその言葉を知らない民」の中に見い出せる。


70. 何故にこの預言者は「恐れます」と述べているのか? なぜなら、耳の形はא(アレフ)の文字に似ているからである。
 アレフの文字は全ての文字の始めである。その他にも、アレフは全ての文字を保つようにしている。
 アレフは脳に似ている。
 あなたがアレフを口に出した時、思考においても同様であり、あなたは自らの思考を 無限者、境界無き者へと拡張する。
 アレフから全ての文字が流出する。これが最初の文字とは見なかったか?
 よって、(ミカ書 第2章13節に)「主(יהוה)はその先頭に立たれる」と書かれている。ヨド ヘー ヴァウ ヘーと書くあらゆる御名は、祝福された聖なる御方を表す規則があり、その聖性により祝福される。
 この「聖性により」とは何を意味するのか? これは聖なる王宮である。
 聖なる王宮とは何か? 私は思考とアレフの中にあるものと言うであろう。
 これが「主よ、私はあなたのことを聞きました。主よ、私はあなたの御業を見て恐れます」の節の意味合いである。


71. それゆえ、預言者ハバククは、我が祈りが受け入れられたことを喜び、また私が「あなたのことを聞き、恐れる」と理解する場所へと来たのも喜ぶと述べている。そのため、あなたとの一致を通じて、「この年のうちにこれを新たに」する。
 これは何に似ているか? ある才能のある王が、自らの家の中に隠れて、誰も自分を見ないようにせよと家臣らに命じた。そのため、探し求めている者は恐れ、王の命令に反しているのが見つからないようにと祈った。そのため、(預言者ハバククは)「主よ、私はあなたの御業を見て恐れます。この年のうちにこれを新たにし、この年のうちにこれを知らせてください」と述べているのだ。
 これは預言者ハバククが述べた事である。なぜなら、その御名はあなたの内にあり、あなたはその御名なので、「この年のうちにこれを新たにし、」よって、永遠のものとなる。


72.「この年のうちにこれを新たにし」の別の解釈もある。
 これは何に似ているか? ある王が美しい真珠を持ち、そのため王国の宝物庫に置いた。王が気分が良い時には、この真珠を抱擁し、接吻し、頭に置いて、愛した。
 預言者ハバククは、王らがあなたと共にあっても、愛する真珠はあなたの世界にあると述べる。 
 そのため、「この年のうちにこれを新たに」する。
 この「この年」とは何を意味するのか? それは(創世記 第1章3節に)「神は「光あれ」と言われた」と書かれている時である。この光は(創世記 第1章16節に)「大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ」と書かれているように、昼以外の何物でも無い。
 年は日々から造られる。
 そのため、「この年のうちにこれを新たに」と書かれている。真珠の中にて、この光は年々起き上がるようにする。


73. (ある弟子は述べた。)だが(イザヤ書 第43章5節に)「恐れるな、私はあなたと共におる。私はあなたの子孫を東から来させ」と書かれている。太陽は東から来るので、この真珠は昼の事だと述べている。
 (ラビは答えた。)私は(創世記 第1章5節の)「夕となり、また朝となった」の節についてのみを述べている。これについて、(創世記 第2章4節に)「主なる神が地と天とを造られた時」と書かれている。


74. また、(詩篇 第18篇11節にも)「闇をおおいとして、自分のまわりに置き、空(シェハキム)の水を含んだ暗い濃き雲をその幕屋とされ」と書かれている。
 ラビは述べた。これについては、(イザヤ書 第45章8節に)「天(シェハキム)よ、上より水を注げ、雲は義を降らせよ」と書かれている。
 義(ツァディク)は、世界への裁きの働きである。よって、(申命記 第16章20節に)「義を、義をのみ求めなければならない」と書かれている。
 そのすぐ後に「そうすればあなたは生きながらえて、あなたの神、主が賜わる地を所有するにいたるであろう」と書かれている。あなたが自らを裁くならば、あなたは生きるだろう。そうでないならば、義はあなたを裁き、その裁きはあなたの望みに反してでも満たされるであろう。


75. 何故にトーラーは「義を、義を」と2度述べているのか?
 ラビは述べた。なぜなら、聖書は(詩篇 第18篇12節で)「そのみ前の輝きから濃き雲を破って」と続けているからだ。
 最初の「義」は、文字通りの義(ツェデク)である。これは神の臨在(シェキナー)である。よって、(イザヤ書 第1章21節に)「正義がそのうちにやどっていた」と書かれている。
 では第2の「義」は何か? これは義人らを恐れさせる義である。
 これは義の寄付(ツァダカー)の事か否か?
 ラビは述べた。これはそうではない。
 何故か? なぜなら、(イザヤ書 第59章17節に)「主は義を胸当としてまとい、(救のかぶとをその頭にいただき)」と書かれているからだ。
 この頭にいただくものは、真理以外の何物でもない。そのため、(詩篇 第119篇160節に)「あなたの御言葉の頭は真理です」と書かれている。
 また、この真理は平和以外の何物でも無い。よって、(イザヤ書 第39章8節で、ヒゼキア王は述べる)「少なくとも我が日々には平和と真理があるだろう」と書かれている。
 人がこのように述べるのは可能だろうか? だが、これはヒゼキア王が述べた事である。そのため、我が父祖であるダヴィデ王に我が日々の半分を、平和と真理を我が日々の半分を帰する。これは「我が日々」と王が述べる理由である。
 この王は「平和と真理」と「我が日々」の両方を述べている。なぜなら、これら全ては一つだからである。よって、(創世記 第1章5節に)「夕となり、また朝となった。第一日である」と書かれている。
 この日は朝と夕を和解させ、そのため平和である。この日が平和であるように、王は平和を選んだ。そのため、(列王記下 第20章19節に)「平和と真理が我が日々にあるだろう」と書かれている。
 これは、ダヴィデ王に帰するものである。これについては、(詩篇 第89篇36節に)「彼の位は太陽のように常に私の前にある」と書かれている。


76. この(ハバクク書 第3章2節の)「この年のうちにこれを知らせてください」の節の意味合いは何か?
 ラビは述べた。(出エジプト記 第15章11節に)「主よ、神々のうち、だれがあなたに比べられようか、だれがあなたのように、聖にして栄えあるものか」と書かれているように、私はあなたが聖なる神であると知る。あなたの内に聖性があり、あなたは聖性の内にある。にも関わらず、「この年のうちにこれを知らせ」る。
 この「知らせる」の意味合いは何か? これは神が慈悲を持つのを意味する。よって、(出エジプト記 第2章25節に)「神はイスラエルの人々を顧み、神は彼らをしろしめされた」と書かれている。
 この「神は彼らをしろしめされた」の意味合いは何か?
 これは何に似ているか? ある王が美しい妻を持ち、彼女からの子供らを持っていた。王は子供らを愛しており、育てた。だが子供らは悪く育った。王は子供らとその母の両方を憎んだ。母は子供らの所へと行き、述べた。「子らよ! なぜあなた達はこうも行うのです。なせ、父上をあなた達と私の両方を憎むようにしたのです?」彼女はよく説得し、子供らを自責の念を持たせ、父の意志をなすようにした。
 王がこれを見ると、初めの頃のように子供らを愛するようになった。そして、母の事も思い出した。これが「神はイスラエルの人々を顧み、神は彼らをしろしめされた」の節の意味合いである。
 またこれは、「この年のうちにこれを知らせてください」の節の意味合いでもある。


77. では、(ハバクク書 第3章2節の)「怒る時にも憐れみ(ラヘム)を思いおこしてください」の意味合いは何か?
 ラビは述べた。あなたの子らが御前で罪をなし、あなたはそれに怒った時に、「憐れみを思いおこしてください」となる。
 この「憐れみを思いおこす」の意味合いは何か? これについては(詩篇 第18篇1節に)「わが力なる主よ、私はあなたを愛します(ラヘム)」と書かれている。
 そして、神は預言者にイスラエルの神の臨在を帰する。神は受け継ぐ息子を思いおこし、その遺産を与える。よって、(列王記上 第4章29節に)「神はソロモンに非常に多くの知恵と悟りを授け」と書かれている。
 そしてあなたは、父祖アブラハムの事も思いおこす必要がある。(イザヤ書 第41章8節に)「わが友アブラハムの子孫よ」と書かれているようにである。これが「この年のうちにこれを知らせてください」の意味合いである。


78. どこで我々はアブラハムに娘がいたのを見るのか? それは(創世記 第24章1節に)「主はすべての事(バコル)にアブラハムを恵まれた」と書かれている箇所である。
 また、(イザヤ書 第43章7節にも)「すべて我が御名をもって唱えられる者を来させよ。私は彼らを我が栄光のために創造し、これを造り、これを仕立てた」と書かれている。
 この祝福とはアブラハムの娘であるか否か?
 然り。これはアブラハムの娘である。
 これは何に似ているか? ある王がその御前にて完全な奴隷を持っていた。王は奴隷を様々な方法で試したが、奴隷は全ての誘惑に耐え抜いた。
 王は述べた。「余はこの奴隷に何を与えるべきか? 何をなすべきか? 余は我が兄に奴隷を助言し、監督し、称えさせる以外の何もできない」 そのため奴隷は兄王の下へと送られ、その振る舞いを学んだ。兄王は奴隷を大いに愛し、我が友よと呼んだ。よって、(イザヤ書 第41章8節には)「わが友アブラハムの子孫よ」と書かれている。
 神は述べた。「私は彼に何を与えるべきか? 何をなすべきか? 見よ、私は美しい器を創り、その中に美しい宝石で満たした。王達の宝物庫にもこれに似たものは無い。私はこれを彼に与え、彼は自らの場所で価値ある者となろう」
 これが「主はすべての事にアブラハムを恵まれた」の節の意味合いである。


79. 別の解釈もある。
 (ハバクク書 第3章2節に)「主よ、私はあなたのことを聞きました。主よ、私はあなたの御業を見て恐れます」と書かれている。これは「私はあなたのことを理解しましたので恐れます」という意味である。
 預言者ハバククは何を理解したのか? 神の思考を理解したのである。(人間ですら)考えられる思考には終わりが無く、世界の果てまで降りていくのだ。
 耳にも終わりは無く満足する事も無い。よって、(伝道の書 第1章8節に)「耳は聞くことに満足することがない」と書かれている。
 何故そうなのか? なぜなら、耳はא(アレフ)の形をしているからだ。アレフは十戒の源である。そのため、「耳は聞くことに満足することがない」のである。


80. オゼン(אזן 、耳)の言葉の中にある ז(ザイン)の意味合いは何か?
 祝福された聖なる御方がその世界へともたらした万物には、その概念から流出する名前があると、私は先に述べている。よって、(創世記 第2章19節に)「人(アダム)がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった」と書かれている。これは、万物の体がそうであるのを我々に教える。
 では、万物の名前は、その体であるとどう知るのか?
 それは(箴言 第10章7節に)「正しい者の名は褒められ、悪しき者の名は朽ちる」と書かれているからである。何が実際には朽ちるのか、その名前かその体か? それは体であると同意するであろう。ここでも、万物の名前は、その体を指しているのである。


81. この例は何か?
 源、シォレシュ(שרש)の言葉について考えよ。
 ここにあるש(シン)の文字は、木の源のような形をしている。
 ר(レーシュ)は曲がっている。あらゆる木の源は曲がっているからである。
 そして、最後のシンの字の働きは何か? これはその枝を取り植えたら、それは再び源となるのを我々に教える。
 このオゼン(耳)の中のザインの字の働きは何か?
 その値は7であり、週の7日間と照応する。これは、それぞれの日は自らの力を持つのを我々に教える。
 ではオゼンの言葉の中でのその働きは何か?
 耳の中に無限の知恵があるように、体の全ての部分にもその力があるのを我々に教える。


82. 人体の7つの部分とは何か?
 それは(創世記 第9章6節に)「神が自分のかたちに人を造られた」と、また(創世記 第1章27節に)「神は自分のかたちに人を創造された」と書かれ、その手足と部分の全てを数えられた。
 (他の者が尋ねた)では ו(ヴァウ)の文字は何に似ているか? これは(詩篇 第104篇6節の)「あなたはこれを衣でおおうように大水でおおわれた」に暗喩されている。ヴァウとは6方向以外の何物でも無いからである。
 ラビは答えた。割礼の契約と、人の性器は一つのものと見做されている。
 人は2つの手を持ち、(割礼の部分とで)3つとなり、頭と体を足して5つとなり、2本の足を足して7つとなる。
 これら全ては、天にあるそれらの諸力と対応している。よって、(伝道の書 第7章14節に)「彼とこれとを等しく造られた」と書かれている。
 また(出エジプト記 第31章17節に)「主が六日で天地を造り」と書かれているように、それらは週の日々についてある。聖書は「六日のうちに」ではなく、「六日で」と書かれている。そのため、週のそれぞれの日には、自らの特別な力を持つ。


83. オゼンの言葉の中の נ(ヌン)の字の意味合いは何か?
 これは、脳は脊柱の主要な部分であるのを教える。脊柱は常に脳から降りており、脊柱が無ければ脳は保てず、脳が無ければ体は保てないであろう。
 体全体は、脳の必要を満たすためにのみ存在する。そして体が保てないならば、脳もまた保てないであろう。
 脊柱は脳から体全体への導管である。これは、曲がった נ(ヌン)により表わされている。
 だがオゼンの言葉の中では、このヌンは伸ばされたもの(ן)である。
 この伸ばされたヌンの字は、常に言葉の末尾にある。これは伸ばされたヌンの字は曲がったものと伸ばされたものの両方を含むのを教える。
 だが、曲がったヌンの字は基盤である。これは、伸ばされたヌンの字は男と女の両方を含むのを教える。


84. 開かれたמ(メム)の字がある。この開かれたメムの字とは何か?
 これは男と女を含んでいる。
 また、(語末形の)閉ざされたם(メム)の字がある。
 これは(性器の)上の臍のような形をする。
 だがラビ ラフマイは、臍は ט(テット)のような形をしていると述べる。
 ラビはテットは(臍の)内側にあるものに似ていると述べている。一方私は、メムは外側にあるものに似ていると述べる。


85. מ(メム)とは何か?
 これをメムとは読まず、マイム(水)と読むのだ。水が濡れているように、臍は常に濡れているからだ。
 何故に、開かれたメムの字は男と女を含むが、閉ざされたメムの字は男のみなのか?
 これはメムは元は男であるのを教える。開かれたメムは、女のために後に加えられた。
 男のみでは出産が出来ないように、閉ざされたメムのみでは出産を与えられない。そして、女が出産をできる開かれたものを持つように、開かれたメムは出産を与えられる。そのためこのメムは、開かれ、かつ閉ざされている。


86. 何故にメムの字には開かれたのと閉ざされた2つの形があるのか?
 なぜなら、私が先に述べたように、メムとは読まずに、マイム(水)と読むべきだからだ。
 女は冷たく、そのため男により温められる必要がある。
 では、何故にヌンの字には曲がったもの(נ)と伸ばされたもの(ן)の2つの形があるのか?
 なぜなら、(詩篇 第72篇17節に)「その御名は日のあらん限り君臨する(ヤ=ヌン)ように」と書かれているからである。これは2つのヌン、曲がったものと伸ばされたものの2つのヌンから来ており、男と女を通じてである必要がある。


87. (伝道の書 第1章8節には)「耳は聞くことに満足することがない」と、また(その前の文では)「目は見ることに飽きることがなく」とも書かれている。これは両方とも思考から導かれたのを教える。
 この思考とは何か?
 それは、世界の天地に創造された万物を必要とする王である。


88. この「思考に昇ってくる」という表現の意味合いは何か? 何故に「思考に降りてくる」とは言わないのか?
 無論、私は先に「チャリオットの幻視へと凝視する者は、まず最初に降りて、それから上昇する」と述べている*2
 ここで降下の表現を用いる理由は、なぜなら「チャリオットの幻視(ツァファヤト)へと凝視する者」と述べるからだ。この「幻視」(ツァファヤト)のアラム語での訳語はセフタであり、これは覆うのを意味し、上から見下ろすのを暗喩している。また(イザヤ書 第21章8節でも)「その時、見張びとは呼ばわって言った、主よ、わたしが高きやぐら(ミツフェー)に立ち」と書かれている事とも関連する。
 だが、ここでは私は思考について述べており、それゆえ上昇についてのみ語る。思考にはあらゆる幻視を含まずに、そこには終わりが無いからである。そして、終わりや限界の無い全てには、あらゆる降下を持たないのだ。
 そのため、「その友の知識の限界へと降りてくる」という表現があるが、ある人物の知識の限界へと到達する事はできるが、その思考の限界には到達できない。


89. ラビ アモライは座ると述べた。
 セゴル(Segol)の意味合いは何か? この名前はセグラー(Segulah、宝)である。これはザルカ(Zarka)の後に来る。
 このザルカの意味合いは何か?
 それは投げられたもの(ni Zrak)の名前のようなものである。それは投げられたもののようであり、その後に(伝道の書 第2章8節の)「王たちと国々の財宝」が来る。


90. これがザルカと呼ばれる理由は何か?
 それは(エゼキエル書 第3章12節に)「祝福あるは、その場からの神の栄光である」と書かれているからである。これは、神の場所を誰も知らないのを示している。我々は王冠の神の御名を唱え、それは主の頭へと向かう。よって、神について(創世記 第14章19節に)「天地の主なるいと高き神が」と書かれている。これが向かうと、投げられたもの(ザルカ)のようになり、その後に宝(セグラー)が続く。これは全ての文字の頭である。


91. 何故に、この上昇が言葉の最初ではなく最後にあるのか?
 これは、この王冠が高く高く上がるのを教える。
 そして、(詩篇 第118篇22節に)「家造りらの捨てた石は隅の親石となった」と書かれているように、受け入れられ、王冠を与えられる。そして(創世記 第49章24節で)「イスラエルの岩なる牧者より」と書かれているように、その掘られた場所へと上昇する。


92. ラビはさらに述べた。
 ツィーツィート*3には、青い羊毛の紐を置く理由は何か? そして、なぜそれらは32の紐なのか?
 これは何に似ているか? ある王が美しい庭園を持っていた。そして、そこには32の小路があった。王はそれらの監視者を置いて、全ての小路が王のみが用いるようにした。王は監視者に「これらを監視し、日々歩き回れ。お前がこれらの小路を歩いている限り、お前には平和があるだろう」と言った。
 この監視者は何をしたのか? それらを監視する助手として別の監視者らを定めた。そして「私だけがこれらの小路を見回るならば、独りで保つのは不可能だ。さらに、人々は私こそが王であると(誤って)言うであろう」と呟いた。そのため、監視者はその助手らを、全ての小路に配置した。そこには32の小路があった。


93. では、青い理由は何か?
 この監視者は「おそらく、これらの助手の監視者らは、この庭園は我らに属すると言い始めるかもしれない」と呟いた。そこで、彼らに印を与えて、「これを見よ。これは王の印であり、この庭園が王に属するのを示している。王こそが、これらの小路を創った者であり、これらは我らには属さない。これは王が定めたものである」と言った。
 これは何に似ているか? ある王とその娘は奴隷らを持っていた。そして彼らは外へと旅へと出ようとした。だが奴隷らは、王の不在を恐れたので、王は彼らに印を与えた。また彼らは娘についても恐れたので、彼女もまた印を与えた。そして2人は「これから、これらの2つの印とともに、神はお前を全ての悪から見守り、お前の魂の守り手となるだろう」と言った。


94. ラビ アモライは座ると述べた。
 (列王記上 第8章27節の)「見よ、天も、いと高き天もあなた(神)を入れることはできません」の節の意味合いは何か?
 これは、祝福された聖なる御方には72の御名があるのを教える。
 それら全ては(イスラエルの)部族らの間に置かれている。よって、(出エジプト記 第28章10節に)「すなわち、その名六つを一つの石に、残りの名六つを他の石に、彼らの生れた順に刻まなければならない」と書かれている。
 また(ヨシュア記 第4章9節に)「ヨシュアは十二の石を立てた」とも書かれている。最初に(出エジプト記 第28章12節で)「イスラエルの子たちの記念の石」とあるように、これらも(ヨシュア記 第4章7節で)「それらの石は永久にイスラエルの人々の記念となる」。
 そのため、12の石は(それぞれには6つの名前が含まれるので)合計で72となる。これらは祝福された聖なる御方の72の御名と関連している。
 何故にこれらは12から始まるのか? これは神は12の監督者らを持つのを教える。そして、それぞれには6つの諸力を持ち、合計で72となる。
 これらは何か? これらは72の言語である。


95. 祝福された聖なる御方は、単独の樹を持ち、それは12の方向の境界がある。
 北東の境界、南東の境界、
 上東の境界、下東の境界、
 南西の境界、北西の境界、
 上西の境界、下西の境界、
 上南の境界、下南の境界、
 上北の境界、下北の境界である。
 これらは常に広がり続ける。
 そして、これらは世界の腕である。
 これらの内側には、ある樹がある。これらの方角と対応した12の働きがある。
 この圏の内側には、また12の働きがある。
 それらの方角も含めると、合計で36の働きがある。
 それぞれには別のものもあり、そのため(伝道の書 第5章8節で)「位の高い人よりも、さらに高い者があって」と書かれている。それにより合計で72がある。
 そのため、(この36の働きには)東、西、北、南にはそれぞれ9つずつある。
 またそれらは、12、12、12とも別けられ、これらは軸、圏、心の働きである。
 これらは合計で36あり、それぞれの力は他の全てに含まれる。
 これら3つのそれぞれに12ずつあるとしても、それら全てはお互いに結び付いている。
 そのため、36全ての諸力は、軸である第1のものの内にある。そしてあなたが、圏でもそれらを探したら、同じものを見い出すであろう。そして、あなたが心で探したら、再び同じものを見い出すだろう。
 そのため、それぞれは36があり、これら全ては36以上は無い。
 これら全ては心(その値は32を持つ)を完成させ、そこから4つは引かれる。この32に32を足したら、合計で64となり、64の形態がある。
 この32に32を足す必要をどう知るのか? なぜなら、(伝道の書 第5章8節で)「位の高い人よりも、さらに高い者があって、(そしてそれらよりもなお高い者がある )」と書かれているからである。
 よって、我々は祝福された聖なる御方の72の御名よりも8つ足りない64を持つ。これらは「そしてそれらよりもなお高い者がある」の節で暗喩されており、これらは週の7日である。
 だが、8から7を引いても、1つ足りない。これは次の節(伝道の書 第5章9節)の「国には王は利益である」で示されている。
 この「利益」とは何か? そこから地が掘られた場所である。これは先に存在したものに対する利益である。
 では、この利益とは何か? 人々が見れる世界の万物は、この放出から取られた。これが利益である。


96. そこから天が掘られた地とは何か?
 それは祝福された聖なる御方の御座である。それは宝石であり、知恵の海である。
 これはツィーツィートの青い紐と対応している。
 よってラビ メイルは述べた。(ツィーツィートのために)何故に他の色ではなく青が選ばれたのか? なぜなら、青は海に似ていて、海は空と似ており、さらに空は栄光の御座に似ているからだ。よって(出エジプト記 第24章10節に)「彼らがイスラエルの神を見ると、その足の下にはサファイアの敷石のごとき物があり、澄み渡る大空のようであった」と書かれている。さらに、(エゼキエル書 第1章26節にも)「彼ら(ケルビム)の頭の上の大空の上に、サファイアのような御座の形があった」と書かれている。


97. ラビ ベラヒアーは座ると述べた。
 (出エジプト記 第25章2節の)「イスラエルの人々に告げて、わたしのために捧げ物(テルマー)を携えてこさせなさい。すべて、心から喜んでする者から、わたしに捧げる物を受け取りなさい」の節の意味合いは何か? これは、あなたの祈りを捧げるのを意味する。
 誰のか? 「心から喜んでする者」である。自らをこの世界から退かせるのを望む者である。
 その者を称えよ。その者により私(神)は喜ぶからだ。なぜなら、その者は我が御名を知るからだ。その者の捧げる物は私に適している。そのため、(出エジプト記 第25章2節で)「すべて、心から喜んでする者から、わたしに捧げる物を受け取りなさい」と書かれている。心から喜んでする者からである。
 ラビ ラフマイは述べた。これはイスラエルの義人と敬虔深い者らを表しており、彼らの価値から、世界全てに及び私を引き上げる。彼らによりこの心は保たれており、この心により彼らは保たれる。


98. そして全ての聖なる形態は、全ての国々を見守る。だがイスラエルは(特に)聖なるものであり、樹自身とその心を取る。
 この心は体の実の美(ハダル)である。同様にイスラエルも(レビ記 第23章40節で)「美しい(ハダル)木の実」を取る。
 このナツメヤシの樹は、周囲全てをその枝で覆われており、中心にはその芽(ルラヴ)がある。同様にイスラエルも、その心であるこの樹を取る。
 そして肉体の対応する部分は、人体の主な部分である脊柱である。
 このルラヴとは何か? それはロ レヴ(それには心がある)と書かれている。これにも心が与えられている。
 そして、この心とは何か? それは知恵の32の隠された小路である。
 それぞれの小路にもまた、それを監視する形がある。よって(創世記 第3章24節に)「生命の樹への道を守らせられた」と書かれている。


99. これらの形とは何か? これらについては、(同節に)「(神は人を追い出し)エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、生命の樹への道を守らせられた」と書かれている。
 この「エデンの園の東(ケデム)に置いて」とは何を意味するのか? 神はエデンの園と呼ばれる場所の前(カドム)を進むこれらの小路に置いたのだ。これはケルビムの前でもある。それゆえ、炎の前でもある。
 では、(炎の)前には何があるのか? 天はシャマイムと呼ばれ、火と水がその前に存在していたのを示している。よって(創世記 第1章6節に)「水の間に大空があって、水と水とを分けよ」と、また(創世記 第1章8節に)「神はその大空を天(シャマイム)と名づけられた」と書かれている。
 天が火であるとどのように知るのか? それは(申命記 第4章24節に)「あなたの神、主は焼きつくす火、ねたむ神である」と書かれているからである。


100. では、この天が祝福された聖なる御方を表すとどのように知るのか?
 それは(列王記上 第8章36節に)「あなたは天で聞き」と書かれているからである。そしてソロモン王は聞き入れられるように天に祈ったのか? その御名が天である神に祈ったのだ。
 よって、(列王記上 第8章27節に)「見よ、天も、いと高き天もあなたをいれることはできません」と書かれている。これは祝福された聖なる御方の御名である。
 (弟子らは言った)では火があるとして、これが前にあるとどう述べられようか?
 これらの力は、この場所の形の前に存在したと言わねばならない。それからのみ、これらの聖なる形は存在するようになったのだ。
 これらの力とは何か? それについては(サムエル記上 第2章2節に)「主のように聖なるものはない、あなたのほかには誰もない、我々の神のような形はない」と書かれている。


バヒールの書 3-3
↑ バヒールの書


*1 カプランによると、「マアセ メルカヴァー」、メルカヴァー(神のチャリオット)神秘主義は、バヒールが編纂された時代にはカバラと同一視されていた。
*2 メルカヴァー神秘主義の瞑想では、瞑想者は天へと、実際には上昇するものの、「降りる」と述べる慣習がある。これは古代シャーマンの冥府への降下のトランス状態との関連も指摘されている。
*3 民数記 第15章38節の記述から、ユダヤ人が服の四隅につける房。青い紐(テヘーレト)も付ける。