バヒールの書 3

ページ名:バヒールの書 3

第3章 7つの御声とセフィロト


45. ラビ アモライは述べた。
 (出エジプト記 第20章15節の)「そして全ての民は御声を見た」の節の意味合いは何か?
 これらはダヴィデ王が(作者とされる詩篇の中で)述べた御声である。
 (詩篇 第29篇3節に)「主の御声は水の上にあり、栄光の神は雷をとどろかせ」と書かれているものである。これは第1の御声である。
 第2の御声は(詩篇 第29篇4節の前半の)「主の御声は力があり」であり、これについては(イザヤ書 第10章13節に)「わが手の力により、またわが知恵によって、私はこれをなした」と、また(イザヤ書 第48章13節に)「わが手は地の基をすえ」とも書かれている。
 第3の御声は(同 4節の後半の)「主の御声は威厳がある」である。また(詩篇 第111篇3節にも)「その御業は栄光と威厳とに満ち、その義は永久に失せることがない」とも書かれている。
 第4の御声は(詩篇 第29篇5節の)「主の御声は香柏を折り砕き、主はレバノンの香柏を折り砕かれる」である。
 第5の御声は(詩篇 第29篇7節の)「主の御声は炎をひらめかす」である。これは水と火の間に平和をもたらすものである。これは火の力を引き出して水が蒸発するのや、火が水によって消されるのも防いでいる。
 第6の御声は(詩篇 第29篇8節の)「主の御声は荒野を震わせ」である。よって、(詩篇 第18篇51節に)「主はその王(メシア)に大いなる勝利を与え、その油そそがれた者に、ダヴィデとその子孫とに、永久に慈しみを加えられる」と書かれている。イスラエル人が荒野にいた時以上にである。
 第7の御声は(詩篇 第29篇9節の)「主の御声は樫の木を巻きあげ、また林を裸にする。その宮で、全ての者は呼ばわって言う、「栄光」と」である。また、(雅歌 第2章7節の)「エルサレムの娘たちよ、私は羚羊と野の雌鹿をさして、あなたがたに誓い、お願いする」ともある。これはトーラーに7つの御声が記されているのを我々に教える。この各声により、世界の主は人々に自らを明かし、人々は主を見る。そのため、「そして全ての民は御声を見た」と書かれている。


46. ある節(サムエル記下 第22章10節)では「彼(神)は天を低くして下られ、暗やみが彼の足の下にあった」と述べている。また、別の節(出エジプト記 第19章20節)では「主はシナイ山の頂に下られた」と述べている。
 だが、さらに別の節(出エジプト記 第20章22節)では「あなたがたは、私が天からあなたがたと語るのを見た」と述べている。
 これらの矛盾をどう和解させるのか? 神の「大いなる火」は地上にあり、これは一つの御声であった。そして別の御声は天にあったのである。
 そのため、(申命記 第4章36節に)「あなたを訓練するために、主は天からその声を聞かせ、地上では、またその大いなる火を示された。あなたはその言葉が火の中から出るのを聞いた」と書かれている。
 これは何の火か? これは「大いなる火」(地上にある火)である。
 どこから、声が現れるのか? この火からである。「あなたはその言葉が火の中から出るのを聞いた」と書かれているようにである。


47. この節(申命記 第4章12節)の「あなたがたは言葉の声を聞いたけれども、声ばかりで、何の形も見なかった」の意味は何か?
 これはモーセがイスラエルの民に「ホレブで主が火の中からあなたがたに語られた日に、あなたがたは全ての形を見なかった」と述べた時(申命記 第4章15節)に説明されている。あなたはある形は見たかもしれないが、「全ての形」は見ていない。
 これは何に似ているか? ある王が白い衣を着て、僕らの前に立っていたとする。たとえ王が遠くにいたとしても、僕らはなおも王の声を聞けるだろう。彼らは王が喋る時に喉を見ていなくてもそうである。同様に、イスラエルの民はある形を見たが、「全ての形」を見ていないのだ。
 そのため、「声ばかりで、何の形も見なかった」と書かれている。また(申命記 第4章12節では)「あなたがたは言葉の声を聞いたけれども」とも書かれている。


48. ある節(出エジプト記 第20章15節)では「そして全ての民は御声を見た」と述べている。だが別の節(申命記 第4章12節)では「あなたがたは言葉の声を聞いたけれども」と述べている。この2つの節の矛盾を、どのように和解できようか?
 最初にイスラエルの民は御声を見た。何を見たのか? ダヴィデ王によって記された7つの御声である。だが終わりには、彼らはそれら全てから流出した言葉を聞いた。
 私が学んだ事によると、これらは10あった。
 我らの賢者らが教える事によると、これらは全ては単独の言葉により述べられた。
 だが私はこれらは7つだと先に述べている。
 7つの御声があり、残りの3つについては、(申命記 第4章12節に)「あなたがたは(複数形の)言葉の声を聞いたけれども、(単数形の)声ばかりで、何の形も見なかった」と書かれている。これは我々に、これらは全て単独の言葉により述べられたと教えている。
 このようにしてイスラエルの民は過ちを犯さないようにし、「だが、その御声単独では充分に強力で無かった場合、他も助けとなり、それは天使らの1体であったろう」と述べている。この理由から、神は言い返し、(単独の言葉に)これら全てを含んだ理由であった。


49. なお別の説明もある。
 10人の王たちのために10が述べるまでは、世界はこれらを述べるべきではなく、神はこれら全てを単独を通じて述べられなかった。そのため、(出エジプト記 第20章2節で)「私はあなたの神、主であって」と述べ、そこに10の全てを含んでいる。
 では10人の王たちとは何か? これらは7つの御声と3つの述べる事(アマリム)である。
 述べる事とは何か? これらは(申命記 第26章18節の)「主は今日、明言された」の節の中で暗喩しているものである。
 この3つは何か? そのうちの2つは、この節(箴言 第4章7節)で「知恵の初めはこれである、知恵を得よ、あなたが何を得るにしても、悟り(理解)を得よ」で述べられている。
 また、(ヨブ記 第32章8節でも)「全能者(シャダイ)の息が人に悟り(理解)を与える」と書かれている。シャダイの魂は、理解を与えるものである。
 では第3のものは何か?
 老人が子供に「お前から隠されたものは、探し求めるな。お前から隠されたものは、明かそうとするな。おまえに権威があれば、理解を求めよ。だが、この神秘についてお前は何も行えない」と述べるようなものである。


50. 私は(箴言 第25章2節で)「言葉を隠すのは神の誉であり」と学んでいる。
 この「言葉」とは何か? それについては(詩篇 第119篇160節で)「あなたの御言葉の始めは真理です」と書かれている。
 また他にも(箴言 第25章2節で)「言葉を窮めるのは王の誉である」と書かれている。
 この「言葉」とは何か? これについては、(箴言 第25章11節で)「おりにかなって(Aphen-av)語る言葉」と書かれている。だが、これを「おりにかなって(Aphen-av)」とは読まずに、「その輪(Ophen'av)で」と読むべきである。


51. 弟子らはラビ ベラヒアーに尋ねた。「これらの言葉について教えてください」 だがラビはそれを許されなかった。だが、やがては許可をしたが、その前に彼らが良い注意力を持っているかを試す事にした。
 ある日、ラビは彼らを試し、「お前らの知恵について聞くとしよう」と述べた。
 彼らは述べ始めた。
 第1は、(創世記 第1章1節の)「はじめに」である。
 第2は、(イザヤ書 第57章16節の)「霊は私(神)から出、命の息は私が創った」である。
 第3は、(詩篇 第65篇9節の)「神の川(の各部分)は水で満ちている」である。
 (ラビは尋ねた。)これらの各部分とは何か? (弟子らは答えた)師よ、あなたが教えたのは、神は創造の時に水を取り、それらを分けて、半分を天空に、残りの半分を大海に置いた。これは「神の川(の各部分)は水で満ちている」の意味である。
 これらを通じて、人はトーラーを学ぶ。
 よって、ラビ ハマは教えた。その憐れみ深い行いの利益から、人はトーラーを学ぶ。それについて、(イザヤ書 第55章1節に)「さあ、かわいている者はみな水に来たれ。金のない者も来たれ。来て買い求めて食べよ」と書かれている。神へと向かえ。神は憐れみ深くあなたに行い、あなたは「来て買い求めて食べる」であろう。


52. この「金(原書では銀)のない者も来たれ」は別の説明も可能である。神の下へと来たれ、なぜなら神は銀を持つからだ。よって、(ハガイ書 第2章8節で)「銀は私のもの、金も私のものであると、万軍の主は言われる」と書かれている。
 これは何に似ているか? ある王が、1つは銀でもう1つは金の2つの宝を持っていた。王は銀を右手に持ち、金を左手に持った。王は(銀に対して)「これは準備され、容易に取れる」と述べた。
 神はその言葉を穏やかに守り、貧者らへと渡して彼らを穏やかにした。よって、(出エジプト記 第15章6節に)「主よ、あなたの右の手は力をもって栄光に輝く」と書かれている。
 神がその場所を喜ぶならば、全ては良い状態となる。だがそうでないならば、(次の文の)「主よ、あなたの右の手は敵を打ち砕く」となる。
 神は民にそう述べている。これは金の事を指している。よって、「銀は私のもの、金も私のもの」と書かれている。


53. なぜ(金は)はザハヴと呼ばれるのか? なぜなら、これには3つの属性が含まれ、(ז(ザイン)、ה(ヘー)、ב(ベート)の3文字で暗喩している)。
 第1の属性は男性(ザハル)であり、これはザインの文字である。
 第2の属性は魂であり、これはヘーの文字である。(ヘーの文字の値は5なので)魂には、ネフェシュ、ルアフ、ネシャマー、ヒアー、イェヒダーの5つある。
 このヘーの文字の目的は何か? これはザインの文字のための玉座である。よって、(伝道の書 第5章8節に)「さらに高い者があって、その人を窺う」と書かれている。
 このベートの文字はその糧である。よって、(創世記 第1章1節に)「始め(ベート)に、神は天と地を創造された」とある。


54. その働きは何か?
 これは何に似ているか? ある王がかつては良く、心地よく、美しく、完全な娘を持っていた。王は彼女と王宮で結婚をし、彼女をよく着飾らせ、多くの金を渡した。
 王がこの娘を去らせるのは可能だろうか? あなたはそうではないと同意するだろう。少しでも離れるのも可能だろうか? あなたは、これも不可能だと同意するだろう。では王は何を行えようか? 王は2人の間に窓を置いて、父が娘を必要としたり、娘が父を必要とする時にはいつも、窓越しに共に近づけるようにしたのだ。
 よって、(詩篇 第45篇14節に)「彼女は縫い取りした衣を着て王のもとに導かれ」と書かれている。


55. この終わりのベートの文字は何か? (箴言 第24章3節に)「家(バイト)は知恵によって建てられ」と書かれているものだ。
 この節は「建てられた」とは書かれておらず、「建てられ(るであろう)」と書かれている。未来において、神はこの家を建てられ、それまでの千倍にも飾るだろうからだ。
 では「何故トーラーはベートの文字と共に始まるのか?」と尋ねるならば、それは(箴言 第8章30節に)「私はその傍らにあって名匠となり、日々(原書では一日と一日)に喜び、常にその前に楽しみ」と書かれているからだ。この日々とは二千年の事であり、これが「初めに」なのである。
 (他の者が尋ねた)なぜ二日なのか? 聖書には(イザヤ書 第30章26節で)「月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり」とあり、また「七つの日の光のようになる」ともあるように、七日と述べていないか?
 (ラビは答えた。)「私は数千年と述べている」


56. 弟子らはラビに尋ねた。現在まで、5つが述べられた。次は何か?
 ラビは答えた。最初に私は金について説明しよう。この金とは何か? 私はそれは正義が流出する場所だと学んでいる。(この場所で)あなたが自らの言葉を右や左へと曲げたら、あなたは懲罰されるだろう。


57. では(イザヤ書 第30章26節の)「月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、その七つの日の光のようになる」の節の意味合いは何か? この節では「七つの日」とは述べずに「その七つの日」と述べている。これらは(出エジプト記 第31章17節で)「それは主が六日のあいだに天地を造り」と書かれていた日々の事である。
 このように神は六つの美しい器を創られた。これらは何か? 「天地」である。
 これらは七日では無いのか? 然り。これは(次の文で)「七日目に休み、かつ憩われた」とあるようにである。
 この「憩われた」の意味合いは何か? 私が学んだ事によると、サバト(安息日)は全ての魂を保っている。それゆえ、ここでは「憩われた」と書かれている。


58. 別の説明もある。
 私が学んだ事によると、ここから魂は飛ぶ。それゆえ、「憩われた(souled)」とある。
 これは数千の世代で続いた。よって、(詩篇 第105篇8節で)「これは千の世代に命じられた御言葉であって」と書かれている。そのすぐ後には「アブラハムと結ばれた(原文では身を切らせた)契約、イサクに誓われた約束である」とある。
 この「切らせた」の意味合いは何か? アブラハムは手の10の指と足の10の指の間の(割礼の)契約を切らせたのである。
 アブラハムは恥じて、神は(創世記 第17章4節で)「私はあなたと契約を結ぶ。あなたは多くの国民の父となるであろう」と述べた。


59. 天は何故にシャマイムと呼ばれるのか?
 私が学んだ事によると、神は火と水の間に跪いて、これらを共に組み合わせた。そこから、「初めの御言葉」を創られた*1。よって、(詩篇 第119篇160節に)「あなたの初めの御言葉は真理です」と書かれている。
 それゆえ、シャマイム、シャム マイム(水がある)、エシュ マイム(火と水)と呼ばれている。
 ラビはさらに述べた。これが、(ヨブ記 第25章2節の)「神は高き所で平和を施される」の節の意味合いである。神はこれらの間に平和と愛を置いた。神が我らの間にも平和と愛を置かれんことを。


60. また(詩篇 第119篇164節でも)「私はあなたの正しい掟のゆえに、一日に七たびあなたを褒め称えます」と述べられている。
 弟子らはラビに尋ねた。それらは何か?
 ラビは答えた。汝らは慎重にそれを見ていない。神を称えよ、さすればそれらを見い出すであろう。


61. 弟子らはラビに尋ねた。צ(ツァディ)の文字の意味合いは何か?
 ラビは述べた。ツァディは נ(ヌン)とי(ヨド)である。この2つの文字からなる。
 それゆえ、(箴言 第10章25節に)「正しい者(ツァディク)は世界の基である」と書かれている。


62. 弟子らはラビに尋ねた。(バラクとバラムに関する、民数記 第23章14節の)「バラクはバラムを連れてゾピムの野に行き」の節の意味合いは何か?
 この「ゾビムの野」とは何か? これは(雅歌 第7章11節に)「わが愛する者よ、さあ、私たちは田舎へ出ていって」と書かれているものである。
 これをサデー(野)とは読まず、シダー(乗り物)と読むのだ。
 この乗り物とは何か? ラビは述べた。祝福された聖なる御方の心である。
 祝福された聖なる御方の心について、「わが愛する者よ、さあ、私たちは乗り物に乗って出ていって」と述べられている。これは一か所に留まってはいないからだ。


63. (祝福された聖なる御方の)その心とは何か?
 ラビは述べた。ベン ゾマが我らの側にあれば、汝らは彼とともにあろう。
 この心(レヴ)の値は32である。これらは隠されており、これらと共に世界は創造された。
 これら32とは何か?
 ラビは述べた。これらは32の小路である。
 これは多くの部屋の内奥にいる王のようなものである。そのような部屋の数は32あり、それぞれには小路がある。王はこれらの小路を通じて誰でも自らの部屋へと招くべきか? あなたはそうすべきで無いと同意するだろう。王は自らの宝石、タペストリー、隠された秘密を誰にでも明かすべきか? あなたはこれも、そうすべきでは無いと同意するだろう。では何をすべきか? 王は娘に触れ、全ての小路を、娘とその衣の中に含ませたのだ。
 これらの内側へと向かいたい者は、それらを凝視するのだ。
 王を彼女と婚姻し、贈物として自らを彼女に与えた。王の彼女への愛から、彼女を時には「我が妹よ」と呼ぶ。彼らは同じ場所に住むからである。時には彼女を「我が娘よ」と呼ぶ。なぜなら、彼女は実際にはその娘だからだ。そして、時には彼女を「我が母よ」と呼ぶ。


64. さらに、世界に知恵が無いならば、そこには正義も無いだろう。
 よって、(列王記上 第4章29節に)「神はソロモンに非常に多くの知恵と悟りを授け」と書かれている。それからソロモン王は(1人の子を巡る2人の母の)裁きを正しく行い、そして(列王記上 第3章28節に)「イスラエルは皆王が与えた判決を聞いて王を恐れた。神の知恵が彼のうちにあって、裁きをするのを見たからである」と書かれている。


65. では、神はソロモン王に何の知恵を授けたのか?
 ソロモン王は神の御名を持っていた。そのため(ソロモン王が著者とされる)雅歌で、ソロモンの名が記されるたびに、1箇所を除いて、それらが聖なる御名であると言われる。
 神はソロモン王に「あなたの名前は我が栄光の御名のようなので、私はあなたに我が娘を結婚させよう」と述べている。
 だが彼女は(既に)結婚している!
 神はソロモン王に娘を贈物として与えたと言えよう。よって(列王記上 第4章29節に)「神はソロモンに非常に多くの知恵と悟りを授け」と書かれている。
 だが、これらは説明がされていない。何処で説明がされているのか? 聖書が(列王記上 第3章28節で)「神の知恵が彼のうちにあって、裁きをするのを見た」述べている箇所である。そこで、ソロモン王が「裁きをする」事が出来るように神の知恵が授けられたのを見る。
 この「裁きをする」の意味合いは何か? ある人が裁きをするたびに、神の知恵はそのうちにある。これは裁く者を助け、神に近づかせる。そうでなければ、神から遠ざけ、それだけではなく懲罰も与える。よって、(レビ記 第26章28節に)「私もあなたがたに逆らい、怒りをもって歩み、あなたがたの罪を七倍重く罰するであろう」と書かれている。


66. そしてラビ ラフマイは述べた。この(レビ記 第26章28節の)「私も罰する」の節の意味合いは何か?
 神は「私は罰するであろう」と述べている。
 イスラエルの集会で(神は)「私があなたがたに慈悲を与えるとは考えるな。私はあなたがたを罰する。私は裁きを与えるだけではなく、罰も与えるであろう」と述べている。


67. この(レビ記 第26章28節の)「あなたがたの罪を七倍重く」の意味合いは何か?
 それはイスラエルの集会で(神は)「私もあなたがたに逆らい」と述べている事である。また、(詩篇 第119篇164節で)「私はあなたの正しい掟のゆえに、一日に七たびあなたを褒め称えまます」とも書かれている。
 これらは彼女へと加わり報いる。また我々にも七たび報いよう。我らの中にも善や利益を監督する者に対して、自らを反していたなら、我らも自らを反して罰を受けるであろう。何ゆえか? なぜなら、あなたがたの罪からである。
 だが、あなたがたが神へと立ち返ったならば、神もまた立ち返るであろう。よって、(マラキ書 第3章7節に)「私に帰れ、私はあなたがたに帰ろうと、万軍の主は言われる」と書かれている。
 聖書では「私はあなたがたを私に戻そう」とは書いておらず、「私はあなたがたに帰ろう」と書かれている。あなたへとである。我々全てはまた、王からの慈悲を求めるであろう。
 王は何と述べているのか? (エレミヤ書 第3章22節で)「背信の子どもたちよ、帰れ。私はあなたがたの背信をいやす」と、また(エゼキエル書 第18章30節で)「悔い改めよ、さもなければ私は滅ぼす」とも述べている。
 この「悔い改めよ、さもなければ私は滅ぼす」の節の意味合いは何か? 立ち戻れよ、さもなければ、これら七つの懲罰があなたへと戻るだろう。それゆえ聖書では「私は滅ぼす」とある。これらについては、「あなたがたの罪を七倍重く」と書かれている。


バヒールの書 3-2
↑ バヒールの書


*1 おそらく、セフェル イェツィラーにある、火の文字 ש(シン)と水の文字 מ(メム)の事だろう。さらに風の文字 א(アレフ)により、残りの文字と万物は創られたとある。