真のカバラの鍵 1-2

ページ名:真のカバラの鍵 1-2

カバリストとしての人


 我が第1の書「Initiation into Hermetics」で、私は人を3つの部分――肉体、魂、霊――に分割し、四極磁石についても述べた。瞑想する学徒には、メンタル体はアストラル体とメンタル マトリックスにより繋がり、アストラル体とメンタル体はアストラル マトリックスにより肉体と結び付けられているのは明らかである。また肉体は食物(濃縮されたエレメンタルの形質)により保たれるように、アストラル体は呼吸により保たれるのも確実に明らかである。感覚の知覚は、メンタル マトリックスにより、肉体とアストラル体と結び付けられている。カバリストは、誠実にカバラの道を進むならば、これら全てをよく知り、自らの肉体内でのプロセスについて、明白に知るであろう。この本質的な知識の他にも、カバリストは自己との深い関係を見い出さねばならず、それらの深い関係はカバラ学習の実際の基盤である。


 肉体、魂、霊の間での機能と働きは、あらゆる人間が、ヘルメース学の諸秘密を伝授されていようといまいと、自動的に起きる。カバリストにはこれは乗算表であり、全てのプロセスを知り、それゆえ自らの人生を、普遍的な法則に従って調整できる。


 この知識は秘儀参入者とそうで無い者とを区別するものであり、秘儀参入者はこの諸法を教えられ、それらの実践的使用を知り、自らの肉体、魂、霊の間の不調和にバランスを取り戻すことが出来る。その他にも、秘儀参入者は、普遍的な法則への自らの意識の調整により、これら普遍的法則に従った賢明な生活へと導き、完成への道に従って進む事ができる。この方面から見るならば、読者は秘儀参入とは極めて特別なものであり、特別な人生観を与えるものだと悟るであろう。秘儀参入者はこの世界を、他の全ての人間の目とは違った風に見るからである。秘儀参入者を襲う様々な運命の打撃は激しくはならず、多くの損傷を受けない。読者は上記で述べた事を考えるならば、容易にそれらを見るであろう。


 カバラの観点からは、人は宇宙の完全な似姿である。人は神の像として造られたからである。人は我々の地球で至高の存在であり、宇宙で大きな規模で起きる何事であれ、人の中でも小さな規模で起きる。このヘルメース学の観点から見ると、人は宇宙、すなわち大宇宙と対称する、ミニチュアの世界、すなわち小宇宙と見る事が出来よう。


 普遍的な法則に従って実践的な作業する、つまり大いなる作業の活動的な部分を担いたいと真に望む正当なカバリストは、何よりも先に、魔術の開発を進め、普遍的な法則に従った正当な概念を守る必要がある。単に理論のみに満足する者は、カバラの知識を吸収し、霊の知的能力を豊かにできよう。だが、霊の他の3つの本質的な諸原理は成長する事はあるまい。理論家は知識のエッセンスを決して掴む事はできず、何事をも起こす能力が無いのは言うまでもない。この人物は知的な才能があるならば、カバラ哲学者となる事はできよう。だが、正当で魔術的に訓練され、述べた言葉が現実化するカバリストには決してなれまい。理論家は学者にはなれても賢者にはなれない。この学者と賢者との差は非常に大きい。魔術師はその魔術の開発により、意志力により自らの意図を現実化できるが、神との繋がりから、カバリストが用いるような魔術の言葉を同様には用いる事は出来ない。実践カバラに乗り出していない魔術師は、自らの内側で開発した諸力や、召喚した様々な霊的存在の助けにより、自らの作業をなせよう。だがカバリストはあらゆる霊的存在、守護神などの助けを借りずに、自らのカバラの言葉によりそれら全てを達成するのである。


 そのためヘルメース学の観点からは、正当なカバリストは至高の秘儀参入者である。ミニチュアの世界、小宇宙で神の働きをなすからであり、類似の法則を用いる事で、大宇宙でもまた活動できるからである。これは魔術師とカバリストとの違いであり、それゆえ完成を望む者は誰でも、カバラの実践をなすのを望むであろう。大いなる作業に参加するカバリストは、通常は神の摂理により特別な任務をなすように選ばれる。よって正当なカバリストは創造主の代理であるが、普遍的な法則の最も忠実な僕に留まろう。より秘儀参入の道を進むごとに、神の摂理に対して謙虚になっていく。このカバリストは無論、大いなる力を持っているが、自らの目的のために決して使おうとせず、人類の幸運のためにのみ使うだろう。正当なカバリストは至高の秘儀参入者であり、不可能は無く、その発言した言葉は全て例外なく現実化するであろう。


 最後に、完全な秘儀参入者と聖人との違いについて、私は再び述べたい。正当な魔術師はこの説明は必要あるまい。これまで述べた全ての事から理解しているだろうからだ。だが、我が書を理論面からのみ読んでいる読者にはこう述べられよう。完全な人間は、全ての普遍的な法則と結びつき、大宇宙や、物質世界、アストラル界、メンタル界について正しく理解し、それにより生きるだろう。一方で聖人は、特定の宗教体系にのみ興味があり、その教義と規則に従う事で、それらを現実化させるが、あらゆる場所、つまりあらゆる界で同じように進ませたりはしない。この人は聖性にのみ励み、通常は肉体や物質世界を無視し、それらをマーヤ、幻影と見做し、関連した修行の後に、自らの中にごく僅かな普遍的法則の様相のみを現実化させる。そのような人々は、自らの目的である、神の慈善、憐れみ、寛大さなどの様相の頂点を得て、自らの中にそれらを現実化させるだろう。そして、これらの人々は自らの精神を訓練してきた様相からのみ、普遍的法則を見るが、普遍的な適法性の完全な像を考えるのも解釈する事もできない。ヘルメース学の観点からは、そのような道は完全なものとは見做されず、「聖人の道」と呼ばれている。一方で真の秘儀参入者、カバリストは、全ての神の様相を均等に認め、徐々にそれらを現実化させるだろう。無論、この道はより長く、より過酷であり、通常は一生の転生ではその完成には至らない。この人にとって最も重要な事は、自分が正しい道を進んでいるのに気づく事である。


 完成の道では、急ぐ必要は無い。誰もが完成に必要な成熟のためには、時間を必要とする。ヘルメース学の観点からは、実際には「聖人」の道と「完成」の道の2つの道しかない。聖人の道は、この地球にある宗教の数だけの体系がある。聖人の道を選んだ者は、自らの中に1つか僅かな神の様相のみを現実化させようと努め、通常はそれらは神の概念と関連した象徴と見做している。僅かな例外を除き、その聖性は自らの道の障害とすらなる。今の世界やより未熟な人々、その弟子、崇拝者、仲間などの崇拝を考えると、この人物はしばしば自らの任務を妨げられよう。


 私はここでは、敬意を受けたり崇拝されたりするために、自らに意識的に光背を着飾ろうとする(聖人のフリをする)者らを扱うつもりは無い。残念ながら、この世界にはそのような者らは溢れている。真の聖人は隠遁しているが、偽善者は自らの光輪を見せびらかそうとする。だが、完成の道に従う者は、隠居をしようとは決して望まないだろう。この者は神の摂理が定めた場所に住み、周囲の注意を惹く事なく、自らの個人的開発を進めるだろう。そして、自らの成熟を外側の世界に示そうとはせず、逆に好奇心があり未熟な人々に邪魔されないように、自ら愚を装ったりすらするだろう。ここではもた、聖人と完全な人間との態度と行動の大きな違いがある。聖人は自らの目標に達すると個人性を失うが、完全な人間はそうはならない。個人を捨てることなく、神の化身としての個人となるのである。


真のカバラの鍵 1-3
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