真のカバラの鍵 序文

ページ名:真のカバラの鍵 序文

序文


 Initiation into Hermeticsシリーズの我が3冊目として、 私は「真のカバラの鍵」という題目を与えた。このカバラとは厳密に述べるならば、言葉の知識を扱った神学体系である。このテウルギー(神術)に入ろうとする実践者は、いずれにせよ、魔術の開発を通じて行われてきた。つまり、少なくとも我が第1の書「Initiation into Hermetics」で記した諸実践を完全に熟達する必要がある。先の2冊の我が書と同様に、本書も2つの部に分かれている。第一部の理論篇では、カバラという理解が困難な分野のために読者は準備をする事になり、第二部の実践篇では、実際の実践が含まれている。


 カバラ、ヘルメース文献のこの難解な分野については、これまでにも多くの事が書かれているが、実践においては、そのごく僅かのみが使用に耐えられた。ほとんど常に、カバラを学ぼうとする者は、まずヘブライ語に熟達するよう命じられ、それ無しにはカバラの学習は不可能だと主張されてきた。ほとんどの書は学究のカバラで、通常はヘブライ語を起源としており、学徒にこの生命の哲学をカバラの用語で表現するようにさせてきた。だが、真のカバラの実践と使用に関する本は、非常に少ない。僅かなユダヤ教の僧侶(ラビ)がカバラの知識を持っていたが、おそらくは彼らの保守的な考えから、厳密にそれらを保つようにし、カバラの実践の断片すらも、一般には知られないようにしてきた。


 さらに、カバラの解説書の多くは、真剣に興味のある学徒に理論面の詳細すら与えずにおり、いわんや実践については真のヒントすら与えない。これらは良くて、小宇宙と大宇宙の哲学的な表現物でしかない。カバラの学徒は、生命のカバラ哲学についての、どの概念も全く得られない。ある学徒は、諸概念の混乱のさ中で、自らの道を見る事ができず、別の学徒は、様々な本の間での矛盾した内容によって、暗中模索のままにあろう。


 我が本書には理論と実践が含まれており、実践は特に豊富にしてあるが、それは勤勉なカバラの学徒が自ら見る事だろう。無論、カバラ全般を1冊の本に含むのは、単に技術的な理由からも不可能である。だが私は、この驚異的な学の真珠らを1本の糸で結んで、素晴らしく美しい鎖となるように努めてきた。それをなすために、私は自然と小宇宙と大宇宙に関する類似の諸法則を考慮してきたが、カバラ全般を何の穴も無く説明するには、それ以外では行えなかっただろう。私はカバラで一般に使われている数えきれないヘブライ用語をなるべく使わないように努め、誰もが容易に理解できる言葉を用いるようにしてきた。いずれにせよ、本書を学ぶ読者は、実践カバラの極めて違った概念、つまり真の概念を得る事だろう。


 実践によりカバラのリアリティについて自ら確信したいと望む者は、我が最初の2冊の書「Initiation into Hermetics」と「The Practice of Magical Evocation」を体系的に進めるべきである。さもなければ、完成に達するための訓練は長くなりすぎて、どの成功の結果も非常に遅く起きる事になろう。だが、我が書の理論面のみを学習するかどうかは読者の選択に任せられている。そうしたならば、どの哲学書からも得られない知識を得るであろう。だが、知識は知恵ではない。知識は霊の知的機能の開発に拠っているが、知恵は反対に、霊の4つの様相の全てをバランスよく開発する必要がある。それゆえ、知識は単に哲学であり、それ自身では人を魔術師にもカバリストにもしないのである。学者は魔術、カバラなどについて多くの事を語れるだろうが、その諸力と機能を正しく理解する事は決して出来ないであろう。


 これらの僅かな言葉で、私は哲学者と賢者との違いについて読者に説明した。単に知識を求めるより楽な道を選ぶか、より困難な知恵の道を歩むかは、読者の選択にかかっている。


 原始的な人々は、それがどの民族に属そうとも、地球のどこに住んでいようとも、既に彼らの特別な宗教、つまり神の概念を持っており、結果として、ある種の神学も持っていた。それらの各神学は、権教と秘教の2つに分かれていた。神の権教の知識は、一般大衆のための知識であり、一方で秘教の知識は、秘儀参入者と高祭司らの神学であった。権教の知識には真の魔術やカバラは何も含まれていなかった。よって魔術師やカバリストは、原始的な人々の間では秘儀参入者のみであったろう。


 古の時代により、この知恵を厳格に秘密にするのは、最も聖なる命令であった。その理由は第1に、権威を保つためである。第2に、人々に及ぶ力を失わないためであり、第3に、あらゆる悪用を避けるためであった。この伝統は今日まで保たれている。我が書は読者にこの完全な知識を授けるであろうが、それは知る事のみであり、知恵を決して与えたりはしないだろう。読者は誠実な実践作業を通じて努力してのみ、それらを得る。そして、到達できる知恵の段階もまた、自らの成熟と開発段階に拠っている。我が書は真に成熟した、つまり秘儀参入者のみに、至高の知恵を得させるようにし、学者と賢者との間に大きなギャップを開いたままにし、よって至高の真理と秘密を出版したとしても、沈黙の命令に違反したりはしないのである。学者には、知恵は常にオカルトに留まり、秘儀参入者にのみ完全に与えられるのである。


 カバラの学、つまりテウルギーは、とても古くからあり、東洋で起きたものである。古の賢者らは、エジプト人など古代の人々のヒエログリフの絵で見る事の出来るような、この普遍的な言語、隠喩の言語の中に大いなる秘密を隠した。古の賢者らは、彼らの知恵をこの隠喩言語を通じて、つまり象徴的な形でしか伝えられなかった。この知恵を得るのは、常に学徒の成熟の段階に拠っていた。全ての東洋の知恵は、この象徴言語によってのみ伝えられており、未熟な者、言い方を変えれば、師、グルの指導の下での個人性の開発により、必要な成熟に到達していない人々には秘密のままにあった。これは現代まで、全ての真理の書らが、個人的なグル無しには、秘儀参入は不可能なだけではなく危険ですらあると、概ね一致して述べている理由である。真の秘儀参入者は弟子の学徒に、この言語の象徴的な意味合いを、その成熟段階に応じて徐々に説明する必要があり、象徴的言語、つまり暗喩の言語を教えた。学徒はすぐに師の言語に慣れて、再びこの象徴言語の中でのみ知恵を自らの弟子へと伝える事ができた。


 よって現代まで、この聖なる学は口承によって師から弟子へと伝えられてきた。師がその弟子へと伝える説明は全て啓明によってなされ、弟子は突然に師が語りたいと望むものが明白となった。この悟り、つまり秘儀参入は、東洋では「アビシェーカ」や「アングル」など、様々な名前で呼ばれている。師は知恵の真の神秘を、未熟な者や準備がほとんど取れていない者には決して明かす事は無かった。この至高の知恵について幾らかの書を残した魔術師やカバリストらがいた事は疑い無い。だが先に述べたように、この至高の知恵は象徴言語の中に隠されており、たとえば偶然に未熟な者の手に渡ったとしても、それらは理解不能のままにあった。だが時には、この未熟な者が、自らの観点からこれらの知恵を説明しようと試みる事もあった。そのような説明は、真の解釈から程遠いものだったのは言うまでもない。東洋の秘儀参入者らが残した書を得た著者らのほとんどは、常に何らかの誤読をしていた。つまり、それらの書を知的言語へと翻訳する際に、文字通りに解釈したりしていたのである。彼らは、密儀の象徴や実践を正しく解釈するには、通常は充分に成熟しておらず、また彼らの形而上学的、普遍的な言語の真の理解と必要な訓練の不足により、ヘルメース学での多くの間違いを引き起こしていた。今日で、文明世界の言語でどれだけ誤用された実践の内容が出版されているのかは、誰も想像もつかないであろう。


 本書で私は、この象徴言語を知的言語へと翻訳し、真のヘルメース主義、カバラ、言葉の密儀への道を、秘儀参入者が安全に進めるように得られるようにした。


 著者


真のカバラの鍵 第3のタロットカードの象徴主義
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