ゾーハル 小聖会の書 12

ページ名:ゾーハル 小聖会の書 12

第12章 小さな顔の髪について


470. この(小さな顔の)頭蓋骨から、これら全ての首領らと指導者ら*1は拠っている(別版では、これら全ての数千、数万が拠っている)。また、髪の房からもである。


471. この髪は黒く、お互いに結び付いていて、相互に密接にある。


472. だが、これらはאב(AB、アッバ、父)からの上位の光と結びついており、その(小さな顔の)頭の周囲と、父から照らされる脳を取り巻いている。


473. その(小さな顔の)頭を取り巻く光から、イマー(母)から、第2の脳から、長い(髪の)房が伸びている。


474. そして、これらの房は、父との繋がりがある房とお互いに結び付いている*2


475. そして、(これらの房は)お互いに結び付いて、混ざり合っているので、全ての脳らは(広大な顔の)上位の脳と結びついている。


476. そして、この頭蓋骨の3つの空洞から進んできた全ての領域は、純粋なものも不純なものも、隠されたり表されたりした全てのこれらのアクセントも神秘も、お互いに混ざり合っている。


477. 全ての脳は、テトラグラマトンの耳と秘密の繋がりがあるので、同様に頭の王冠でこれらは輝き、(これらの光は)頭蓋骨の空洞へと入る。


478. ゆえに、私が他の箇所で述べているように、これらの房は耳の両側を覆って吊るされている。


479. それゆえ、列王記下 第19章16節に「主(テトラグラマトン)よ、耳を傾けて聞いてください」と書かれている。


480. これらが、この文の意味合いであり、また別の箇所でも「人が王の耳が聞くのを望むならば、王の頭を起き上がらせ、その髪を耳から取り除かせよ。さすれば、王は彼の望む言葉を聞くだろう」と言われている*3


481. この髪の部分の中には、特定の小路が日の老いたる者の小路と繋がっており、そこから、律法の全ての小路が配られている。


482. これらの(髪の房の)上には、悲嘆の主らがおり、これらは単独の房に拠っている。


483. そして、これらの小路は罪びとが理解できないように広がっている。


484. これについては、箴言 第4章19節に「悪しき人の道は暗やみのようだ、彼らは何につまずくかを知らない」と書かれている。


485. そして、これら全てはこの硬い房に拠っている。ゆえに、私が先に述べたように、これら全体は硬くなっている。


486. 柔らかい(房)は、均衡の主らと結びついている。それについて、詩篇 第25篇10節に「主(テトラグラマトン)のすべての道は、חסד(ChSD、ヘセド、慈しみ)であり、אמת(AMTh、エメト、まこと)である」と書かれているようにである。


487. ゆえに、これらの脳、隠された脳から(髪が)放出されると、それぞれは単独で自らの性質を引き出していく。


488. 第1の脳からは、均衡の主らはこれらの柔らかい房を通じて出てくる。これらについては、詩篇 第25篇10節に「テトラグラマトンのすべての道は、ヘセドとエメトである」と書かれている。


489. 第2の脳からは、悲嘆の主らが硬い房を通じて出てきて、(これらに)拠る。この者らについては、箴言 第4章19節に「悪しき人の道は暗やみのようだ、彼らは何につまずくかを知らない」と書かれている。


490. この文は何を仄めかしているのか? 確実に、「彼らは知らない」の言葉の意味合いは、「彼らは知らず、知ろうとも望まない」事である。


491. 「何につまずくか」については、במה(BMH、バメー、何に)とは読まずに、באימא(BAIMA、ベ=アイマー、母にて)つまずくと読むのだ。すなわち、母の側面に属する者らを通じてである。


492. この母の側面とは何か? 悲嘆の主らの属性である厳格さである。


493. 第3の脳からは、主の中の主らが中間の状態(すなわち、部分的には硬く、部分的には柔らかい)の髪の房を通じて出てきて、これらに拠る。そして、これらは輝く顔と輝かない顔と呼ばれている。


494. これらについては、箴言 第4章26節に「あなたの足の道に気をつけよ」と書かれている。


495. そして、これら全ては(小さな顔の)頭の毛のこれらの房の中に見い出せる。


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↑ 明かされたカバラ


*1 少し後に説明がある、悲嘆の主ら、均衡の主ら、主の中の主らの事である。
*2 マサース注。すなわち、太母の影響にその起源がある髪の房が、ホクマーを起源とする房とお互いに織りなしている。
*3 マサース注。この意味は、ホクマーと太母(アイマー)として要約されるビナーの形に発展した広大な顔に、小さな顔の恩恵があるように懇願せよ、という事である。これは、カトリック教会の聖母マリアへの御子への取り成しを祈る習慣と類似している。なぜなら、マリアという名前は海を意味し、大いなる海ビナーの事だからである。